第2話 魔導管理局と南の森
05
翌朝、
「おはようございます、夕闇ちゃん。家を出て、すぐ脇に井戸があります。顔を洗うのにはそこの水を使ってください。朝食の準備はできていますよ」
夕闇は曖昧な返事をよこすと、欠伸を噛み殺しながら言われたとおりに家を出た。朝の風は薄着でまともに当たると肌寒い。イルンラクトは夏が終わったばかりだった。井戸水で顔を洗うと意識がはっきりする。今日からが試練本番なのだと夕闇は気を引き締めた。
「よく眠れたみたいでなによりです」
夕闇がテーブルにつくとミレイユが笑顔で言う。夕闇は七日の旅路において泊まった安宿の寝台と、それに一日だけ強いられた野宿を思い返してみて、たしかに昨夜はよく眠れたと感じた。ただ、眠りに落ちかけたところで既に寝入っているミレイユに抱き着かれた時は困ってしまったのだが。
「ついさっき買ってきたパンと、こちらは薬草汁です。薬草園で摘み取ったもので作りました。毎日、飲んでいるんですよ。慣れないと苦味が強く感じるかもしれません」
「平気よ。これが汝の健康の秘訣ということなら、飲んでみるべきだろう」
そう言いつつも、夕闇はその汁物から草の匂いがすると思わず顔をしかめた。色合いもよくない。昨日のお茶や料理とは違って、素材そのものの緑ではないか。
「……なるほど」
味の詳しい感想は言わずに、夕闇はパンをとって口に突っ込んだ。よくよくそのパンの味で口内を満たした。
「ところで、昨日は聞きそびれていましたが荷物はあの小さな鞄だけですか」
ミレイユが寝台そばに置いてある鞄を見て言う。この町に一つしかない郵便屋が配達するときに使っているものよりさらに一回り小さいものだった。
「うん? 説明していなかったか。あれがマジックポーチというやつだ。小さく見えるが、そうだな、ちょうどあの料理釜ぐらいの収納空間があるのだ」
路銀や着替え類、その他小物を入れてある。気配を隠すローブと共に旅立ちの際に渡された魔法道具である。
「空間魔法の術式が構築されているってことですか? 気になります! 触ってもいいですか」
「ならん。もしも壊れるようなことがあれば、我でも直せない」
「そうですか……」
肩を落とすミレイユに夕闇は、薬草汁を一気に飲む。出された食事は毒でないのなら残さず食べるべし、というのも一族の掟にある。
「あとで出し入れするところなら、見せてあげる」
苦い顔をしてわりに甘いことを言う夕闇だった。ミレイユはぱっと明るい表情に変わった。
朝食が終わり、食器も洗い終えるとミレイユたちは衣服について話す。ミレイユが衣類の収められている戸棚を確認してみると、夕闇にちょうどいい大きさで小奇麗なワンピースがあったのでそれを着てもらう。そして昨晩、入浴前まで着ていたものと、そしてマジックポーチに収納されていた衣類はすべて洗濯することにした。
「黒から一転、白というのは落ち着かないわね」
「ふふっ、よく似合っていますよ」
室内でくるりと回ってみせる夕闇をうっとりした面持ちで眺めるミレイユ。その白いワンピースは彼女が十三歳のときに養父であった植物学者から贈られたものであった。成長したことで着れなくなってもなお、捨てるなんてできなかった。
ずっとしまって汚れていくのも嫌だったので他と比べて手入れがいっそうきちんとされている。そのことが今、こうして役立ったのをミレイユは嬉しく感じた。
「我らの一族は白よりは黒を貴ぶのだがな。郷に入りては郷に従えということか」
満更でもないのを示す微笑みを浮かべて、夕闇は言う。美しく着飾った街の娘を目にして、憧れをまったく抱かなかったといえば嘘になるのだ。
いざ夕闇に町を紹介しようと家を出るためにミレイユが出入り口のドアに手を伸ばしたそのとき、ノックする音が聞こえた。予想外のノックに肩をびくっとさせるミレイユ。昨日の失敗から学んだ彼女はすぐさまドアを内へと少しだけ開くと、顔をのぞかせてどちらさまですかと訊ねた。夕闇も成り行きを見守る。
「おはようございます。あなたが錬金術士のミレイユさんでお間違いないですか」
訪問者はまたしても女性であった。しかしその年齢は夕闇やミレイユと比べて、上であり、まさしく大人の顔立ちをしている。二十代半ばの美人がそこに立っていた。
「えっと、そうです、わたしがミレイユですが……見習い錬金術士の」
「私は魔導管理局イルンラクト支部運営補佐官として四日前に着任しました、エリカ・ナヴァールです」
きびきびとした声と態度だった。もっとよく目にしたいとミレイユは自然とドアを大きく開いていた。明るい栗色の髪は肩にかからない程度の長さで揃っている。眼鏡の奥には、切れ長の碧眼。すらりとした長身で、夕闇と頭一つ分ほど違う。やや厚めの唇が色っぽい。
「魔導管理局?」
「突然の訪問で困惑するのもわかります。よければ腰を据えて、お話をしたいのですが、お邪魔してもよろしいですか」
「でも、わたしたち今から町へと出るところなんです」
「たち? そちらの可憐なお嬢さんは……ご友人ですか?」
ドアを開いたことでエリカの目にも室内の夕闇が映った。髪色や顔立ちからしてミレイユの親族ではないとみなした。
「はいっ! わたしのお友達です!」
ミレイユが満面の笑みを見せると、エリカも硬い表情を緩めた。
「そうでしたか。ええと、それなら時間が空いた時に私どもの管理局に顔を出してくださいませんか。ミレイユさんに協力していただきたいことがあるのです。貴女を錬金術士と見込んで」
エリカのその言葉に反応したのは夕闇が先だった。戸口で向かい合うふたりのもとへと近づくと、ミレイユの横に立ち、エリカに言う。
「それはどういうこと?」
エリカは夕闇の語調に棘を感じて、今度は愛想笑いを浮かべた。
「大丈夫ですよ、お嬢さん。私たちは何もひどいことをしません。ミレイユさんに力を貸してほしいだけです」
「つまり?」
「ええと、どうしようかしら。あの、ミレイユさん、それに……」
エリカはミレイユに視線を戻し、それから眼鏡の位置を指で改めるとまた夕闇を見つめる。夕闇は促されるがままに名乗ることにする。
「夕闇よ」
「ダスク? まるで……。いえ、なんでもありません。おふたりとも、時間に余裕があるのなら、まずは管理局に来ませんか? 町で急用があるというのなら後でもかまいません。どうですか」
エリカの提案にミレイユは申し訳なさそうな顔をして夕闇を見やった。夕闇は溜息をつくのを抑えて「そうすることにしよう」と努めて優しくミレイユに言った。
そうしてミレイユたちはエリカの後ろに連れ立って移動することにした。そうしながらでも町を案内することはできた。
その様子にエリカが「夕闇さんは私と同じでイルンラクトに来たばかりなのですか」と訊ねてくる。反射的にミレイユが答えようとしたのを夕闇が遮って「ご想像にお任せするわ」と言った。エリカは「そうですか」とだけ返す。
ミレイユはなぜ夕闇がエリカを警戒しているか見当がつかなかった。しかしそれをエリカが同行している状況でそのまま訊くほどに愚鈍ではない。
「へぇ、なかなかこの通りは朝から賑わっているのだな」
「ここがいわゆるメインストリートですから。生活に必要なものはだいたい揃いますよ。ほら、さっき食べたパンはあそこのお店です。それとお野菜は……」
楽しげに夕闇に説明してくれるミレイユ。夕闇はそれら一つ一つに耳を傾けつつも、すぐ前を歩く女性について考えていた。正確には彼女が属していると明言した魔導管理局に関して。
昨晩に、イルンラクトの町をさっと一通り見たときには管理局らしき建物はなかったはずだった。魔女にとってすべての管理局が不都合である事実は決してない。しかし中には魔女の存在を危険因子としてみなしている局員の一派もあると聞く。
魔物専門の狩猟組織と、魔導物質の研究機関の両方を起源に持つ管理局について、アマリリスの一族においても都市に暮らす人々の一般教養水準程度には教授された夕闇である。イルンラクトのような小さな町にまだ管理局が支部を持っていないのはそう珍しくないが、しかし今や大陸全土の主要都市には必ず支部局を作り、根付いているといっていい組織だ。
おそらくイルンラクト支部というのは新設されたばかりなのだろうと夕闇は推察した。だからこそなのか、管理局は地元の錬金術士であるミレイユを頼りにしようとしているのだと。
だとすれば、必然的に自分の十五の試練には魔導管理局も関わってくるのではないか――――それが夕闇の警戒している原因だった。夕闇が耳にしていた前例、すなわち魔導管理局と関係した十五の試練というのが順調にいかない、難航するのが常だというのがその警戒に拍車をかけていた。
「夕闇ちゃん? 難しい顔をしてどうしました?」
「気にしないでよい。それよりも、耳を貸しなさい」
夕闇はミレイユに自分が見習い魔女であるのは秘密にしておくよう伝える。昨夜のうちにも釘を刺してはあった。ミレイユは「昨日話したとおり、南の森で行き倒れていたところを、わたしが助けたってことにしておくね」と肯いた。
昨日は逆でなかったか、と夕闇は思ったがどちらにしても作り話なので気に留めないでおくことにした。
「着きました。ここです」
エリカがそう言って一つの建物の前で足を止め、ふたりに向き直る。そこには苦笑が浮かんでいた。
ミレイユはその建物を上から下まで見上げた。そうするのに時間はかからない。
夕闇はああやっぱり、という気持ちとそして、ついていないわねと落胆があった。
「ええっと、思ったより質素な造りなんですね、魔導局って」
悪気なくそう口にしたのはミレイユだった。
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