第34話 出発しました
その日は朝から、侍女たちがなにやらバタバタと慌てているような様子だった。
欠伸をしながら寝所から出て、ドレスに着替えてのんびりと朝のお茶をいただいていると、フローラがやってきて、そして告げた。
「明日からハーゼンバインに向かいますけれど、なにかこれは持っていきたいという荷物などありますか?」
「はい?」
ハーゼンバインがなんですって?
私が目を瞬かせてフローラに視線を向けると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「陛下が明日からハーゼンバイン領に行くと仰られましたの。エレノア殿下もご一緒に、と」
私は唖然として、フローラの顔を見つめてしまった。
聞いていない。これっぽっちも聞いていない。
というか、あれからシルヴィスさまに会っていない。とは言っても担がれたのは三日前の話だけれど。
結局、ハーゼンバイン領に行く話は採用になったのか。あんなにぐずぐず躊躇していたのに。
「ええと、明日から?」
「ええ、早朝から」
「そんな急に大丈夫なの?」
「ご予定はすべて空けましたけれど」
さすが、できる女。滞りはなさそうですね。
そんなことをフローラと話していると、いつの間にやら侍女たちが周りに集まってきていた。
「楽しみですね!」
「アーモンドの花が咲いているといいですね」
「私、考えましたの、自然に手を繋ぐにはどうしたらいいのか」
「私もですわ、でもなかなか」
「自然に、というのが難しいのですわ」
本当に真剣に考えていたらしく、ああでもない、こうでもないという討論までが始まった。
「あ、ありがとう……」
まさかこんなに応援してくれるなんて。
私なんて、彼女たちからすれば余所者だろうに。
たとえそれが疑似恋愛を楽しんでいるものだとしても、とてもありがたいことだ。
私は、幸せ者だ。
「わたくし、がんばります!」
拳を握ってそう宣言すると、いつかと同じように、わっと拍手が湧いた。
◇
ハーゼンバイン領には、ローザを含めて三人の侍女がついてくることとなった。フローラと他の侍女たちはお留守番だ。
シルヴィスさまの侍女や侍従も最低限で、あとは兵士たちが何人か守ってくれるという。
「あまり大げさに行くのもな」
馬車に乗り込む前に、シルヴィスさまがそう零した。
けれど、五台もの馬車が連なって行くのは、けっこうな大げさっぷりだと思います。
私とシルヴィスさまが一台の馬車に。
その他は侍女や侍従たち、それに荷物。兵士たちが休憩する用。
途中、教会や貴族の屋敷に宿泊しながらハーゼンバインに向かう予定。
私はそれを、呆けた頭で聞いていました。欠伸を噛み殺すのに精いっぱいです。
いけない。楽しみ過ぎて、昨夜は眠れなかったから。
「ではいってらっしゃいませ、陛下、エレノア殿下」
フローラがこちらに向かって頭を下げる。顔を上げると、私に向かって小さく拳を握った。
がんばれ! ってことですね。ええ、がんばります!
私も拳を握り返す。
そんなことをしていると、向こうから見知った人影が近寄ってくるのが見えた。
顔を向けると、ケヴィン王弟殿下だった。相変わらず、全体的に出てますね。
「お見送りが遅れまして。もう出かけられるのですか」
彼はこちらに歩み寄りながら、そう声を掛けてくる。
「ああ。なるべく早く帰ってはくるが、留守の間を頼む」
「お任せを、陛下」
そう応えて、頭を下げる。
そして頭を上げたときには、胡散臭い笑みを浮かべていた。
「いやあ、仲睦まじいご様子で、羨ましい限りですなあ」
言っている言葉は大した意味もないような感じだけれど、なんとなくその裏に、下品な意味が隠れているような気がした。
ああ、婚前旅行ということを、卑しい目で見る人がこんな身近に。
だからシルヴィスさまは妙に意識してしまったのではないかしら、などと思う。
「お前も、エルマ夫人やクロヴィスと出掛けるといい」
シルヴィスさまはそう返したけれど、王弟殿下は首を横に振った。
「いやいや、正直なところ……エルマは何をしても辛気臭い顔をする女でね。出掛ける甲斐もない」
そう愚痴ると肩をすくめる。
「エレノア王女殿下のように輝かんばかりの笑みを浮かべてくれる女性ならば、なんでもしてやろうと思えるものです」
そして私のほうに振り返って、歯を出して笑った。
本当にもう、どう返していいのやら。
「わたくしは、陛下に笑顔にしていただいているのですわ」
そうよ。なんだかんだ言って、今回も私の希望を聞いてくれたのだし、私の笑顔が輝かんばかりだと言うのなら、それはシルヴィスさまのおかげよ。
エルマ夫人が笑わないのなら、ケヴィン殿下が笑わせてあげればいいわ。
私の言葉に、王弟殿下は特に返事はしなかった。
「では道中、お気をつけてくださいませ」
彼がそう言って頭を下げると、見送る皆も倣って頭を下げた。
なので私たちは手を上げてそれに応えたあと、彼らに背を向ける。
それから馬車に乗り込む。すると、目の前に座ったシルヴィスさまが申し訳なさそうに謝罪してきた。
「急に、すまなかったな」
「いいえ、わたくしのお願いを聞いていただけて、とても嬉しく思います。わたくし、楽しみです」
うふふ、と笑いながら応えると、シルヴィスさまはほっと息を吐いた。
「参ります」
御者が声を張り上げたのが聞こえ、馬車はゆるゆると進みだした。
私は馬車の窓から少し顔を覗かせ、見送ってくれた人に手を振る。
城門を過ぎたあたりで前を向き、座り直した。
目の前にはシルヴィスさま。馬車の中には二人きり。
道中、ずっとこうかしら。話が途切れたりしないかしら。楽しい話もいっぱい仕入れておけばよかったかしら。でも、昨日、急に言われたから準備不足だわ。
けれど、きっと楽しいわ。だってシルヴィスさまと一緒なんだもの。
そうよ、私はシルヴィスさまに笑顔にしてもらっているのよ。
なのに、自分の妻を辛気臭い顔をする女、だなんて。
「喜んでいただけたようで良かった」
シルヴィスさまは、そう言って私に笑いかけた。
「それはもう。私が笑顔でいられるのは、シルヴィスさまのおかげですわ」
「このくらいで笑顔になってくれるなら、安いものだ」
シルヴィスさまはそう微笑んだあと、小さくため息をついた。
「それこそ、夫人を連れて旅行にでも行けばいいものを……」
ぼそりと口にして、馬車の窓から外を眺めている。
「ケヴィン王弟殿下?」
「そう。彼らも政略結婚ではあるのだが……」
シルヴィスさまは眉尻を下げ、髭を撫でてなにやら考え込んでいる。
「それでも、最初は上手くいっていたように見えたのだがな」
「……そうなんですか」
「ああ、すまない。愚痴になってしまったか」
はっと気付いたようにこちらを見ると、シルヴィスさまは申し訳なさそうにそう断った。
「いいえ、大丈夫です」
「いや、道中、あまり暗い話もなんだろう」
「けれど、そういうことも分かち合うのが夫婦というものでは?」
私がそう返すと、シルヴィスさまは驚いたように顔を上げて目を瞬かせた。
「なにか?」
私が首を傾げると、彼は小さく苦笑する。
「いや、エレノアは本当に十六歳なのか? ずいぶん大人びたことを言う」
「あら、十六歳に見えませんか?」
わざとらしく頬を膨らませてみせると、シルヴィスさまはくつくつと喉の奥で笑った。
「やはり、エレノアは面白いな」
「それは褒め言葉なんですよね?」
「もちろん」
しばらく笑い合ったあと、私たちは窓から流れる景色を眺めた。
これからの旅が、きっと楽しいものであることが確信できた。
遠くに見える街並みが後ろに流れていく。入城したときに見た景色とは、真逆に動く風景。
ふと、欠伸が出そうになって、口元に手をやってそれを我慢する。
ああ、やっぱり昨日、ちゃんと眠れなかったから。
綺麗に整備された道を走る馬車の振動が、なんとも眠気を誘う。ガラガラという音が規則的なのが、余計に、だ。
いけない。ちゃんと起きておかないと。
けれど私の瞼は、次第に重くなっていったのだった。
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