第8話 提案されました

 後宮では、五人の侍女たちが私たちを出迎えた。

 そして、まずは入ってすぐの客間と思しき部屋に通される。

 とても広い部屋で、そしてなにもかもが揃っているのだろうな、と思わせられる部屋だった。

 花の柄が彫り込まれた、磨き上げられたテーブルと椅子。細やかなレースのカーテン。壁に飾られた絵画。それらを天井から吊るされた蝋燭のシャンデリアが照らしている。


「できる限り必要だと思われるものは用意したつもりだが、暮らしていくうちになにかと足りないものもあるかと思う。趣味に合わないものもあるだろう。その場合は侍女に言付けてくれ」

「はい。ありがとうございます」


 シルヴィスさまはそう声を掛けてくるけれど、少なくとも今のところは、なにひとつ不足を感じていない。

 いや正確に言うと、『恋夢』以外、なんですけどね。


 私は今立っている場所から、部屋をぐるりと見渡した。

 奥に続く扉がいくつかあるから、衣装室や湯殿や寝所に続いているのだろう。


 寝所……寝所かあ……。

 いけない、また顔が熱くなってきた。

 シルヴィスさまは、客間の真ん中に設置されたテーブルと椅子に近寄り、そしてそのうちの一つの椅子を引いて座る。

 一人の侍女がそちらに近寄って、かしこまった。


「陛下、なにかお飲み物を?」

「そうだな、余は果実酒を。姫は?」

「あっ、はっ、はい。わたくしは……お茶を」

「茶葉は」

「ウバはありまして?」

「もちろん」


 そう答えて、シルヴィスさまは楽しそうに微笑んだ。

 ウバの茶葉はオルラーフではあまり輸入されていないが、アダルベラスでは一番の輸入量だと聞いたことがある。


 侍女がお茶を淹れている間、私はなんだか落ち着けなかった。

 だからシルヴィスさまの前に座ることもできなくて、意味もなく、部屋の隅に飾られた大きな花瓶に活けられている、まっすぐに伸びた茎にたくさんの紫色の鈴を付けたような美しいジギタリスの花を指先で触ったりしていた。


「と、とても綺麗です」

「エレノア王女殿下、それは後宮の中庭に咲いているものですわ。よろしければ後日ご案内いたします。他にもいろいろ咲いているので、王女殿下がお好きな花をお活けいたします」


 私の言葉に反応した侍女が、にっこりと微笑んでそう提案してくれる。


「そうなの。では今度、お願いするわ」

「はい、お任せください」


 そう請け負った侍女が頭を下げたところで、飲み物を用意していた侍女が帰ってきて、テーブルの上に果実酒とお茶を置いた。


 すると、シルヴィスさまは短く告げた。


「人払いを」


 人払い。え、本当に?


「かしこまりました」


 侍女たちは、五人が五人とも頭を下げてから退室していった。

 最後の侍女が、ぱたん、と扉を閉め、私の身体は固まる。


 二人きり。

 本当に、二人きり。

 こ、これ、いわゆる初夜というやつなのかしら。

 いや、違うか。婚姻はまだ先だから、初夜ではないのかしら。

 でももう決まっているようなものだし。ということは、夫婦も同然だし。

 シルヴィスさまは初夜と思って来ているのかもしれないし。


 となると。

 どうしよう。どうしたらいいのかしら。

 『恋夢』は、まだそんな段階ではないから参考にはならないわね。

 その前に読んでいた『僕愛』では、男の人がいろいろ話し掛けてくれたりして、主人公は特になにもしていなかったと思うけれど。

 というか、横抱きにされてベッドに連れて行かれたように思うけれど。

 じゃあ立っていたらいいのかしら。

 いや、それも変じゃない? なんだか間抜けじゃない?


 ううう、そこまで具体的に書かれていなかったから、どうしたらいいのかわからない!

 っていうか口づけをしたあとは、あっという間に朝になってた。

 大事なところ、省かれてた。

 ああ、もっと微に入り細を穿って書いていてほしかった!


「姫」

「はっ、はい!」


 びくん、と肩が跳ねた。うわあ、恥ずかしい。

 シルヴィスさまはこちらを眺めている。なにやら真剣な眼差しで。


「こちらに座ってくれないか。姫にお話ししたいことがあるので」

「は、はい」


 話?

 な、なあんだ。話か。私一人、ちょっと舞い上がっちゃったわ。やっぱりそうよね、まだ婚姻の儀は先の話だもの。


 なので私は大人しく言われた通りに腰掛けることにする。

 さきほどの食事よりも、もっと近い距離。

 でもいずれ、もっともっと近寄ることになるのだ。

 なんだか恥ずかしい。でもちょっと嬉しい。

 そうしたら私たち、本当に物語にあるような恋愛をするようになるかしら。

 『愛している』って、囁き合うようになるかしら。

 それならいいのに。

 ううん、きっとそうなるわ。そうしてみせる。

 私はこれから、シルヴィスさまと恋をするんだ。


「あ、あの、陛下。お願いが」

「うん? なんだろうか」

「わたくしのことは、姫、ではなくエレノア、とお呼びくださいな」


 だって夫婦になるのですもの、姫、だなんてそんな他人行儀な。


「そ、そうか。では……エレノア」

「はいっ」


 私が元気よくそう答えると、シルヴィスさまは小さく笑った。

 あら。笑うと少し、幼くなるのだわ。


「それで、あの、わたくしもシルヴィスさま、とお呼びしても?」

「ああ、それは構わぬ。好きに呼ぶといい」


 うなずきながら、シルヴィスさまはそう了承した。

 これからは名前で呼び合うのね、と思うと自然と笑みが零れる。


 けれどシルヴィスさまは表情を引き締めたようだった。

 そうだわ、お話ってなんだろう。

 そんなに真剣にする話なんだろうか。


 シルヴィスさまはテーブルの上で手を組んで、少しだけ身を乗り出すようにして話し始める。


「これは、提案なんだが」

「はい」


 なんだろう。私は小さく首を傾げる。

 シルヴィスさまは口元に握った手をやって、こほん、と咳払いをした。

 そして続ける。


「いくら政略結婚とはいえ、エレノアにとっては二十三もの年の違いは辛かろうと思う」

「い、いえ、そんなことは」


 そんなことはないですよ。

 美形ならアリ! アリですよ。

 何度も言うけれど、『恋夢』のフェリクスだって主人公とは二十三歳違いだものね。

 それに、シルヴィスさまは今のところ完璧だもの。

 二十三歳の年の差なんて、ものともしないわ!


「だからといって、この結婚をなしにはできない」

「ええ、それはもちろん」


 私は深くうなずいた。

 この婚姻は、国と国との繋がりだ。

 睨み合いに疲れたオルラーフとアダルベラスが国交を回復し同盟を結ぶための、政略結婚。

 海軍大将なんて、この結婚が具体的に決まったときには「長かった……」って涙ぐんでいたもの。


 シルヴィスさまは、私を覗き込むようにして。

 そして、その言葉を舌に乗せた。


「だから、偽装結婚というのはどうだろう?」

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