第4話 エリカ

「……!!」

 咆哮のその先には、巨大な狼のような生き物がいた。道端にぐったりと倒れている人を心配そうに見つめている。

「ウオォン……」

 狼に気づかれないように木立の影から様子を見る。

 この時代、この土地に狼がいるわけがない。昔はこの国にも狼がいたらしいけど、とっくのとうに絶滅しているはずだ。じゃあ、あの狼は一体……?

 疑問しかないが、視点を変えて人の方を見てみる。どうやら気を失っているらしい。着ている服自体は清潔感のあるものなのだが、裾や首元がほつれていてボロボロだ。どこからやってきたのだろうか。長い紺色の髪が綺麗な人だ。しかし、この人が狼に食われないのはなぜだろうか。狼は心配しているように見えるし。

「クゥウン……」

 この人は狼を飼っていたりするのだろうか?それなら襲われない理由にはなる。だけどそれは動物園でしかありえない話だし。そもそもこの生き物は本当に狼なのか?大きさ的に犬ではないだろうから、この生き物が狼ではなかったら……。精?

「クァァン、ウァァアン!」

 狼は悲しい声をあげながら、倒れている人の肩に優しく足を置いて揺すった。一回やってダメなら二回、二回やってダメなら三回、三回やってダメなら四回、それでもだめなら何度でも、何度でも、と繰り返している。それでもその人の目は開かれず、ただ体が物のように揺れるだけだった。

「ウォン、ウォォンッ」

 狼がどれだけ物悲しく鳴いても、何も変わらない。気のせいかもしれないけど、人の顔色が悪くなっていっている。目をつぶったままの表情も、硬直してきた。

 わたしは、人の死をただ眺めるだけなのだろうか?狼が?精が怖いから?見て見ぬふりをして平然と生きていく?自分が怖がっているそれは、人を助けようとしているのに?

 ダメだって分かってる。このまま逃げ出すのは。だけど、魔法にかけられたように足が動かない。

「アォォォンッ、ウォォッ」

 狼の鳴き声が高く、細いものになっていく。それでも人は目覚めない。狼の揺さぶる力も強くなっていく。

 絶対に死んでほしくないと思っているんだ。人と狼の関係はよくわからないけど、狼にとって人は大切な存在なんだ。だから、何度も鳴く。何度も、何度も肩を揺さぶる。

 わたしは……。

「狼くん!」

 狼と目が合う。その目は野生そのものの凛々しいものだった。心臓が大きく音を立てる。今にも飛び出してしまいそうなほどに。

「その人、あなたの主人?」

 テンパって普通に話してしまったが、言葉が通じるわけがない。

「あっ、ごめんなさい、分かんないで……」

 すると、狼はわたしの方に駆け寄ってきた。

「えっ」

 そして、わたしのズボンのポケットを鼻先でつついたのだ。最大限の力の配慮がなされているのが分かった。狼のこの巨躯だったら、力を制御するのもなかなかに難しいことだろう。狼はわたしを傷つけるつもりはないらしい。

 狼につつかれたポケットの中を探る。お菓子の匂いにでも反応したんだろうかと思っていたのだが、中にはスマホしか入っていなかった。

 わたしがスマホを手に取ると、狼は「それだ!」というように吠えた。

「ウオオン!アォォォンッ!」

「スマホだけど、これをどうやって……」

 そこまで言ったところで、何となく勘づいた。

 この狼は、スマホを操作することはできない。だけど、こんなときどうすればいいかは知っている。

「119番か!」

「アォォン!ウォォンッ」

 狼はまるで飼い犬のように大きくしっぽを振って、喜びを体全体で表した。

 それにしても、119番を知っているとなると普通の狼ではないだろう。人並みにちゃんと知能があるということになるから、やはりこの狼は精なんだ。

「分かった。今から救急車呼ぶから、あともう少しだけ待っててね。あまり時間はかからないと思うけど」

 わたしが言うと、狼はまた主人の元へ行き、目を覚ます瞬間を心待ちにしている。まだ主人の息はある。救急車が来るまで耐えられたらきっと大丈夫なはずだ。だからお願い、頑張って……。

 そう願いながら1、1、9、と順番に押していく。

「狼くん、あまり体を揺さぶると良くないからそのままにしてあげて。あと、できれば息も確認しててほしいかな」

 そう言うと、狼はハッとしてわたしから顔をそむけて、しっぽも丸くくるめた。そうだよね、今まで散々やっちゃってたもんね……。何だか人、いや狼につけ込むようで嫌な感じの人間になってしまっているが、今はまず救急車だ。

 電話をかけようとした、その時。

「……っ」

 主人の目が、うっすらと開かれた。

「アォォン!!ウォン!!」

 狼が喜びの雄叫びをあげる。そして、その場でピョンピョン飛び跳ねて、主人の顔をぺろぺろと舐め回した。

 嬉しいよね。ものすごく大事な主人なんだから。あんなに心配していた人なんだから。

「よかった……!!」

 主人はとても美しい瞳を持っていた。澄んだ明るい水色と、深い灰色がかった青色が混じり合って、綺麗なグラデーションになっている。

 結論。主人は、顔がいい。

「ウォンッ!!アォウン!!」

 主人ははしゃぐ狼をゆっくりとなでて落ち着かせた。まだ完全に回復はしていないけど、主人が死ぬことは免れた。これはわたしがいてもいなくても変わらなかったことだけど、勇気を出して良かった。狼と、精と少しだけ分かり合えた気がしたから。

「ロウ、心配をかけたな。すまなかった」

「ウウォンッ、アウォォン」

 狼は、地面に座りこむ主人の脚に自身の前脚と頭を重ねた。それに主人はまた狼をなでて対応する。

「……だが、この小娘は何者だ?」

 そう、主人が口にした時、指先まで凍ってしまいそうな気がした。

「私たちの様子を見て、喜ぶ権利は此奴にはあるのか?」

 主人は相変わらず狼から目を離さなかったけど、ずっとそばにいるわたしを見ていたんだ。ずっとわたしを不愉快に思っていたんだ。

「お前らしくないな?余所者を快く受け入れるとは。いつもなら噛み殺していただろうに……」

 穏やかな口調でそれはそれは恐ろしいことを言うものだから、だんだん息が苦しくなる。わたしがでしゃばるから良くなかったんだ。

 主人は舐めるような甘ったるい目つきでわたしを見た。

「……気に障る小娘だなぁ、お前は」

「っ!」

 いざ言葉が自分に向けられると、緊張して口が回らなくなる。

「ごめんなさい、わたしは悪気なんてなくて、ほんとに、何も、」

「言い訳を聞きたいわけではないのだ。私はただ一人を除いて人間にさらさら興味はない……」

 主人は狼の頭を二、三度なでると、「さぁ」とこぼした。

「ロウ、殺ってやりなさい」

 不気味な笑みがわたしの思考回路を断ち切った。せっかく主人を助けられたと思ったのにこのザマだ。わたしも赤の他人だということを忘れてしまっていたけど、それだけで殺されなきゃいけないなんて。わたし、いろんなところから狙われて……。もう、抵抗することも諦めた。『復讐の精』のときは運が良かっただけで、今回こそは無理だ。この狼、いつもは人を噛み殺しているって言ってたし……。

「クゥウン……オォン」

 しかし、狼はためらってくれているようだ。

「この小娘に何があるというのだ?お前がそこまでして殺すことを拒む理由は何なのだ?」

「クゥウン……」

 逆に訊きたいけど、あなたがそこまでしてわたしを殺したい理由は何なんですか?!おかしいよこの人、精神が普通じゃない。

「まさか、まさかとは思うが、此奴が"あの人"と関係しているとでもいうのか?」

「……アォォン」

 狼は耳を伏せて申し訳なさそうに鳴く。あの人だとか、異常な殺気は全くもって理解不能だけど、わたしに"あの人"との関係があって欲しいと思う。それなら殺されない理由になるのだから!

「"あの人"って、誰のこと……ですか」

「喋っていいと言ったか?」

 わたしが話した途端に尖った声が飛んでくるのでビクビクせざるを得ない。

「すみません」

「本当に目障りな奴だ……。今すぐにでも視界から消え去ってほしいが、一応。念のため。訊いておこう」

 主人はやっとまともにわたしの顔を見た。目が合うと余計に胸がうるさくなる。やっぱり、この人には有無を言わせぬ雰囲気がある。何だろうか。言動で反感を買っても全部顔で許されてしまう。

「お前の名は何だ?」

 そう言われて、ふと気づいた。わたしたちはお互いの名前を知らないまま話を進めていた(話とも言い難いものだけど)。わたしの中で「主人」だった人はどんな名前を持っているのだろうか。無性に気になった。こんな無愛想で態度がままなってないくせに、顔だけはいい人なんてこの先出会うことはないだろうから。

「わたしの名前はフェリシア・サヴェンティアリ。あなたの、名前は?」

 言ってから、また後悔した。無駄なことを言ったら面倒な小娘呼ばわりされてしまう。

 そう思ったのだが、

「サヴェンティアリ……。それは本当か?」

 主人は、さっきの仏教面が嘘のように目を見開いた。サヴェンティアリが大切なようだ。よし、このまま話を進められれば殺されなくて済むかもしれない。

「本当です。偽名なんて考えつきませんから」

「ほう……」

 主人はそれを聞くとしばらく唖然としていた。頭が追いつかないけど、いけそうな感じはある。このままわたしを殺すのを取りやめてくれれば!

「あの、おこがましいのは分かってるんですけど、」

 次の瞬間だった。


「すみませんでした、サヴェンティアリ様!!」


 主人はそう言って、わたしの前に土下座したのだ。

「?!えっ?!、いきなりなんですかっ?わたし何かしました!?どうかなされました?!!」

「理由なんてありません!私の名はエリカ・ヒーマリス!サヴェンティアリ様に一生ついて行くものです!」

 エリカは頭を上げようとしない。王にでもなった気分だ。いや、それどころじゃなくて、え?何?手のひらをものすごいスピードで裏返してきたぞ?何考えてるの?態度違いすぎない?!おかしいでしょこの変わり具合は。

「どうしたんですか、頭大丈夫ですか」

「えぇ、大丈夫です!私はあなたさまについて行くと決めました!なので!困ったことがあればなんなりと仰ってください!」

 ……。どういう状況?















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