第9話
あれ?
思考が停止する。
開いたばかりの目蓋をぱちぱちとまばたきして、そして考える。
……、今日は何曜日?
……、いま何時?
「あれ、昨日」
三ノ宮さんが家に来て……。
「私、床で寝たはずだよね?」
床で寝たはずの身体は痛くない。それもそのはず。
私はふかふかのベッドで寝ていたのだから。
寝惚けていつの間にかベッドに入ったのだろうか?
そしてローテーブルに突っ伏して寝ていた三ノ宮さんもいない。
まるで昨晩のことは夢だったかのように。だが昨晩の残滓はある。
夢ではないというように、飲み残したビールの缶がローテーブルの上に置いてあるのだ。
「帰った、……のかな? 三ノ宮さん……」
一緒に出掛ける時間が欲しいと言っていたけど、それも酔って言ったうわごとなのだ。本気にしない。本気になんてしてない……。
「ちょっと楽しみだったんだけどな」
ふうー、と細く息を吐き出す。
「さてと」
シャワーを浴びて、着替えて、それから引越しの荷造りをしよう。
残された時間はこの土日のみ。荷物をさっさと段ボールに詰めてしまおう。作業に没頭すれば三ノ宮さんのことも頭から離れていくはずだ。
パンツとブラジャーを持って浴室へ向かう。
と、その時。
何の前触れもなく玄関扉が開いた。
「ひっ」
玄関扉がいきなり開いたことに驚いて両手で心臓を押さえる。
「あ、起きたんだね黒田」
玄関を開けて入ってきたのは、帰ったのだと思っていた三ノ宮さんだった。三ノ宮さんの手には買い物袋がある。
どこに行って来たんですか、と問おうとした瞬間、三ノ宮さんが勢い良く私から視線を外して横を向く。
「ああ見てないっ! 見てないから! ブラとか下着とか見てないから!」
焦ってそういう三ノ宮さんの言葉で、自分が身体の前に両手でパンツとブラジャーを握っていることに気付いた。
――恥ずかしっ!!
さっと後ろ手に隠すものの、ばっちり見られたのだろう。三ノ宮さんの耳が若干赤く見える。
「あの、……あの、コンビニ……、コンビニ行ってきた。えっと、朝ごはん。朝ごはん買ってきました」
「はい……、ありがとうございます。……あ、すみません変なもの見せてしまって!」
「変なものじゃ!! だってピンクって意外で、でも黒田に似合……、っあ!? いや、その、ちがっ……」
うわ〜と頭を抱えて座り込む三ノ宮さんが、「これじゃ変態じゃないか」とぶつぶつ言っている。
いつも完璧な三ノ宮さんの珍しく凹んだ姿。それが自分の下着のせいだと分かっているのに、なぜか少し楽しい。
「あの、ご飯食べますか?」
前かがみになって三ノ宮さんを窺う。
「いやいや、お風呂入ろうとしてたんだろ? どうぞ、どうぞ。って俺がいたら入りにくいか……。じゃあ俺ちょっとその辺散歩して来るから!」
「え?」
「これ、買い物。これ、置いとくね」
三ノ宮さんは目を合わさずに「じゃ」とだけ言って立ち上がるとすぐに玄関を出て行ってしまった。
「あ……」
なんだか悪いことしたかな、と思う。せっかくコンビニで朝ごはんを買ってきてくれたのに、また出掛けさせるはめになって……。
ちらりと見える袋の中身。
ちょっとだけ覗いてみると、おむすびとサンドイッチがふたつずつ。お茶とブラックコーヒー、それからカフェオレが入っていた。
胸がくすぐったい。ほわんと温かい気持ちが身体の中で花を咲かせたようにゆっくり大きくなっていく。
――帰ったんじゃなかった。夢じゃなかった。
だがその余韻に浸っている場合ではない。三ノ宮さんが気を利かせて出て行ってくれたのに、その時間を無駄にしている場合ではなかった。
私の横にある――玄関入ってすぐ横にある浴室の扉を開き、急いでシャワーを浴びた。
シャワーのあと15分ほどして三ノ宮さんは帰ってきた。今度はきちんとインターホンを鳴らしてくれる。
それから二人で朝食をいただき、ごちそうさまでした、と手を合わせる。
「じゃあ、……今から荷造り?」
「そうですね」
荷造りする間、三ノ宮さんにはどこで待っていてもらおうかと考える私に向かって、三ノ宮さんは「よしっ!」と立ち上がる。
「俺なに手伝ったらいい? 指示してくれたらそれやるよ」
「え!?」
本気で手伝うという意思が伝わってくる。
「……いいんですか?」
「もちろんだよ! だって黒田と出掛ける30分のためだからね。ほらほら、何でも言って?」
三ノ宮さんが微笑む。
何でも言って、なんて言われたら、その顔でずっと私の前にいてくださいとか言いたくなるじゃないか!
私は雑念を追い払うように首を振って、それから何をお願い出来るかと周囲を見回す。
「それじゃあ、あの、お皿を。……お皿を新聞紙に包んで、段ボールに入れてもらえますか?」
「オッケー。任せて」
言葉通りにお任せして、私も段ボールにどんどん物を詰めていく。
三ノ宮さんが手際良くやってくれるお蔭で、詰め終わった段ボールが部屋に溢れていく。
月曜の引越しまでに必要な生活品を残して、昼を過ぎたところで荷造りは全て終わった。
「終わっちゃった……」
土日の2日掛かると思っていた作業が、三ノ宮さんのお蔭で半日で終わってしまう。
「さすがに疲れたな。あ〜、集中切れてお腹も空いてきた〜」
「三ノ宮さん!!」
「なに?」
「奢ります! ご飯奢ります! すっごく早く終わったし、すっごく助かったのでお礼させてください!」
三ノ宮さんが私の言葉を聞いて不敵に笑う。
なんだろう……?
「そのご飯の時間とは別に、俺の30分はもらってもいいんだよね?」
なんだ、そんなことか。
「そんなの、もちろんですよ!」
なんなら午後から全部大丈夫です! とは流石に言えなかったが。恥ずかしくて……。
お昼を過ぎても土曜だからか割と混雑している店内で、向き合って座っている。
荷造りを手伝ってくれたお礼に、お昼ごはん何がいいかと三ノ宮さんに尋ねたら、「ハンバーガーにしようよ」と微笑まれた。
680円のセットじゃお礼には微妙なんだけど……。
それにハンバーガーを頬張る姿を正面から鑑賞出来るなんて、私へのご褒美じゃない?
三ノ宮さんは本当にハンバーガーが食べたかったのかもしれない。
でももしかしたら手頃な価格だからという理由だったのかもしれない。
後者であるならば、お礼としては不足している気がするのだ。
朝ごはん代だって三ノ宮さんは受け取ってくれなかったし。
「黒田? もしかしてハンバーガー嫌いだった?」
「何でですか?」
「なんか微妙な顔してたから」
確かにお礼のことを考えて微妙だったけど、顔にまで出ていただろうか。
「すみません。でも私ハンバーガー好きですよ」
「そう? じゃあ俺と一緒にいるのが嫌、とか……」
三ノ宮さんは言いながらどんどん落ち込んでいく。
「まさか!! 嫌だなんてないです! 嫌なわけないじゃないですか。嬉しいですよ」
「うっ、嬉しい、とかさ、……好きでもない男の前で言っちゃダメだよ。分かってる?」
胸がぎゅっと痛くなる。
思わず、好きなんですって叫びたくなるのを拳を強く握って我慢した。
ちょっとやばい。
一緒にいる時間が長過ぎて、頭がバグってる。
三ノ宮さんが発する「黒田のことが好き」オーラが甘過ぎて、視線が優し過ぎて、笑顔が好き過ぎて……。
三ノ宮さんの恋人にでもなったような感覚が、私を狂わせていた。
「お腹いっぱいになりましたか?」
お礼不足にそう尋ねるものの、三ノ宮さんは笑顔でお腹いっぱいだと答えてくれる。
「黒田は足りなかった? あっ! デザート? やっぱり女の子だしデザートは必要だよね!」
「いや、あの……」
私としては別にデザートは必要ではありません。女子女子してなくてごめんなさい。
「ケーキ屋に行ってみる?」
「いや、いいですよ」
私は首を横に振る。
「あ、あそこでクレープ売ってるよ!」
「いや、別に……」
「あっちはドーナツ」
どこに向かっているのか分からないが、三ノ宮さんは甘い物を取り扱っているお店を見つけては指を差して教えてくれる。
「プリン専門店? アイス?」
他にまだないかと探している三ノ宮さんの横顔を見上げる。
――あーあ、ほんと格好いいな。
「黒田?」
「へ?」
「何か食べたいものあった?」
「私は……。三ノ宮さんはありましたか?」
「俺じゃなくて。黒田に聞いてるんだけど」
「……特にないです」
どこでもいいから適当なお店を言えば、三ノ宮さんと過ごせる時間が増えるのに。そう分かっているからこそ断った。
何か、胸の奥に溜まったものが大きくなっているのは分かっていた。それがもうすぐ破裂しそうな予感がする。
破裂した時に三ノ宮さんの隣にいたくないということも感じている。
早く終わらせて、早く帰らなければ。
「早く次に行きましょう」
抑揚のない私の言葉に三ノ宮さんは少し傷付いたような顔をして、それからすぐに痛ましげに微笑んだ。
「黒田はあと行きたい所ないの?」
「はい、ありません」
「そっか……。じゃあ俺の30分を今から使っていい?」
「はい」
私が頷くと、三ノ宮さんが私の手を握って引っ張った。
「行こっ」
早足で歩く私の頭の中は「て、テ、手」と語彙が死んでいた。
三ノ宮さんの手の平から、1秒も無駄にしたくないとでもいう気持ちが伝わってきて胸が苦しい。
駅に向かったかと思えば電車に乗る。
「どこに?」
目的地を尋ねるものの、三ノ宮さんは小さく「内緒」と口を動かすのみ。
手は……、繋がれたまま。
三ノ宮さんから私へ向ける愛しさが伝わってくる。
それなら逆もあるかもしれない。手の平を通して、私の気持ちが伝わってしまったらどうしよう。
だけど昨日からのバグと、こんなに密着しているせいで、胸の中の風船は割れる直前まで大きく膨らんでいた。
何かの拍子に割れてしまいそうで怖い。
割れた時の自分が想像できなくて、対処法を考えて用意しておくことさえ出来ない。
三ノ宮さんが手を繋いでいない方にある腕時計で時間を確認し、私にも盤面を見せてくれる。
電車に乗って20分が経過していた。
三ノ宮さんに許した時間は30分なのに、あと10分もない。
三ノ宮さんはどういうつもりで電車に乗ったのだろうか?
30分経過した場所は、電車の終点だった。
私と三ノ宮さんはすでに全員降りた電車の中に残っている。
「ごめん黒田。ここで30分だ」
三ノ宮さんが悲しそうな顔をしている。
「目的があってここまで来たけど、タイムオーバーだから……」
そう言って三ノ宮さんは私の手を離した。熱いくらいだった手の平が冷たい風を感じて寂しくなる。
三ノ宮さんは足を後ろに引いて電車から降りた。
車内に私ひとり。
「この電車折り返すから、このまま乗ってれば帰れるよ……」
「三ノ宮さん?」
私が名前を呼ぶと泣いてるみたいに「ん?」と返される。
目的って何ですか、と問いたい気持ちと、これ以上一緒にいたら想いが破裂してしまうという思いに挟まれて何も言えなくなる。
電車にひとり、ふたりと乗ってきて、何分に出発しますというアナウンスがかかった。
「引っ張り回してごめんな黒田……」
そんなことないと首を横に振る。
「君のことが好きだけど、でも黒田の恋を応援してる。頑張れよ」
最後に大好きな微笑みを向けてくれた三ノ宮さんの顔を見て鼻の奥がツンとした。
『出発します。ご乗車のかたはお急ぎください』
電車のアナウンスを聞いて三ノ宮さんは後ろを向く。
私の目は小さくなる三ノ宮さんの背中を追っていた。
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