第4話 体温計

 カランカラン、と軽やかな音が聞こえた気がして、ベッドの上でうつらうつらしていた私は目を覚ました。


 新型コロナウイルスへの感染が判明して四日目の夕方、体調は改善しつつあった。三十九度近くまで上がっていた体温は、解熱剤やスポーツドリンクの大量摂取が項を奏し三十七度台を推移していた。


 微熱のせいかどこか気だるい。枕元をまさぐって、パルスオキシメーターを人差し指にはめてボタンを押した。九十八パーセント。恐らく問題ないだろう。続いて体温を測る。寝たまま枕元を弄ると、体温計のケースが指に触れたが、肝心の本体に辿り着けない。


 おかしいな……。


 体温計が無いのだ。ベットの上は飲み物や薬の袋、病院でもらった資料の紙、暇つぶし用の本、消毒用のペーパーやゴミ袋などで散らばっている。こんなことならもっと整理しておけば、とため息をついて一つ一つ確かめたが無駄だった。目覚める前にカランカランという音が聞こえたような気もするし、床に転がったのかも、と思って体を起こし床を捜索するも体温計は依然として見当たらない。


 これはいよいよおかしい。私はコロナに罹患した自宅療養者であり、隔離部屋と化した寝室からトイレや入浴を除き一歩も出ていない。療養者はアプリで健康状態を保健所に定期的に報告することになっていて、私は二、三時間ごとに体温とSpO2を測定して送信していた。アプリで最後に送信した記録のタイムスタンプを見るとわずか一時間前。その時間には体温計は空間に存在していたことになる。推理小説の消える凶器のトリックでもあるまいし、こんな短時間で体温計の所在が分からなくなることなどあるだろうか。


 最後に体温を測った時の記憶を呼び起こす。通常、布団に寝転んだまま体温を測っていたのだが、前回に限り、部屋の雨戸を下すのと同時に体温計を脇に挟んで測定するという極めて変則的な方法を用いていた。


 何故そんなことをしたのかと言えば、遊び心だった。具合の悪い時は体力・精神の余裕がなくふざける気などまるで起こらなかったが、体温が下がり段々と楽になってくるにつれて気の緩みが生じ、体温測定と雨戸の開け閉めを同時並行してみたらどうだろう、という好奇心が湧いていた。ベッドの上で食べて寝ているだけの生活には新鮮味がなく、無意識のうちに生活のアクセントを求めてそのような愚行に及んでいた。


雨戸閉め体温測定をしているとき、

「今ここで万が一体温計を窓の外に落としたら大馬鹿者だな。まあ、私はそんなヘマはしないけどね。アハハ」

と頭の中で考えていた。当然ながら雨戸の開閉と体温測定の相性は悪い。体が動くので正常な体温が測定できないうえ、脇に物が挟まった状態では雨戸が閉めづらいので無駄に時間が掛かる。さらに、いつもと違う行動をとったせいで結果として体温計の捜索範囲が広がってしまったので私は完全なるアホだ。もちろん念のため窓付近を探したが、そんなところに置き忘れるわけがないので当然見つからない。


「ごはんそっちに持って行くから準備してー」


突然扉の向こうから奥さんの声が聞こえ、体温計を紛失したことに気づかれるとまずい私の汗が全身から吹き出した。


「アリガト、チョトマッテ……。」


大急ぎで散らかった室内を整え、平静を装ってドアの隙間越しに食事を受け取った。


 今の私は、食事の準備や片付け、汚れ物の洗濯、水分やアイスの差し入れなど全て妻に依存しきっている。普段は私が担当している家事も全てやってもらい、寝室を私が占有しているためリビングで妻は寝ている。そんな状態で、体温計を無くしましたなどとノコノコ言い出すことなどできるだろうか?寝ているだけなのに体温計一本すら管理できない人間であることが露呈したらただでさえ低迷している信用がゼロになってしまう。私は脳をフル回転させ、取りうる選択肢について検討を始めた。


・体温計を紛失した事実を隠蔽し、体温を測ったふりをする

・体温計を紛失した事実を隠蔽し、こっそり新たな体温計を入手する

・体温計を紛失した事実を公表し、妻の体温計を借りる

・体温計を紛失した事実を隠蔽し、見つかるまで自分で捜索する


 一つ目は論外である。平常時ならまだしも、体温を測定して体調をモニタリングする必要がある。知らないうちに体温が上がっていることに気づかない場合、最悪の場合命に関わる。

 二つ目については、スマホ経由で注文自体は可能であるものの、妻を介さず受け取りができないのが最大のネックだ。急に家に小包が続いたら何を注文したのか聞かれるだろう。妻が親切心から外の包装を開封して中身だけ渡そうとした場合体温計を注文したことがモロバレとなる。

 三番目については、選択肢の中で最も確実に体温計にアクセスできるというメリットがあるが、自分の罪を公開しなければならず、それはなんとしても避けたい。

 四番目については、体温計が見つかれば何事もなかったことになるので、最良の選択であると言える。見つかりさえすれば。


 私はしばし悩んだ末、体温計を紛失した事実は伏せてこっそり捜索し、見つからなかったら白状する、という3と4のハイブリッド作戦をとることにした。


 食事中は一旦体温計の捜索は中断し、食後に頭を落ち着かせて改めて捜索をするのが理性的な人間が取る行動である。だが私は体温計を無くしてしまったためパニック状態に陥っており、体温計が気になって食事どころではない。脳が狂乱状態になった私は、白飯を咀嚼しながら部屋中を徘徊し、白色の棒を探し回る妖怪と化していた。

 

 すると、さらに頭が混乱する事態が発生した。机に戻ると箸が一本無いのだ。体温計に続いて箸まで無くなるとは!病原体により脳の認知機能が破壊され、無意識のうちに物を持ち歩き、置き忘れるようになっているのを認知出来なくなっているのではないだろうか。病気から回復したとしても以前のような日常生活を送ることができないかもしれない。体温計も網戸の裏やカーテンレールの上など奇想天外な場所に置いてあるのではないか。そうだとすると今後の人生は辛く厳しいものとなる。いっそ正直に無くしたことを白状するべきか?様々な考えが頭をめぐりを絶望していると、床に箸が落ちているのが目に止まった。気付かぬうちに箸が服に引っかかって落ちたと思われ、まだ自我は失われていなかったんだ、と安堵した。


私は一旦食事を最後まで終え、落ち着くことにした。焦っていては見つかるものも見つからない。全ての可能性を洗い出そう。すると、まだ探していない場所が一箇所だけあることに気づいた。


ベッドの下の床下収納である。私が使っているベッドはマットレスの下の板を持ち上げると収納になっている。板は持ち上げられるように三分割されており、板と板の間には手を掛けるために小さな隙間が空いている。ベッドの上から体温計が転がり、隙間に潜り込んで落ちたということはないだろうか?


隙間から奥を覗いてみるが、暗くてよく分からない。こうなったらやるしかない。私は最後の望みをかけ、マットレスや掛け布団の大移動を始めた。音を立てることは許されず、時間をかけるほど妻に見つかるリスクが高まるので、慎重かつ大胆に作業を進める。


そして、そっと板を持ち上げると、衣装ケースの横に転がる体温計が目に飛び込んできた!誰とも共有できない歓喜に震えながらそっと体温計を拾い上げ、また急いで元のようにベッドを直した。


気づくと、全身が汗だくになっていた。心身ともに疲弊したので、体温を測って横になろう。熱が上がっていたらどうしようと心配になりながら熱を測ると、三十六・七度。ほっと安心し、二度と無くさないように体温計を薬が入っているビニール袋に投げ込んで私は再び眠りについた。

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