第38話 がっかりしました
はい、ハーゼンバイン領に突入しました。
「辺境伯の屋敷はもう少しだ」
私の前に座っていたシルヴィスさまはそう言って、馬車の中から外を覗いた。
けれど、なぜか彼は眉を曇らせる。
「これは……」
なんだろう。なにかあるのかしら。
私もシルヴィスさまに倣って外の風景を眺める。
そこはまだ田園風景で、さして変わったものがあるようには見えなかった。
ぽつぽつとある民家。穀物を植えるのであろう畑を耕す人がいる。遠くには低い山が見え、新緑の色が美しい。
ハーゼンバイン領は大きな街道があって栄えているという話だけれど、ここはまだ郊外で、いたってのどかな土地が広がっている。
特におかしなことはないように見えるけれど。
私は首を傾げる。
「シルヴィスさま?」
「あ、ああ……。それが……」
けれどシルヴィスさまは、開きかけた口を閉じて、また深く座り直した。
「いや、まだわからないな。フランツ殿に訊いてみよう」
つぶやくようにそう零すと、シルヴィスさまは腕を組んで目を閉じる。
初めてこの地に来る私にはわからなかったけれど、シルヴィスさまには何かおかしなものが見えたのかしら。
まあ、まだわからない、と言ったのだから、それがなにかは知らないけれど取り越し苦労である可能性もあるのだろう。
だから私も、それ以上は訊かなかった。
◇
「いらせられませ、国王陛下、王女殿下」
私たちがハーゼンバイン辺境伯家の屋敷に到着すると、熊のぬいぐるみ……もとい、辺境伯とクリスティーネさまが出迎えてくれた。
「世話になる」
短くシルヴィスさまがそう返した。
「フランツさま、クリスティーネさま、またお会いできて嬉しく思います」
「もちろんわたくしもですわ、エレノア殿下」
にっこりと微笑み、クリスティーネさまが挨拶する。
舞踏会のときよりも質素で、装飾もあまり付いていない萌黄色のドレスを身に着けていたけれど、それでもクリスティーネさまは美しかった。
誰よりも、なによりも、目を惹かれる。
いやあ、『魔性の域』という評価は、正しいと思います。女の私ですら、ぽーっとそのお姿を眺めていたいような気持ちになりますもの。
毎日のように見ているであろうフランツさまは、妻であるというのに、恥ずかしそうになかなか目を合わさない様子だ。
それをちらっと横目で見るクリスティーネさまの視線が、少々、怖いです。
挨拶を交わしたあと、私たちを客間に案内しようとお二人は歩き出す。
シルヴィスさまはフランツさまと、私はクリスティーネさまと並んで廊下を歩いた。
馬車から荷物を下ろしていた従者たちも、ぞろぞろとそのあとをついてくる。
ふと、シルヴィスさまはフランツさまに話し掛けた。
「実は」
「はい、なんでしょう」
「今回は並木道のほうに行ってみたいと思っているのだ」
並木道、の言葉だけでフランツさまはわかったようだった。うなずいて返す。
「ああ、アーモンドの並木道ですか」
「ええ、ぜひとも見てみたいと思っておりますの」
後ろから私がそう声を掛ける。
すると、歩きながら振り向いたフランツさまは、困ったように眉尻を下げた。
あれ?
「そうでしたか。……アーモンドの並木道は、それはそれは美しいのですが」
「ええ、そう聞き及んでおります」
だから見てみたいのだけれど。
でも、なんだか雲行きが怪しい。
これは、もしや。
「けれど……残念ですが、もう花も終わりに近付いております」
「ああ……」
「やっぱりそうか」
シルヴィスさまがため息とともにそう口にする。
そうか、さっき馬車の中で言っていたのは、このことだったのか。
あの辺りの風景を見て、もう花が咲いていないのではないかと危惧したのだろう。
大当たりでした……。
「今年は幾分、例年よりも暖かでして。花が咲くのが早かったのです」
申し訳なさそうに辺境伯は説明した。隣のクリスティーネさままで悲しそうな表情をしている。
「まだ花がすべて枯れてしまったわけではないのですが、おそらく王女殿下が期待なさっているようなものではないかと……申し訳ありません」
謝らせてしまった。謝るようなことではないのに。
「いえ、仕方ありませんわ。自然のことですもの」
「ご期待に沿えませんで」
そう謝罪するフランツさまを見ていると、くたびれてしまって部屋の片隅に置かれたぬいぐるみを思い出してしまう。
そういえば、あの熊のぬいぐるみはどうなってしまったんだろう?
いやいや、思わず感傷的になってしまった。
これはいけない。
「今回は残念でしたけれど、また満開のときに寄らせていただきたいですわ、よろしくて?」
私は努めて明るい声を出してそう訊いた。
「ええ、それはもちろん」
ほっとしたようにフランツさまはそう答えた。
でも、そっかあ。
そっかあ……。
歩きながら物思いに沈んでいると、ふいにクリスティーネさまが声を出した。
「ああ、そういえば、アーモンドの並木道には、でん……」
「ク、クリスティーネさまっ」
私は慌ててクリスティーネさまの腕をつかんだ。
前を行く男性陣は、驚いたようにこちらに振り返る。
「え?」
クリスティーネさまは急に慌てだした私にびっくりしたようで、きょとんとこちらを見ている。
あああああ、なんてことを言い出そうとしているんだろう、この美女は。
今、アーモンドの並木道の伝説の話をしようとしてましたよね?
その話、シルヴィスさまには内緒なんです! 恥ずかしいから!
「あ、あの、あの……それは」
けれど何も知らないクリスティーネさまにそんなことを言っても仕方ない。
ど、ど、ど、どうしよう。
そんなことを考えていると、彼女は少し考えるような素振りをしたあと、ああ、とうなずいた。
「承知いたしました、エレノア殿下」
そう了承して、にっこりと微笑んだ。
さすがです! 『魔性の域』の美女は、すぐさま理解してくれました!
「どうかしたか?」
私たちの様子に、シルヴィスさまたちは首を傾げている。
するとクリスティーネさまは、つんとすましてこう答えた。
「女同士の内緒の話ですの。殿方には教えて差し上げられません」
それを見た男性二人は首を捻っている。
けれどそれ以上追及する話でもないと思ったのだろう。また二人は前を向いて歩き出した。
「いつの間にか、そんなに仲良くなっていたのか。妬けるではないか」
シルヴィスさまは、そう言って笑っている。
妬ける?
それはどちらに?
私はその言葉を、呑み込んだ。
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