第43話 お花見をしました
シルヴィスさまが私の前を歩き、足元を確認しながら、花が咲くほうを目指して向かっている。
私はときどき、手首に掛けられた鈴を遠くまで聞こえるように、手を高く上げて鳴らした。
道はない。木々の間を抜けていく。落ち葉が降り積もっているので、滑らないように気を付けないと。
などと思っているそばから、軽く足を滑らせた。
「きゃっ」
私はなんとか踏みこたえる。それに気付いたシルヴィスさまがこちらに振り向いた。
「大丈夫か」
「は、はい」
ああ、驚いた。傾斜があるので滑りやすいのだわ。もっと慎重に歩かないと。
「足元に気を付けて歩かれるといい」
そう声を掛けてきて、シルヴィスさまが右手をこちらに差し出してくる。
「鈴は、そうやって手首に掛けていれば鳴るから、気にしなくとも良い」
「はい」
私は差し出された手を取った。
手を繋いだ。ごく自然に。
大きな手が私の手を包む。繋いだ手の温もりが心地よい。
軽く引っ張ってくれているようで、歩くのも楽だ。
力が違う。全然違う。頼もしくて。安心感があって。大きくて。そして、温かい。
私は前を行く、シルヴィスさまの広い背中を見つめる。
そのとき急激に、私の中で感情という感情が動き始めた。
視野が急に広がったような、そんな感覚だった。
私、シルヴィスさまのこと、好きだわ。
『恋夢』のフェリクスみたいとか、物語の中の人みたいに素敵とか、そうではなくて。
私のために動いてくれる。
額に口づけを落としてくれる。
こうして私に手を差し伸べてくれる。
そういう、シルヴィスさまが好きなのだわ。
私だけかしら。
シルヴィスさまは私のこと、どう思っているのかしら。
やっぱりまだ、子どもみたいって思っている?
政略結婚だから、相手なんてオルラーフの王女であれば、誰だっていいと思っている?
恋なんてしなくてもいいと思っている?
私は好きなのに。
私はシルヴィスさまのことが好きなのに。
相手がこちらを想ってくれないと、恋愛は成立しないんだ……。
胸をぎゅっと押さえつけられるような感覚がする。
手を繋いでいて、こんなに近くにいるのに、なんだか泣きたくなる。
物語の中の恋は、とても甘くて素敵で輝いているのに。
現実の恋は、どうして苦しいんだろう。
こんな気持ちを知らなければよかったと思うくらいに。知らなければ無邪気なままでいられたのにと思うくらいに。
恋は、楽しいだけではないんだ。
私はそのとき、それを知った。
俯いて歩いていると、足元にフクジュソウが生えているのが目に入る。もう少し早ければ、赤や黄色の花が咲いているのが見られたのかもしれない。
少し目を動かすと、小さな白い花をたくさんつけたバイケイソウが伸びているのが見える。
オモト、ハナヒリノキ、オクトリカブト。
そんな草花に囲まれ、私たちは手を繋いで二人で歩いて行く。
決して美しいだけではない、私たちの道のり。
気付いていますか? 私、その気になれば、いつだって――。
「着いた」
前を行くシルヴィスさまが立ち止まり、私は顔を上げる。
「わあ……!」
ひらひらと、花びらが舞っている。
視界いっぱいの、薄い桃色。
「きれい……」
「探した甲斐があった」
満足そうにシルヴィスさまがそう口にする。
満開の花が咲いている。下から見たときよりも、荘厳な景色が広がっていた。
両脇にちょうど三本ずつ満開の木が並んでいて、並木道のようになっている。
「並木道! 並木道ですわ!」
「ああ、そうだな」
私のはしゃいだ声に、シルヴィスさまがうなずいて答える。
ふと繋いだ手が緩まった気がしたので、私は慌ててぎゅっと手を握った。
すると、彼もこちらを握り返してくる。
私はシルヴィスさまの顔を見上げる。彼はこちらを見つめて微笑んでいた。
嬉しい。幸せな気持ちでいっぱいになる。
恋は、苦しい。
けれど同時に、こんなに幸福が溢れるものでもあるのだ。
「歩きましょう」
「そうだな」
私たちは手を繋いだまま、その満開の花の下を歩いた。
傾斜があって歩きづらいけれど、手を繋いだままだから、不安はない。
花を見上げたシルヴィスさまが口を開いた。
「よく見ると、もう葉がついているな」
言われて私も見上げる。
本当だ、赤茶色の葉がついている。
「ギリギリで満開に間に合ったのかもしれない」
「見られて良かったですわ」
「エレノアのおかげだな。エレノアが見つけてくれた」
そう褒めると、こちらに微笑んでくれる。
「シルヴィスさまが連れてきてくださったからですわ」
「いや、そもそもエレノアが見たいと言ってくれたからだ」
そう話しているうち、並木道の端にたどり着いた。
振り返って花を見ようとしたとき、自然と手が離れた。
けれど、手を繋いだまま、渡り切ったのだ。
フランツさまが作ったというアーモンドの並木道は満開ではなかったし、手も繋げなかった。あのとき、並木道を手を繋いで渡る、という目標は達成できなかった。
けれど今、ここで並木道を渡り切れたのだ。
私の胸は満足感でいっぱいになる。
「もう昼を過ぎたな」
シルヴィスさまは空を見上げて太陽の位置を見てからそう零す。
「軽食をとろう」
そううながして、肩にかけていた荷物を下ろした。
なんの荷物かと思ったら、軽食なんて入っていたんだ。ハーゼンバイン家が用意してくれたのだろう。
彼は中から敷物を取り出し、広げると地面に置いた。小さな絨毯のようなもので、けっこう重みがありそうだ。
軽々と荷物を持っていたけれど、やっぱり重かったのではないだろうか。
私たちはその上に座る。
私は横に足を崩して座り、シルヴィスさまは前に足を伸ばして後ろに手をついていた。
そうしてしばらく、その美しい光景を眺めた。
なんの言葉もいらなかった。
少ししてシルヴィスさまは荷物の中から軽食を取り出し、こちらに差し出してきた。パンに野菜と豚肉の燻製が挟まれたものだった。
二人して、それにかぶりつく。
「美味しい」
「ああ、こうして外で美しい景色を眺めて食べると、殊更に美味いな。なかなかこうすることもないから、新鮮だ」
そう感想を口にして、シルヴィスさまは笑った。
本当に、とても美味しかった。
けれどきっと私が美味しいと感じるのは、外で食べるという新鮮な行為だからと、それだけではない。
私がこれを格別に美味しいと思うのは、隣にいるのがあなただから。
という言葉を言いたかったけれど、なぜか言えなくて、私は口をつぐんだ。
するとシルヴィスさまは、ふいに喋り始める。
「ケヴィンではないが」
「え? 王弟殿下?」
私はシルヴィスさまのほうに顔を向けて、首を傾げる。
「ああ」
そう応えて、彼はこちらに振り向いた。あの幼く見える笑顔を見せてくる。
「エレノアは、本当に嬉しそうに笑うから、なんでもしてやろうという気になる」
「そ、そうですか?」
「ああ。こちらも幸せな気分になる。それはエレノアの長所だな」
そう言って、小さく笑う。
私は異を唱えたくなった。王弟殿下と一緒にしたくない。
「それは、シルヴィスさまだからです。シルヴィスさまだから、わたくしは笑えるのです」
「そうか?」
「そうです」
「嬉しいことを言ってくれる」
微笑むと、彼はまた満開の花に目を移す。私もそれに倣う。
それはとても幻想的な光景で、そして幸せな時間だった。
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