「冠雪」

「ぼくの代で、きっときっと、あなたをきれいにしてさしあげます。」

 ひどく打ちのめされ、屈辱を加えられていた俺に、彼はそう言った。

 その頃の俺は、『長男』とはもう言えないばかりに惨めでへたくそで、あっという間にヨーロッパの中心で、権威付けのためのおもちゃにされていた。教会からだは瘦せ細り、いつでも神ではなく、諸侯にひざまずくために、耳も目も、聖堂の中でさえ、十字架上のイエスを見上げるためには使われなかった。

 四人の弟たちとの喧嘩もあったし、議論もあったので、俺としてはそんな、ザクセンがどうのノルマンがどうのだの、忙しくて構っていられない。時代の節目は変わりつつあることを感じていたし、そんなものに蹂躙されて虐げられている場合ではない。

 ないてなんていられない。声を嗄らしてはいけない。足腰を崩してはいけない。今は進まなければ。より教会が大きく育つために。神の道が、より開かれるように。

 だから―――。

「やめろよ、イルデブランド。重い、このストラ……。」

「大丈夫、これが重く感じられなくなるくらい、力を取り戻してみせます。だから、どうかストラを着けてください。あなたは市政の神父とも、歴代教皇とも違うのです。ローブアルバだけでは、あなたが天の王から出でていることを、地の王どもはわからないのです。」

「………。」

「あなたを、きっと地上の争いから解き放って差し上げます。ぼくの代で、歴代教皇聖下の悲願を叶えます。きっときっと、叶えます。だから―――。」

 その時が来たら、どうかぼくの悲願も、叶えてくれますか?

 ⛄

 酷い雪の日だったと思う。

 旅の途中で寄ったカノッサの城で、まだ疲れがとれていなかった。身体の中は、孵化を待つ蛹の中身のようにどろどろと渦巻いていて、その中にいくつか、白っぽい線が混じったまま、残されている。

 気持ち悪い………。取れない、取れない。

 とれないとれないとれないとれない、とれてない………。

「うわあああああ!!!」

「ローマン様!! 大丈夫です、ここは教皇ぼくの傍です!」

「や、やだ、いやだ、の言うことなんて聞くもんか!! 俺が従うのは天の王だけだ!!」

「大丈夫、大丈夫です、ここにはぼく以外いません!」

「うそだうそだうそだ、あの臭いは宮廷の臭いだ! 来るな!! 来るな!! 来るなァー!!!」

「ローマン様!!」

 力強く抱きしめられ、ミサの香料の香りが、鼻の奥を埋める。馬が駆けるよりも早かった呼吸と心臓が落ち着いていく半面、その震えが体の末端に移動していく。

「イル……デ、ブラ……。」

「はい。あなたのイルデブランド、グレゴリウス七世ですよ。」

「あ、あ、あいつは? ローランドはちゃんとかえしたか? あ、あ、あいつは、パルマの……。」

「はい、貴方が倒れた後、ちゃんとぼくが指導して、パルマに帰らせました。生きて帰ってきたと、ちゃんと書簡で本人のサインが届きました。今ここに、ラテラノ大教会のメンツはいません。ぼくとあなただけです、ローマン様。」

「じゃ、じゃあ、この臭いは、なに………?」

「臭いがするのですね。様子を見させてきます。少し、離れても大丈夫ですか?」

「うん……。うん……。」

 まだ身体が震えている。しかししがみついていても埒が明かない。

 自分は、一瞬の生の中に、一度きりの華を奪われるような儚い存在ではない。まだ国教一人前になって、七百年しか経っていないのだ。この程度の蹂躙凌辱で、音を上げてる場合ではない。

「確認してきて…くれ。」

 か細いその声が、とても重たく、苦しい。その言葉を聞いて、イルデブランドは額に口づけると、衣服を整えて『教皇グレゴリウス七世』となり、部屋を出た。

 すると、部屋の前に、既に衛兵と教皇秘書カメルレンゴが来ていた。すぐに後ろ手で扉を固く閉ざす。

「夜分失礼足します、教皇パパさま。客人です。皇帝ハインリヒがやってきました。使いではないんです。本人なんです。」

「本人? 何故だ。今頃皇帝はロンバルディア諸侯とでもよろしくやってるだろう。それとも今度は飽き足らず、教皇天の権威に戦争をしかけようとしているのか?」

「わかりません。でもこの大雪の中、裸足でひざまずいて祈って、断食して叫んでいるんです。ここで皇帝ハインリヒが死んでしまったら、いつまた、聖下がローマを追われるかわかりません。」

 思わず教皇秘書カメルレンゴを睨む。すると彼は、ひっと息を呑んだ。それを見て、イルデブランドは自分がおよそ教皇らしくない顔をしたことに気づき、ぱしぱしと両頬を叩き、言った。

「すまない。君の憂慮が不快だったのではない。かつての屈辱を思い出しただけだ。…だが、城に入れるわけにはいかぬ。帰るように説得しよう。」

「大丈夫でしょうか?」

教皇秘書カメルレンゴ、何のためにここに衛兵がいると思っている?」

 突然指摘され、衛兵はぴょこんと縮み上がった。

 内心、イルデブランドは何がどういわれようと、前皇帝ハインリヒ三世が自分と、師たちにしてきたことや、その息子であり現皇帝であるハインリヒ四世が、再三協定や宣誓を反故にしてきたことについて、ゆるすつもりはなかった。七の七十倍までゆるしていては、自分が生きている間はどうにかごまかせても、教会ローマンが持たない。次代が育たないのだ。

 心の中ではずっと迷っていた。だが、不思議と引っ張られるように、あるいは急き立てられるように、歩みは止まらなかった。

 迷いなく城門を開けさせると、真っ白な銀世界の中、真黒な服を着た人物が、真赤な肌を覗かせ、雪の中に頭を突っ込んでいる。頭の上には、皇帝の冠の代わりに、雪の冠を被って、その惨めな事と言ったらなかった。

「私はキリストに倣う者、どうか破門を解いて下さい。このままでは破滅してしまいます。」

 しらじらしい、と、確かにそう思った。その破滅とは身の破滅ではなく、自らの王位のことであって、組織のことですらない。歴代教皇自分達の悲願に比べれば、保身という言葉への侮辱ですらある。

 だが、揺れ動いてもいた。

 自分は確かに、天の権威に仕える者であって、地上の王よりも上であるし、それを侮辱し侵害して、敵対している者を中途半端に許していては、自分だけでなく、後々の教皇達にも影響を与える。

 だが、それはグレゴリウス七世の話だ。

 今ここにいるハインリヒを見て、イルデブランドの魂は激しく揺り動かされ、その勢いは、己が臓腑すら揺り動かすほどのものだった。

 私は、否や、ぼくは、そもそも何者であったのか。幼かったぼくに現れた、天使よりも美しく輝く、しかし乞食よりもみすぼらしく疲れ果てた『あの方』に、ぼくは終生お仕えすると誓い、それが神に認められたから、教皇グレゴリウス七世になったのではないか。

 確かに『あの方』を傷つけ苦しめているのは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世だ。だが、それは本当に、このハインリヒと同じだろうか?

 ゆるしを求める者がいて、ゆるしを宣言できる自分がいて、ここには神のみではなく、分かりやすい肉の目もある。

 雪が積もっていく。まるで何かを隠すかのように。その時、は、決断も何もせず、男の再度の問いかけに応えた。

は、を許さない。」


 しかし、皇帝はその後、三日に渡り、断食と祈りを繰り返し、ついに教皇は破門の棄却を宣言する。時に一〇七七年一月二十八日、時の皇帝すらも屈服させ続ける教皇の権威は、これを機にヨーロッパ中に轟くことになり、後年、慣用句として『カノッサの屈辱』という言葉が使われるようになった。

 だが、その後王としての権威を取り戻したハインリヒ四世が、幾たび目かの宣誓反故により、軍を率いて教皇グレゴリウス七世を包囲。天晴見事、文字通り雪辱を果たし、命からがら逃げだした教皇を、裏切りと失望の失意のままに客死させたという事実は、『カノッサの屈辱』ほどは広がらなかった。

 それはその後、十六世紀に『抗議者』達が、反教皇主義のために引き合いに出し、また十九世紀にオットー・フォン・ビスマルクによる文化闘争での政治利用に喧伝されたためであると言われている。

 ―――そして、教皇グレゴリウス七世の死から、僅かに四十年もしない一一二二年。ヴォルムス協定が結ばれ、表向きの権威の持ち分が明確にされた。

 ―――その時が来たら、どうかぼくの悲願も、叶えてくれますか?

「………見ているか、。」

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