第44話 アーモンドではありませんでした

 私たちはしばらく何も話さずに、満開の花を見つめていた。

 そのときふいに風が吹き、木の枝を揺らす。

 枝を離れた花びらが、風の流れに沿うように、わっと散った。


「わあ……!」


 なんと美しい光景なのだろう。

 薄い桃色が、空を舞う。

 息を呑む。どこか違う世界に連れてこられたような感覚がする。

 ここは本当に現実の世界なのだろうか。

 そう思うほどに、美しい。


 しかし風はすぐに止み、はらはらと花びらは落ちていく。

 その中に、少し大きなかたまりがあった。

 私は慌てて手を差し出し、それを手のひらで受けた。


 花だった。

 五枚の花弁を保ったまま、花そのものの形で落ちてきたのだ。


「可愛い」

「髪にもついているぞ」


 シルヴィスさまはそう言うと、私の髪に手を伸ばしてきた。

 そしてそれを取ると、細くついた枝をつまんで、私の目の前に差し出してきた。

 それも、やはり花の形を保ったままのものだった。


「本当ですね」

「少々頼りないが、つけたままにしておこう」


 そう言って、シルヴィスさまは再び私の髪に、それを挿そうとする。

 私は目を閉じて、されるがままに待った。

 シルヴィスさまの手が、髪に触れる。大きな手が私の髪を少し撫でつける。


 そっと花が挿されたかと思うと、額に手の感触。そして、優しい唇が触れたのがわかった。

 私はゆっくりと目を開ける。すぐ目の前に、シルヴィスさまの顔があった。

 そのままその濃緑の瞳を見つめていると、彼は視線をさまよわせたあと、ふいっと顔をそらした。


「そろそろ帰ろうか。救助隊を出されてはかなわない」


 そう語りながら、立ち上がる。

 いつまでもこうしていたい気がするけれど、目的は達成したのだし、やはり帰らなくてはいけないのだろう。

 わかってはいるけれど、なんだか寂しい。

 私も立ち上がり、そして手の中に握っていた花を見つめた。


「こちらは記念に持って帰りますわ」

「そうだな」


 私の言葉に、シルヴィスさまは口元に笑みを浮かべる。

 私は丁寧に花をハンカチに挟み、ポケットに折れないようにしまいこんだ。


 その間にシルヴィスさまは荷物を片付け、それをまた肩に担ぐ。

 私たちは並んで歩き出したけれど、ふいに彼がこちらに手を伸ばしてきた。


「降りるときのほうが、危ないものだ」

「ありがとうございます」


 私はその手を握る。

 ずっと繋いでいたい。そんな気持ちで、私はぎゅっと力を込めて握った。

 手首にあった鈴が、ちりん、と音を鳴らした。


          ◇


 屋敷に到着すると、シルヴィスさまは私の髪を見て小さく笑って零した。


「取れてしまったな」


 私は慌てて髪に手をやる。


「まあ、自分でも鏡で見てみたかったのに」

「仕方ない。ちゃんと留められなかったし。いつまでもつけていられるものでもないだろう」

「そうなんですけれど」


 でも少し、残念だ。

 せっかくシルヴィスさまがつけてくださったのに。


 私は先に降りたシルヴィスさまに抱えられて、馬から降りる。

 そうしているうち、屋敷が少々ざわめきだし、中から人が出てくる。


「おかえりなさいませ、陛下、王女殿下。見つかりましたか?」


 出迎えに屋敷前に出てきたフランツさまがそう問うた。隣でクリスティーネさまも微笑んでいる。


「ああ、咲いていた。素晴らしい光景だった」


 シルヴィスさまがそう報告すると、フランツさまはほっと息を吐いた。


「それは良うございました」

「ラウクのほうの山にあった」


 何気なく口にするシルヴィスさまの報告に、フランツさまは眉根を寄せた。

 あ、あれ?


「ラウクの山……?」


 フランツさまは、ささやくような声音でそう零した。

 そうしてクリスティーネさまと顔を見合わせている。

 あ。クリスティーネさまのお顔をまともに見られましたね、よかったです。

 その二人の反応を見て、シルヴィスさまは首を傾げた。


「どうかしたか?」

「いえ……。ともかく、良うございました」


 そう言ってにっこりと笑うが、なにやら釈然としない。


「なにか、おかしなことがありまして?」


 私がそう問うと、やはり言葉を濁してくる。


「いえ、そんなことは……」

「なんだ、すっきりしないな。はっきり言ってくれ」


 そう促されても、しばらく躊躇していたフランツさまだったけれど、待ち続ける私たちに負けて、口を開いた。


「あの……ラウクの山に、アーモンドがあったのですか?」

「ああ、あったが?」


 シルヴィスさまがそう返した。私はそれに興奮気味に補足する。

 あの光景を伝えられたら、どんなにいいだろう。


「風が吹くと花びらがたくさん舞って、とても美しかったのです!」

「……たくさん舞って……」


 けれどフランツさまの返事はやはりはっきりしないものだった。


「あの、なにかおかしなことを言いまして?」


 私がそう訊くと、意を決したように、フランツさまは顔を上げた。


「アーモンドの花は、そんな風に散ることはあまり……」

「えっ」

「いえ、散らないわけではないですから、なんとも言えませんが」


 やっぱり釈然としない。

 そこで私ははっと気付く。

 そうだ。花を持って帰ってきたのだった。


「そのとき、花の形のまま、落ちてきた花があるのです」


 私はポケットからハンカチを取り出し、その中に丁寧に包まれた花を傷つけないよう、そっと開いた。

 フランツさまとクリスティーネさまが、それを覗き込む。

 フランツさまは、困ったように眉尻を下げた。


「ああ……これは」

「違うのですか?」

「それは山桜ですな。よく似ているのです」

「まあ」


 そうなのか。アーモンドにしか見えなかったけれど、違う種類の木だったんだ。


「花に細い枝がついているでしょう。これは花柄かへいというのですが、アーモンドにはほとんどありません」

「まあ」

「では、エレノアの見たいものではなかったのか。それはすまないことをした」


 シルヴィスさまがそう謝ってくる。

 なんだか少し、しょんぼりとしているように見えた。


「いいえ! わたくし、この花でとても満足いたしました!」


 だから私は、精いっぱい、はしゃいだ声で返した。


「そ、そうか?」

「はい! 次はアーモンドも見たいですけれど、でもあの山桜も外せませんわ。また行きましょうよ!」


 私は満面の笑みを意識して浮かべる。

 シルヴィスさまが、私の笑顔を見ると幸せな気分になるというのなら、私は笑おう。

 アーモンドの並木道ではなかったけれど。

 山の中の山桜の並木道を、二人で手を繋いで歩き切ったのよ。

 それ以上、なにを望むというの。十分だったわ。


「そうだな、また行こう」


 シルヴィスさまは、安心したように目を細める。


 けれどフランツさまは弁解するように、あわあわと言葉を繋いだ。

 言わなければ良かったと思っているのかもしれない。


「桜とアーモンドの花は、本当にとてもよく似ているのです。山桜の絵にアーモンドだと注釈が入っているような本もありましてね」


 そう語ってから、フランツさまは何かをごまかすように笑う。


 そのとき私は、思った。


 本。アーモンドの花が描かれていた、あの本。

 伝説と呼ばれるようになるには早すぎる、新しいアーモンドの並木道。

 並木道のような、山の中の桜。


 もしかして。もしかしたら。

 あの絵を描いた宮廷画家は、山の中の山桜をアーモンドと勘違いしたのではないかしら。本当は、あの愛の伝説は、あの山の中の並木道にあるのではないかしら。


 なんて。

 そうだったらいいのに、と思うけれど。さすがにそれはないかしら。

 でも、そう思うことにしよう。

 そのほうが素敵だもの。


          ◇


 それから私たちは帰り支度を整え、屋敷を出る。


「とても有意義に過ごせましたわ」


 見送りに来てくれた辺境伯夫妻に、私は微笑んでそう礼を述べた。


「また、アーモンドの花が満開の頃に、寄らせてくださいな」

「ええ、ぜひ。お待ちしております。その頃には、王妃殿下になっておられるのですね」


 そう言って、クリスティーネさまは、またあの完璧な笑顔を見せた。


          ◇


 帰りの馬車の中で、私はまたうっかり眠ってしまったらしい。

 ゆっくりと目を覚ますと、行きと同じように、隣にシルヴィスさまがいて私の肩を抱いていた。


 けれどなんだか、このままでいたかった。

 だから私は、シルヴィスさまの胸に頭を預けたまま、眠ったふりをすることにする。

 でも。


「起きているな?」


 面白そうに問い掛ける声が聞こえる。

 見透かされている。

 でもいい。このまま、眠ったふりをしてしまおう。


「子どもみたいだな」


 そう言ってシルヴィスさまは私の髪を撫でた。


 子どもみたい、と評されたのに。

 でもなんだか、そのとき私は、とても嬉しく思ったのだった。

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