「糏雪」

 キーンと静まり返った夜。星は遠く、月も遠く、空は切り取られている。

 横に狭い檻は、縦には無限に広く、文字通りの青天井だ。いや、今は青くはないか。皮膚は寒さに縮み上がり、血は冷えて固まり、傷は裂けていく。拷問をいくら受けたとしても、そこに信仰があるならば、この場から逃げることも何も出来ない。

 かといって、信仰しそうである自分が、信条しそうに憑りつかれている人間に対して、手を挙げるなんてことは、できようはずもない。

 神に似て神に非ず。人に似て人に非ず。さりとてひとでなしでもない。

 ただ、信仰が人を模しただけの偽者にせもの

 だからこそ、この苦痛が終わることもない。

「―――さん、兄さん!」

「………?」

 痛みの雷鳴に打たれ続けていると、声をかけられた。すわ、幻聴かと思った。ここにいるはずがない者―――在れない者の声がしたからだ。

「マーティン…か…? どうして……。この国に、キリスト教徒は………。」

「そうだよ、ほとんど撤退した。兄さん、どうして残ってるの!? この国のクリスチャンは一人残らず殺されたはずだよ、どうしてここにいるの―――居られるの!?」

「叫ぶな……。鼓膜をやられてる。」

 ごめん、と、言おうとして、マーティンは口を噤んだ。兄―――ローマンは、体を起こすことも出来ないほど衰弱していたが、ちらっと、潰れかかった片目と、充血したもう片方の目で促した。

 狭すぎる牢屋の中で、小さくなった子供―――それも、ようやっと、「赤ん坊」を卒業したような子供が、兄と同じように丸くなってもたれかかっている。

「まさか、この子が………?」

「もう洗礼を受けてる。俺達カトリック信者なかまだ。父親が1週間前、母親が昨日衰弱死した。」

「だ、だって、ここはコニーやマーシーの管轄で―――。」

「あいつらはトップを守るのに忙しい。この子どものために祈っているバチカンが、そばにいてやらないと。………げほっ。」

 そこまで言って、小さく咽た。よだれのように粘り気のある血が、飛ぶ力もなく口から零れる。唇を拭こうとしたが、指先が凍り付いて床に張り付いていた。

プロテスタントおまえは帰れ。もうお前の信者なかまは、脱出したはずだ。それなのにここに来られるなら、まだ残っている奴がいるなら、そいつのところへ行ってやれ。」

「に、兄さん…。」

「なぁに、親の信仰に付き合わされて殺されるなんて、日本でもあったことだ。―――気にすることねえよ、慣れてる。」

 そう言って、折れた歯をのぞかせたローマンの唇は震えていた。

「―――き、ないよ…。そんな、見捨てるなんて、そんなのって…。僕は抗議者プロテスタントだけど、―――にいさんの、おとうとだよ………。」

 ローマンはもう口を効けなかった。目を開けているのも辛そうで、本音では、拷問の隙間時間くらい寝かせてほしい、というのが本音だろう。

 でもその通りにすると、本当に永遠に眠ってしまうような気がした。いや、そんなことはありえないのだけれど。

 マーティンもこれまでに、世代ごとに妻や子供を持って育て、そして見送ってきたが、そのどの死に際よりも、この光景は恐ろしかった。


 ふと、ぞわっと恐ろしい、針を刺すような感覚がした。

 誰かが雪を踏みしめて、歩いてくる。それも、複数だ。


 これ以上の拷問は、人ならざるローマンの身体が耐えられても精神が耐えられない。牢屋を何とかこじ開けようとするマーティンとは対照的に、ローマンは片手だけで匍匐前進をし、隅っこで小さく死にかけている子供を、ぐらつく身体で抱きしめた。床に張り付いていた指を引きはがしたので、指先は肉の奥が覗いている。歪なシルエットになったその手で、ローマンは今にも死にそうな子供の頭を撫でた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」

「………。」

 子供は聞いているのか聞いていないのか、またローマン自身も、発話出来ているかいないか、そんな掠れた声で、凍り付いた血のローブの中に、子供を包んでいる。


 ふわ。ふわ、ふわ。


 極寒の地に似つかわしくない、米粒のような雪が降ってきた。糏雪こごめゆきは、冷えて固まったローマンの顔や指の血の鎧のうちにわずかにつもり、今のマーティンの心のように溶けていった。

 足音が近づいてくる。外で気配がする。こんな共産主義者信仰のない者に自分は見えないだろうが、何となく揉め事が起こりそうで、マーティンはすっと、人間には絶対に入れない、そして見えないところに移動した。

「同志軍曹! 勝手なことをされては…!」

「ええい、やかましい!」

 バン! と激しい音がして、扉があけられる。上等なコートを羽織った軍人と、いかにも一兵卒というような軍人が一人。

 そして何故か、父がいた。父のことを二人は見えていないようだが、父は無言で、牢の中のローマン―――の、中にいる、子供を指さしている。

「この大バカ者め!! 私の部下でなければ銃殺刑だぞ!!」

「し、しかしこいつの親は棄教せず、また教会の洗礼者名簿にもこいつの名前がありました! こいつはアヘンの仲間であります!」

「言い訳無用!」

 そういって、忌々しそうに軍曹は鍵を叩き壊し、ローマンの腕の中から、軽々と子供を拾い上げた。

「教会籍には、この子供は何歳だと書かれていた?」

「は、はい同志軍曹! 二歳と書かれていました!」

「二歳の子供に、信仰だの棄教だのわかるわけがなかろう! まだパパパーパだのマママーマしか言えん! あとは泣くだけだ! 拷問する時間が無駄だ!」

「し、しかし………。」

「我々は未分化な日本人トージョーどもとは違う。物のわからぬ子供を拷問死させて、国力を損なうような愚は犯さん!」

「はい、同志軍曹!」

「この子供は死んだことにしておけ。わしが一人前のソ連軍人に育ててやる。これでお互い、本件については手内だ。さあ、牢を片付けておけ!」

 ぽかんとしているうちに、軍曹は自分の持っていたコートで優しく、言葉の乱暴さからは全く想像もつかないほどに優しく子供を包んで、荒々しく牢を出て行った。

 その途端、場の空気が一気に重たくなる。隠れていたマーティンは、めまいがしたほどだ。これは、『拒絶』されている時の感覚だ。あまり長時間浴びていると、動けなくなる、信仰じぶんたちへの劇薬だ。

 一兵卒は、めんどくさそうに舌打ちをして、今にも消えそうになっているローマンの身体をすり抜け、血まみれの床の氷を削り、牢の隅に追いやった。そしてさっさと出て行ってしまった。

 途端に呼吸が軽くなる。隠れていた場所から出ると、父は、顔の血を目元から溶かしているローマンに手を伸ばし、先ほどローマンが子供にやったように抱きしめた。

「頑張ったな、偉いぞ。」

「………いいの、か、な。………あれ、で…。」

「神は命を愛され、幸福を望まれる。そこに信仰オレ達があろうとなかろうと、気になさったりしない。あの軍人に拾われ、共産主義の戦士になることがあの子供の幸福なら、それでいいのさ。」

「そう、かな………。」

「もうこの国にお前の仲間はいない。動けないだろう? 一緒に移動しよう。ほら、そこに兄想いの奴もいるし。」

 いやいやいや、と、思わずマーティンは否定した。

「共産主義国家だったらお互いに協力出来るけど、資本主義国家に行ったら、僕たち対立関係に戻るんだよ!?」

「なら、ちょうどいい国があるじゃないか。資本主義国家で、一族キリスト教の影響力の少ない、たくましい国が。」

「そんなところあったっけ?」

 本当に心当たりがなかったマーティンだったが、ローマンは頭を振った。

「おやじ………。でも、あそこは………。」

「お前、あそこで自分の信者なかまの子孫を見つけた時の気概はどうした? 大丈夫、神は愛であり、命だ。命と愛のあるところ、すべてに神はおわす。」

 お前もおいで、と、父は目配せをした。

 そして三人は、あっという間に消える糏雪こごめゆきのように、その場から消えた。

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