「雪しろ」

 憂世の氷の融ける音がする。

 世界は未だ凍り付き、その融解を目指す炎のような男達が、火薬をばら撒いている。それでも、心のよりどころである自分たちが、何かを為すことで、大きく心証が変わり、それが巡り巡って国益になることもある。外交の引き合いに出されるのは不愉快だが、外交の手助けができるのなら、それはどこにでも行くというものだ。

 それでその国同士の間に、笑顔が広がるなら、それは神の所望するところだからだ。

「お会いになった事は?」

 特上の正装で会談の準備をしていると、教皇秘書カメルレンゴ帽子ミトラを持って尋ねた。帽子ミトラを受け取り、装着しながら、ローマンが答える。

「あるわけない。今日会うのはコニーの妹だろう。俺はそいつがデビューした頃って言ったら、マーティンとの大喧嘩の真っ最中だ」

「では、不安がおありでございますか」

 するとローマンは、笑いながら言った。

「それはないね。十一月に教皇パパ様が言ったんだ。『求められる所に行く、呼ばれれば行く』とね。それで彼女がカストロに仲介を頼んだのだから、少なくとも俺達は兄妹We are brothersだ。………よし。」

 教皇の正装と全く同じ姿に。

 しかし、綺麗に洗濯され、美しい教皇のそれとは違い、一七〇〇年の罪と罰を受けて、くすんだその姿は、教皇秘書カメルレンゴには、一際美しく見えた。

「これが、本来のお姿なんですね………。貴方様のような方の正装を見るのは、歴代の教皇秘書カメルレンゴでもそうそういないでしょう。」 

 するとローマンは、重たそうな片腕を持ち上げて、ひらひらと振った。

「アハハ、そんなことはないと思うぜ。公会議の時は一応いつもこれだったしな。まあ、現代においてはただの神父に紛れ込みやすい祭服アルバとストラだけど。楽だし。」

「しかし教会の在り方が変わってからも反発はあります。未だにラテン語のミサに固執している不届き者もいます。」

「ああ、SSPXピーのことか? まあ、一時は感情的に破門絶縁したけど、三年前に形上は仲直りってことになったからな。ただまあ、信者仲間同士ではあまり仲が良くないそうだ。」

「前教皇様が保守的な学者だったからお認めになったのであって、現教皇様のリベラル的な考えには、強く反発してますね。」

「まあ、生まれたてなんてそんなもんだ。難しい話は難しい世界に生きる人間ものにお任せだ。俺達は勝手にやるから、お前は教皇パパさまのところに行っておやり。」

 教皇秘書カメルレンゴは、問いかけようとしたが、ああ、と、納得し、一礼して別室待機の教皇の元へ走っていった。

 兄妹水入らずの時間というのも、欲しいのだろう。

 うまく行くよ、と、兄は送り出してくれたが、正直困惑はしている。キューバは二月でも、ロシアに比べれば酷暑だ。それでも、赤い帽子カミラフカを脱げるほどの暑さは感じない。

 この会談が、実質凍えるようなものだからだろう。共通の敵の存在というものは、結束を強くするものだが、しかしてその敵のために、手を取り合ってどうのこうの、ということでないのは確かだからだ。従弟たちを救うために団結するのと同時に、従弟たちよりも数を多くしていようという、人間らしい悍ましさがそこここに隠れているからだ。

 もやもや考えていると、扉が三回たたかれた。

「ああ、はい。どうぞ。」

 特に考えもせずにそう言うと扉の奥から、複数の布が擦りあう音がした。

「え…!? ローマンお兄様!?」

「やあ、九六二年ぶり。マスクヴァ・コンスタンティン。お兄ちゃんコンスタンティンとは上手くやってるらしいな。」

 よかったよかった、と、言いながら、教皇と同じ格好をしていた大兄に青ざめて、マスクヴァは自分の服装を顧みた。

「や、やだ! 私ったら…!」

 それもそのはずで、この歴史的会談の前に、マスクヴァは市政にいる時と同じ、司祭服を着ていたからだ。否や、もちろん正装は持ってきている。ただ、それを着るのはもう少し後にしようと思って、もやもや考えるのを優先させてしまったのだ。

「ああ、いい、いい。俺も二人きりになったら、いつもの服装に戻ろうと思ってたから。一応女の子の形をしてるから聞くけど、ここで脱いでいい?」

「そ、それは構いません、けど……。」

 緊張で一気に氷のように冷たくなった背筋とは裏腹に、ローマンは余所余所しい世間話をしながら、ぽいぽいと服を脱いでいく。そして身軽なアルバを腰帯チングルムで縛り、首からストラをかけた。

「あー、重かった!」

「あ、そ、そうだわ! ロシアンティーはいかが?」

「おお、貰う貰う。ちょっと楽しみにしてたんだわ。」

 とりあえず喜ばせることが出来るらしいので、マスクヴァは急いで準備をする。ローマンはローマンで、勝手に彼女の座っていた椅子の向かいに座って、その様子を愛おし気に見つめていた。マスクヴァは、そんなことも気づかず、シルバートレイを持って、テーブルに置いた。

 その手は、心なしか震えている。

「なあ。」

「な、なんでしょう?」

「お前、コニーには何て呼ばれてるの? マスクヴァじゃないだろ。」

 暗に、愛称を教えろ、と言っているのに気づき、マスクヴァは視線を泳がせた。

「………。マーシー、です。」

慈悲マーシーか。ロシア語マーシャじゃないのは、コニーと合わせたからか?」

「はい。」

実家ギリシャじゃあいつも、コニーうさぎなんて呼ばれてないだろうなあ。」

「ギリシャ人やロシア人は、コースチャさまと呼びたがりますけど、おにい―――あ、いや、ご本人が、大切な名前だからって、コニーと呼ばせているんです。」

 すると、ローマンはきょとんとして、少しうれしそうな顔をした。

「そうかあ、俺のつけた愛称、気に入ってくれたんだな。」

「はい! お兄ちゃん、ローマンお兄さまのこと、いつも楽しそうにお話してくれます!」

「そうかそうか。あいつのことは『お兄ちゃん』って呼んでるんだな。」

「………。あ。」

「そ、本当はそこのところが知りたい。」

 そう言って、ローマンはロシアンティーに口をつけて言った。

「マーシー、本当のところ、俺のことは『ローマンお兄様』なんて呼んでないだろ? これからは団結の時代だ。元々らしく、家族みたいに呼び合いたい。俺もお前のことをマスクヴァとは呼ばない。お前は俺をなんて呼びたいんだ?」

「………。」

 そう言うと、マスクヴァ―――マーシーは、椅子に座って小さくなり、顔を赤らめながら言った。

「………。お兄ちゃんは、コンスタンティン・カトリックだけだから………。大兄ブラートって、呼びたい、です………。」

「そうか。ならこれからはそう呼んでくれ。家族We are brothersだからな。」

「…はい!」

 そこでようやく、マーシーはひまわりのように笑った。

 少しばかりそれから、マーシーの兄であり、ローマンの五つ子の弟であるコニーの話で盛り上がった。ふと、マーシーは、白と金の刺繍で彩られた正装の中に、一つだけ、色違いのものがあることに気づいた。

大兄ブラート、あの×はどうして×色なの?」

「ん? ああ、あれは、―――。」

 目を覚ます。

 十年前以上前の、あたたかな冬の記憶。

「………。おにい、ちゃん………。」

 あの時のように、今はそばにいてくれる家族はいない。寄り添う者はいなくなり、自分は忘れら絶縁されるどころか、呪われている。

 体は酷く重く、自分の中で、今までにないほど、狂った信仰ねついが渦巻いている。

「………。イエスさまイーススの、いじわる。」

 流れる涙は、透明な血の色で、神への愛を表す炎の色は、流血の色のように見えているのだろう。

「そんなんじゃ………ないもん。」

 ここにいないはずの大兄が、ささやくように、遠いあの日の会話を思い起こさせた。


大兄ブラート、あの靴はどうして赤色なの?」

「ん? ああ、あれは、『流血の上を歩くから』赤いんだよ。」

「殉教者の?」

「もちろんそれもあるよ。それに、マーシーの『赤』と同じ意味もある。」


 あの時は、親近感とうれしさのあった言葉。

 今では、その意味と覚悟の重さが、よくわかる。

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