畳の上の哲学者~早瀬わたるの場合~

――こいつが一番厄介かもしれんぞ。


縦浜たてはま学院大学附属高校柔道部部長、清沢澄きよさわすみは険しい顔で一枚の入部届を見つめていた。


その、2か月前。



***



「あ、もしもし母さん? わたるだけど。うん、合格したよ。ありがとう。じゃあ、これから書類貰って帰るね。うん、またあとでね」


私立縦浜学院大学附属高等学校一般入学試験合格者一覧と書かれた仰々しい掲示板の前で早瀬はやせわたるは母親への電話を終えたところだった。

附属中学からの進学者が多数を占めるこの学校で、高校からの入学は狭き門であった。わたるの視界の隅には泣きながら電話をかける者の姿もあった。かたや喜びの表情がみえないどころか、どこかぼんやりとした表情のままわたるは合格者窓口へ向かう。


――別に泣くほどの難関校でもないと思うんだけどな。


わたるは人生においてこのかた、努力や苦労を感じたこともなければ必要としたこともない人間だった。

入学手続きの書類を受け取り、校舎を後にする。

正門を抜けた時、わたるは振り返って学校の向こうにある丘の上を仰ぎ見た。そこにはこの縦浜学院大学附属校の学生寮がある。


地元を離れたい。

わたるがそう打ち明けた時、両親は不安そうな顔こそすれ、反対はしなかった。

他人に悩みを相談することもなければ気持ちを打ち明けることもないわたるが、珍しく表明した意志を尊重しないわけにはいかなかった。

それに、わたるは両親に一言も話さなかったけれど、中学に上がったある時期からわたるがみるみる元気をなくしていったことに両親は気付いていた。それがおそらく通っている地元の公立中学にある柔道部に起因していることも勘づいていた。

ともかく、そのような理由でわたるは両親に寮費をも負担してもらいながら地元を出るという選択をしたのだった。



***



4月。


新生活に馴染もうと、わたるはひとまず前期の学級委員を引き受けた。嫌でも学校のことに詳しくなるし、他の生徒たちと関わることになるからだ。


「早瀬くんは部活どこにするの?」

「え?」


同じく学級委員を引き受けたクラスメートのはる結愛ゆあが訊いた。彼女は附属中学からの内部進学生で、縦高についても勝手知ったる態度だった。

今は新入生のための部活動見学期間だ。放課後になっても廊下のあちこちで先輩たちによる勧誘の声が響いていた。


「決めてないの? 縦高ウチ、部活動が必修単位に含まれてるからどこか入らなきゃいけないよ」

「ああ、それは知ってるけど……まだ考え中かなあ」


――柔道部があるの、知らなかったなあ。


わたるは中学時代柔道部に所属していたし、それ以前――なんなら小学校一年生から柔道を地元の道場で続けていた。

本来ならば、高校でも柔道を続けるはずだった。続けたかったはずなのだ。

しかし、大会に出ればいずれは見知った顔と当たることになってしまう。地元を離れたと言っても同じ県内にいる。


そう改めて考え込んでいたら、隣から春田が声を上げた。


「ふうん。もし決まらなかったら私と同じ部活にしようよ」

「なんで?」

「えっ」


春田が本心から困惑しており、そして若干傷ついたような、怒気を含んだような「えっ」を発したのでわたるは自分がミスを犯したことに気付いた。


「ごめん、親切で言ってくれたんだよね。ただ、春田さんが何部に入るのか知らないから……」

「あ、ああ、そうだよね。私、演劇部に入るんだ。中学からそのまま」

「演劇」

「そう。興味ない? 実際演劇部って女子余りだから男子は歓迎されるよ」

「うーん、考えとく」


顔面に貼り付けた笑みが薄ら笑いではなくちゃんと愛想笑いになっていることを祈りながら、わたるは返答した。

そのまま教室に戻ろうとした、その時だった。


「えっ」


突然すれ違いざまに腕を掴まれた。

わたるの間抜けな「えっ」が響いたまま、腕を掴む生徒は黙り込んで食い入るようにわたるの顔を見つめている。

赤い爪先の室内靴を履いている。三年生の男子生徒だ。わたると同じか、少し背が低い。すれ違いざまに腕を掴んだ反動にも微動だにしないところを見ると、筋力がそれなりにあるのか、あるいは体幹が強いのかもしれない。運動部だろうか。長い髪を後ろで結っている。眼前に、相手のアーモンド形の澄んだ目がある。その目はゴーグルのようなゴツい眼鏡に覆われている。運動部だろうか?

観察した結果、何者なのかさっぱり分からない。


「お前、わたるか?」


覚えのない人間に名前を呼ばれてわたるは面食らった。


「は、はい、そうです、けど」

「そうか……見つけた」


最後の「見つけた」はほとんど独り言だった。

こいつ借りるぞ、と三年生は春田に声をかけた。

そのまま彼は、わたるには有無を言わせず腕を掴んだまま南校舎へ連れ出した。

南校舎の廊下のつきあたり、このまま行くと格技場だと気付いたところでわたるは身体を引いて立ち止まった。一瞬引っ張られる形になった三年生は、それでもバランスを崩したりせず、腰を落としてバランスを取るとすぐに同じく立ち止まった。やはり体幹が強い。否、それはわたるの知っている言葉で言えば――


――いやいやこの人、相当受け強いな!?


間違いない。この三年生は柔道部の人間だろう。ちょっと見た目からは想像がつかなかったが。

問題は何故どこでわたるを知ったのかだ。


「あの、放してくれませんか」

手前テメーで切れるだろ」


上級生だからって挑発的な物言いじゃないだろうか。わたるはそう口にはせず、半歩後ろに身体を捻りながら肘を内側に入れて、三年生の掴んでいる手を振り払った。


「だよな、それくらいできてくれないと」

「いや、何なんですかさっきから」

「勧誘だよ、分かれよ。月新杯げっしんはいで3位だろお前」


月新杯、それは縦浜市の柔道大会だ。ジュニア部門として中学生が、一般部門として高校生以上が出場する。

たしかにわたるは月新杯で3位入賞の経験がある。だけどそれは中学一年生の時のことだ。それに月新杯は公式戦じゃないし、大きな大会でもない。

それをどうしてこの人は知っているのか。


「――あなた、誰なんですか」

「それはちょっと衝撃だわ」


そう言いながら三年生は眼鏡を外し、後ろで結っていた髪を解いた。


「髪は長えままだから解いても意味ないか。マジで分かんねえ?」


わたるを見つめる不機嫌そうなアーモンド形の瞳。

その持ち主よりも少し背の高いわたるはその顔を見下ろしていたが、いつかその顔を見上げていたような記憶が朧げに蘇った。


「・・・・・・あ」


わたるは険しい顔をしていた。遠い記憶を手繰り寄せたのだ。

中学に上がってから柔道を始めたはずの選手が試合場で無双していた。

何があっても絶対に膝をつかない不屈の少年。鋭い視線と場に似合わない笑顔。


――まだ幼いわたるがいつか見た、32帖を地獄に変える悪魔。


「……すみさんですか」


そう、それはわたるが小学生の頃通っていた清沢道場の親族であり、同じ門下生の清沢澄きよさわすみだった。


「忘れてんじゃねえよ」

「澄さんこそなんで僕なんか覚えてるんですか」


自らが忘れていたことを棚に上げた上に謝罪もないわたるのその質問に、澄は口を閉ざした。その澄の態度に少しむっとしながらわたるは答えた。


「僕、勧誘されても困ります」

「あ? なんでだよ」

「だって、僕、その月信杯しか――」


その時、廊下の向こうから二人に向けた声がした。


「あれ? 澄早いじゃん。その子新入生?」


わたるが振り返ると、こちらも――こちらは遠目にも分かるほど――懐かしい知り合いだった。わたるが清沢道場で一緒に稽古していたのは澄よりこちらの彼のほうがより長かった。

その華奢な体躯から繰り出される猛攻。誰にも止められない、見えない牙を持った獣。

――32帖を自在に操る鬼神。


ひかりさん!」

「えっ」


呼ばれた家根やねたにひかりは一瞬怪訝そうな顔をした。


「清沢道場で一緒だった早瀬です。早瀬わたるです」

「……ああ! わたるかあ。えー、でっかくなったね!」


景は正体が分かると朗らかに笑った。そして続けた。


「へえ、さっそく見学に来てくれて嬉しいよ」

「へっ!?」

「道着持ってきてる? わたるは経験者だから練習混ざっていいよ」

「あ、いや、僕は」


屈託なく微笑む景の前で事情を説明できずあたふたするわたるを横目に、澄はにたりと笑った。


「残念ながら今日は見学だけしに来たんだとさ。まあ遠慮せずとりあえず上がれよ」


澄はわたるの腕を掴み上げたときと同様、有無を言わせない勢いでわたるを格技場へ押し込む。

そしてわたるの耳元で小さく囁いた。


「景のがっかりする顔、見たくないだろ?」


32帖の悪魔は畳を降りても悪魔なのだと、わたるは今日知った。



***



――どうしてこうなってしまったんだ。


その日、わたるは県立武道館の柔道場の隅でひっそりと道着を着たままなんとか気配を消せないか試みていた。

澄に無礼な勧誘を受けた日、たった三人しかいない柔道部の有様を目の当たりにしたわたるは二日後に道着を着用して改めて格技場を訪れざるを得なかった。


「お願い、仮入部期間だけでもいいから一緒に柔道しよ?」


と「可愛い」と評されがちな整った顔立ちに大きな丸い瞳で上目遣いしながらお願いされたら、いかに共感に疎いわたるでも断ることはできなかったのだ。もっともその上目遣いの可愛い顔立ちの持ち主は長らく知り合いの上級生だったのもある……男だけど。


――景さん、きっとアレでいろいろと味を占めてるんだろうなあ。


わたるは苦々しく思った。

そして、あれよあれよとその週末には縦浜市の強化練習会に連れ出されてしまったのだ。


「なんだよ、お前県武は来慣れてるだろ」


沈痛な面持ちをしたわたるにそう声をかけたのは縦高柔道部二年のあさしょうろうだ。祥太郎は高校から柔道を始めている。たしかにわたるのほうが県立武道館との付き合いは長かった。


「そうですけど……まさか仮入部なのに外部の練習に連れ出されるとは思ってなくて……」

「ははっ、それだけ期待してるってことだろ。なにせ経験者は貴重だからな」


そうだ、縦高は主将の戦績こそいいけれど客観的には新参者の弱小部なのだ。中学までにそれなりの成績を残した人間は強豪校へ行ってしまう。

景たちにとってみれば、わたるが現れたことは奇跡なのである。


――でも、だとしたら――


「なんで景さんたちは強豪校へ行かなかったんでしょうね。引く手あまただっただろうに」

「さあな」


祥太郎は自分も深い事情を知らないことを表明しながら続けた。


「でも、誰も知らないところに行きたい、みたいなことは誰にでもあるだろ」


祥太郎のその言葉に、わたるははっとした。

わたるが縦高に入学した理由が、まさにそれだったからだ。

誰も知らないところに行きたい、それが前向きな理由なのか後ろ向きな理由なのかは人それぞれで、少なくともわたるは後者だった。

景はどうなのだろうか。澄は。そしてその言葉が躊躇いなく出てくる祥太郎は――


「旭日さんも身に覚えがあるんですか?」

「……さあな」


祥太郎はこの話が終わりであることを表明していた。


強化練習会は午前中に稽古、午後から個人勝ち抜き戦の練習試合だった。

軽量級からの階級順で、五人抜いたら勝ち抜けとなる。

最軽量の-60kg級である景は序盤に、-90kg級の祥太郎は後半に、そしてその中間の-73kg級にわたるの出番があった。


「え、澄さん出ないんですか」


わたるは驚いて訊いた。

澄は決して控えに回すようなレベルの選手じゃないし、そもそも練習試合など経験値を積む絶好のチャンスなのだから出たほうが得である。

それに、わたるの記憶の中にいる悪魔が試合に出ないなんて考えられない。

しかしわたるの疑問を意に介さず澄は返答する。


「ああ。お前らの試合を見てフィードバックする係だから」

「そりゃたしかにうちは指導者のいない部ですけど……」


釈然としないまま、わたるは試合のウォーミングアップに向かう。

ちらりと振り返るとベンチでは景と澄が何かを話していた。



***



「どういうことだ、これは」


二時間後。澄は険しい顔をして、畳から起き上がろうとしているわたるを見つめながら呟いた。

わたるは一試合目であっさり負けてしまったのだ。


わたるの対戦相手はわたるが三人目の勝ち抜きで、次の四人目で負けた。

特別名の知られている強い選手ではないし、階級も同格だった。なんならわたるで三戦目の相手のほうが体力は削られていたはずなのである。


「おかしくないすか?」


疑問を呈したのは祥太郎だ。

数日前に祥太郎はわたると稽古している。実戦形式の練習である乱取らんどりでもわたると当たっている。

わたるは二階級上の祥太郎にも全く引けを取らないプレーを見せた。それどころか、高校から柔道を始めた祥太郎に対し、経験の差で圧倒的に勝るわたるは祥太郎に一切崩す隙を許さず、最終的には大内刈りで投げたのだ。


――旭日さんラグビーやってたんでしたっけ? たしかにパワーあるしめちゃくちゃ攻めてくるし怖いっすね。


一息でそう言ったわたるの息は全く乱れていなかった。スタミナの鬼、体力お化けだ。

つまり、同階級の特筆すべきステータスを持っているわけでもない相手に一試合四分を戦わずに負けるなんて本当におかしな話なのである。


「わたる」


礼をして試合場を出たわたるに澄が声をかけたが、わたるは振り向きもせずその前を通り過ぎた。


「・・・・・・あの野郎いい度胸してんじゃねえか」


澄は立ち上がって即座にわたるの後を追った。


「え、澄さん」

「祥太郎はこの後でしょ」


つられて立ち上がった祥太郎の袖を引っ張って景は座らせた。



***



「人が呼んでんだ、足を止めろこの無礼者!」


まだ練習試合は続いている。人気の少ない更衣室へ続く廊下で澄が声を荒げると、ようやく前を行くわたるが振り返った。


「なにそれ。無礼者はそっちでしょうが」


決して怒鳴っても声を荒げてもいないが、澄に負けず劣らず響く声だった。その声には少なからず怒気が含まれていた。


「気安く触ってくる上に人の都合に伺いも立てない人間がよくまあ他人に無礼者なんて言葉を浴びせることが出来ますね。同じ道場のよしみで許されると思っているのかもしれないけど、そのよしみで許すか許さないかを決めるのは無礼を働かれた僕のほうであってあなたじゃない」


澄は絶句した。試合に負けた後で虫の居所が悪かったとしても、こんな大演説が返ってくるとは思っていなかったのだ。


「……それはごめん」

「分かってくだされば結構です」


澄は結っていた髪を解いた。頭痛がしそうだった。


「それで? 今日はどうしたんだ」

「どうって?」

「ばーかお前たった今試合負けただろ」

「はい」

「はい、って。何なんだ、調子悪いのか?」


そういうことは誰にでもある。単純に体調が悪い、怪我をしている、あるいは初めての外部練習で緊張してしまったなど。

しかしわたるはきっぱりと言う。


「いえ、いつもこうです」

「は?」


澄は眉根を寄せた。

いつもこう、とは。


「だから、人の話聞かないのがいけないんですよ」

「あ?」

「月信杯で入賞したし曲がりなりにも実力のある選手だと思って僕のことを勧誘したんでしょう? 言っておきますけど、僕が勝った試合その月信杯一度きりですよ」

「え」

「嘘だと思うなら調べてください。母校に確認とってもいいですよ。ジュニアの公式戦の結果」


わたるの言葉にも澄は唖然としていたが、何よりもそれを淡々と言ってのけるわたるに、澄は信じられない気持ちだった。


「僕は勝てない選手です。戦力になれなくてすみません」


わたるは頭を下げた。

そしてそれっきり、更衣室のほうへ去ろうとしていた。

何か言わなければ――。


「いや別に戦力とかそんな気にしなくても」


慌てて澄は声をかけた。しかし自分でその言葉は本意ではないなと思っていた。

それはわたるにも伝わっていた。


「嘘でしょ。あなたは僕の月信杯の成績を覚えていたから僕に声をかけた。戦力になることを少なからず期待していたはずだ」

「でも戦力になれない以上、それでもいいっつってんだよ。ぶっちゃけ言えば頭数揃えるのに必死なんだこっちは」

「経験者なのに戦力として期待されなくてその場にいる意味なんて、もっとないじゃないですか」


――そんなの、みじめだ。


ぽつりと呟くように漏れた声は、廊下の、奥行きのある空間を奇妙に支配して響いた。

自信なさそうに、流されるように振舞ってるくせに、どうしてその言葉で、その声を出せるんだ、と澄は頭のどこかで思っていた。


「とにかく、今日は帰ります」


わたるは今度こそ踵を返して更衣室へ向かった。

そのときの澄には、もうわたるを引き留める言葉はなかった。



***



週明け。

今週の金曜には新入生の部活動見学期間も終わり、本入部の書類を出さなければいけない。


「早瀬くん」


昼休み、机に肘をついてスマホを眺めていたわたるに女子生徒が声をかけてきた。


「ん? 何?」

「三年の先輩が入り口で呼んでるよ」


女子生徒はただのメッセンジャーだった。教室の前方の入り口に景がいて、微笑みながら手招きをしていた。


「泣き落としでもするつもりなら無駄ですよ」

「するわけないでしょそんな無駄なこと」


自らの無礼な発言に、笑顔のまま間髪入れず言い返してきた景にわたるは少々驚いた。昼休みの廊下は人が行き交い、静かに話をするには少々騒がしかった。二人は屋上に出た。


「だいたい僕がわたるをどうしてもって勧誘しに来たと思ってるならそれは思い上がりもいいところだよ」

「じゃあ他に何の用があって来たんですか」

「お前を柔道部に入れようと思って」

「言葉遊びはやめてください」


わたるは暗にそれは勧誘ではないのかと反論していた。


「まあ、正直言えば勧誘したいとこだよ。和田くんが入ってくれそうだし石島さんも――まあ、女子だけど――も来たとはいえ、二人とも初心者だ。経験者のわたるが入ってくれたら心強いよ」


それはそうだろうとわたるは想像した。

しかし景はさらに続けた。


「でもそれじゃ意味ないでしょ」

「え」


わたるは景の言葉の意味を理解しかねた。


「どういう……」

「未経験者ならいいよ。こっちがお願いして、まあ悪くなさそうだ、入ってやろうじゃないか、そういう順序で。そのうち柔道の楽しさを知って、好きになってくれれば」


わたるより小柄な柔道部主将は、わたるを見上げながら片眉を吊り上げた。


「でもわたるは経験者だ。こっちがお願いして入ってもらうんじゃつり合いが取れない。お前にとっていいことが何一つない」


これはわたるのあずかり知らないことだが、わたるが早退した強化練習会の日、景は澄から事の次第を聞き出していた。

澄は決して馬鹿じゃない。交渉ごとは得意だし、怒りっぽい一方で感情的な判断はしないほうだ。和田の勧誘に成功したことや、石島の入部を承認したことからもそれは伺える。

だけど、他人に対して心を閉じているわたるのような人間の本音や意志を引き出せるほど、人の心の繊細さにたいして扱いが長けているほうではなかった。何故ならどちらかといえば澄自身もそういう――いわば繊細な人間だから――と、景は思っている。それは澄の生い立ちがそうさせたのかもしれない。言わないならそれまで、そういう考え方に澄は偏りがちだった。

でも、それではどうにもならない心の在りようというのがある。それは澄も分かっているはずなのになあ、どうして――って、今は澄じゃなくて。


「わたる、柔道好き?」

「……どうでしょうね」

「じゃあ、楽しい?」

「……それも、どうなんだろうと思います」


景は眉を寄せた。

わたるが柔道を好きだとか楽しいとか、そう思っているのなら今すぐ柔道部に入るべきだと、そう伝える準備をしていたのに。

ここにきてまた心を閉ざそうというのか。そうはさせまいと、景はつとめて柔らかく訊いた。


「分からないの?」

「分からないといえば、そうかもしれません」


わたるは続けて言った。


「何をもってして楽しいとか、好きだとか言うんでしょうか」


景は目を瞠って固まった。なんだその哲学みたいな疑問文は。


――そうか。そういうことか。


わたるは他人に対して心を閉ざしているのではない。

自分の心の在りようから、自分自身をも締め出しているのだ。どうしてそんなことが起きているのかは分からない。ただ、自分の感情や体験に対して、わたるという人間がかなり鈍感な人間であるということがたった今判明した。


――なるほど、これは澄とはまた違ったタイプの厄介だ。


「景さんには分かりますか? 好きってどういうことなんですか」

「分かるよ」


景は考えるまでもなくそう答えた。


「僕は柔道が好き。楽しい。愛してるよ。わくわくするし、もっと深く知りたくなる。誰よりも柔道を"分かって"いたいって、体温が上がる」

「体温が上がる」

「そういう経験、ない?」


景はなんでもないことのように言ったが、わたるははいともいいえとも答えられなかった。

二人が沈黙したとき、忘れていたようにチャイムが鳴った。


「時間だ。まあ、考えてみてよ」

「入部ですか?」

「それもそうだし。好きなのか嫌いなのかも」

「え」

「まあ僕の見立てだと、わたるは柔道を好きなんだと思うよ」


そう言い残して景は去った。

わたるは、どうして景がそんなに好きかどうか、楽しいかどうかを重要視するのか分かっていなかった。嫌いよりは好きなほうがいいことくらいは判断ができたとしても。


――でも、好きじゃなきゃ九年も続くわけがない――と、思うことが出来ればわたるはどんなに楽だったか!


好きじゃなくたって継続はできる。一番分かりやすいのが歯を磨くとか制服を着るとか、そういう習慣だ。惰性で続いてしまう治らない癖だってある。そもそも小学一年生の判断能力なんて信用ならない。小学一年生じゃなくたって、自分のことなんか信用ならない。ただの習慣で、惰性で続けていたから中学の残り二年は勝てなかったんじゃないか。


――本当に、そうだろうか。



***



その週の金曜日。

柔道部は少し早めに稽古を終え、各々制服やジャージに着替えた部員を畳の上に集めていた。

いつものようにかっちりと制服を着た二年生の祥太郎、その隣には座っても縦に長い一年生の和田が同じく制服で、さらにその向こうには和田と同じ一年生の石島がジャージ姿で胡坐をかいている。

たった五人の車座だった。部長の澄が中心となって説明をする。


「今日が本入部締め切りなので、入部届を集めます。はい、書類を出せ」


和田と石島がそれぞれ入部届を澄に手渡した。澄は内容に誤りや漏れがないか目を通す。


「書類は問題なし、と。じゃあ今年はめでたく二人の一年生が入部してくれたということで、初心者なので最初は大変かもしれないけれど是非――」


そのときだった。

格技場の引き戸が勢いよくスパンと音を立てて開いた。


「……まだ間に合いますか、入部」


格技場の入り口で、記入済みの入部届を握り締めた早瀬わたるが息を切らしながらそう言った。


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