第18話 辺境伯にお会いしました
私は二人の傍にゆっくり歩み寄っていった。その会話が耳に入る。
「一曲でいいのです、今宵の記念に」
「わたくしは今日は、夫とだけと決めておりますの」
ほら、やっぱり。
「クリスティーネさま?」
私は扇で顔を隠しつつ、なるべく穏やかにそう呼び掛ける。
二人が同時にこちらに振り向いた。
「お話し中、ごめんなさい。でもわたくし、クリスティーネさまと昨日から、お約束しておりましたの」
嘘は言っていない。昨日、辺境伯を紹介するって言われたもの。
クリスティーネさまは、慌ててコクコクとうなずいた。
「申し訳ありません、王女殿下。今、参ろうと思っておりましたの」
よし。それならこのまま話を進めてしまおう。
「マリウスさまは、お急ぎ? わたくし少しの間、クリスティーネさまとお話をしたいのだけれど、よくて?」
オルラーフ王女をないがしろにできるものならやってみろ! 敗戦国だからといって、王族を邪険にはできないでしょ!
それでもクリスティーネさまから離れないというのなら……ある意味、感心するけれど。根性あるなあ、って。
マリウスさまは私に向かってにっこりと微笑んだ。
少なくとも見た感じ、不愉快には思っていないように見える。
「これはこれは王女殿下。失礼いたしました。いえ、私は彼女をダンスに誘っていただけですので」
「まあ、お邪魔でしたかしら?」
「いいえ、今宵は美しい花をこちらに向かせることはできそうにありませんでしたから、そろそろ引き際かと考えておりました」
「あら」
ほほほ、ははは、と訳のわからない笑いを交わして、それからマリウスさまは会釈して立ち去って行く。
ほっ、と息をついたところで。
「助かりました、エレノア殿下」
クリスティーネさまが、またあの完璧な笑みを浮かべてそう礼を述べた。
「余計なお世話でなければいいんですけれど」
「いいえ、本当に助かりました。公爵閣下のお誘いに乗りますと、後が少々、面倒になりますので」
見ればマリウスさまの周りには、また女性たちによる輪ができていた。
きっと、あの輪を構成している女性たちが、『面倒』の元になるんじゃないだろうか。
あの女性たちはどこぞのご令嬢なのだと思われる。今回は私の覚え書きはご令嬢やご令息たちの情報は省くことにしたから、たぶん、だけれど。
あなた方は目を覚ます必要がある。その人は、いくら美形で権力と財力があったって、趣味嗜好が偏りすぎている困った人ですよ。
「マリウスさまも、わたくしが未婚のときは、こちらを見もしませんでしたのに」
とクリスティーネさまは苦笑する。
こんな美人でも、独身だと興味ないのか……。どうなっているんだろう、マリウスさまの倫理観って。
「ハーゼンバイン辺境伯閣下は、まだ来られていないのですか?」
私はそう問うて、クリスティーネさまに向かって首を傾げる。
一番に妻を守らねばならない人は、いったいなにをしているのか。
「おりますわ。そこに」
「えっ」
言われて振り返ると、熊のぬいぐるみが私たちを見ていた。
いや違った。なんだか柔らかそうな頬とお腹をしていて、淡い茶色の髪がふわふわして、つぶらな瞳をした男性だ。やっぱり私が幼い頃に持っていたぬいぐるみに似ている。
その人は、はは、と引きつった笑いを浮かべると、こちらにやってくる。
クリスティーネさまは、若干だけれど厳しい声音で呼び掛けた。
「あなた、こちらはオルラーフ第一王女であらせられますエレノア殿下です」
「ご拝顔賜り光栄です、エレノア王女殿下」
「お初にお目にかかります」
そんな風に挨拶を交わすけれど、私の頭の中は混乱していた。想像していた人物像とかけ離れていたからだ。
ハーゼンバイン領といえば、ハンネスタとクルーメルの二国と接していて、さらには交易路である大きな街道が通っている最重要地域のはずだ。
そこを任されている辺境伯と言われれば、ものっすごい強面を想像しますよね? もしくはキリッとした騎士然とした人を思い浮かべますよね?
少なくとも熊のぬいぐるみとは思わないんじゃないでしょうか。いや、熊ってとっても強いけど。
「フランツさま? 美しいご夫人をお一人にされては悪い虫が誘われてまいりますわよ?」
冗談めかしてそう口にしてみる。
「いやあ、ははは……。飲み物を取ってくる間に、あっという間に声を掛けられるのですから、本当に困りました」
と両手でグラスを持ったまま、フランツさまは苦笑いを浮かべている。
クリスティーネさまは、そのうちのひとつを奪い取るように手に取った。フランツさまはもうひとつを私のほうに差し出してくるが、私はそれを手で制する。私はお酒は飲めません。
いやあなた、クリスティーネさまがお困りになっているとき、なにもせずに眺めていたじゃないですか。
あああ、ほら、クリスティーネさまを見てみなさい。非難めいた薄目でじーっとあなたを見てますよ。
国境守っているんだったら、ついでに妻も守ってみせろ、このすっとこどっこい! って顔してますよ。
「お美しいご夫人ですものね。わたくしもクリスティーネさまとお話したくて、このように誘われてまいりました」
「そうでしたか。では私はお邪魔でしょうから……」
などと返してきて立ち去ろうとする。
いやいや、なにを仰っているんですか、あなた。
「もちろん辺境伯閣下ともお近づきになりたく思いますわ」
「あ、そ、そうですか。それは光栄です」
フランツさまは私の言葉に、慌てたように足を止めた。
大丈夫ー? 本当に国境、大丈夫なのー?
いや、シルヴィスさまは全面的に信頼している様子だった。見てくれは熊のぬいぐるみだけれど、きっとできる男なんだろう。
つまり、妻にだけ、こんな弱気なんだ。
そういえばシルヴィスさまが言っていた。『妻が美しすぎて気後れすると余に言っているぞ』、と。
美しすぎるのも困りものなんですね……、と私は、まだ非難めいた視線を送り続けているクリスティーネさまに、同情の眼差しを向けた。
「フランツ殿」
さきほどまで他の重鎮の方々に囲まれていたシルヴィスさまが、身体が空いたのか、こちらにやってきていた。
フランツさまは幾分ほっとしたような様子で、シルヴィスさまに向かって礼をする。
「ああ陛下、ご機嫌麗しく。今、未来の王妃殿下にご挨拶させていただいておりました」
「可愛いだろう、我が婚約者は」
そう笑顔で返しながら、私の肩を抱いてくる。
おおっと! これは!
私は横にいるシルヴィスさまを見上げる。
これは嬉しい。もしかして、少しは私を女性として見てくれたかしら? と期待の眼差しを向けてみた。
けれどシルヴィスさまは少しの間、戸惑うような視線を寄越してから、ふいっと前を向いた。
あれ。今のはどういう意味の動き?
なにかを誤魔化すように、シルヴィスさまは口を開く。
「フランツ殿。クリスティーネから少し聞いたのだが」
「ああ、では」
そう訊かれたフランツさまの顔つきが、一瞬にして厳しいものに変わった。少なくとも、もうぬいぐるみではなかった。
すると私の肩からシルヴィスさまの手の感触がなくなった。肩には最初から手なんてなかったのに、とても大事なものが失われた気がして、寂しくなる。
浮かない顔をしてしまったのだろうか。シルヴィスさまはひとつ咳払いをして、少し目を泳がせた。
それからシルヴィスさまの手が伸びてきて、私の頬に触れる。
ひゃあ!
そんな変な声をあげなかった私を、誰か褒めて!
「すまない、そなたをずっと一人にしてしまって。不安だろう」
「陛下は皆さまとお話をしなければならないことも多々ありましょう。わたくしは大丈夫ですわ」
実はずっとフローラも、目立たぬように斜め後ろで控えているしね。
それを教えようとフローラのほうに振り返ると、その途中でクリスティーネさまの表情が目に入った。
目を伏せ、こちらを見ないようにしている。あの完璧な笑顔は、どこにもなかった。
私の心臓は、ばくんと跳ねる。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような気分だった。
なんとか平静を装って、私はシルヴィスさまに笑顔を向ける。するとシルヴィスさまもこちらに笑いかけてくれた。
そして私から視線を外すと、フランツさまのほうに振り返る。
「エレノア殿下?」
そのとき私に、クリスティーネさまが話しかけてきた。
「わたくしだけ飲み物を持ってしまいましたわ、失礼いたしました。エレノア殿下はなにがお好みですの? 持って来させましょう」
「あ、はい」
クリスティーネさまが使用人を見つけて手をあげる。
振り返ると、シルヴィスさまとフランツさまはもう広間の端っこに行って、真剣な表情でなにかを話し合っていた。
今。
今、さりげなく引き離された。
そうか。きっとハーゼンバイン領の話だからだ。
私はまだ、他国の王女なんだ。だから私の耳には、わずかにでも入れられないんだ。
それはそうだ。当たり前だ。
でもなんだか、自分だけが除け者のように感じられて、少し寂しくなった。
いやいや、寂しがっている場合じゃない。
私は三月後には王妃になるんだから、自分にできることをがんばらないとね!
あのご挨拶した人の覚え書きも、もっとわかりやすく書かないと。
少なくともフランツさまの覚え書きは大丈夫。
『熊のぬいぐるみ』。以上だ!
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