第8話

 たまに行く近所のコンビニに、三ノ宮さんと二人で入るだけなのに何だか緊張してしまう。


 いつも夜にいる『いらっしゃいませさーせー』というバイトの男子と目が合った。


 ――あ、違うんですよ。恋人ではないので。会社の先輩なんです。『こいつリア充だったのかよ。非モテ同士だと思ってたのに』なんて心の声が聞こえる気がしますが、断じて違いますので!


「知り合い?」

「あ、いえ」


 三ノ宮さんは「ふ〜ん」と言いながらやっと手首を離してくれる。

 ――そうだ、手首を掴まれてたから恋人だなんて思ってしまったんですよね。ほら、違うんですよ。


 そう思ったのもつかの間、三ノ宮さんの手が私の肩を掴んで寄せるので、左半身が密着した。


「うひゃ」

「ぷっ、何その声」

「さ、さささのや(さんのみや)さん!?」

「ほらほら、何飲む?」


 ひいっ、と硬直する私をよそに三ノ宮さんは片手で器用に飲み物をカゴに入れていく。


「黒田はどれにする?」

「ひゃい」


 三ノ宮さんが吹き出して笑っている。


「これにする?」


 緊張し過ぎて身体が燃える。三ノ宮さんの声に何とか頷くものの、何を言われているのか分からない。


 店内を移動しながらあれこれと言われた気もするが、気付けばコンビニの外に出ていた。

 夜風が私の頭を叩き起こす。


 三ノ宮さんの手には買ったばかりの大きな袋。


 何をこんなに買ったんだ?


 銀色のプルタブがいくつか見える。


「帰ろうか」

「……は、い」


 今度は手首でもなく肩でもなく、手のひらが掴まれる。


 ――いやいやいやいやいや、……なんだこの状況?




 ウチに帰り、三ノ宮さんを招き入れる。


「お邪魔します」


 靴を脱ぎ揃えて三ノ宮さんが部屋に入った。

 見られて困るものはないのだけど、実際に異性に見られるというのは結構恥ずかしいものだと知る。


 でも引越しのために不用品はどんどん捨てていたし、オフシーズン物は先に段ボールに詰めていたので、それほど物は出ていない。

 本当に最低限しかない。


「あれ? 引越しするの?」

「はい」

「そっか。次の仕事も決まってる感じ?」

「ああ、まあ」


 といっても日野商店の店番。


「どうぞ座ってください」


 ローテーブルの前に座布団を敷く。

 私はその向かい側に正座した。


 きっとこれからお説教、もしくは反省会だろう。

『勝手に辞めやがって! 仕事大変なんだぞ! あれだけ報・連・相が大事だって教えたのに何ひとつ出来ないまま辞めやがって!!』

 そう言われるだろうことは承知だ。


 ――だってエレベーターでもすっごい怒ってたしな三ノ宮さん。


 だけど元々優しい三ノ宮さんは、「まあまずは」何て言いながら買ってきたばかりの物をテーブルに出していく。


 缶ビールが3本。缶チューハイ5本。ペットボトルのお茶が2本。それからおつまみと、スナック菓子。


 それから三ノ宮さんは私にチューハイを一本渡すと、自分はビールを手に取った。プルタブを上げて「乾杯」と持ち上げる。


「ほら黒田も。早く」


 急かされて私もプルタブを上げて三ノ宮さんのビールに「乾杯?」と返す。何の乾杯なのか全くわからないけど。


 ビールを傾ける三ノ宮さんの喉が上下する。

 目の前の特等席で独占視聴。

 あれ? 反省会だよね? ご褒美だっけ?


 三ノ宮さんがビールをテーブルに置く。カンッと軽い音がしたのでほとんど飲み干したのかもしれない。


「いつ決まってたの?」

「え?」

「退職」

「あ……」


 勝手に辞めたこと、やっぱり怒ってますよね。


「ひと月前です。本当は今月末まで働くつもりだったんですけど、有給を消化するのに2週間早まりました」

「ひと月前って言ったら……、あ、飲みに誘った辺り?」

「ああ、そうですね」

「暗い顔してるなって思ったんだよね」

「暗い顔? してました?」

「うん。俺にはそう見えた。だから悩みがあるなら聞くって誘ったのにさ。話してくれなかったよな」

「悩みというか……。もう決まってましたので、どうこう悩んでも覆ることはないですし」


 苦笑する私の前で、三ノ宮さんが痛そうな顔をしている。何か私の言葉で傷付けてしまったのだろうか?


「聞いてもいい?」

「何をです?」

「退職理由」

「ああ、それは。……実家には祖母と父しかいなくて、その祖母が腰を悪くして起き上がれなくなりまして。家事が出来ないから帰って来て欲しいと頼まれたんです」

「お父さんは?」

「父は家の中のことはひとつも出来ません。日中は畑に出ていて、頭の中は畑のことしか考えてません」

「う〜ん、でもそれで黒田が犠牲になる必要はなくない?」

「犠牲?」

「家事代行とか、ヘルパーさんとかさ、社会に頼れるところは使えばいいんじゃない?」

「家事代行なんて頼めません。ヘルパーも少なくて、その割にお年寄りが多いんです。だからどこのお宅も家族が看てます。それに私、犠牲だなんて思ってません。おばあちゃんのこと大好きだし、お父さんの野菜も大好きなんです」


 三ノ宮さんが胸の辺りを掴んで俯く。そしてぼそっと何か呟いた。『ずるいよ』と聞こえた気がする。


「胸が痛いんだ」

 

 服を掴んでいるのは胸が痛いから?


「黒田に看病してもらったら治ると思うんだけど」


 上目遣いでこちらを伺う三ノ宮さんの視線が必死なのだというのを感じて、私の息が詰まる。


「で、でも三ノ宮さんは家族でもないですし、……ご自分のご家族に看病してもらう方がいいですよ」

「黒田と、……家族になったら黒田が看てくれる?」


 それってどういうこと?


「家族になろう」

「え、っと……」

「会社に行けばいつも会えると思ってた。なのにさ、黒田がいないんだよ。どこにもいないんだ。隣の席にもいなくて……」


 三ノ宮さんがぐすっと鼻をすする。

 そして綺麗な瞳が潤んで輝いている。


「北海道から帰ってきて、黒田が辞めたって聞いて、俺は目の前が真っ白になった。総務に忘れ物送るからって無理言って住所聞き出して、仕事終わり毎日ここに来て、なのに黒田に会えなくて、……もう会えないのかと思ったらすごく怖くなって」

「……忘れ物してました?」

「うん。してた。大きな忘れ物」


 何を忘れただろうと考える。


「俺、他人から告白されることはあっても、自分から告白したことってないんだ」


 唐突に今度は何の話しでしょうか?


「自分から告白する日が来るなんて思ってもなかった」


 えっと、ちょっと、待ってください……?


 三ノ宮さんがローテーブルを回ってじりじりと寄って来る。待って、と思った時にはもうすでに横にいた。


「あの、三――」

「黒田と一緒にいると心が満たされる。いつも君のことを考えてる。この気持ちに早く気付けば良かった。君が俺の隣からいなくなって初めて気付いたんだ。君が好きだよ。俺は黒田のことが好きだ。どこにも行かせたくない。俺の側にいて欲しい」


 それは嬉しい言葉。

 だけど求めたことは一度もない。


 だから驚いて、その言葉を上手く飲み込めない。


 三ノ宮さんが私を好きだなんてあり得ない。



「……もう、酔って、いらっしゃるんですか?」


 聞いたばかりの言葉を反芻するのも怖くて、たどたどしくそう返すが、三ノ宮さんの真剣な眼差しはひとつも曇らない。


「……三ノ宮さんも、冗談なんて言うんですね。私みたいなのはすぐ真に受けるので、……そんなこと言ったらダメですよ……」


 真剣な瞳をそれ以上直視できなくて、視線を外して床を見る。


「真に受けていいよ。冗談なんかじゃないから……」


 三ノ宮さんの優しくて、でも苦しそうな声が降ってくる。


「俺は真面目に、俺の気持ちに向き合って、心の感じるままに伝えたんだ……。冗談なんかじゃない。冗談なんて言わない。俺の言葉を冗談で片付けないでくれないかな」


 冗談じゃないとしたら、どういうこと?


「あの……、私……、ちょっと理解できてなくて、こういうのは疎くて、……あの? え? ……本当に?」


 まだ半信半疑。

 本当だったら嬉しいけど、……怖い。


「……うん。本当。……信じれないなら、信じてくれるまで好きって伝えるつもり」


 ちょっとだけ見上げる。

 三ノ宮さんの瞳は仕事の時以上に真剣だった。


「黒田に好きな相手がいることも知ってる。だから俺の気持ちばかり押し付けるべきじゃないってのは分かってるんだ。でも叶うなら黒田の隣にいるのは俺でありたい」


 私の好きな相手を知ってるという言葉を聞いて、いつぞやの居酒屋でのことを思い出す。

 三ノ宮さんは私の好きな相手が会社の誰かだと思っているのだろう。間違ってはいないのだが、それが自分だとは考えていないのか?


 私が好きな相手が、私のことを好きでいる。

 こんなに嬉しいことはない。


 1年前なら飛び跳ねて喜んでいただろう。


 だけど状況は変わった。

 私は田舎へ帰る身なのだ。


「お気持ちは、……嬉しいです。でも、ごめんなさい」


 三ノ宮さんの好意を受け取ることは出来ない。


「そっか。黒田は黒田で、意中の相手がいるんだもんな。俺も好きな気持ちを譲れないように、黒田だって譲れないよな」


 はあ〜、と大きな息を吐き出して三ノ宮さんは後ろに手を付き脱力した。



 三ノ宮さんは2本目のビールに口を付けると、窺うように私を見る。


「黒田はさ、その……、好きな奴に告白したの?」

「いえ」

「告白せずに会社辞めて後悔しない? もう会社で会えないだろ? 連絡先知ってるのか? 一度くらいデートしたかった〜とかないの?」


 連絡先は知らないけど、デートはすでにしたような気がする。


 ――二人で水族館に行ったのはデートですか?


 声に出さない言葉を心の中で問う。

 もちろん答えは返って来ない。


 三ノ宮さんがビールを大きく傾ける。2本目も飲み干したみたいだ。

 次はアルコール度数8%のレモンサワーに手が伸びる。


 私はと言えば、あまり飲む気にもなれず、一本目がどんどんぬるくなっていくばかり。


「俺は……、デートしたいな……」


 三ノ宮さんがぼそりと呟く。


「え?」

「あ……、あれ? 声に出てた? 聞こえた?」


 心の中で呟いたつもりだったのだろうか。ばっちり聞いてしまったので「はい」と頷く。


「自分の好きな人がさ、黒田がさ、俺の前にいたらさ、なんかこう知らない内に気持ちが溢れてくるんだよね。こんなの初めてでさ、ちょっと俺の手に負えないんだ……」


 三ノ宮さんは苦笑しながら、ごめんねと謝る。


 謝ることなんてないのに。

 そんなこと目の前で言われて嬉しくないはずがない。


 私だって気持ちは同じ。

 酔ってしまったら、ぽろりと感情がこぼれてしまいそうで怖い。だからお酒は飲めない。


 今日だけはこの気持ちを隠さないといけない。


 あやうく「私も」なんて言わないように心と口に鍵を掛けておかないといけない。


「明日さ……、出掛けない?」


 三ノ宮さんがどこか緊張したような口調でそう聞いて来る。


「明日は行けません。引越しの荷造りしないと」

「えー」


 子どもみたいに拗ねた顔をする三ノ宮さんが可愛い。こんな顔を見せてくれるなんてレア過ぎる。

 だけどそんな顔されても私は首を縦に振れないんです。


「荷造り手伝うよ! だからちょっとだけ時間くれない? ご飯食べに行くだけでもいいからさ?」


 必死に言われてもダメなんです。


「1時間でも、ダメ?」


 懇願されても、ダメなものは……。


「30分でも、ダメ?」


 30分ならいいのかな?


「……ごめん。なんか俺、女々しいね。黒田を困らせたいわけじゃないんだ。ごめん、忘れて」


 そんな叱られた子どもみたいな顔しないでくださいよ。そんな顔されたら、許してあげたくなるじゃないですか。


「黒田?」

「……いい、ですよ」

「ん?」

「30分ならいいですよ」

「え、ほんとにっ!?」


 目がキラキラと輝く三ノ宮さんに向かって私は首肯する。


 ただそれだけのことが嬉しかったのか三ノ宮さんはにこにこと笑いながら、またお酒を空にした。


「三ノ宮さん?」


 寝てしまった三ノ宮さんの肩をトントンと叩くものの全く起きない。


 完全に寝てしまったようだ。


「どうしよう?」


 外に放り出すわけにもいかず、かと行ってベッドに運べるわけもなく、ローテーブルに突っ伏したままにしておく。

 身体が痛くなればそのうち目が覚めるだろう。


 空き缶をゴミ袋に入れて片付けると、私はまた三ノ宮さんの前に戻った。


 視聴し放題の好きな人の寝顔。

 長い睫毛。すっと通った鼻筋。薄い唇。

 頬と額は少し赤い。


「まさか……両想いだったなんて」


 嬉しいのに、切ない。


 本当は私も好きですと伝えたい。


 伝えなければ後悔するかもしれない。 

 でも伝えても後悔するかもしれない。


 どちらが正解か分からない。


 だから、寝顔に向かって囁く。


「好きです」


 とても好きです。

 ずっと好きでした。


 変わらずすやすやと寝息を立てる三ノ宮さん。


 無防備な寝顔を見ているうちに、肩の力が抜けていく。

 ふわぁ〜と欠伸をこぼすと、緊張の糸が切れたように睡魔が襲ってきた。


 三ノ宮さんが起きたらすぐ気付けるように、ベッドには行かず、そのまま床に身体を横たえる。クッションを枕にして、もう一度欠伸をすると目蓋が重たくなっていく。


 三ノ宮さんが起きるまでの間、少しだけのつもりで目を閉じたはずなのに……。

 気付けば朝になっていた。


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