第10話 三ノ宮


 黒田が隣にいて、俺が「あれ」と言ったら彼女が「はい」と俺が欲していた書類を渡してくれる。

 阿吽の呼吸とでも言うのだろうか。


 次に「あれは?」と聞いたら、彼女はどのことかちゃんと理解していて、報告してくれる。

 俺が安心して仕事出来るのは黒田のお蔭だったのに、それが当たり前過ぎて気付いていなかった。


「あれも明日までに」


 隣の席に声を掛けると彼女は「あれって何〜?」と返してくる。


「ん? 黒田?」

「もう〜、美璃の名前いっつも間違えるんだから!」


 ――違うっ!!






「うぅ、イテ……。イテ。……あ、夢か……」


 首が痛い。夢を見ていた。


「あれ?」


 ここは?

 顔を上げる。テーブルに突っ伏したまま寝ていたようだ。と、ようやく思い出す。


「ここ黒田ん家」


 退職した黒田にやっと会えて嬉しくて、テンション上がって酒をガブガブ呑んで……。


「それで寝落ちしたのか、俺最悪だな」


 しかも好きな女の子の家で寝るとかあり得ない。


「黒田?」

 

 彼女の姿が見えなくて小さな部屋を見回す。見当たらなくて、テーブルの下を覗いたら、テーブルの向こうに寝転がっていた。


「そんなとこで寝るなよ。黒田も寝落ちたのか?」


 黒田の飲みかけのチューハイはなみなみと残っている。


「実家行って疲れたよな。おばあちゃんが腰悪いって言ってたし」


 黒田の横に移動して、肩を叩いて起こそうと思った。だが、あまりに気持ち良さそうに寝ている表情を見て起こすのも可哀相に思える。


 幸いベッドは近くにある。


「ごめん。運ぶだけだから」


 寝ている彼女にひと言謝って、背中と膝裏に腕を入れる。


「お姫さま抱っこしたなんて言ったら君はどんな顔を見せてくれるかな?」


 恥ずかしそうな顔?

 無表情?

 それとも、……汚物でも見るような顔をされたら、俺は……。


「してないよ。お姫さま抱っこなんてしてないから。運んだだけ。ベッドに運んだだけだから」


 寝ている彼女に言い訳しながらベッドに下ろす。

 このまま抱き締めたい衝動を堪えながら腕を抜いた。

 彼女のぬくもりを覚えたばかりの腕が寒くなる。

 

「あ〜あー」


 手の平で顔を覆い、それから頭をくしゃくしゃと掻いた。



 照明を落として外に出る。

 寝ている女の子の部屋に居続けることが悪いことのような気がして。


 玄関外の廊下の手摺りに背を預けてスマホを出す。

 画面の上半分にある【3:48】の表示が目に入った。


「4時前か」


 それからすぐに検索バーに『デートスポット』と入力する。


「遊園地は30分じゃ周れないから無理。水族館も。そもそも行くまでに30分以上掛かるしな。あー、30分って厳しいな〜」


 検索結果を閉じて、今度は地図アプリを開く。


「この辺から30分で行ける範囲だと……」


 住宅街。商店街。オフィス街。ショッピングモール。海。それから、


「丘……。あ、この丘って夜景が美しく見えるって場所じゃなかったか?」


 拡大して確認した丘の名前をまた検索してみる。


「お! やっぱり。夜景か〜。黒田好きかな? ロマンティックな雰囲気になって、俺の事好きに、……なっては、くれないか……。はあ……」


 落ち込みながらも脳内で想像する。


 綺麗な夜景。

 丘の上から。

 黒田と並んで見下ろす。

 黒田の顔に月明かりが差して、「綺麗ですね」とちょっとだけ笑ってくれたら、それだけでめちゃくちゃ嬉しいのに。


「荷造りが土日掛かるって言ってたしな。俺が協力して今日中に終われたら夜には間に合うよな?」


 これが最後のデート。

 あわよくば良い雰囲気になればいいのに、なんて考えて頭を振る。


「黒田には好きな奴がいるんだ……。黒田は俺と出掛けても楽しくないよな……。だよな、絶対楽しくないよな? 嫌嫌の30分だったらどうしよう……」


 膝の力が抜けてしゃがみ込む。

 そのまま放心しているうちに空が白み始めた。


 どこかの玄関が開く音がして我に返った俺は、不審者だと間違われては叶わないとばかりにマンションから出た。

 それからあてもなく彷徨い、目に入ったコンビニで朝ごはんを調達すると、寝ているとばかり思っていた黒田のマンションに戻り、静かに玄関を開けたのだった。

 


 女の子だから物がたくさんあるだろうし、その分荷造りも時間が掛かるわけで……。

 だから効率を考えながら集中して段ボールに物を詰め込んでいった結果……、


「終わっちゃった」


 と黒田が言う。


 え? 終わったの? と思いながら腕時計を見れば14時半を過ぎた辺りだった。早く終わらせ過ぎたかもしれない。


 ――あ、腹減ってきた。


 時間を忘れて荷造りに励んでいたため、改めて時計を確認したことで空腹を思い出す。


「さすがに疲れたな。あ〜、集中切れてお腹も空いてきた〜」


 黒田もお腹が空いたのだろう。身を乗り出して「奢ります」と言ってくれる。

 その瞬間俺の頭にハンバーガーが浮かんだ。


 大口開けてガブっといきたいな……。


 口の中によだれが溢れてくる。

 よし、ハンバーガー行こう!





 近所のファストフード店に行き、セットを2つ注文すると空いている席に座った。


 ひとくち目から大きな口を開けて頬張る俺とは反対に、黒田は小さなひとくちを食べて複雑な顔をしていた。


「黒田? もしかしてハンバーガー嫌いだった?」

「何でですか?」

「なんか微妙な顔してたから」

「すみません。でも私ハンバーガー好きですよ」

「そう? じゃあ俺と一緒にいるのが嫌、とか……」


 俺は意中の相手ではないわけだし、普通は嫌だよな。むしろこれ以上しつこく付きまとったら嫌われるんじゃないだろうか。とそう考える俺に黒田は嬉しい言葉を言ってくれる。


「まさか!! 嫌だなんてないです! 嫌なわけないじゃないですか。嬉しいですよ」

「うっ、嬉しい、とかさ、……好きでもない男の前で言っちゃダメだよ。分かってる?」


 俺なんてある意味恋愛初心者だから、好きな女の子から『嬉しい』なんて言われたら簡単に舞い上がるよ?

 

 まあでも、黒田の言葉にそんな意味は含まれていないのだろう。そう思って、また悲しくなった。


 ハンバーガーショップを出た時間は16時前。


 もしかして今から俺の30分が開始されるのだろうか、と思って焦る。夜景にはまだまだ早い時間。


 ――どうする? どうする俺?


 そう考えた俺はデザートを食べに行こうとあれこれ店を見つけては指を差していくのだが、どこの店も黒田の琴線に触れなかった。


「黒田はあと行きたい所ないの?」

「はい、ありません」


 はっきりと答える黒田から、もう帰りたいという空気が出ている。

 だから「もう帰る」と言われる前に強攻すべきだと判断した。


「そっか……。じゃあ俺の30分を今から使っていい?」

「はい」


 時刻は16時12分。


「行こっ」


 彼女が帰ってしまわないように手を掴んでしっかり握る。

 ――ごめんな、この30分だけは許して欲しい。30分経ったら黒田の嫌がることはしないから。


 駅に向かいながら、明け方に見た地図アプリを頭の中に表示させる。


 夜景は完全に無理。それなら別のプランへと切り替えようとするが、それも果たして上手く行くか分からなかった。


 夜景が見える丘とは逆方向の電車に乗る。乗った時点で16時18分。ここから終点まで何分掛かるだろう?

 調べてなかったせいで気分が落ち着かない。


 終点までに時間切れになる可能性だって十分にある。


 目的地を尋ねる黒田に「内緒」と答えたが、本心は目的地を言えなかっただけだ。

 もしかすると目的地に到着する前に30分が経過してしまうかもしれない。だから言えなかった。


 君を連れて行きたかった場所は本来は夜景の見える丘だったこともあって、格好悪くて余計に言えなかった。


 腕時計を見ると16時38分。時計を黒田にも見せてあげる。

 30分までの残り時間はあと4分だって思ってるかな?


 終点まであとひと駅だという所で残り時間あと1分だった。

 卑怯だと、ズルいと、言われてもいい。お願いだ。どうか終点までの時間をください。



 終点に着いた俺はタイムオーバーだと告げて電車から降りる。

 黒田は電車に乗ったまま。


 電車のアナウンスが折り返すと言っている。もうじき出発するだろう。

 

 30分の時間が切れたことで、俺は冷静さを取り戻していた。

 俺自身も気付いていなかったが、黒田と一緒にいて、俺は相当舞い上がっていたようだ。黒田が本気で嫌がらなかったのをいい事に俺は調子に乗っていたのだろう。


 バカだ。大バカだ。


 疲れている黒田をこんな所まで連れて来て、どうしようと言うのか。


 いい雰囲気になることを本気で期待していた自分に心底がっかりする。そんなことになるわけがないのに……。


「引っ張り回してごめんな黒田……。君のことが好きだけど、でも黒田の恋を応援してる。頑張れよ」


 これ以上、大好きな彼女の顔を見ているのが辛くて背中を向ける。

 彼女と向き合っていたら、彼女へ手を伸ばしてしまいそうだ。


 ――ありがとう黒田。恋とはほんとにままならないものだということを君に教えてもらったよ。君の幸せを願ってる。絶対に幸せになれよ。


 家まで送り届けてあげたい気持ちはあるが、これ以上一緒にいる時間はもらえない。

 同じ電車に乗って帰ることができない俺は足を前に出した。

 しかしその足は鉛でも付いたみたいに重たかった。


 

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