08

 茂みから姿を見せたのは一頭の鹿だった。

 大人の鹿だが、体格としてはそう大きくない。そしてミレイユと夕闇ダスクはその鹿が怪我をしていることに気づく。右の後ろ足に他の獣から噛みつかれでもした痕があり、血が流れ出ている。そのまますぐに失血死してしまうほどには深い傷でないが、無理に移動してきたことで負荷がかかっている。体をよろめかせ、ふらふらと進む鹿の眼中に少女二人はない。

 

 そうだ、移動してきた。その鹿は何かから逃げてきた……?

 夕闇がそう判断できたときには既に、ミレイユが鹿に駆け寄り、あたかも町の中で手負いの犬でも見つけたかのように話しかけていた。薬品を日々、調合している彼女であれば適切な薬をその鹿に与えることができるかもしれない。

 しかし、今はその鹿を思いやって患部の具合を検分している場合ではない。夕闇がそう思い当たって、気配察知の魔法を展開させたときには遅かった。

 もし仮に夕闇が気配察知の魔法に長けていて事前にその接近を察知できていたら、そうでなくても鹿が現れた瞬間に魔法を展開できていたのなら、その追跡者に落ち着いて対処できただろう。

 実際には余裕をもっての対応などできなかった。


「そいつから離れなさいっ!」


 夕闇がミレイユに向かって叫ぶ。その声は確かに届いた。しかしミレイユは、茂みから現れた別の生き物に目が釘付けとなっていた。


「ダイオウイタチ―――!?」


 ミレイユはかつて読んだ古い動物図鑑に載っていた動物と、対峙した生き物とを照らし合わせる。大まかな身体的特徴は一致する。

 けれど図体が大きすぎる、とミレイユは思う。いくらなんでもこんな巨大な体躯はしていない。これではまるで、熊だ。


 頭頂部から背、そして尾にかけて濃く赤みがかった黄色の体毛を生やしており、脚部や腹部は黒い。四足歩行だが全長としてはミレイユぐらいあるよう見える。剥き出した牙には血がついていた。そして踏み出した前足にある爪は鋭い。その鋭さで我に返ったミレイユはその場から飛び退いた。地面に転がる。


 魔物だ。ようやくミレイユは結論付けた。魔物化したダイオウイタチなんだ!

 そのダイオウイタチが鹿の胴体を爪で傷つける。素早い動きだった。逃げおおせたとみなして一息つこうとしていた鹿は躱すことができなかった。血しぶき、倒れる鹿。そしてダイオウイタチは鹿にかぶりつく。血の匂いが強くなり、肉を貪る音がする。


「逃げるわよ」


 夕闇がじりじりと慎重に動いて、よろよろと立ち上がるミレイユのそばまで来ると、小声で言った。ダイオウイタチは食事に夢中だ。自然の摂理。弱肉強食。野生であれば何ら珍しくない光景。わざわざミレイユたちに害をなそうとはしていない。

 

 魔物と一般の動物の差異は、体内に魔導物質を生成しているか否かにある。その違いが、見た目や膂力、時に身体構造や内部器官までも大きく変えてしまう。そうなってくると元の動物と魔物とは切り離されて、別の種の生き物としてみなされる。

 そして魔物はそれまでの生態系を崩壊させる。保たれてきた食物連鎖からはみ出て、覆しもする。ゆえに自然の摂理から外れた存在だとも言える。


 魔物化の原因というのは、いくつもあるがこれだと一つに限定されてしまえることはめったにない。いくつかの要因が絡み合う。多くの場合、歳月をかけて体内で育まれてきた魔導物質が花開くように動物たちを魔物に至らしめるわけだが、それは単純に時間が経ちさえすれば魔物となることを意味しない。

 世界を基準にしてみれば、イルンラクトの南に広がる森のように、魔物の気配が薄い森のほうが少なくなってきているのが実態だった。やがて「動物」というのは別の呼称になるのかもしれない。

 

 夕闇の言葉に、ミレイユがやっと肯く。絶命した鹿と目が合ってミレイユはなんとも言えない気持ちになった。

 そうして二人はゆっくりとダイオウイタチから距離をとり、やがて駆け出す。

 いや、駆け出そうとした。二人は足を止めてしまう。なぜなら――――


「えっ!?」


 のっそりと。それが茂みから出てきたからだ。鹿を喰らうダイオウイタチは後方、十数歩の距離。ミレイユたちは既に血の匂いから離れていた。新たに現れたそれは平然と彼女たちの前を横切ろうとして、しかし二人を認識してその牙をニヤリとした。ミレイユにはそう見えた。


「なんで、ここにもいるのよ……!」


 夕闇が舌打ちする。進路方向、左側から現れたのもまた魔物化したダイオウイタチだった。あっけにとられている間に、二人を通せんぼするように前までくる。

 しかもこの個体は体表が明らかに禍々しく変容している。つまり後ろで鹿を己の糧としているそれよりも魔物化が進んだ個体であった。

 魔物について人は誰もが習う。おおよそすべての魔物というのは、動物と比べて高い凶暴性を有する傾向があると。


「これでどうですか!」


 ミレイユがバッグから何か取り出し、付属の紐を引っ張り、素早く二頭目のダイオウイタチに投げつける。夕闇はそれを知っている。出発前にミレイユがバッグに入れていたのを見て、その用途を訊ねたからだ。

 それは匂い袋だ。危険な獣に遭遇した際に投げつけて中身をぶちまけることで、獣が嫌う匂いを発して退散させる道具だ。ミレイユによる調合品で、効果は抜群だと彼女は言っていた。未使用時に匂い移りがまったくしないよう袋の材質と構造にも気を遣っているのだと。

 しかしながらこれまで自分の身の丈ほどある魔物に投げつけたことはなかった。


 匂い袋はダイオウイタチの前足に当たって、内容物がたちまちに飛散する。するとダイオウイタチが鼻を抑えて目を閉じて苦悶の声をあげて怯む。


「今ですっ! 一気に駆け抜けましょう」


 ミレイユが右へと踏み出す。それにならって夕闇も一歩踏み出したが、しかし飛び込んできた光景に仰天する。


「なぁっ!?」

「嘘、もう一頭ですか!?」


 なんと次はすぐ右側の林から三頭目のダイオウイタチが現れたのだった。魔物化の進度は二頭目と同等である。そして二人に向かって突進してきた!

 きゃぁっと叫びながらどうにか体当たりを回避する二人。さらに悪いことに、匂い袋を投げつけた二頭目がその場を去るどころか、口を大きく開けて威嚇してきているではないか。その怒った目つきにミレイユたちは戦慄した。

 

 二頭、後ろで鹿を食べている個体も合わせれば三頭。

 ああ、そうか、ちょうどわたしたちが餌になればイタチさんみんながお腹を満たせますね――――冷や汗を流すミレイユは思いついたことを口にしている余裕はなかった。


「私が時間を稼ぐわ! あんたは逃げてっ!」


 夕闇が声を張り上げる。内心、これこそが試練だっていうわけ!?こんなのあんまりよ、と悪態をついていた。


「奥の手を使います」

「へ?」

 

 ミレイユはバッグに手を突っ込んで、今度は紙に包まれた何かを取り出した。


「本当は夕闇ちゃんとおやつに食べようと思っていましたが、しかたないですね!」


 そう言って適当な場所へ、二人から視線を外してくれる地点にそれを投げ込む。それはミレイユが家から持ってきたパンだ。加えて言うなら上等なパンだ。夕闇と友達になった記念にと、午前のうちに夕闇の目を盗んでこっそりとパン屋に寄って購入していた、甘くて美味しいパンなのだ。

 すると前方、二頭のダイオウイタチはそのパン目がけて勢いよく走りだした。




「はぁっ、はぁっ………あの子たちが甘党でよかったですね」


 ミレイユは息を切らしながらも笑った。

 一所懸命に走って、どうにか町の近くまできた。追手はいないし、いきなり横の茂みから出て来る魔物ももういない。やっと足を止めて休憩できそうだ。


「はぁ……はぁっ……たぶん違うわよ。ねぇ、あいつらがパンに食いついてくれなかったらどうするつもりだったのよ」


 夕闇も肩で息をしていた。

 こんなことならもっと真剣に身体強化を学んでおくんだった、ううん、そうでなくても攻撃魔法をものにしてたら、あっという間に奴らをぎったんぎたんにしてやれたのに! 夕闇の仮定や理想はどこまでいっても、そのままでは現実とならなかった。


「そのときは……えっと、そうですね……わたしが囮になるしかないですね」

「馬鹿者。汝を護るのが我の役目だ」


 夕闇はミレイユを睨むと語気を荒くして言った。だが、ミレイユは首をかしげる。もういつもの穏やかな面持ちに戻っている。案外、肝の据わった娘だと夕闇は思う。


「護るって、そんなふうにこれまでは言っていなかったような」

「同じことだ。汝に力を貸すのが試練であり使命だというのに、汝を危険な目に合わせてどうする」

「わたしはお友達の夕闇ちゃんが危ない目に合うのも嫌です! そのわたしの心も考慮していただかないと困ります」

「抜かせ」


 こいつのお人好しは美点であるが短所にもなるぞ、と夕闇は呆れた。ただ、彼女への憤りは失せた。結果としてまたミレイユに助けられて、自分の至らなさには腹が立っていたが。


「それよりも管理局に報告せねばな」

「あの子たちが町に出てきたらって考えるとゾッとしますね」

「ああ。森の中で魔物の生息域が拡大し続ければ、いずれ町をも襲うだろう。対策が必要だ。管理局には管理局らしい仕事をしてもらわないとな」


 かくして植物調査・情報登録の業務を請け負ったつもりが、図らずとも、近隣の森に潜む危険因子の発見をした二人であった。


「それはそうと」


 ミレイユが夕闇の顔をじーっと見つめる。


「な、なんだ」

「夕闇ちゃん、鹿さんが茂みから出てくる前にやっとわたしのことを『ミレイユ』って、名前で呼んでくれましたよね?」

 

 ふふんっと微笑むミレイユだった。喉元過ぎれば熱さを忘れるとはまさにこのことで、魔物に襲われたのをすっかり過去にしている。


「そうだったか」

「あー! とぼけないでくださいっ。いいですか、わたしは今後『汝』や『あんた』では反応しませんからね!」

「……面倒な奴だ」

「それほどでも、えへへ」


 褒めていないっての。夕闇は、乱れた髪を整えて額の汗を拭うミレイユの姿、その笑顔に、これも試練だからしかたないわねと溜息をついたのだった。

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