第5話 三ノ宮

『また友達と飲み!?』


 電話の向こうで恋人が怒っている。


「そうだけど?」

『先週も友達と会うってデートしてくれなかったじゃない!』

「先週は高校の同級生。今日は大学の友達なんだ」

『じゃあ私とはいつ会ってくれるの? デートしたのだって先月2回だけよ!』


 2回もデートしたのに何を怒っているのか分からない。


『もう無理! 私ばっかり好きみたい』

「俺も好きだよ」

『違うわよ! 一緒にしないで!』


 違う人間同士なのだから、違うのは当たり前。なぜ女性は好きの気持ちを同じ質量で求めてくるのか理解出来ない。


 それに恋人も大切だけど、友人も大切。家族も大切。大切な気持ちに順位を付けることも俺には出来ない。


 これを友人に話せば、


『それは三ノ宮が本当に好きな相手に出会ってないからだ』


 そう言うのだ。


 彼女との電話中、黙りこむ俺の耳に大きなため息が聞こえる。 


『別れて』

「……え?」

『もう付き合えない。別れる!!』

「…………」

『引き止めないのね……』


 何も言葉が出なかった。

 別れたくない、とも、待ってくれ、とも。


 それに彼女の中では別れることが決定しているのだ。だから俺が何を言っても覆ることがないことはこれまでの恋愛で理解していた。


 いつの間にか電話は切れていて、ツーツーツーと機械的な音が耳に張り付く。


 スマホを下ろしながら、こんな自分はもしかしたら恋愛するべき人間ではないのかもしれないと感じた。




 恋愛はしばらく控えようと思うのに、俺が別れたとどこからか噂を聞いた女性が数人俺の元に来る。


「ごめんね。気持ちは嬉しいんだけど、別れたばかりで今はちょっとそんな気になれないんだ」


 言えば言うほど、恋愛する気持ちが遠くに行くような気がした。


 しかし遠くに行ってしまうほど、清々しさを感じる自分に気付くと、今まで見えなかった視界が開いたようにも感じる。


 だからいつも下を向いて無表情で仕事をする隣の席の子の顔を見たのかもしれない。


 ――いつもより暗い顔してないか?


 顔だけじゃない。肩が落ちているようにも見える。


 仕事でミスすることの少ない彼女だが、珍しくミスでもしたのだろうか。


「どうした?」

「いえ、なんでもありません」


 頼んだ仕事は頼んだ以上にこなしてくれる彼女に、今から次の仕事を頼むなんて出来そうもない。


 だからと言って次の仕事を頼みたいから、飲みに誘ったわけじゃない。


 ただ何に悩んでいるのか聞いてみたかっただけなんだ。



 他人のことなんて興味なさそうに下を向いているくせに、相手の話しを聞くときは相手の目をきちんと見て話しを聞く子だと好印象だったのは確かだ。


「黒田は酒飲めなかったけ?」


 居酒屋の半個室に二人きり。

 彼女の手にはウーロン茶。


「飲めますけど、今日はちょっと……」

「ん?」


 きょろきょろと視線を左右に動かす姿は何というか、小動物に見えなくもない。


「あの、後から他に誰か来たりします」

「来ないよ。だから安心して」


 悩みを聞いてあげるよ。俺はこう見えて後輩思いの優しい先輩なんだ。隣に座る彼女の悩みに気付き、こっそり聞いて解決してあげるのだと本気でそう思っていた。

 後から考えれば自意識過剰かもしれない。自分に自惚れ過ぎている。


「悩み事があるんだろ?」


 しかし彼女の口は貝みたいに閉ざし、簡単には開かない。貝は熱を加えれば開くのだが、彼女の口はどうしたら開いてくれるだろう?


「黒田?」

「あ、あの、三ノ宮さん、お付き合いされている方は?」


 は……。

 斜め上からの質問に俺の思考は一瞬動きが鈍くなる。


「誰かから聞いた? 別れたんだよね」


 もしかして、彼女の悩み事は俺の交際関係?


「なに? 聞きたい?」

「い、いえ……。全然そんな、まったく……」

「聞きたいって顔してるけど。ぷぷっ」


 焦っている姿は初めて見たかもしれない。会社で見ることのない姿を他にも見たいなと思った。


「一緒にお酒飲んでくれるなら話すよ」

「ほんと……ですか?」


 ダメだよ、そんな喜んだ顔……。って喜んだ顔も見たことなかったかもしれない。


「何飲む? ビール?」


 いや女の子はビールよりカクテルとかの、


「甘い系?」


 そう聞いたのに、ハイボールと返ってくるとは思わず、吹き出してしまった。


「ぷっ」

「おかしいですか?」

「いやいや、ごめんね。なんかカシスオレンジとかカルーアミルクとか言うかなって思ってたからさ」

「それ、私に似合わないですよ。なんか女の子って感じじゃないですか」


 は? 何言ってんだ?


「女の子でしょ?」


 背も低くて小さくて、笑うとフツーに可愛いし。


「いや」

「黒田は女の子だよ。まっ、じゃあハイボール頼むね」


 ハイボールなんて久しぶりに飲む。いつもビールばかりだからたまにはいいか。


「ビールじゃなくていいんですか?」

「うん。黒田と同じもの飲みたい」


 別に何の意味もなく言った言葉だったが彼女はその言葉に喜んだように見えた。

 運ばれたハイボールを目の前に持ち上げる。


「じゃ、改めて乾杯」

「乾杯……」


 グラスを重ねる直前、彼女の指が震え、ハイボールの水面が波打つ。それを見た俺の胸にも何か得体の知れない波が寄せた。



「はー。……じゃあ彼氏いないの?」

「はい」


 いないのか。ずっといると思ってたのに、意外だな。


「恋人欲しいな、とかは?」

「お、思いますけど……」


 思うんだ。


「好きな人がいる?」


 そう聞くと彼女の瞳孔が開く。


「会社の人?」


 否定しないってことは会社にいるってことだな。


「同じ部署?」


 そうです、って瞳が言ってるような気がする。


「先輩? 後輩?」


 誰だろうか? 目ぼしい所で言えば……。


「じゃあ、……佐藤くん?」


 あいつ格好いいしな。男の俺でも惚れる。うん。

 だが彼女の反応はない。違うのか。


「田中か?」


 田中は彼女と歳が近かったよな。あいつでも今恋人がいるんじゃなかったか?

 いやでも反応なしだな。次。


「鈴木くん?」


 若手ホープで子犬系のイケメンだって女性陣が騒いでたもんな……。でもこいつも違うっぽい。


「あと誰がいたかな。……もしかして山本か?」


 山本は俺の同期。あいつちょっとガサツなとこあるからな〜、オススメはしたくない。


「違いますよ。全部、……全部違いますよ。彼氏は欲しいと思いますけど、好きな人なんていません」

「な〜んだよ。じゃあ俺今フリーだし、どう?」


 あれ? 

 俺今何言った?

 ちょっと酔ってるかもしれない。


「どう、って何ですか?」

「黒田の彼氏に立候補」


 無理ですとか、ごめんなさいとか言われるんだろうな。


「か、彼氏?」

「彼氏。……嫌か? えっとじゃあ、おためしでもいいし、お互い好きな相手が見つかるまでとか」


 彼女の口が開いたり閉じたりするのがちょっと可愛い。


 ――ああそっか。恋人いたことないから反応が初々しいのか。からかってごめん。でもそんな顔を見るのがちょっと楽しいや。



 居酒屋で飲んだ翌日の昼休み。

 休憩室の端っこで彼女を見つける。


 みんな窓際の明るいテーブルに座っているのに、少し暗い所で一人弁当を広げる彼女。

 彼女らしいといえば彼女らしい。


 ちょっとだけからかいたくなって近寄ると気付いた彼女が顔を上げる。


「三ノ宮さん? お疲れ様です」

「俺のは?」

「は?」


 彼女が目を丸くする。その姿が本当に小動物に見えておかしくなる。


「俺の弁当は? 黒田は真面目だから俺が言ったこと鵜呑みにして弁当作って来てくれると思ってたからさ、だから何も買ってきてないわけよ」


 両手に何もないと示すように胸の前に出すが彼女はいつも通りだった。


「そうですか。今ならまだ買いに行っても間に合いますよ」

「えー」


 彼女の弁当を覗き込む。


「その卵焼き黒田が焼いたの?」

「はい」

「しょっぱい派? 甘い派?」

「甘い派です」

「俺も甘い派」

「……食べます?」


 まさかくれるなんて思わないだろう。だから嬉しくてつい頷いていた。


「うん」


 彼女は箸をひっくり返して卵焼きをつまみ、弁当箱の蓋にのせて俺の方に向ける。

 だけど、もうちょっと可愛いちがう顔を見たいんだ。


「どうぞ」


 だから、大きな口を開けて卵焼きを食べさせてくれるのを待つことにした。だがいつまで待っても卵焼きは口に入ってこない。


「じ、自分で食べてください」


 彼女が恥ずかしそうに顔を背ける。

 君は耳が赤いこと自覚してる?


 彼女からの、あーん、は貰えなかったけど、自分で彼女お手製の卵焼きを口に運ぶ。


 ――ん。甘い。美味しい。また食べたい。


「ん、んま。俺これ好き。味付けばっちり」


 俺は親指を立てるが、彼女の顔が百面相しているのがおかしくて、笑うのも失礼かとさっさとその場を立ち去った。



 次の日は終日外回り。

 憂鬱。早く終わればいいが、時間が掛かりそうだ。直帰になるだろう。


 資料をまとめて社用車に向かい、駐車場にある自販機でコーヒーを一本買う。しかしコーヒーだけでテンションは上がらない。


 エンジンを掛けて車の中でもう一度資料を確認するとA社のものが入ってなかった。


 慌てて部署に電話を掛け、彼女に代わってもらった。彼女に俺のデスクを確認してもらうとやはりデスクの抽斗にあった。


 取りに戻らなければならないと思っていると、彼女が持って来てくれると言う。


 わざわざ悪いな、と思う反面、持って来てくれるのが嬉しいとも思う。


「いやそれってどうよ? パシリに使ってない?」


 呟くと何とも気分が悪くなる。

 

「パシリでは断じてない! そうだ、お礼にコーヒーあげよう。でもこれ無糖か……」


 彼女が来る前にもう一度自販機に走る。とりあえずカフェオレなら飲めるか? と考えながらそれを買った。


 彼女は走って来てくれたのか、息が乱れている。


「黒田サンキュ」

「いえ」

「よし、これこれ。ありがとな、これお礼」


 買ったばかりのカフェオレを差し出すが彼女は遠慮する。


「そんな。これくらいのことでお礼なんて、いただけません」

「……さっき一瞬暗い顔してたから、やっぱり何か悩み事あるんだろ? コーヒー1本飲む時間あるし、話し聞くよ?」


 コーヒー1本飲みながら息をととのえて、それから部署に戻ればいいと思った。


「悩み……って言うほどのものじゃないんですけど、……三ノ宮さんにお弁当渡せなかったなって」

「弁当?」


 弁当の悩みって何だ? と思っていると彼女の視線が落ちる。視線の先には紙袋。


「もし、食べる時間があれば……。あ、でも外回りだしどなたかとお昼の約束もされてますよね……」


 いや、待て待て。弁当って……。


「俺の、弁当? 作ってくれたの?」


 そう問うと彼女は恥ずかしそうにこくんと首を倒す。


 なんだかすっごく嬉しくなってきた!


「食べる。絶対食べるからもらっていい?」

「む、無理しないでください」

「無理じゃない。ありがとう」


 マジで嬉しい。食べるの楽しみなんだが。

 あの卵焼き入ってるかな?


「じゃ、やっぱりお礼にこれあげる。お礼にならないか……。お礼考えといてね。何でもいいから。じゃあ行ってくるよ」


 嬉しさ全開で社用車に乗り込む。


「カフェオレありがとうございます」

「お弁当ありがとう! 行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 アクセルを踏む前に手を振った。

 今日の外回りは楽勝な気がする!



 翌日も仕事は慌ただしく、洗った弁当箱を返し損ねていた。

 定時で会社を出る彼女の後ろ姿を見つけカフェに誘い、初めてキャラメルマキアートを飲む。


 キャラメルマキアートはめっちゃ甘かったが彼女と過ごす時間は落ち着きがあり、癒しを感じる。


 だからまた会社の外で会いたいなと思った。


 弁当のお礼というのは口実で、どこかに一緒に出掛けてみたかった。


「行きたいとこは? 映画は?」


 だけど彼女は首を振る。


「欲しいものは?」

「ないですね」


 ばっさり切られて、ちょっと寂しいなんて……。






 仕事のない土日もちょっと寂しくて、友人を飲みに誘うが何かが違う。


「三ノ宮?」

「あ?」

「うわの空か? まだ失恋引きづってんのかよ?」

「失恋? ああ、あれは……」


 そう言えば付き合っていた恋人と別れたばかりだった。そんなこととっくに忘れていた。


「飲め、飲め!」


 ぐいっとビールをあおるが美味しくない。


「よしよし。すみませ〜ん、ビール追加でー!」

「あ、」

「何だよ?」


 転がっているメニューに視線を落とすと、それが目に入った。


「ハイボール」

「ビール飲まねえの?」

「ハイボールにする」

「珍しいな」


 運ばれてきたハイボールは味覚を刺激して喉を流れていく。


「あとはお前の好きな唐揚げな。他にも頼むか?」


 気を遣ってくれる友人の言葉に、彼女の弁当が脳裏に浮かんだ。


 冷たくても美味しかった唐揚げ。

 甘い味付けで俺好みの卵焼き。

 ピリッと辛いレンコンのきんぴら。

 青のりのかかったこふき芋。

 梅のおにぎりと、鮭のおにぎり。

 彩りに添えられたブロッコリーとミニトマト。


「はあ〜」

「何だよ何だよ、早く忘れて次の恋に行けって! 誰か紹介してやろうか?」

「それはいい」

「俺の好意を断るのか!」

「ああ断る」

「何だよもう好きな女がいるのか?」

「好き?」

「違うのか? じゃあ気になってるとか?」


 これはどういう感情だろう。

 自分でも持て余しているのか、この感情の正体に名前が付けられない。

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