第2話
翌日の昼休み。
休憩室の隅でいつものように一人でもくもくと弁当を食べていると目の前に影が掛かる。
視線を上げるとその影は私の隣の席に腰をおろした。
「三ノ宮さん? お疲れ様です」
「俺のは?」
「は?」
「俺の弁当は?」
もしかして昨日の話しは本気だったのだろうか。
「黒田は真面目だから俺が言ったこと鵜呑みにして弁当作って来てくれると思ってたからさ、だから何も買ってきてないわけよ」
「そうですか。今ならまだ買いに行っても間に合いますよ」
「えー」
えーって子どもか。でもその拗ねた顔も可愛くて好きです。
「その卵焼き黒田が焼いたの?」
「はい」
「しょっぱい派? 甘い派?」
「甘い派です」
「俺も甘い派」
にこ、と笑う顔が最高に可愛くて、それだけでお腹いっぱいになりそうだ。いや、お腹じゃなくて胸がいっぱいだ。
「……食べます?」
勇気を出してそう訊ねてみる。
「うん」
うん、て何だよ可愛いな。
私は箸をひっくり返して卵焼きをつまみ、弁当箱の蓋にのせる。
「どうぞ」
「あー」
三ノ宮さんは口を開けて、人差し指で自分の口を差す。まるで入れろとばかりに。
「じ、自分で食べてください」
恥ずかしさに顔を背けると、ちぇっ、と拗ねた声が届く。それからカチャカチャと箸の音が聞こえてそっと視線を戻すと三ノ宮さんは私の箸を使って卵焼きを口に入れていた。
――や、や、やーーー。は、は箸。私の使った方で食べちゃった……。
「ん、んま。俺これ好き。味付けばっちり」
三ノ宮さんは親指を立てて席を立つと、何事もなかったみたいに休憩室から出て行った。
「箸……」
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
使えない。使いたい。でも使ったら間接キ――。
「ス? きゃっ」
やばいよ。心臓爆発しちゃう。
結局、胸いっぱいなことも合わせて私はお弁当に箸がつけれなかった。
定時で会社を出た私は真っ直ぐ駅に向かわず、雑貨屋に足を向けていた。
三ノ宮さんにお弁当を作るならお弁当箱が必要だ。
「それから箸もいるよね」
お弁当箱と箸を探して店内を回る。男性だから大きめの弁当箱が良いだろう。
店内の一角にシンプルな弁当箱が陳列されている。その中で紺色の容器に透明の蓋が付いた弁当箱が目にとまる。三ノ宮さんのイメージにぴったりだと思ったのだ。箸も同じシリーズで揃えて会計してもらうと、なんだか頬が緩んでくる。
三ノ宮さんにお弁当を作るということがどんどん現実味を帯びてきて、胸がくすぐったい。
その後は電車に乗って家の近くのスーパーで買い物をする。
まさか自分の弁当みたいに冷凍食品を詰めるわけにはいかない。卵焼きと彩りにプチトマトとブロッコリー。それから冷蔵庫に常備菜が残っていたから、あとは2〜3品作ればいいだろう。
「唐揚げとハンバーグだったらどっちが好きかな?」
三ノ宮さんのこと何も知らないなと感じて少し寂しくなる。
「でも居酒屋で唐揚げ頼んでたし、唐揚げは好きだよね。よし、じゃあ鶏モモ買おう」
料理はそんなに好きじゃない。だけど誰かのことを考えながら誰かのためを思って作るのはちょっとわくわくする。
朝5時に起きて作ったお弁当はまあまあの出来栄えだった。一番シンプルな白いハンカチに包んで出勤する。
三ノ宮さんはまだ来てない。
だがお弁当はいつ渡すのが正解だろう。
おはようございますと挨拶するついでに「お弁当です」と渡すのがいいか、昼休みになってから渡すのがいいか大いに悩む。
悩んでいるうちに三ノ宮さんは出勤してきた。
「おはよう黒田」
「おはようございます」
「俺朝から外回りでさ、多分直帰になるから」
そう言いながら資料をまとめて鞄に詰め込んでいく三ノ宮さん。
「そうなんですね。今日は忙しいんですね」
「おう。ちょっと頑張って来る」
「……いってらっしゃい」
「行ってきます!」
部署を出て行った三ノ宮さんの背中が見えなくなった。
お弁当渡せなかった。そう思って悲しい気持ちになっていることに気づく。
せっかく作ったのにな。
おはようございますって言ってすぐに渡せば良かったのに。
そっか。今日は一日中外回りでもう会えないのか。もっとずっとしっかり顔を見ておけば良かった。
その時、電話が鳴り思考が中断する。だが私が取る前に他の同僚が受話した。
「黒田さん、電話! 三ノ宮さんから」
はい、と返事して電話を取ると受話器越しに低い声が耳に流れてくる。
「もしもし代わりました」
『黒田? 悪い。俺のデスクの2番目の抽斗見てくれ』
「はい、2番目ですね」
受話器を耳と肩に挟んで三ノ宮さんのデスクを漁る。
『A社の封筒があるか?』
「はい、あります」
『あるか! 良かった。鞄に入れたつもりだったんだが。今から取りに戻るからデスクの上に置いといてくれ』
「三ノ宮さん駐車場ですか?」
『ああ』
「持って行きます」
『助かる。じゃあ頼む!』
受話器を置いた私は、右手にA社の封筒と、左手に紙袋を持って部署を出た。
「黒田サンキュ」
「いえ」
A社の封筒を渡すと三ノ宮さんが中を検める。
「よし、これこれ。ありがとな、これお礼」
そう言って三ノ宮さんは缶のカフェオレを差し出す。
「そんな。これくらいのことでお礼なんて、いただけません」
「……さっき一瞬暗い顔してたから、やっぱり何か悩み事あるんだろ? コーヒー1本飲む時間あるし、話し聞くよ?」
暗い顔って、お弁当を渡せなかったと思った時だろうか。そんなに表情に出した覚えはないけど、三ノ宮さんはそれに気付いたらしい。
「悩み……って言うほどのものじゃないんですけど、……三ノ宮さんにお弁当渡せなかったなって」
「弁当?」
こくんと頷いたまま視線を下に向ける。両手で持った紙袋、その中に白いハンカチで包んだ大きなお弁当箱がある。
「もし、食べる時間があれば……。あ、でも外回りだしどなたかとお昼の約束もされてますよね……」
そもそもお弁当を渡す日ではなかったんだな、と思って気持ちが沈む。
一人で何やってるんだろう。
「俺の、弁当? 作ってくれたの?」
顔を上げれないまま、小さく頷く。
「食べる。絶対食べるからもらっていい?」
「む、無理しないでください」
「無理じゃない。ありがとう」
優しい声が落ちてくる。
今のそのありがとうは録音しておきたかったな。
両手を持ち上げると三ノ宮さんが紙袋を受け取る。
「じゃ、やっぱりお礼にこれあげる。お礼にならないか……。お礼考えといてね。何でもいいから。じゃあ行ってくるよ」
三ノ宮さんは私の空いた両手にカフェオレを置いて、にこやかに機嫌良く社用車に乗り込んだ。
「カフェオレありがとうございます」
「お弁当ありがとう! 行ってきます」
「行ってらっしゃい」
車が走り出す寸前、三ノ宮さんが手を振った。
それを網膜に焼き付けるけど、今のは写真におさめたかったな。
お昼休み、いつもの場所でお弁当をつつく。今日は冷凍食品が入ってない。三ノ宮さんに渡したお弁当の中身と一緒。
もう食べたかな?
いやまだ食べてないか。
美味しいと思ってもらえるかな?
口に合えばいいけど。
美味しくなかったらどうしよう。
「はあ」
冷めても美味しい唐揚げというレシピを見て作った唐揚げはぼちぼち。冷凍食品の唐揚げの方がやっぱり美味しいかも。
お弁当渡すんじゃなかったかな。
作って欲しいという言葉を鵜呑みにしてバカみたい。
「はあ」
何度となくため息を吐きながら食べたお弁当は全然美味しくなかった。
午後の業務もため息ばかり。
デスクの端っこにはカフェオレを置いている。なんだか勿体なくて飲めない。万が一飲んだとしても空き缶は永久保存しよう。
そろそろ16時か、なんて壁掛け時計を見ていると、同僚から呼ばれる。
「黒田さん、外線。三ノ宮さんから」
「はい」
どうしたんだろう。また何か書類が足りなかったのだろうか。そう考えながら電話に出る。
「もしもし、お疲れ様です」
『お疲れ。今忙しい?』
「いえ、そんなには……」
どっちかというと午後の業務が一段落したところだ。
『お弁当さ、今食べてるんだ』
「え?」
『卵焼き2つも入ってる』
「ああ。お弁当箱が大きかったので」
『唐揚げさ、冷たいのに美味しいね』
「美味しいですか?」
『うん。固くないし、パサパサしてないし、味もしっかりしてるし……。でも揚げたてが食べたいな』
「じゃあまた居酒屋に行きます?」
『違うよ』
間違った。何で私なんかが三ノ宮さんをお誘いしているんだ。
「あ……。私と一緒にって意味じゃないですよ」
『なんで?』
「三ノ宮さんお友達多いし……。一緒に飲みに行く人たくさんいらっしゃいますもんね」
電話の向こうで、もぐもぐと音がする。
今何を食べてるんですか?
『あのさ、この唐揚げが食べたいんだよ。黒田が作った揚げたてのこの唐揚げ』
「は?」
……な、なんで、何でこの唐揚げ?
冷凍食品の唐揚げの方が断然美味しいし、居酒屋の唐揚げなんて神ですけど!?
私が作った唐揚げを所望される理由が分からないのですが?
『黒田?』
「はい」
『ありがとうお弁当。ご馳走さまでした』
「お粗末様です」
『洗って返すね弁当箱』
「いえ、そのままでいいですよ」
むしろそのままでいい、とか考える自分に気付いて、ちょっと気持ち悪い女だ、と自覚する。
『ちゃんと洗って返すから。じゃあもう一件予定があるから電話切るね』
「はい」
プツ、と通話が終わる。ツーツーツーと鳴る受話器を元に戻してトイレに駆け込んだ。
――なんだよ、なんだよ、なんだよ。勘違いするでしょ、あんなこと――揚げたての唐揚げが食べたいとか言われたら。でも、ない。絶対ない。私はあとひと月もしたらいなくなるんだから。
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