「青女」
久しぶりに
「………
今日は八月五日。そろそろ世界中で行われるデモに駆り出される時期だ。人間のように空間的にも時間的にも隔たりはないのはいいのだが、できれば政治のデモンストレーションと、遺族やその子孫のあれこれとをごちゃまぜにするのは止めてほしい。疲れる。
ただ、『当日』ではないのと、『その日』既にイタリアは一抜けという状態だったからか、この国ではまだそんなムードが漂っていない。少しほっとした。
「マリア様、いらっしゃい―――?」
少女は何故か、手に手袋を持っている。母親のものだろうか。少し不格好だ。少女は、きょとんとした顔でローマンを静かにみつめた。
「おや、お祈りかい? なら席を外そうか。」
「…マリア様?」
「違うよ。俺はただの神父。」
「………。………。」
少女は何か考え込み、入り口で十字を切ったところから動こうとしない。
「どうした? 入っておいで。隣に座りなさい。」
ローマンがそう促すと、少女は小さく膝を曲げ、不思議そうにローマンを見つめながら、ローマンの隣に座った。確かに最近では、―――悲しいことにローマンにとっては今更な問題なのだが―――子供に神父が手を出していたことの全貌が明らかになっているので、親が警戒心を持つように教えているのかもしれない。
ただ、少女の視線は、そういった疑いや警戒の類ではなかった。まるで真贋を見定めるように、じいっと見てくる。
時々、いるにはいるのだ。
「………あなたは、
「違うよ。」
「………あなたは、
「違うよ。」
「………。あなたは、どなた?」
「………。」
ここで人間らしい名前を名乗っても意味がないと思った。
「俺は、
なので、ローマンはそう答えた。人間に対しては、まず名乗らない。なぜなら、自分が未だ、信仰そのものには至れていないからだ。
すると少女は、それだけで全て伝わったらしく、向き直って深々と頭を下げてから言った。
「主よ、私はあなたをお迎えするような者ではありません。ましてや御言葉によって救いを得られるほどの者でもありません。それでももし、憐れんでくださるのなら、私に質問をお許しください。」
「いや、主ではないんだけど。」
思わず打ち消したが、少女はそれを、拒まれていると思ったのか、かなり悲しそうな顔をした。
つまり、彼女はどんなに自分が遜ろうと、神が自分の疑問に答えてくれると確信していたのだ。
『本物』だ。
修道生活に入らず、世俗の中にあって、結婚し、子供を産み、人をいじめたり虐げたりしながらも、聖母のように生きる娘だ。
そんなつもりはなかったのだが、その信仰には報いてやらなければ。どうせ暇だったのだし、世間の喧騒に疲れていたところだ。これこそ運命の出会いというものなのだ。
「―――非礼を詫びよう、ジョヴァンナ・バッティスマ。俺は
突然洗礼名を当てられたことに、少女は驚きもしていなかった。ただどちらかというと、ローマンが嘘の名前を教えたということに驚いていたようだった。長椅子の反対側へ、抜けていく一歩一歩を歩むたびに、靴の色、纏う祭服の数などが変わり、通路に抜ける頃には、
「我が名はローマン・カトリック。ローマに埋め込まれたキリストの五本の初穂、その筆頭が一つ。歴代教皇が神の代理人なれば、我は信仰の代理人。歴代教皇が奴隷に仕える奴隷なれば、我は傲慢を支配する傲慢。人でも神でも、
「いいえ。」
「良い答えだ。では、問いを口にしなさい。」
少女は長椅子から立ち上がり、祭壇とローマンとに真っすぐに向き合い、平伏して言った。
「お許しを頂きましたので、申し上げます。私には、聖母マリアの祝福の血が流れています。それは、四世紀ごろ、私の遠い遠い祖先である、とある富豪が、子供が無く、財産を聖母マリアに相続させたいと、教皇聖リベリウスに申し上げた折、聖母の祝福によって、私の遠い祖先を夫婦が得ることが出来たと、祖母から教わわったからです。私達の身体には、聖母マリアの祝福が宿っている。だから決して、教会を裏切ってはならないと。しかし、祖母が亡くなり、太古の昔より、教会が姦淫を犯してきたことを、アジア人の父に指摘され、私の祖母は、教皇聖リベリウスが、夫人に産ませた子供の子孫なのだ、と言いました。」
そこまで一気に言って、少女は肩を震わせ始めた。相当に悔しかったのだろう。
ローマンも、教皇リベリウスのことは覚えているし、その富豪のことも覚えている。もちろん、その富豪の妻が、生涯その夫に尽くしていた貞淑な妻だったことも知っているし、教会の中の白くねばついた謀の類には一切かかわらなかった人物であることも知っている。
ただそれは、ローマンが擬者だから知っているのであって、歴史学上、確かにその伝説は否定されている。
泣きそうになっている少女を見つめながら、少女が言いたいことを言い終わるまで待った。
「私は父を愛しています。ですが、聖母さまのお恵みをそのように詰り、私がイタズラされたらと教会に行くことを禁じている父を、主なる神がどうお感じになるのかと思うと、怖くて怖くて仕方がありません。この一年、ロザリオの代わりに、五十目ずつ、ミトンを編みました。聖母さまにお渡ししてください。聖母さまと御胎内の
正直に言うと、少女の実にこなれた、聖書臭い言い回しには、舌を巻いた。教会に行くこともできず、家でひたすら聖書だけを読んで、励みにしてきたのだろう。愛する父親の自分への心配も、祖母から聞いた言い伝えの大切さも、この子はよくわかっている。
「ジョヴァンナ・バッティスマ。ここは我が胎、我が櫓。何も恐れることはない。建前などいらぬ。言いたいことは全て、我らの主が聞いている。」
すると、とうとう少女は眼球をアイスのように零しはじめ、よく響く空間で、ローマンでなければ聞き取れない勢いで、激しく泣いた。その大半は、少女を大人しくさせておくには十分すぎるほどの、愛情深い『脅迫』だった。
醜聞だったり、陰謀だったり、それは様々なものだったが、誰も彼女の信仰を否定はしていないのだ。彼女の身の安全を思って、親身になって言っている。そして彼女も、それをわかっている。だからロザリオの祈りの代わりに、
「まあまあ、可哀想に……。とても辛かったのね。」
少女の肩を指先を赤くした女性が抱き上げた。少女は、恥も外聞も無く泣いていたところを見られて恥ずかしかったのか、更に赤くなって、顔をそむける。
その時、女性の指先が、あかぎれだらけなのに気づいた。
「奥様、手が…! こちらのミトンをお使いください。」
「あら、いいの?」
「はい、どうせ誰にも使われないものですので。じゃ、じゃあ、私はこれで! あ、ええと。ローマさま? ご機嫌よう!」
少女は、自分が誰に何を押し付けたのか、確認もしないまま、走り去っていってしまった。
ただ、外に出た彼女を迎えるローマの風は暖かく、人の愛に溢れていた。
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