彼は私に嘘をついた。
土蛇 尚
この寒さを
貴方が私をおいてお墓に入ってしまってから8年。
貴方のいない朝にも、貴方のいないお正月にも慣れてしまった。歳を取ると時間の流れがどんどん早くなる。だけど流石に、朝が来るみたいにお正月は来てくれなくて私は寂しい。
貴方がいなくなって、私を名前で呼んでくれる人は、本当に誰もいなくなってしまった。孫達はおばあちゃんだし子ども達はお母さん。貴方だけが私を名前で呼んでくれる。だけどもういない。
「澄子さん。おはようございます」
「澄子さん。ありがとうございます」
「澄子さん。ちょっと読んで欲しいのですが」
彼は小説を書く人だった。執筆が進んだ時や、意見が欲しい時はいつも私に読ませてくれた。今も本棚には彼の書いた本達が並んでいる。
同じ高校の文芸部で出会ってから、ずっと彼の小説を読むのは私の特権。二人しかいない部室で、小説について色々な話をした。最近読んだ本や時々創作論なんてのも。
「恋愛小説って、冬の方が書くのが簡単そうだと思うんです。だって互いの存在で温もりを与えることはできるけれど、互いの存在で涼しさを与えることはできないと思うんです。相手のことを扇子でパタパタ扇いでもそれは、自分の存在によって涼しさを与えたわけではないですし」
その時の私はそこでクスっと笑ってしまった。それに僕は真剣なんですよ。と言いたげな視線を向けて来るから可愛かった。
「つまりですね。僕が言いたいのは、命って熱じゃないですか。暖かいじゃないですか。それで冬って寒い。その寒さを人同士はただその存在だけで癒すことができるんです。だから冬の方が恋愛小説は書きやすそうだと思うんです」
「これ、もしかしてエッチな話されてる?」
そんな私の言葉に口をぱくぱくさせて慌ててた。
私達はその日に初めて手を繋いだ。彼の手は暖った。
思い出すのはこの日のような事ばかり。お婆ちゃんになったのに変だと思う。結婚した時でもなくて、長女が産まれた時でもなくて、思い出すのはこんなのばかり。
だけど彼は、私に嘘をついた。冬だった。
あの嫌な病院、あの嫌な廊下、あの嫌なドア。ドアを開けると彼がベットに横になっている。
私は彼の手を握り締める。二人とも皺だらけの手。万年筆を握っていた彼の手。物語を書く手。あの時のような熱も力もない。乾ききっている。
「ありがとう」
それが彼の最期の言葉。
嘘つき。
二人いれば寒さを癒せるって言ったのに。彼の手が冷たくなっていく。私の手から彼は熱をとっていく。
彼は私はおいていった。たくさんの本を残して。私は彼のおいていった本を読みながら、一人でお婆ちゃんからもっとお婆ちゃんになっていく。
また彼のいないお正月が来る。来てしまう。私は寂しい。
終わり。
彼は私に嘘をついた。 土蛇 尚 @tutihebi_nao
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