「不香花」
1990年、長崎県萩市某所。
先祖伝来の品を納めに、私はその場所を訪れた。彼等はもう、私は勿論、私の先祖の事を咎めたりしないのだろう。それでもやはり、嘗て残忍なる振舞をした人の血が流れる私は、少なからず拒絶されるのかもしれない。
私の祖先は、切支丹狩りの折に、拷問吏を務めていた。先日、その時使われていた拷問石を見つけてしまい、こんな呪われていそうなもの、持っていたくないと思ったのだ。
しかし何分、切支丹狩りのものである。神社や寺は、何か違う気がするし、この石で殉教していった魂が、『信仰を守り通したのに改宗させられた!』と化けて出てきたら怖い。何度もためらったが、とりあえず、教会へ電話をかけてみた。
電話を受けた老人が神父だという。なるべく自分の素性を明かさないように気を付けながら、『切支丹狩りの時に使われたと思しき骨董品を引き取ってほしい』と話を持って行き、了承を得ることが出来た。
ただ、教会の敷地内に入った途端に、何か呪いが発生したらどうしよう、とも思っていたが、このまま持っているよりはマシだ。
なるべく直接触らないように、入っていた箱の上に、さらに風呂敷を巻いて持って行った。
訪れた教会は、意外なことに、少し明るい雰囲気で、不思議な高揚感のある場所だった。自分の中に流れる拷問吏の血が、拷問の時の高揚感を思い出したのだろうか。そんな恐ろしい考えを振り切って、呼び鈴のある方の建物に近づいた。
その時だった。
「いらっしゃい!」
呼び鈴に手を伸ばす前に、まるで予期していたかのように、若い男が飛び出してきた。明らかに市政の人間が着るような服ではない。今まで意図的に避けていたから知らなかったが、この格好が、神父の普段着なんだろうか?
「ご、ごめんください。お電話申し上げておりました、骨董品の寄付の件でお伺いしましてございます。」
「ああ、分かってるよ。コーヒー淹れるから、入りな。」
若い男のように見えるが、洗練されたというのか、どこかすっと背筋が伸びるような、成熟された雰囲気がある。楽し気に何かぺらぺらと喋っているその後ろ姿は、『骨董品』の意味を知らないのだろうか、と、思うほどだ。
言われるがままに応接間に通され、挽きたてのコーヒーを出される。目の前で豆を挽いたミルは新しく、まさか、わざわざ自分のために買ってきたのだろうか?
そんなに歓迎されるような存在でもないだろうに……。
「あ、あの………。」
「まあ、そう畏まるなって。呪いとかないから。ここまで寒かっただろう? まずは温まりな。」
確かに今日は、どこか寒々しい日だった。太陽も出ているし、雲もないのに。精神的なものだとばかり思っていたが、神父もそう思っていたらしい。コーヒーを飲もうとしない自分に、クッキーも差し出してきた。
「クリスマス用に仕入れたジンジャークッキーだ。温まるから遠慮なく食え。」
「いえ私は―――。」
「それとも。」
朗らかな笑顔がブラックコーヒーに沈んだ。
「今更、名前しか知らない先祖の身代わりに、石抱の拷問で償いたいか? テラモト。」
「―――!!!」
道具がないとか、権限がないとか、逮捕されるとか、違法だとか、そんなものはどうでもいい。この人には「出来る」。それこそ、この晴天を豪雪の槍が降る曇天に変え、石抱の拷問よりも酷く長く苦しむ拷問を加えることが出来る。そう確信して、震え上がった。
「…楽になった?」
ハッと顔を上げると、先程の表情がまるで、悪魔か何かが一時的に乗り移っていただけだったかのように、穏やかで晴れやかな、優しい笑顔になっていた。
「え………。」
「時々いるんだよなぁ。この国に限らず、俺らの仲間を殺した奴は勿論、子孫でもな。近代的になって、過去の過ちだという意識が芽生えた国では、そうやって過去を悔いて何らかの形で償おうとする。」
「それは…酷いことをしたんですから…。」
「俺のいとこ達はどう思うかは別として、…あ、タバコ平気?」
「あ、どうぞ。」
自分の心の暗闇に零れ落ちるかのように、彼の指先にライターの火が灯る。スッと短い吸引音の後、フーッと吐き出される煙が消えていくと、自分の心の中が少し軽くなるような気がした。
「神は、生贄を好まず、砕かれた心を望む。…血腥い償いなんていらねぇのさ。俺らはただ、前に進んでくれさえすればいい。」
「前?」
「その時を生きてる人間が、幸せになってくれれば、それでいい。その為に
私は、もはや問答は不要と思い、風呂敷を解いて、箱を取りだし、テーブルにおいた。そして、そっと蓋を開ける。
「どうぞお納めください。浦上四番崩れの際、使用された拷問石です。」
「ああ、ありがとう。」
火をつけたばかりのタバコを灰皿において、御影石を軽々と持ち上げた。
若者―――否や、神父は、袖の下にあるとは思えないほどの筋力を持っているらしい。胸に抱きかかえ、まるで赤ん坊にの頬にするかのように、四本の指の背で、御影石を撫でた。
その姿は、私の数少ないキリスト教の知識の中でも、すぐにピンと来るものがあった。
これは、聖母マリアだ。この神父は、今まさに、聖母マリアの彫刻であったのだ。しかして、聖母マリアの抱きかかえた御影石は、幼子イエスではなかった。聖母マリアが抱いているのは御影石に違いない。けれどもその御影石は、無機物であるそれは、その時確かに安らかに「眠って」いた。
眠れる幼子を胸に抱く聖なる人を、聖母マリアと言わずに何と言おうか。
「あ、すまない。うっかり再会が懐かしくてね。コーヒーまだあるから、飲んでいきな。」
そう言って、聖母マリアの彫刻が、一人の神父に戻った。優しくソファの上に載せられた御影石は、見る見るうちに沈んでいく。やはり、人が片腕で持ち上げて抱くようなものではない。
もはや私は、目の前にいる神父が、ただの若者ではなく、何か超越した、天使のようなもののように見えた。否や、天使ではない。この神父は、神父だとか天使だとか、そんな私たちの既存の言葉や概念では表せない何かだ。
「あの………。」
「んー?」
聖母マリアの彫刻は、徳のある人格者とはとても思えないような、ただの好青年に戻っていた。否や、あの彫刻こそ、私が無意識に思っていた、あるいは私の中に流れる
だからか、自然と問いが出た。
「貴方は………、『何』なのですか?」
すると、『神父』はコーヒーをとぽとぽとカップに流し込みながら、注ぐのを止めた。
静止と流動が同居する、凍り付くような、けれども微笑みが満ちているような、不思議な空間の中で、『神父』は、コーヒーを勧めながら、その問いに答えてくれた。
「俺の名前はローマン・カトリック。人に似て人に非ず、神に似て神に非ず、さりとて
さ、飲みな。と、言われ、私は言葉をかみしめながら、コーヒーを一気に煽った。
そして、コーヒーカップを机に戻したとき、『彼』はおらず。
ただ、彼が赤子のようにいつくしんでいた御影石だけが、ソファに沈み込んでいた。
百年前、天はこの御影石で死んだ娘に、不香花を手向けたという。『彼』なら、どんな花を贈るのだろう。
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