「雪しろ」
憂世の氷の融ける音がする。
世界は未だ凍り付き、その融解を目指す炎のような男達が、火薬をばら撒いている。それでも、心のよりどころである自分たちが、何かを為すことで、大きく心証が変わり、それが巡り巡って国益になることもある。外交の引き合いに出されるのは不愉快だが、外交の手助けができるのなら、それはどこにでも行くというものだ。
それでその国同士の間に、笑顔が広がるなら、それは神の所望するところだからだ。
「お会いになった事は?」
特上の正装で会談の準備をしていると、
「あるわけない。今日会うのはコニーの妹だろう。俺はそいつがデビューした頃って言ったら、マーティンとの大喧嘩の真っ最中だ」
「では、不安がおありでございますか」
するとローマンは、笑いながら言った。
「それはないね。十一月に
教皇の正装と全く同じ姿に。
しかし、綺麗に洗濯され、美しい教皇のそれとは違い、一七〇〇年の罪と罰を受けて、くすんだその姿は、
「これが、本来のお姿なんですね………。貴方様のような方の正装を見るのは、歴代の
するとローマンは、重たそうな片腕を持ち上げて、ひらひらと振った。
「アハハ、そんなことはないと思うぜ。公会議の時は一応いつもこれだったしな。まあ、現代においてはただの神父に紛れ込みやすい
「しかし教会の在り方が変わってからも反発はあります。未だにラテン語のミサに固執している不届き者もいます。」
「ああ、
「前教皇様が保守的な学者だったからお認めになったのであって、現教皇様のリベラル的な考えには、強く反発してますね。」
「まあ、生まれたてなんてそんなもんだ。難しい話は難しい世界に生きる
兄妹水入らずの時間というのも、欲しいのだろう。
⛄
うまく行くよ、と、兄は送り出してくれたが、正直困惑はしている。キューバは二月でも、ロシアに比べれば酷暑だ。それでも、赤い
この会談が、実質凍えるようなものだからだろう。共通の敵の存在というものは、結束を強くするものだが、しかしてその敵のために、手を取り合ってどうのこうの、ということでないのは確かだからだ。従弟たちを救うために団結するのと同時に、従弟たちよりも数を多くしていようという、人間らしい悍ましさがそこここに隠れているからだ。
もやもや考えていると、扉が三回たたかれた。
「ああ、はい。どうぞ。」
特に考えもせずにそう言うと扉の奥から、複数の布が擦りあう音がした。
「え…!? ローマンお兄様!?」
「やあ、九六二年ぶり。マスクヴァ・コンスタンティン。
よかったよかった、と、言いながら、教皇と同じ格好をしていた大兄に青ざめて、マスクヴァは自分の服装を顧みた。
「や、やだ! 私ったら…!」
それもそのはずで、この歴史的会談の前に、マスクヴァは市政にいる時と同じ、司祭服を着ていたからだ。否や、もちろん正装は持ってきている。ただ、それを着るのはもう少し後にしようと思って、もやもや考えるのを優先させてしまったのだ。
「ああ、いい、いい。俺も二人きりになったら、いつもの服装に戻ろうと思ってたから。一応女の子の形をしてるから聞くけど、ここで脱いでいい?」
「そ、それは構いません、けど……。」
緊張で一気に氷のように冷たくなった背筋とは裏腹に、ローマンは余所余所しい世間話をしながら、ぽいぽいと服を脱いでいく。そして身軽なアルバを
「あー、重かった!」
「あ、そ、そうだわ! ロシアンティーはいかが?」
「おお、貰う貰う。ちょっと楽しみにしてたんだわ。」
とりあえず喜ばせることが出来るらしいので、マスクヴァは急いで準備をする。ローマンはローマンで、勝手に彼女の座っていた椅子の向かいに座って、その様子を愛おし気に見つめていた。マスクヴァは、そんなことも気づかず、シルバートレイを持って、テーブルに置いた。
その手は、心なしか震えている。
「なあ。」
「な、なんでしょう?」
「お前、コニーには何て呼ばれてるの? マスクヴァじゃないだろ。」
暗に、愛称を教えろ、と言っているのに気づき、マスクヴァは視線を泳がせた。
「………。マーシー、です。」
「
「はい。」
「
「ギリシャ人やロシア人は、コースチャさまと呼びたがりますけど、おにい―――あ、いや、ご本人が、大切な名前だからって、コニーと呼ばせているんです。」
すると、ローマンはきょとんとして、少しうれしそうな顔をした。
「そうかあ、俺のつけた愛称、気に入ってくれたんだな。」
「はい! お兄ちゃん、ローマンお兄さまのこと、いつも楽しそうにお話してくれます!」
「そうかそうか。あいつのことは『お兄ちゃん』って呼んでるんだな。」
「………。あ。」
「そ、本当はそこのところが知りたい。」
そう言って、ローマンはロシアンティーに口をつけて言った。
「マーシー、本当のところ、俺のことは『ローマンお兄様』なんて呼んでないだろ? これからは団結の時代だ。元々らしく、家族みたいに呼び合いたい。俺もお前のことをマスクヴァとは呼ばない。お前は俺をなんて呼びたいんだ?」
「………。」
そう言うと、マスクヴァ―――マーシーは、椅子に座って小さくなり、顔を赤らめながら言った。
「………。お兄ちゃんは、コンスタンティン・カトリックだけだから………。
「そうか。ならこれからはそう呼んでくれ。
「…はい!」
そこでようやく、マーシーはひまわりのように笑った。
少しばかりそれから、マーシーの兄であり、ローマンの五つ子の弟であるコニーの話で盛り上がった。ふと、マーシーは、白と金の刺繍で彩られた正装の中に、一つだけ、色違いのものがあることに気づいた。
「
「ん? ああ、あれは、―――。」
⛄
目を覚ます。
十年前以上前の、あたたかな冬の記憶。
「………。おにい、ちゃん………。」
あの時のように、今はそばにいてくれる家族はいない。寄り添う者はいなくなり、自分は
体は酷く重く、自分の中で、今までにないほど、狂った
「………。
流れる涙は、透明な血の色で、神への愛を表す炎の色は、流血の色のように見えているのだろう。
「そんなんじゃ………ないもん。」
ここにいないはずの大兄が、ささやくように、遠いあの日の会話を思い起こさせた。
「
「ん? ああ、あれは、『流血の上を歩くから』赤いんだよ。」
「殉教者の?」
「もちろんそれもあるよ。それに、マーシーの『赤』と同じ意味もある。」
あの時は、親近感とうれしさのあった言葉。
今では、その意味と覚悟の重さが、よくわかる。
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