第16話 美女が登場してきました

 髪を直して、そっと広間に帰ってきたとき。

 違う扉から同じようにそっと入ってきた人物がいた。

 その人は、ケヴィン殿下のように遅れて入ってその他大勢であることを避けたいわけではなく、目立たないように目立たないように、と考えているような様子が窺えた。


 けれど私の瞳は、その人物を捉えて離さなかった。

 私だけではない。その場にいる誰もが、その人を視界の端に捉えたとたんに視線を奪われていた。


 まっすぐで艶やかな黒髪が背中の真ん中あたりで揺れている。紅桔梗色の細身のドレスは特に目立った装飾はない。ネックレスやイヤリング、ブレスレット、髪留めはすべて銀で統一されていて、そして華美なものではない。それらは静謐な空気を醸し出している。

 なのに、目立つ。


 なんという迫力美人!

 あれこそ大人の女の魅力というものでは!


 私がその女性に心奪われていると、その人は立ち話をしているシルヴィスさまのほうへゆっくりと近付いていった。

 誰なんだろう、と興味が湧いて、私もゆっくりとした足取りでシルヴィスさまのほうに歩み寄る。

 先に到着したのは、かの女性のほうだった。


「陛下、ご機嫌麗しく」


 声を掛けられて、シルヴィスさまは振り返っていた。


「クリスティーネ」


 そう呼び掛ける声がなんだか、とても柔らかく優しさに満ちているもののような気がして、私の足は止まる。


「そなたも元気そうで良かった」

「ええ、おかげさまで」


 クリスティーネと呼ばれた女性も同じように微笑み返していた。


 ……なんだろう。なんだか少し、涙が出る前みたいな、瞬きを繰り返してしまうみたいな、胸の奥が少し痛むような、そんな感情が心の中に湧いてきた。

 笑い合う二人には、お似合いですね、という言葉を思わず掛けたくなってしまう。

 いやいや、なにを考えているんだろう。二人がどんな関係なのかもわからないのに。


 すると女性はこちらに視線を寄越して、「あら」と笑みを浮かべた。その微笑みがあまりにも美しく完璧で、私は少々気後れしてしまう。

 それに気付いてシルヴィスさまはこちらに振り向いた。


「エレノア」


 私はその声に誘われるように、二人の傍に歩み寄った。


「綺麗に結い直したのだな」


 目を細めてシルヴィスさまは褒めてくれるけれど、彼女に向けられていた微笑みとは違う気がして、ちょっとだけ悲しくなった。


「エレノア、こちらはハーゼンバイン辺境伯夫人である、クリスティーネ殿だ」

「お初にお目にかかります、エレノア王女殿下」

「はじめまして、クリスティーネさま」


 辺境伯夫人。では結婚しているのだ。

 私は心の中で、ほっと安堵の息を吐いた。


「クリスティーネ、今日はフランツ殿は」

「少々遅れてまいりますの。明日には到着いたしますわ」

「おや、なにか?」

「大したことではありませんわ。後始末に少々時間が掛かりまして。ただ、国境のことですからフランツの口から直接お聞きになったほうが」

「では急ぎではないな?」

「ええ」

「フランツ殿がそう言うのであれば」


 どうやらシルヴィスさまは、その辺境伯を全面的に信頼されているようだ。

 国王の信頼も厚く、こんな迫力美人を妻に持つ辺境伯。

 どんな方だろう。それこそ、『恋夢』のフェリクスみたいな鍛えた身体つきの方かしら。一睨みで周りがみんな委縮してしまうような方かもしれない。

 ふむ。明日か。楽しみにしておこう。


 私は改めて、この美女に視線を移す。

 さきほどまで見るのがちょっと怖かったのに、既婚者と知ったら俄然興味が湧いてきた。自分でも、なんて現金な、とは思うけれど。

 だって、これぞ大人の女の魅力って感じなんだもの。

 できることなら参考にしたい。


 長い黒髪を横に流し、片方の耳を見せている。濃緑の瞳の上の睫毛は長くて、頬に影を落としていた。唇は厚くて、触るととても柔らかそうだ。胸元は決して豊満という感じではないのだけれど、鎖骨が美しくて、なんとも言えない色気を漂わせている。

 これはいけない。参考にできるところがない。困った。


「オルラーフの王女殿下が来られると聞きまして、わたくし、とても楽しみにしておりましたの」


 ふいに声を掛けられそちらに顔を向けると、クリスティーネさまはその形の良い唇を笑みの形にした。


「とても可愛らしい方と聞いておりましたけれど、本当にその通りでしたわ」

「あ、ありがとうございます」

「美しい金髪が輝いて……アダルベラスの未来を照らしているようですわね」


 そう賛辞を呈して、ほほ、と微笑む。

 可愛らしい方、か。そうかあ……。


「わたくしは、クリスティーネさまがとてもお美しくて、さきほどから驚いてばかりですの」


 私がそう素直に話すと、まあ、とクリスティーネさまは笑った。


「お口が上手くていらっしゃるわ」

「フランツ殿はそなたがいないときに、妻が美しすぎて気後れすると余に言っているぞ」


 隣から、笑いながらシルヴィスさまが口を挟んでくる。


「まだ結婚したばかりですから、良いところしか見えていないのでしょう」


 新婚なのか。

 でも見たところ二十代後半であるように見える。貴族の女性としては、少々晩婚だ。

 こんな美女なら引く手あまただろうに。いや、引く手あまたすぎて時間がかかってしまったのかもしれない。


「こんな可愛らしい方を娶られるだなんて、陛下は世の男性たち皆に羨ましがられているでしょう」

「そうだな。申し訳ない気がしている。嫉妬した男性たちに毒を盛られないよう気を付けなければ」

「まあ、陛下ったら」


 くすくすとクリスティーネさまは笑う。


 でもね、笑いごとじゃないんですよ。

 この人、申し訳ないから偽装結婚にしよう、だなんて言い出しているんですよ。

 それをぶちまけたら、この美女はどんな顔をするんだろう。


「明日、辺境伯を王女殿下に紹介させてくださいな」


 そう言ってクリスティーネさまは、誰もが見惚れるような美しい笑みを浮かべた。

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