04

 夕闇ダスクが意識を取り戻した時、自分がどこにいてどういった状態なのかすぐにはわからなかった。意識を失う直前の記憶を整理する必要があった。

 

 すぐに結びついたのは、風呂だ。ミレイユが準備してくれた浴室というのは思いのほか、しっかりとした造りをしていてしかも隅々まで清潔に保たれていた。浴槽は足を思い切り伸ばせるほどの広さがあった。

 実のところ、夕闇はイルンラクトに来るまでの道中では川や湖でひっそりと沐浴していただけであったから、入浴させてもらえるのはありがたかった。

 アマリリスの一族においては日々、身を清めることが魔女としての素質を引き出し、魔力を長持ちさせる秘訣であるとされている。三日間連続で汚れた身でいる者は処罰される掟もあった。一口に身を清めると言ってもその手段は入浴や沐浴のみならず魔法によるものもあったが、夕闇は魔法に依らない自然的な方法を好んだ。


 ミレイユに「熱すぎたら言ってください。すぐ外で待っていますから」と言われたのを夕闇は思い出す。肩まで浸かると、しだいに身体の芯から温まった。この風呂はおそらくホムラ石の点火作用を魔石で引き起こしている、魔導式なのだろうと見当をつけた。それに浴槽もただ広いだけではない。その質感は結晶化した岩石を適切に加工したものであるが、感じられる魔力から言って錬金術による調合物だと思われた。そんなことを考えていると疲労が回復していき、気持ちよくなって、瞼が重くなって、ついに夕闇は……。


「夕闇ちゃん! 起きましたか! だ、大丈夫ですか」


 ミレイユが夕闇を見下ろす。

 そうして夕闇は自分が寝台に横たわっているのをようやっと認識する。見慣れぬ天井は果たしてミレイユの家のもので、心配そうな顔をしている家主の少女に夕闇は「我はのぼせてしまったのだな」と口にした。

 あまりの気持ちのよさに浴槽で眠ってしまったと明かすのと大差ないが、しかしそうは言わなかった。危うく魔女の歴史に悪い意味で名を残すところだったわねと、一周回って自分の失態がおかしく感じられて笑った。


 ゆっくりと夕闇が上半身を起こす。ミレイユはまだ不安げな表情のままだ。夕闇は自分が見知らぬ衣服を着ていることに気がついた。ぶかぶかしている。


「これは?」

「わたしの寝間着です。裸のまま寝かせるわけにはいかなかったので、それで。えっと、お召し物は洗濯しておこうかなって。あっ、でもまだ洗ってはいません。何か魔法でもかけられていたら下手に触れるとまずいかなって。」


 ミレイユが赤面した。それで夕闇は自分の裸をこの出会ったばかりの少女に見られたことを遅ればせながら察して、やはり赤面した。ミレイユが異変に気づかねば溺死していた可能性もあるのだから非難はできまい、と夕闇は自身に言い聞かせる。夕闇は、着ていた服を洗ってくれてかまわないとミレイユに伝えた。


「夕闇ちゃん、すごいすべすべでつるつるでした……」

「そんな感想はいらないわよ!」

「ご、ごめんなさい。あの、冷たいお水はいかがですか? 口移しで飲ませてしまうか悩んで、結局、様子見をしていたんです」

「いただくわ」

「コップはあったほうがいいですよね?」

「当たり前でしょ!」


 ミレイユが「はいっ」と言ってばたばたと水とコップを取りに行く。彼女なりに動転していたのだと察すると、大声をあげなくてもよかったかなと夕闇は省みた。まだ湯の温かさで体が火照っている気がする。意識を失っていたのは、ほんのわずかな時間だろう。


「あの浴室は汝が一人で造ったのか?」


 水を飲み終えて、いくらか落ち着いた夕闇が、寝台の傍に椅子を持ってきて腰かけているミレイユに訊ねる。


「そうです。思ったより時間がかかっちゃいました。床や壁もそうですし、湯加減の調節を担う術式の構築に適した、ホムラ石と魔石のバランスがうまくとれなくて。夕闇ちゃんたち魔女さんであれば魔石がなくても術式を作れるんですよね?」

「そうだな。魔石というより魔導物質全般が不要となる。だが、もちろんあるにこしたことはない。そういう意味では我らの特性は魔導物質の媒介を必要としないことにあるのではなく、それらをより効率化させ、高い能力を発揮させるところにある」


 夕闇はすらすらと答え、ミレイユはそれに相槌を打って感心していた。夕闇にとっては耳にたこができる程度に何度も先輩魔女から教わってきたことである。

 魔女が魔女と呼ばれる所以は、人々が魔導物質を介してのみ魔力を発現させて都合のいい力に転換するのに対し、魔女は魔導物質いらずだから……とみなされがちだ。

 しかし魔女の真価は己そのものを魔導物質として運用できる点にではなく、むしろ外界の魔導物質を一般の人々と比べて何倍も強力に、時に異様に扱う点にあるのだと夕闇は教え込まれてきた。


「いい風呂ではあった」

「ありがとうございます。身も蓋もない話、どうしてもお風呂を魔導式にしないといけない理由ってなかったんです。それでも長い目で見れば燃料費の節約にはなりそうかな」

「あの浴槽の元を取るのは容易ではなさそうね」

「あうっ。気がついちゃいますよね。そうなんですよ、術式以上にあの浴槽を錬金するのには素材収集の面で苦労して。えへへ」

「どうして嬉しそうなのだ」


 夕闇の率直な物言いに、ミレイユはまた頬を赤らめた。


「だって、こんなの話せる相手がいなかったので。この一年間は一人でいろいろ試してみていましたが、誰にも専門的な相談ってできなくて」


 夕闇は一族での暮らしぶりを思い返す。いい思い出ばかりではないが、彼女によくしてくれた魔女も中にはいた。だからこそ十五の試練に臨むとなったとき、恐れもあった。もし試練を乗り越えられなかったら、と。帰る場所がなくなってしまう、皆に受け入れてもらえなくなるのだと。

 目の前の少女は一年間、師匠の言いつけをあてにしてこの日を待っていたのだ。

 一年間、それは夕闇が見習い魔女として生きてきた時間よりも遥かに短い。けれど見習い錬金術士として独りであったのなら充分に長いに違いないと夕闇は思った。

 まだたった一週間離れただけであるのに、今やずいぶんと遠くに感じられる一族。族長から授かったローブはここまでの彼女を災いから護ってくれたがいつまでもそうしてくれるわけではない。なんだったら今後は自分がこの子を護らなくてはならないのか? そう思った夕闇がミレイユを見る眼差しは自然と和らいだ。


「鍛冶屋のおじさんは最近やっと魔導物質を用いた鍛冶に挑戦し始めたところだし、フェリシアお姉ちゃん……ええと、親しくしてもらっているシスターさんにはあまりいい目で見られないし」

「いい目で見られない? 遠目で確認したがこの地にあるのはエルムーラ教のものだろう? あやつらは魔導物質の利用には中立的で、錬金術を疎んじる道理はないと思うのだが」

「えっと、そうした組織的な面とは無関係です。そのシスターさんはわたしが家に籠って釜をかき混ぜているのはよくないよって。調合で忙しくても薬草園には毎日行っているし、街で買い出しもするのにですよ!」

 

 たぶんそのシスターは、生活するために必須な行動以外で、少女らしい娯楽でも勧めているのだと夕闇は察した。でもそれが伝わっていないところを見るに、自分が言っても無駄だと考え、夕闇は「そうだな」とだけ言っておくのだった。


 その後、ミレイユと夕闇はお互いの情報を交換することで、夕闇の試練の内容を明確にしようとした。お互いと言いつつも、大半は夕闇がミレイユの生活とイルンラクトの情勢を聞き取る形であった。

 ミレイユから夕闇への質問は時々ずれていて、夕闇に躱されることも何度かあった。夕闇はうっかり、一部の野菜、苦味を持つそれが嫌いであるのを話してしまったのを悔やんだ。そしてミレイユの笑顔の前では見栄を張っているのが馬鹿らしくなりつつあった。


「さて、夕闇ちゃん。そろそろ眠りましょうか。夜更かしは健康によくないとシスターさんにもよく言われるんです。夜通し、釜をかき混ぜているなんて週に一度あるかないかなのに」

「……ねぇ、その恰好で寝るの?」


 ミレイユは師匠が残した、曰く錬金術士の礼装のままだった。


「はい。これを着ていると身体が軽くて、とっても快適なんです。きっとそのまま寝てもいいように作られているんですよ。あっ、これなら夜通しで調合していても楽ですね。師匠はそこまで考えていてくれていたんだ!」


 ぽんっと右の手のひらを左の拳で叩いてミレイユが言う。錬金術士の力を高める装備というのは合点がいく。夕闇は改めてしげしげとミレイユの服を眺めた。でも、こんな可愛いデザインにする必要あったの?


「すると、その服というのは我の到来を契機に、汝がそれまでより錬金術に励む状況に置かれることを意味するのではないか」

「どんと来いです。夕闇ちゃんと一緒なら、なんだってできそうですから」

「……そうね」


 ミレイユは椅子から立ち上がると、室内にあるオイルランプを消した。窓からの月明かりで部屋が満たされる。今宵の月光は一段と眩く、雲を寄せ付けない。


「ささ、もっと壁に寄ってください」


 ミレイユが夕闇のいる寝台に乗り掛かろうとした。夕闇は目を丸くして、手でミレイユを制する。

 

「待て。汝もこの寝台で眠るつもりなのか」

「ええっ、いけないんですか!? だ、だって、床で寝るのはちょっと。毎日お掃除はしていますよ? でも眠る場所ではありません」

「それはそうかもしれないが、備えの一つぐらいないのか」


 もともと二人暮らしをしていたのだから、と夕闇は思った。寝具がもう一組ないのが妙だと。寝台は片づけたかもしれないが布団まで処分したのだろうか。


「あるにはあります。でも埃をかぶっているかも」

「我がそちらで寝よう」

「そんな! 夕闇ちゃん、わたしと眠るのがそんなに嫌ですか?」

「むしろどうして我と眠りたがるのだ」

「仲のいいお友達とは寝食を共にするのではないでしょうか」

「我と汝はまだそんな仲ではない」

「ううっ。わ、わたしのことは枕と思ってくれてかまいませんから!」

「思えないわよ!」


 最終的にその夜の同衾については夕闇が折れた。後日、家を改装して夕闇の個室を作るのをミレイユが渋々、約束したのだった。

 しばらくして夕闇よりもミレイユが先に眠りについた。夕闇はミレイユの寝顔を盗み見た。その安らかな表情を憎めなかった。彼女は寂しい時があると言った。町の人たちに優しくされ、愛されている彼女であっても。

 夕闇は深まる闇夜に溜息を一つをつくと、やがて眠りにその身を任せるのだった。

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