CASE1 - 捜査開始
深夜。何かが壊れた音で目が覚めた。時計の針は2時を回っている。部屋の外で何か起きたのだろうか。夫が酒でも飲んでいるのか、あるいは泥棒か。
私は、自室のベッドから出た。ゆっくりと扉を開く。
「……ソフィア?」
声をかけたが、月明かりが照らすとソフィアではないと気が付いた。振り返ったそれは、抜け殻のような表情をして赤い返り血を浴びている。背中からは黒い翼が生えていた。
――悪魔。
床に滴りこちらへ伸びてくる血の海に、翼から落ちた羽根が浮かぶ。
「あなたは……」
返事は無い。
私は、何か呟いた。
悪魔が嗤う。
部屋の隅に目をやると、ソフィアが震えながら蹲っていた。悪魔はソフィアへと手を伸ばす。悪魔が何かを呟くと、彼女は涙を抑え小さく頷いた。
「待って!」
静止の言葉も虚しく、黒い羽根が舞う。
ソフィアと悪魔は姿を消していた。無残に殺された夫の死体と、独りになった私の悲鳴だけが残った。
月曜のシカゴの空は今にも雨が降りそうなほど曇っていた。朝の仄暗い青に染まった住宅街。路地の一画には警察車両と
こちらへ歩いてくる青年が一人。局員は彼の方を一瞥すると、断りを入れ話を中断した。
「君がうちの隊の新人か。俺は第二捜査チーム主任捜査官のキース・ニコルソンだ。よろしく」
キースと名乗る主任捜査官の髪は短く整えられ、髭はしっかりと剃られている。皺の入った顔と鋭い目は、ベテランの風格を漂わせていた。彼は手を差し出す。
「よろしくお願い致します。本日よりシカゴ支局第二捜査チームに配属されたデイビッド・サンチェスです」
デイビッドは差し出された手を固く握った。その力強さからは、アカデミーの体力テストに合格するだけあって身体の丈夫さが伺える。少し引っ込み思案な印象を与える表情だが、滑舌がよくハキハキとしていた。癖のかかった栗毛色の髪はセンター分けされている。
「優秀な捜査官が本局に引き抜かれてな。シカゴ支局は人手不足で困ってる」
「ヘイウッド捜査官ですね。配属前にお話は伺ってます」
「ああ。捜査官になったばかりでこんな場所に配属されて申し訳無い。ただ、上もそれだけ君の能力を認めているということだろう」
「恐縮です」
「好きな食い物についてでも話したい所だが、生憎このザマだ。早速現場を見てもらいたい」
キースはアパートの入り口をくぐり階段を登る。デイビッドが後に続く。建物は年季のせいかところどころ軽いヒビが入っていた。
「今回の事件の被害者はスティーブン・セイヤーズという名の男性だ。1年前に会社を辞め失業手当を受給して生活していたようだ。深夜2時に氏の妻のヘレン・セイヤーズさんが殺害現場を目撃し通報、娘のソフィアさんが悪魔に攫われている。まだ生きている可能性のある被害者がいる以上、捜査リストに挙がっている事件の中でも優先度は高い」
デイビッドはその言葉に緊張を感じた。殺人現場がこの先にある。キースは
「所でサンチェスくん。殺人現場を見たことは?」
「無いです。アカデミーでは大量に事例を見させられましたが」
「そうか。一応だが、吐かないように気を付けてくれ」
警察官に通され現場に入るとすぐにダイニングキッチンがあった。悪天候なのもあり、照明の点いていない部屋は薄暗く不気味な雰囲気が漂っていた。
ビールの空き缶が大量に置いてあり、被害者は晩酌中だったことが伺える。
穿かれた胴体には大きな孔が開いていた。俯いた顔を見ると口の中を蝿が出入りしている。血は縁の辺りだけが乾いており数時間は経っていることが伺えた。
「うっ……これはまた凄惨な……」
「鑑識が確認したが悪魔による犯行で間違いない。これが見えるか?」
デイビッドが口ぶりの割に平気そうなのを見ると、キースは乾いた血の上を指差した。
「ええ。黒い……羽根でしょうか?」
「そうだな。改めて言うことじゃないが、こいつは普通の人間には気が付きにくい。意識の隅に置いちまうんだ。俺ら霊能力者は意識の隅まで見える。ゲームのバグみたいなもんだ。まあ、悪魔が目の前にでも居たら誰でも気が付くがな」
周りを見ると、鑑識が技術部の開発した特殊なゴーグルを装備して悪魔由来の証拠品を調べているのが分かった。基本的に捜査官だけに霊能力者が集まっているとデイビッドは聞いたことがある。実際、彼も霊力の試験を受けた。デイビッドは捜査資料を思い出し、話を戻す。
「今回の悪魔は飛行能力を有していると伺いました」
「そのようだが、飛行物が報告されたのは事件直後だけだな。目立たず、陸路で逃げてる筈だ」
「陸路……」
左へ視線を動かすと、人一人抜けられそうな窓が開いていた。ここから飛び立ったのだろうか。デイビッドは再び被害者の遺体に視線を戻した。遺体を観察すると、駄目だと分かっていても酷く感情移入してしまう。被害者の目を見ると、瞳孔が開ききったその暗黒に吸い込まれそうだった。
――殺される瞬間、何を考えていた?
酷く虚ろな表情からは何も読み取れなかった。それ故に寒気がする。身震いではなく、身体の芯から凍っていくような抗えない寒気が。
肩を叩かれ、デイビッドはハッと我に返った。
「したくなくてもしてしまうだろうが……捜査官はあまり感情移入し過ぎるな。人の心を無くして冷徹な捜査マシーンになれって言ってる訳じゃない。寧ろ人の心があるからこそ、自分のデリケートな部分に刃を刺さないようにしろってことだ。心身を崩すと救える命まで救えなくなるからな」
「……肝に銘じます」
遺体の生気を失った表情が、先程よりも虚しく感じた。これ以上は検死結果を待つべきだと思いデイビッドはその場から立つと、隣の部屋から警察の男がやってきた。その身なりを見るに警部辺りの役職だろう。
「おいキース。お前らの鑑識はどうしてこうもノロマなんだ。部下はかれこれ数時間棒立ちだぞ。うちは警備会社かっての」
「鑑識が居る前で言うかよ。この手の事件は立ち会う決まりなんだから少し黙ってくれ」
キースは罵倒に顔を歪めるが、それはお構いなしという様子で続く。
「そっちは新人か? こいつは酒癖が悪いから気を付けな。この前なんか――」
「おい! 少しは慎めよ。ここをダイナーか何かだと思ってんじゃねえだろうな。ああ、こいつは気にするなサンチェスくん。俺が警察官の頃からちょっかいかけやがる」
「は、はあ……」
酒癖が悪いという言葉は少し気に留めておこうと思いつつ部屋を見回る。乱雑さ以外は基本的には何の変哲もない家だったが、一箇所、窓際の棚の上に違和感を感じた。長らく読まれていないだろう本やお土産らしき置物、写真立ての全てに埃が被っているが、一箇所だけ埃が被っていない。
写真立ての一つが落ちたのかと思い床を見るが、特にそういうことでもなさそうだった。
残ってる写真に関しても、端にあった焦げ跡のような黒ずみが気になった。
家族の写真が連なる。その中には勿論、被害者のスティーブンやソフィアの顔もあった。よく見ると、ソフィアだけ似たような写真が多いのに気が付いた。同じ場所で撮ったのだろうか。そもそも、子煩悩にしても娘の占める割合が多い。デイビッドは妙な胸騒ぎを覚えた。
その時、階段を上がる足音が聞こえ思考の世界から引き戻された。
「ようやく来たか。サンチェス君も来てくれ」
キースの後に続き家を出ると、男が階段から上がってきた。黒いスーツと黒いネクタイ。七三の分け目でかき上げられた髪も漆のように黒い。色白の肌と目元のクマが彼の激務と不健康を物語っている上、端正な顔が寧ろ精巧な人形のようだった。
その姿は、
「遅れてすまない。地獄みたいな書類の山が……」
「言い訳とは随分情けないな、アルバート」
「増やしたのはアンタだろ」
彼の息遣いを聞くに随分と急いでいたようだ。キースは手をその捜査官に向け、デイビッドの方を見る。
「紹介しようサンチェスくん。こいつが君のバディとなるクーパー捜査官だ」
アルバートはその鋭い目でデイビッドの顔を見ると、ひと呼吸置いて手を差し出した。
「アルバート・クーパーだ。話は聞いてるよ。これからよろしく頼む」
「デイビッド・サンチェスです。よろしくお願い致します」
デイビッドは差し出された手を強く握る。やたらと冷えた手に反して、アルバートの瞳は強い何かを感じさせた。
これがデイビッド・サンチェスとアルバート・クーパー、二人の捜査官の出会いだった。
アルバートは、遅れてきた分暫く現場を見ると言っていたので、デイビッドは先にアパートを出た。少し先に出ていたキースが街角から紙のカップホルダーを持って歩いてくる。近所の喫茶店からホットコーヒーを買ってきていたようで、その内の一つを手渡された。
熱そうなコーヒーの入った紙カップからは湯気が漏れ出ていた。
「飲むか? ブラックだが。コーヒーフレッシュと砂糖もあるぞ」
「えっ……いいんでしょうか。頂戴致します」
デイビッドが蓋を開けると湯気がくっきりと浮かんだ。コーヒーフレッシュと砂糖をかき混ぜ、コーヒーに口を付ける。思ったより熱かったのかフーフーと冷ま すと、キースはその様子を見て少し口角を上げた。
「美味しいです」
「そりゃ良かった。アルバートと違ってコーヒーに煩くなくてこっちも楽だよ」
新人がそこまで癖の強い人間じゃなかったこともあり表情が緩んだが、何かを思い出して、キースの表情は硬くなった。
「そのアルバートのことだが……」
その声色にデイビッドも表情を硬くする。アパートの入口を一瞥すると、少し間を置いてキースは再び口を開いた。
「レヴェナントのことだけはアルバートの前で話さない方がいい」
「レヴェナント……噂に聞いたぐらいですが。やはり実在するんですか?」
レヴェナント。悪魔絡みの組織として都市伝説的に囁かれているが、一部の陰謀論者と対策局の中だけでは実在性を帯びて広まっていた。今でもデイビッドはその噂に対して半信半疑だが、こうも面と向かって言われるのは実在性を証明しているように思えてならない。
「さあな。とにかく気を付けてくれ。アイツは見た目よりもキツい奴じゃないが、それを言うと……なんというか、まずムードは最悪になる」
「……気を付けます」
やたらと含みを持たせた言い方だが、詮索をしないのが吉だと悟った。コーヒーを一気に飲み深呼吸をすると、キースは再び元の表情に戻った。
「とまあ、やたら脅しちまったがこれ以外は普通に接すれば大丈夫だ。あとまあコーヒーの話はするな。以上!」
「コーヒーの話がなんだって?」
振り向くとアルバートがアパートから出てきていた。キースは愛想笑いをして誤魔化しているフリをする。本当に聞いて欲しくない所は聞かれていないことに内心では安堵していた。アルバートは自分用にキースが残していたコーヒーをそそくさと手に取ると一口飲んでぼやいた。
「深煎りしすぎだな……」
キースはデイビッドの方を向いて「ほらな」と言うように首を傾げた。
「そういうフリかと」
「分かりにくいジョークだな」
キースが呆れた様子で掌を上に向けジェスチャーすると、アルバートは口をへの字に曲げた。
「さて、俺はまだここに用がある。主に警察にな。二人は対策局に戻ってくれ。アルバート、そっちは任せたぞ」
アルバートは無言で頷き車の方へ歩き出した。車のキーを掲げデイビッドの方に目配せする。
「局に戻るぞ」
二人は黒い車両に入るのを見てアパートの方へ振り向く。入り口で腕を組みながら先程の警察が早く戻るように圧をかけていた。キースは手をヒラヒラさせると現場へと戻っていった。
デイビッド・サンチェス、シカゴ支局への配属一日目。事件はまだ始まったばかりだった。
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