第31話 何事もありませんでした(ホントは少しありました)
寝所の扉がぱたんと閉まる。
中はいつものように、ランプがひとつ灯っているだけで、薄暗い。
その中を、シルヴィスさまはまっすぐにベッドに向かって歩く。
あああああ。
終わった。
私はがっくりと全身の力を抜く。
夢にまで見た私の初夜は、荷物みたいに運ばれて始まっちゃったんですね……。
私が読んだ恋物語では、横抱きにされてベッドに運ばれてたんですけど……せめて、あの抱き方にしていただきたかったです……。
シルヴィスさまはベッドの前で立ち止まると、力を抜いた私の背中に手を当てて、そのまま前に屈むと、私をベッドの上に投げ出した。
「ひゃっ」
変な声、出た。
もう、いろんなことがどんどんと『恋夢』から遠ざかっていっています……。
ギシッという音がしてそちらにぱっと顔を向けると、シルヴィスさまがベッドの端に膝をついたところだった。
慌てて起き上がろうとするところに、顔の両側にぼすん、と腕をつかれた。ベッドが軋む音がする。
「ひっ」
私は思わず、自分の顔の前で腕を交差させ、身体を丸めて、ぎゅっと目を閉じる。
なにこれ。
こんなのじゃない。シルヴィスさまは、こんな人じゃない。
「こちらを見ろ」
言われて、おそるおそる交差した腕を胸元に移動させて、そうっと目を開ける。
濃緑の瞳が、こちらを覗き込んでいた。
じっと見つめるその視線が怖くて、再び目を閉じてしまう。
「見ろ」
「えっと、あの」
「怖いのだろう」
「こ、怖くなんて」
なのに、声が震えている。なんの説得力もない。
私、なんで怖いの? 過程はどうあれ、シルヴィスさまの妻になるって思っていたのに。
そうだわ、それはシルヴィスさまがいけないのよ。私の思うような人でいてくれないから。
私の思うように、恋物語の登場人物のようでさえいてくれれば、怖くなんてなかったのに。
シルヴィスさまの顔が、私の顔に近付いてくるような気配がする。怖い。目が開けられない。
なんだかなにかの匂いがする。香水の香り? 汗の匂い?
いや、男の人の、匂い。
目を閉じたままの私の唇に、シルヴィスさまの息がかかる。
本気? このまま? 嘘でしょう?
私、こんな気持ちのままで、シルヴィスさまの妻になっちゃうの?
「いやっ」
反射的に顔を背ける。
するとシルヴィスさまの気配が遠ざかっていった。それから小さなため息が聞こえる。
あれ?
私が薄目を開けると、シルヴィスさまは身体を起こし、そしてベッドから降りると、そのままベッドの端に腰掛けた。
私は半身を起こし、その広い背中を見つめる。
「あの……シルヴィスさま」
「そなたは余と恋をしたいと言うが」
こちらには振り返らず、シルヴィスさまは語り始める。
「余は、どうしてもそなたが余を好くようには思えないのだ」
「そんなこと……」
「余を通して、どこか遠くの誰かを見つめていらっしゃる。そのようにお見受けする」
そう言ってからこちらに振り向き、じっと私の目を見つめてきた。
『恋夢』みたいな恋をする私たち。
『恋夢』のフェリクスみたいに素敵なシルヴィスさま。
……あれ? そうなの?
私が見ているのは、シルヴィスさまではないの……?
呆然とシルヴィスさまの言葉を聞く私を見て、何事かを考え込むように、シルヴィスさまは眉間に指を当てた。
「いや……誰かと言うより……そうだな、言うなれば」
そしてこちらに視線を向ける。
「恋に恋をしていらっしゃる、そのようにしか思えない」
私の身体が、わずかに震えた。
恋に恋。
「そ、そんなことは……ない……です」
「そうか。では余の思い違いか」
シルヴィスさまは、あっさりとそう受け入れる。けれど、どこまで私の言葉を信用したものか。
彼はゆっくりとベッドから立ち上がると、こちらに振り向いた。
「手荒な真似をして申し訳なかった。今日はこのまま休まれるといい。ローザも控えているだろう」
シルヴィスさまはこちらに背中を向け、足を前に出そうとする。
「わっ、わたくしは!」
そのままシルヴィスさまを行かせたくなくて、慌てて彼を呼び止める。
「急だから驚いただけですわ!」
そうよ。そうなのよ。
私はシルヴィスさまと恋をするの。
そうして幸せになるの。
決めているの。
私が決めたのよ。
「わたくしはシルヴィスさまの妻になるんです! 今日は急だから驚いてしまっただけなんです!」
「では次回は止めない。絶対に」
彼はそう冷静な声で返してきた。
「泣こうが喚こうが、止めはしない。その覚悟をしておくことだ」
「……はい」
うなずいてそう返事をする私を見て、シルヴィスさまはふっと笑った。
そしてまたこちらに向き直ると、歩み寄ってくる。
彼の手が伸びてくる。びくりと私の身体が震えて、ぎゅっと目を閉じる。
額に手が掛けられたかと思うと、前髪を掻き上げられる感触。
そして優しく柔らかな唇が、私の額に触れた。
「え」
目を開けて見上げると、シルヴィスさまは穏やかに微笑んでいた。
「おやすみ、エレノア」
「……おやすみ、なさい」
呆然としたままそう答えると、彼は身体を起こして、今度こそ寝所を出て行った。
パタン、と静かに扉が閉まる。
私は何もできなくて、ただ口づけられた額に手を当て、ベッドの上に座り込んだままだった。
キィ、と再び寝所の扉が開く。
「姫さま、着替えましょう」
ローザだった。
一気に現実に引き戻される。
「えっ、ええ、ああ」
「早かったですね」
首を傾げてローザが言う。
「何事もありませんでしたからね!」
「まあ、そうなんでしょうね」
応えながら、ローザは私の手首を持って引っ張って立たせる。
そのまま衣装室に連れて行かれた。
寝衣に着替えさせられながら、私は口を開く。
「……裏切り者お」
恨みがましい私のその言葉を聞くと、ローザは軽く肩をすくめた。
「そうですね。私はオルラーフ国王陛下と王妃殿下に命じられた仕事を、陛下に押し付けたわけですから」
「……え」
「『現実を見て悲しむ前に、現実を叩きこんでほしい』。それが私が承った仕事です」
ローザの言葉に、私は固まった。そんな私をローザはじっと見つめている。
結局のところ、シルヴィスさまは最初から何もする気はなくて、ただ私に現実を知らしめたかっただけなのだろうか。
現実の男の人は、恋物語のように優しくて素敵で自分の思い通りに動くわけじゃないんだと。
そうなのかしら。
私は現実を知らない子どものままなのかしら。
そんなことはない。そんなことはないわ。私は……。
「大丈夫です」
ふいにローザに話し掛けられ、思考を中断させられる。
顔を上げると、彼女は微笑んでいた。
「私は、誰になにを言われていても、姫さまの味方ですよ」
「嘘つき……」
「本当ですよ。信じなくても構いませんが」
そう言うと、ローザは歩き出して、寝所へ続く扉を開けた。
「さあ、今晩はお休みになってくださいな。夜の憂鬱は、朝には半分になっているものです。上手くいけば、きれいさっぱりなくなっていますよ」
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