臓腑の王

田中鈴木

プロローグ

 青黴色の空から腐汁のように雨が滴る。

 五月雨から梅雨に続き、そのまま雨は降り続いた。天気予報は毎日嬉しそうに記録更新を叫んでいる。街の建物も道路も乾く暇もなく、暗く重く水を吸い込み続けていた。

 正午だというのに薄暗い。太陽も雨に濡れて腐り、熱を失い崩壊しているようだった。風も無く、雨粒は落ちているのか静止しているのかも分からぬ程に単調に全てを覆っていた。

 横断歩道に女がいた。

 全てが霞のような雨に包まれ、輪郭が曖昧だ。

 女、と何故判別できたのか。

 点滅する信号が、乱反射してでたらめな光で人ともつかない影を浮かび上がらせる。

 立っているのか、座っているのかすら分からない、溝鼠色の影だ。

 他に動く物の無い空間で、そこだけがくり抜いたように虚ろに昏い。

 信号が赤に変わる。

 青黒い痣のような影に、場違いに明るい赤が降り注いだ瞬間。


 この世界から、斉藤綾花という存在が、永遠に消えた。




 うだつの上がらない、という言葉が、斉藤孝義にはよく似合った。

 中学で目立たない成績を取り、無理をせずに入学できる公立高校に進学した。AO入試で入学できる大学を選び、特にサークル活動に熱中することもなく必要な単位を取得し、就活サイトで一括エントリーできる企業に漫然と応募し、採用が決まった卸売商社に営業事務職として入社した。

 特に出世を望むでもなくただ淡々と日々の仕事をこなし、散財もせずに5年が過ぎた頃、入社3年目の入江綾花と結婚することになった。

 何故そんな仲になったのか、孝義本人にも分からない。同じ部署の先輩後輩という繋がりはあったが、それだけだった。綾花が自分の何を気に入って結婚する気になったのか分からなかったし、聞きもしなかった。入社6年目を迎えた春に、2人は入籍した。

 結婚式の日取りを決めずにずるずると月日は流れ、そうこうしているうちに雨が降り始め、そして降り続いた。

 結婚してから、一度も晴れた日が無いんじゃないか。

 そんなことを考えながら、孝義は淡々と日々の仕事をこなしていた。結婚したからといって何が変わるでもない生活。ただ家に居る人数が一人増えた、そのくらいの変化のはずだった。


 そんなコピーを繰り返したような日々は、綾花の突然の失踪で終わりを告げた。

 毎日ほぼ同じ時間に、同じように会社に向かい、同じ部署で働く。それが二人の日常だった。

 その日は、綾花が先に家を出たのだ。

 孝義は特に何も思わなかった。夫婦だから同じ時間に家を出るという決まりがあるわけでもない。始業時間に合わせれば大体同じ時間になるというだけのことで、多少前後したところで何の問題もないはずだった。

 始業時間になっても綾花は姿を見せず、連絡をしても『電波の通じない所にいるか、電源が切られている』というメッセージが繰り返されるだけだった。午後になる頃には、係長が事故に巻き込まれたんじゃないか、何か連絡は無いかと孝義に繰り返し尋ねるようになっていた。メッセージは未読のまま更新されなかった。

 翌日になっても綾花と連絡は取れなかった。さらに翌日になり、綾花の両親や友人に確認しても消息不明となった時点で、会社から警察に不明者の照会が行われた。

 孝義の所にも警察官がやってきた。何かトラブルは無かったか。普段と違った様子は無かったか。夫婦仲は良好か。当日の孝義自身の行動は。質問に淡々と答えながら、孝義はいつも通りの生活を続けた。


 そのメッセージに気付いたのは、昼休みのことだった。

 未読1。

 ロック画面に表示された『綾花』の文字に、どくりと心臓が跳ねる。洗濯物に付いた蜘蛛を払うように、おそるおそる画面に触れる。


『ちのわがほどけましたのでもうじきです』


 ただ一行だけの文章を、孝義は昼休みが終わるまで見つめ続けた。

 降り続く雨が、窓の外を蟻が這うように伝い流れ落ちていった。

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臓腑の王 田中鈴木 @tanaka_suzuki

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