第35話 甘えました

 身体が揺れている。ガラガラという音が聞こえてくる。閉じた目の外は明るいのがわかる。


 なんだろう、これ。

 どうして眠っているんだろう? お昼寝していたところだったかしら?

 なんだか頭に、硬いような柔らかいような感触があって。

 肩に、温かいような冷たいような感触があって。


 なんだろう、これ。なんだろう。

 ええと、そうよ、シルヴィスさまがハーゼンバインに連れて行ってくれることになって、眠れなくて。

 だから、私、馬車の中で起きていなくちゃいけないのに、眠くなっちゃって。

 眠らないようにってがんばっていて。


 それで。


「あっ」


 でも眠っちゃったんだわ! しまった!


 ガバッと身体を起こす。

 目の前にいるはずの、シルヴィスさまがいない。


 なんでっ?

 と思ったら、何もないはずの隣に何かいる!

 バッとそちらに振り向くと、驚いたように目を見開いているシルヴィスさまがいた。


「ひょえっ」


 変な声、出た!

 私は慌てて両手で口元を押さえる。


「ああ、これは失礼」

「あの、えっと」


 シルヴィスさまは少し笑って、そして私の背中のほうにあったのであろう右腕を、ゆっくりと自分の膝の上に置いた。


 寝ぼけていた頭が一気に回転を始めている。

 ええと、状況を整理してみよう。


 とにかく、うっかり眠ってしまったのは間違いない。

 それで、よくわからないけれど、シルヴィスさまは私の前から横に移動してきたのだわ。

 私の背中のほうから腕を抜いたっていうことは、肩にあった感触は、シルヴィスさまの手で。

 それで、頭にあった感触は……たぶん、胸元に頭を預けていたのだわ。


 なんてこと。

 そこまで理解すると、私は自分の頬を両手で包んだ。

 は……恥ずかしい。一生の不覚。


 どうしていいのかわからずに俯いていると、シルヴィスさまの声が降ってきた。


「うたた寝しておられて、そのまま寝かせて差し上げたかったのだが、振動で前に倒れそうになったので支えようかと」

「ま……まあ」


 シルヴィスさまは、一生懸命、状況を説明しようとしているようだった。

 そういうことなら、とにかくお礼を言わなければ。

 私はなんとか顔を上げて、口を開いた。


「あ、ありがとうございます」

「いや」


 そう応えて彼は口の端を上げる。

 ああ、私、どうしてあんなに急に起きてしまったんだろう。

 眠ったふりをして、堪能しておけばよかった!


「疲れていたのだろう。急に出掛けることになったし」


 シルヴィスさまは恐縮している私を慰めているつもりなのか、そう口にした。


「じ、実は……」

「ん?」

「楽しみ過ぎて、眠れなくて」


 私は正直にそう説明した。

 その言葉を聞いて、シルヴィスさまは小さく笑う。


「そんなに楽しみだったか。それは良かった」


 言いながら、腰を浮かせようとする。

 私が起きたので、元の位置に戻ろうとしているのだろう。


「あ、あのっ」


 私は慌てて、シルヴィスさまの服の袖をつまんだ。驚いたように彼が振り返る。


「あの……もう少し……」


 だって、シルヴィスさまを堪能していないもの!

 眠っている間だけ、って、そんなの納得いかない!


 上目遣いで、懸命に目で訴えてみる。

 するとシルヴィスさまは視線を泳がせたあと、ふいっと目を逸らした。

 うん?


「まあ……構わないが」


 そう言うと、彼はそのまま座り直す。

 だが、座っただけだ。

 そうじゃない。そうじゃないのよね……。

 私はいろいろ考えたあと、思い切って、えいっと身体を横に倒し、シルヴィスさまの胸に頭を預けた。


「エレノア?」

「かっ、構わないんですよね!」


 押し切れ! 私!

 ぎゅっと目を閉じて、どきどきしながら反応を待っていると、シルヴィスさまが身じろぎしたのがわかった。それから、肩に手が置かれる。大きな手。


 うわわわわ。恥ずかしいような、嬉しいような、安心するような、なんとも言えない感情が、身体の奥底から湧いてきた。

 なんだか顔が熱くなってきた。今きっと、耳まで真っ赤になっているのに違いないわ。


 今は、『恋夢』のフェリクスみたい、って思わない。


 だって、フェリクスは私をこうして甘えさせてはくれないもの。私に触れてはくれないもの。私を包むように肩を抱いているのは、シルヴィスさまだもの。


 だから、もう少しわがままを言ってもいいかしら、という気分になった。


「あっ、あのっ、もうひとつ」

「うん? なんだろうか」

「あの……あのですね……あの……」

「ん?」


 あああ、あのあの言っている場合じゃない。ないんだけれど、恥ずかしくって、なかなか口にできない。

 でも、がんばれ、私!

 侍女たちにも、がんばるって言ったでしょ!

 行けー!


「こっ、この前の、そのっ……あれ、……もう一度、してくださいっ」

「……この前の?」

「あのっ、額のっ」


 いや、これでもがんばっているんです!

 でももう、これ以上は無理です!

 お願い、そろそろ察して!

 頭の中がぐるぐるして、爆発しそうです!


 私はシルヴィスさまの顔を見ることができずに、ぎゅっと目を閉じたまま、黙って待った。


 すると、額に、シルヴィスさまの手が触れた。

 あ、と思うと同時に、優しくて柔らかな、唇の感触が額に落ちる。

 唇が離れると私は目を開け、彼の顔を見上げる。

 シルヴィスさまは、その感触と同じように、優しく、柔らかく、微笑んでいた。


「こうだろうか?」

「は、はい」

「我が婚約者殿は、意外に大胆だ」


 シルヴィスさまはそう言って、口元に穏やかな笑みを浮かべた。

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