四章

 ――修司へ。


 一行目を書いて、手を止める。しばし思案して万年筆を置き、書きかけの手紙を丁寧に四つ折りにする。

 折った便箋はくずかごの中に重ねて、また新しいものを広げる。罫線だけで飾り気のない、白い紙。

 ――修司へ。

 思考の空白を埋めるように、外では蝉が鳴いている。自室の隅、文机に向かって端座したまま、清司はペン先に黒い溜まりを作る。

 ――修司へ。

 不毛な折り紙をして、炊飯の火種にするべくくずかごに入れて、新しい便箋に再び兄弟の名前を記す。

 ――お元気ですか。ぼくは元気です。

 ――修司が元気だと、ぼくも嬉しいです。

 ――この前、庭に李の種を植えました。芽が出るのが楽しみです。

 ――もし実がなったら……

 四分の一の大きさになった紙は、かごを揺らすとがさがさ音を立てた。絵が趣味の同居人は、もったいないぞ、と叱るだろう。そんな予測をしながら、今度は絵を描いた。

 同じ顔を二つ描いて、片方の右目尻に小さく点描する。それぞれの名前を注意書きして、余った空白に仔猫を走らせた――ミィちゃん。それでも空きの多い世界に、知った顔を加えていく。

 父さん。母さん。黄泉坂さん。早乙女さん。梅子さん。修司のお父さん……

 引き出しの中、誰が使っていたのかもわからない古びた手鏡を出して、万年筆の筆先を自分の右目尻に当てがう。形だけの笑顔を作ってみると、鏡の中には兄弟らしきもの。しかしそれも一瞬、黒いインクは白い肌の上を滑って、密かに涙を流したようになった。

(父さん、ぼくは……)


     ◇


「は? お前の絵をか? 急だな」

 折り入って頼みがあります――なんて、一体何を言うのかと思ったら。

 怪訝にカンバスの向こうを窺う。右目尻を黒く汚した清司は、じっとわたしの部屋の入り口に立っている。

「この間も葛餅を七箱も独り占めして、食い気しかないのかと思っていたら……珍しいこともあるものだな」

「葛餅はぼくが自分のお金で買ってきたものです。お土産として一人につき一箱、無償でお渡ししました。独り占めなどではありません。食べたいのであればご自分でお買い求めください」

「ああ、もう! わかった、わかったから」

 反撃に早々と降参する。感情を絡めず、事実だけを淡々と述べて逃げ道を塞いでくる清司に口で勝てた試しがなかった――早乙女にも黄泉坂にもだが。

「ただ絵を描いてほしいと言われても困る。どんな絵だ?」

 話題を戻して尋ねると、清司は一瞬何か言いかけて、訂正した。

「――笑っているぼくの絵を描いてほしいんです」

「笑っている清司だと……?」わたしは呆然と言葉を繰り返す。「笑っている……?」

「はい」清司は首肯した。「笑っているぼくの絵を」全くの無表情で。

「資料がほしい……」わたしは頭を抱えた。「笑ってみてくれないか……?」

「はい」清司は返事をし――ちらりと白い歯列を覗かせて、笑った。

「そんな顔できたのかお前」

「形だけであれば」

 そうか…… あまりの驚愕に虚な声を零す。夏なのに背筋は冷たかった。

「他に要望はあるか。服とか、構図とか」

「強いて言うならば、二人描いていただきたいです」

「二人? 二人か……二人かぁ……わかった……」

 もう何も言うまい訊くまい。いまだ脳裏に残る笑顔に二の腕を粟立てながら了承すると、清司は、よろしくお願いいたします、と律儀に頭を下げた。

 部屋に飾るのだろうか。自分の肖像を? 清司が下に降りていった後、その用途を考える。黄泉坂から爵位を継いだ後に居間にでも掲げるのだろうか。そもそも清司に爵位を継ぐ気などあるのだろうか。仕舞いには真っ白なカンバスに頭をぶつける。

 最近めっきり会わなくなったが、東と話していたこともあり、清司の絵はいつか描くつもりだった。だが、まさか本人から先手を打たれてしまうとは……

 考えても無駄だ。そう結論づけ、目下の制作に戻った。

 しかし六〇号のカンバスを見つめても良案は浮かばず、ただ夏の陽だけがゆっくりと色褪せ、橙色を溶かしていった。


     ◇


 窓辺でロッキングチェアに揺られる父の顔は見えなかった。八月も半ばを過ぎた午前十時。ナイトガウンを纏ったまま、ゆったりと足を組んで、レースカーテン越しに眩い外を眺めている。

「お父様、」

 テーブルの上には食べかけのマドレーヌがあった。上等な見た目の、有名店の菓子箱もあった。

 もう一度呼びかけて、ようやく父は修司の方を向いた。薄布を透かした夏の光に、端正な面差しは益々白い。少し眠たそうだった。

「どうしたの、それ」

「ああ、気の早いサンタクロースが来てな。今朝起きたら、枕元に置いてあったんだ」

「まだ八月だよ? 随分とせっかちなサンタクロースもいるんだね」

 席を勧められ、修司は父と向かい合って座った。新しい紅茶を、と使用人を呼ぼうとした父を止める。二人きりの時間を邪魔されたくなかった。

 随分と冷めてしまっているのか、金縁のカップを満たすダージリンの香りは幽かだ。

 ファーストフラッシュ、セカンドフラッシュ、オータムナル……お茶にも季節の移ろいがあるのだと、修司は父に教えてもらって初めて知った。英国の別荘の、最初からそう在るように造られた自然の風景。二人のために整えられた緑の中で、淹れたての紅茶の香りに包まれている限り、親子は優雅で清白な人間たり得た。季節の茶葉の香る二人の世界は、いつも鮮やかに色づいていた。

 冷めた紅茶に、父は口接ける。白い日差しのせいか、濡れた唇はいつもより色が薄い。「サンタクロースで思い出したが、今年の誕生日は何が欲しい? 修司ももう十八だからな。俺がとびきりのプレゼントを用意してやろう。早めに言っておいて損はないぞ」

「お父様も気が早いよ。十二月なんて、まだずっと先じゃないか」

「修司はまだ若いから知らないかもしれないが、俺くらいの年になると、一年が四月よつきくらいになるんだ。春と夏と、秋と冬。冬まであと二月ふたつきもない。俺の修司が十八になることすら信じられないくらいなのに。時が経つのは本当に早い……」

 感慨を込めて細められた瞳に、父と同じくらいの背になった青年の姿が映る。その花唇で愛しげに名を紡ぎ、黒曜石の瞳に自分を宿してくれることが、修司は嬉しかった。

(……プレゼントなんてなくてもいいから、ぼくは、ずっと、お父様と二人で暮らしたい)

 結婚なんて嫌だと言ったら、父はどう返すだろうか。修司は、父の理想世界を壊す罪人になってしまうのだろうか。

(今さらだ……ぼくは、あの女と結婚する。それでお父様が幸せなら、ぼくも幸せだ)

 父が心安らかに暮らせるよう身を捧ぐのが、その天上の極楽から手を差し伸べられた修司の役目だった。父の幸福を否定するなど、できるはずがなかった。

 何かを思い出したように微笑を浮かべて、父は菓子折りの中から、飾り気のない、白い紙を抜き出した。ちらと中身を覗き見てから修司に差し出し、

「サンタクロースにも、返事を書いてやるといい。日本語が堪能みたいだから、返事も日本語で構わんだろう。負けないように、綺麗な字で書くんだぞ。

 ――修司をよろしくお願いしますだなんて、まるで親のようだな。まさか、修司はサンタクロースのところから来たのか?」

 もしそうなら、俺にとっての、とびきりのクリスマスプレゼントだな。いや、あれは三月の話だったか。あの時は遅刻してきたんだな……

(桃子さんにも入れ知恵して、こんな手紙まで寄越して、あいつは一体何がしたいんだ)

 婚約者の少女と並んで歩く、自分と瓜二つの兄の姿。一体何があったのかとこの世の裏から少女の家を訪れてみれば、桃子がいるはずの空間は白く塗り潰されていた。それ以降、桃子の家は夜毎に白く明るくなって、今では魔が立ち入る隙もない。

 偶然とは考えられず、おそらく兄弟が入れ知恵したのだろう。いっそこのまま父の魔性に毒されて、婚約も有耶無耶になってしまえばと願っていたが……兄はいつまでも、弟の不快な影であり続けるようだ。その存在を主張するような真似までして。

(お前なんか、もう要らないんだよ。ぼくはお父様の息子で、お前の兄弟なんかじゃない)

 修司は頬の引き攣りを笑顔で隠しながら、父に伝えた。

「ぼくは、お父様がずっと元気でいてくれれば、何も要らないよ」

 それだけでいいんだ。無理に笑うと、無欲な奴め、と父は睫毛を伏せ、微笑んだ。

「そういえば、この前の御猟場にはを連れていったんだ?」

「お父様の方だよ」

「やはりそっちを連れていったんだな。本物の俺の代わりに」

 幼子のように尖らせた唇が発する言葉には含みがあって、修司は思わず笑ってしまう。

「なぁに、まだ根に持ってるの?」

「そこまで子供ではないさ。あーあ、桃子さんの場所は俺の場所だったはずなのになぁ」

 やっぱり根に持ってるんじゃないか。笑い混じりに言えば、世界の綻びはたちまち修復されて、修司は再び穏やかな幸福に包まれる。

 父の腹違いの弟の記憶の中に聞き、寝物語に父が語った〈理想世界アタラクシア〉は、修司にとっても名の通りの、満ち足りた平和な世界だった。

 たとえ幾百の罪の上に成り立っていようとも、この楽園は清浄で正当であり、制裁と称して楽園に踏み入る冒涜者こそ罪人に違いない。

「また今度、一緒に行こうよ、お父様」

 絶対だぞ。父は笑う。修司も笑う。罪など、どこにもありはしなかった。


 父は午睡をとっていた。話し相手のいない修司は、自室で宝物の手入れをしていた。

 白布の上に並べられた宝物は、父のものと、自分のものと、二丁あった。前はそれぞれで管理していたが、息子の才能を喜んだ父が、自分のものを贈ったのだった。

 ――きっとこいつも、俺より上手に扱ってくれる修司と一緒にいた方が幸せだろう。なに、遠慮するな。俺の分身だと思って、ちゃんと世話をしてやってくれよ……

 思い出して、修司は口元に笑みを浮かべた。宝物の世話は手間がかかるが、自分たちの世界を守る手法を己が手で確認するひと時は、修司を剣を磨く騎士のような気持ちにさせる。幾度となく正義は執行され、その度に血は流れたが、最早咎人の死に感慨はない。その命は、瞬間人差し指に感じる少しの抵抗と同じ重さだった――一度引き金を落としてしまえば、驚くほど呆気ない。

(人を殺して泣くなんて、昔のぼくは随分と感情的だったんだな。今のぼくなら、たとえ持っているものが包丁だとしても、何も思わずに、平然と、情け深くひと思いに殺すのに)

 銃身を磨きながら、自らの〈心〉に意識を傾ける。脳内で同じ場面を繰り返しても、化生の核は概ね平常を保っていた――少し不快な揺らぎが生じることを除いては。

(あれは、ぼくが幸福を得るために必要なだったんだ。やましさが夢を見せるのなら、もう理由なんてどこにもない。ぼくは、過去を克服しつつあるのだから)

(全て忘れてしまえば――全部消してしまえば、もう嫌な夢を見ることもなくなるだろう。自分の過去にまつわるもの全部を消した時。それが、ぼくが真の意味でお父様と同じ〈理想世界〉に至る時だ)

 再結合された愛銃は正常に動作した。大切な宝物を箱に入れて、ベッドの下に隠す。暗闇から身体を抜く前に、宝箱を二度叩くのが習慣になっていた。まるで相棒のような親しみを込めて。

「……雨か」

 カーテンを開けた直後、密やかに、しかし確かな主張の意をもって水滴が窓を叩く。正午過ぎから集い始めた雲は、雨雲だったようだ。修司は雨が嫌いだった。湿気が鬱陶しいし、見通しも悪い。

 再びカーテンを引き、修司はそこで停止した。

 閉め切った室内に、するはずのない土の香――それは、何かの予兆に違いなく。

 修司様、と外で呼ぶ声があって、侯爵家の青年は急な来客に応じることになった。

「こんにちは、鎖々戸修司君」

 薄暗い外とは対照的な暖色の明かりに照らされて。まるでくしゃみを見失うように、何かを言いさした曖昧な口の形のまま動きを止めた将校は。

 気配だけで身に纏う衣服は判別しようがなく、修司は客間のドアの所で瞬間身体の制御を失う。

「こんにちは。お初にお目にかかります。鎖々戸修司です――少佐Major……何とお呼びすればよろしいでしょうか?」

「比良。比良景仁と」

比良少佐Major Hira

「Majorか……ふふ」

 そこだけ立派な肩章を微かに揺らして、将校は笑うともなく笑った。これほどまでに模糊たる、分化前の細胞のような不気味な表情を、修司は今まで見たことがなかった。

 不快を微笑みの裏に隠して、来客に席を勧める。陸軍少佐はするりと修司の向かいに腰を下ろした。煤けた瞳は両者の中程の虚空に据えられたまま、貴公子が浮かべる懐柔の微笑は徒労と化した。

 天鵞絨ビロードのソファに抱かれた同類は、どこか上機嫌なようにも見えた。運ばれてきた紅茶と菓子に興味を示し、修司が鷹揚に許可を出せば「では、」と自然な動作で手をつける。意外にも所作に粗放なところは見られず、慎ましやかで、妙に洗練されていた。

「せっかくお越しいただいたので、ぜひとも庭をご覧に入れたかったのですが……生憎のお天気で。雨はお好きですか? 傘を差しながらでもよければ、後でご案内いたしましょう……」

 上辺だけの厚意を示しながら、修司は皿の焼き菓子が消えていることに気がついた。気取られないようにドアのところに控えた執事に目を遣れば、長年侯爵家に仕える老爺もやや驚いた様子で一礼して部屋を辞した。

「雨は……どうだろう。僕は、雨が好きなのだろうか。雨男だとは、言われたことがあるのだけれど。考えたことがなかったな……」

 独白の調子で、男は口にした。修司は最早どうでもよかった。

(お父様はお休みになっているけれど、あまりこいつに長居されると危険だ。お父様の前で何を言い出すかわからないし。そもそも、こいつは何が理由でうちに来たんだ? 梅雨にちょっかいをかけてきた奴だということはわかるけれど、まさか軍人だなんて)

(こいつは人間としてぼくを訪ねてきたのか。それとも――)

 サンドイッチにスコーン、ケーキを乗せた三段のティア・スタンドが登場した。修司は礼を言って、唯一の人間を退室させた。夏摘みのダージリンが香る中、化生同士の腹の探り合いはすでに幕を開けていた。

「イギリスでは、いつもこうしてお茶をするの?」相手が先手を打った。

「ええ、まあ」

「そう。どれから食べるのが正解だろうか……」

(食い意地が張って、まるであいつみたいだ)

 自分と同じ顔の影を思い出して、修司は僅かに表情を曇らせる。

「比良少佐は、本日はどうしてぼくを?」

「修司君と、お話しがしたくて」

 初めて見るらしいスコーンをミルクティーで楽しみながら、化生は答えた。

「お会いしたこともないのに、ぼくと? まさか、入隊のお誘いですか?」

「そう」軍人は上手にジャムを塗った。

「はは、ご冗談を……」

「僕は、真面目だよ」

 クロテッドクリームを乗せて、小さな一口を齧る。瞬間の咀嚼を挟んでまた齧り、流れるような手つきで紅茶を飲む。香りを嗅いでいるのか目を閉じたりする。修司は呆然と、その一連の動作を眺めていた。

「――修司君に、将来の夢や、目的はある?」

 問いが飛んできた時には、スコーンは姿を消していた。次は苺のケーキに目をつけたらしく、ナイフとフォークで器用に自分の皿に乗せた。赤い苺から食べ始める。

「夢……」

「そう、夢」

 白いクリームを口に運ぶ軍人は階級から四十年配と推察されるが、角度によってはそれより若いようにも、老けているようにも見えた。茶葉の香りと背中合わせに濃く立ち込める雨の香は、まるで深い霧のように訪問者の正体を覆い隠していた。

 修司は直前まで同類の接近に気がつかなかった。少佐という肩書きだけの得体の知れない男を、家の者はいとも簡単に客間に案内した。

(こいつを決して信じてはいけない。どこからが嘘で、どこからが本当かわかりやしない)

 それでも、本性を暴いて一泡吹かせてやろうと思うのは父の騎士たる意地で。父に似て優雅な修司は澄ました笑みを浮かべてカップの金縁に口をつけた。

「比良少佐は、何か大きな夢や、人生における目的をお持ちなんですか? 少佐にまでなられるようなお方ですから、さぞや立派なお志がおありなのでしょう」

「僕は……うん、そうだね。

 ――僕は、心鬼の居場所を作るのが夢なんだ」

 途中までは人だった同類の、ほんの僅かな動揺すら見透かすように目を細めてから、化生は二つ目のケーキに手を出した。

「心鬼? 一体何を言っているんです?」

「心鬼という名前は、僕がつけた名前だから、修司君が知らないということもあるのかも知れないね。僕はこれでも帝大で勉強していた博士だから、わかりやすいように教えるよ。一応、僕は心鬼研究の、この国における第一人者だから。

 心鬼とは……」

「結構です」

 冷ややかな微笑みを浮かべて、修司は話を遮った。足を組み換え、少しだけ首を傾げる。

「ぼくは、得体の知れない、胡散臭いものは信じないことにしているんです。ぼくにとって、今ここにあるもの、目に見えているものが全てです」

「……なるほど」

 幽かに、笑みを含むような気配がした。バナナのスポンジケーキの最後の一口が、生クリームと連れ添って控えめな造りの口の中に消えた。

 勝手に紅茶を注いで、多めのミルクと、キューブシュガーを三つ。少佐を名乗る化物は、静かに食後の余韻に浸る。

「修司君は、幸せなのかな。生きていて、満たされていると感じる?」

「ここでぼくが首を横に振ったら、ぼくは世界で一番の贅沢者になります」

「そう……ふふ、そうか……いいね……」

 ――うん。ご馳走様。怪訝な顔をする修司を置いて、陸軍少佐はゆるりと立ち上がった。

「……用は済んだんですか?」

「うん。本当は、無理に君を徴兵してはいけないことになっているんだ。契約があるから」

 そう言って、ズボンのポケットから年季の入った紫色の、小さな巾着を引っ張り出す。

「これ、教会で拾ったんだ。返すよ」

 逆さにされた小袋から何かが落ちて、修司が凝視する薄い掌にコロンと転がる。

「……飴玉だね。神波君かな」紙に包まれた飴玉が、平和な顔をして化生二匹の視線を受けていた。

「…………」

「ごめんね。せっかく拾ったのに、失くしてしまったみたい」

(――もしかして、ぼくを脅すつもりで訪ねて来たのか)

 飴を口に含んだ陸軍少佐は帰り支度を始める。ハットスタンドから軍帽を取って、大事そうに頭に載せる。着帽したところで、化生が帝国陸軍人になる訳ではなかった。

 ――教会で拾った物を見せられたところで、どうとでも言い逃れはできる。それでもわざわざ家を訪ねてきたのは、人間の顔で暮らしている同類への牽制か。決して無関心ではない、人のまま暮らすのを看過しない、という意の。

「今日はありがとう。イギリスのお茶は美味しいね。

 ――君が、自分の意思で、僕らのところに来てくれるのを待っているよ」

 正門で車を断って、軍人は骨董品のような黒い傘を開いた。

 Have a nice day. 胡乱な発音の挨拶をして、蝙蝠傘は雨に煙る坂を下っていった。


     ◇


「……清司さんって、いっつもそれ持ち歩いてはるんですか?」

 ええ、と小さく頷いて、清司は父の形見のナイフをポケットにしまった。

 甘味処の暖簾を出て、傾いた日に白む、銀座の街を行く。

 店先の蚊取り線香の残り香が、隣を行く同類の青年の香に変わる頃、清司は柳の葉陰に短く蝉の声を聞いた。

(父さんの背中)

 歩きながら、ふと思い出す。夏になると、蝉の抜け殻を見つけては弟と共謀して父の軍服の背にひっつけていた。最後の夏もそうだった。どちらか片方が父の気を引いて、もう片方が後ろから忍び寄って、抜け殻の乾いた前肢を服に引っ掛ける。背後を取る役は、兄の方が上手かった。

 ――どうした、修司。腹でも減ったのか?

 まさかそんな悪戯をされているとは知らずに、振り向いたところにいた子の頭を撫でた無骨な手。父はその後、畳の上に寝っ転がって兄弟と一緒に母に叱られた。

 ――十七個もつけたのは修司か。俺が清司と話しているうちにやったんだな。ああ、全然気が付かなかった。本当に仲がいいな、お前たちは。

 ――実は俺も、小さい頃、同じことを兄貴にやったよ。俺はお前たちほど利口じゃなかったから、兄貴は、きっと気がついていたんだろうな……

 ……あれだけ賑やかだった蝉の声は、夏が褪せていくにつれて日に日に遠ざかっていった。地中から這い出て、腹いっぱいに鳴いた死が、そこらに転がっている。

 道を折れて、土の路地に入る。軒を連ねる建物の合間、日当たりの良い木塀の向こうには、向日葵が咲いている。

 清司は顔を上げて、澄んだ二つの黒水晶に空を映した。一つだけぽつりと浮かんだ雲の形は、まるで手ぬぐいに描かれた波千鳥。独りで行くには広すぎる海の上を飛んでいる。

「――清司さん、」

 と、後ろから手首を捕らえた手は熱く。振り返れば、午後の陽を受ける能面が、何かを言いさした口の形で凝固していた。

 いつの間にやら異教の香が濃く立ち込めていた。じっと清司が見つめる先で、曖昧な無表情は躊躇いがちに声を発する。

「清司さん……あの、僕と、ずっとお友達でいてくださいね」

「五色さんは、ぼくなんかが友達でいいのでしょうか」

 聞き返せば、とある教えに属していたという青年は不思議そうに首を傾げる。

「何を言うてはるんですか。清司さんやからええんですよ」

 そうですか。清司は言って、盆明けの、ねばつく蜂蜜色の日差しに睫毛を伏せた。

「おそらく、ぼくは、五色さんが想像していらっしゃるような人物ではないのだと考えます」

 かき氷を食べたせいでまだ少し冷たい舌が、連ねた言葉の輪郭をより鮮明にする。

「ぼくには、心がありません」

 一拍間を置いて、能面の下から秘めやかに笑いを含む音。

「僕には、清司さんが、そんなことを心配なさるような、立派な心をお持ちであるように思えますよ」

「そうでしょうか」

 はい、と肯定する声は明るい。

「人間の目は昏ぁて、必死に目を凝らしたところで、今ここにあるもの、自分の目に見えるものしか見えへんのです。清司さんがご自身のこと冷血やと思われていようと、周りの者からしたら――僕らと同じ心鬼は知りませんけど――清司さんはとてもお優しいお方に見えると思いますよ」

「どういうところが、優しく見えるのでしょうか」

「……こうやって、僕と遊んでくれはるところ」

 僅かに俯いて、小面の無表情は恥じらいを浮かべる。

 そうですか…… 清司は家人から教わった通りに、仮面の中で相手がしているであろう表情を形だけ真似た。

「ね。だから、これからもずっと、僕と、お友達でいてくださいね」

 しばし無言で向かい合った後、五色は重ねて念を押した。

 清司は気恥しそうに目を伏せたまま、何も言わず、頷きもせず、手を捻って同類の青年の手首を握り返した。

「行きましょう、五色さん」

「は、はい……!」

 腕に力を込めて促せば、心底嬉しそうな声が返ってくる。

 足早に晩夏の道を行きながら、清司は未だ〈心〉を理解できない。

「清司さん、裏切ったら赦しませんよ」

 休日の外出を約束するかのような明るい調子で、化生が言う。

 清司はまた少しだけ、歩調を速めた。


「清司君の方から訪ねてくるなんて、珍しいね」

 相変わらず、養父の同窓生の家は暗かった。光は北側にある狭い中庭からしか差さず、その小さな庭の眺めも、開口部の半分近くが隣家の板塀に侵食されていた。

 勧められて、清司は茶の味がする湯を啜った。向かいでは、土産のわらび餅を早速家主が開封している。

「美味しいよね、ここの」

「食べたことがあるのですか」

「昔ね」

 心鬼はそれ以上語らず、手早く甘味を縁の欠けた皿に取り分けた。

「神波さんは、どちらへ」

「神波君は出かけているよ。新しい服と、靴と、それから鞄を買いに。誕生日だったんだ。さっき出たばかりだから、しばらくは帰ってこないんじゃないかな。

 ――もしかして、用があったのは、僕ではなく神波君の方かな? 神波君の力が必要なら、後で僕から言っておくけれど」

 客の前へ皿を押して、化生は老眼の気でもあるかのように目を細めた。

 どうも、と頭を下げてから、清司は首を横に振った。

「いえ。用があるのは、比良さんの方です」

「そう」一切れ腹に収めてから、濃紺の着流し姿の男は、長押しに吊るした軍服に視線を遣る。「入隊の相談なら、五色君が一緒でもよかったんじゃないかな」

「違います」清司は即答した。

 そう…… 残念そうに零す家主に断って、清司は五色が閉めていかなかった障子を閉めに席を立った。ちょうど引き手に手をかけた時、正しく鰻の寝床の家の奥からこちらを見つめる能面が目に入った。清司は軽く会釈をしてから、監視の目を遮断した。

「本日は、比良さんと契約をしに参りました」

 鞄から一枚の紙を抜き出し、机の上に提示する。

 二切れ目を食べ終えた化生は、薄ぼんやりと疑問符を浮かべながら皿と紙とを持ち替えた。やはり視力が悪いのか、僅かに眉間に皺を寄せている。

 ――書き記された文章を三度ほど読み返す間があった。

「黄泉坂清司君は、僕に協力し、自分の口座を僕に譲る。その代わり、僕は鎖々戸修司君に、恐喝及びそれに準ずる手法を用いて入隊を強要しない……」

「『恐喝及びそれに準ずる手法』には、比良さんや五色さん、神波さんの心鬼としての力の行使も含まれます。ぼくの協力も適用外となります。詳しくは二枚目以降をご覧ください」

「清司君は、僕らがそういうことをすると思っているんだね」

「可能性を考慮したまでです」

 率直に述べると、化生は口を緩やかなへの字に曲げた。清司は生来の無表情のまま、回答を待った。

「清司君とは、それなりに友好的な関係を築けていると思っていたのだけれど、残念。まだ、信じてもらえていなかったんだね。黄泉坂君の影響かな……

 ――これ、もし、僕が拒否したら?」

 そこだけ明確に発音して、同類の男は笑うように表情を緩めた。

「その場合は、今ここで、あなたを殺します」

 清司ははっきりと答えた。「あなたなど、どうとでもできます」

 ――一呼吸置いて、閉ざされた空間に、朗らかな笑声が起こった。不吉な響きを持つそれは、赤子の気まぐれなむずかりのように、しばらくすると一人でに収まった。

「清司君は、僕に似ていると思っていたのだけれど……黄泉坂君だったね」

 いいね…… 名前を記しながら、化生は独りごちた。

「感謝します。比良さんが理解のある方で良かった」

「ふふ……本当に、そう思っている?」

「ぼくの〈心〉を覗いてみなければわかりません」

 何がその琴線に触れたのか、古参の心鬼はまた笑って、終いには咽せた。

 清司は徐に腰を上げて、立派な肩章をつけた軍服の前に立った。これ見よがしに吊り下げられた上下をじっと見分しながら、

「ぼくの父も、比良さんや黄泉坂さんと同じくらいの年になっていたら、これを着ていたかもしれませんね」

 中尉のまま死んだ父の年を数えながら、慣れた物取りの手つきでポケットの中を探る間も咳は続いていた。


     ◇


 整然と造り込まれた花と緑の庭も、かつては精神病院だったと後になって聞いた。努めて忘れ去ろうとした原風景に咲いていた花々は、実は全て造花だったのかもしれない。全て、幼い日に見た悪い夢なのかもしれない。

 夢の中で、少年は鏡の前に座らされて、大人に言いつけられた通りに、同じ言葉を何度も何度も、時間の感覚すら失ってしまうくらい、繰り返し繰り返し唱えていた。

 ――僕は誰……?

 夜眠っていると、突然耳元で大きな音がして、飛び起きることもあった。鉄製の鍋を、金属の棒で力任せに叩くような音。静かになったと思ったら、しばらくして、再び眠りに落ちた頃にまた鳴る。今度はずっと鳴り続ける。もう眠るのを諦めた頃に、ようやく止まる。冴えた目は、三度叩き起されるのを警戒して、大人が朝を告げに窓のない部屋を訪うまで瞼を下ろさない。

 時たま顔を合わせる他の子供たちは、少しずつおかしくなっていった。付き添いの大人と反対の方へ顔を向けて楽しそうに喋っていたり、やっと会話をしてくれたかと思えば、親切に天の国への道順を教えてくれたりする。

 ――僕は、

 ――僕は……

 ありがとう、と別れ際に振った手の震え。自分の両手をじっと見つめながら、少年はついに、おかしいのは自分の方だということに気がついた。

 少年は、花に飾られた地獄の中でただ一人、狂うことができなかった。

「君の名前は?」

 音の余韻が消える頃に、碧眼の天使はそう尋ねた。少年は驚いて、澄んだ声を発する前の天使がしていたような表情をそのまま返した。

「君の名前は?」

 陽の色の髪を輝かせて、あどけない面差しが全く同じ調子で問いかける。空の清澄をそのまま宿した瞳が、赤銅色の髪の少年を映していた。

 ――当てなく庭園を彷徨っていた少年は、聞き覚えのある旋律を耳にして、ふと小さな教会に足を踏み入れた。調べが響く中、ステンドグラスに描かれた聖人が、奏者に七彩の光を注いでいた。

 少年は、かつて自分がいた場所を思い出して、歌を口ずさんだ。歌が終わると、天使はそばかすの散る白皙にぽかんと空白を浮かべていた。

「君の名前は? 君の名前を教えて」急かすでもなく、三度目の質問があった。

「僕は……エド。エドワード……」

「エド」天使はにっこりと微笑んだ。「僕はアルバート。アルでもいいよ」

「アル……」名前を口にした時、天使の頭上に光輪が輝くのを、確かに見た。

「もっとこっちに来て」

 天使は手招きをした。蒼天の色の視線が、迷い子の首筋に注がれる。

「エドの声は美しいね。空から降ってくるみたいだ」

 天使は手を差し伸べた。白い蛇のような腕が、まだ隆起の目立たない喉元に触れる。

「声が美しいから、エドは今日から小夜鳴鳥ナイチンゲール。さあ、ピアノを弾くから、歌っておくれ、小夜鳴鳥。僕のために、僕だけのために……」

 その出会いを思い出す一時いっときだけ、光輝は眼裏まなうらに満ちた。


 ――気配を感じて、深く纏わらせていた舌を解いた。膝の上で、碧い瞳は無音で微笑んでいる。

「……うちは、そういうところやないんですけど。二人でコソコソ仲良うするんやったら、出て行ってもらえます?」

 気色の悪い。能面は心底不快そうに吐き捨てた。

 早乙女直は琥珀の瞳を伏せたまま、濡れた口元を袖で拭った。

 言葉を飲み込んだ口内は、薄らと血の味がした。

「早乙女さん。身の振り方は、ちゃんと考えはった方がええですよ」

 苦情を述べた口の形のまま、小面はわざとらしく音を立てて襖を開け放つ。

「人間なんて、僕らにはどうとでもできるんですから……他でもない貴方自身が、一番よう知ってはるでしょう?」

 ――ねぇ、早乙女さん、いいえ、

 どちらでお呼びした方がええでしょうか…… 化生は本性を覗かせて、くすくすと笑っている。

 その背後、褪せていく空の青はまだ遠い。


     ◇


「こんにちは、比良少佐」

「こんにちは、神父様」

 人ならざる二人は、雨が本降りになる前から、互いに互いの存在を知覚していた。こうして互いに言葉を交わすことも予知していた。

 初対面にも関わらず互いの顔を知る二人は、前々から会う約束をしていた旧知にするように挨拶をした。暗く雨に閉ざされた街角で、化生はそれぞれ柔和ともとれる表情を浮かべていた。

 死灰の色の目と髪をした男は黒いキャソックを着て、カフェーの店先で雨を凌ぎながら毒々しいネオンの光を浴びていた。笑みを深め、何かに耳を傾けるように胸まで届く長髪と、首から下げた十字架を揺らす。「ええ、そうしましょう」

「我々は、こうして貴方と会えたことを嬉しく思います。話に聞く通りの、雨の似合うお方で。もしお時間があるのなら、一緒にお茶でもしませんか?」

「いいね。僕も、貴方と一度話がしたいと思っていたんだ」

 軍人と神父はそのまま、モダンな男女が雨を憂う店内に足を踏み入れた。指を二本立てて見せた将校に、ボーイは怪訝な顔をした。奇妙な客らは一番奥の、一段高くなった席に通された。

「比良少佐は、賑やかな場所はお好きですか?」店の中を眺め、神父は尋ねた。

「僕は、嫌いではないよ。人が多いのが、嫌いな人もいるけれど。貴方は?」

「特には。職業柄、慣れていますから」

「従軍の聖職者だったっけ。実は僕も、お寺で修行をしていた事があるんだ……」

 神父は笑んだ。「では、最初に、共通の話題――信仰についての話をしましょうか」

「構わないけれど」少佐は手拭きを丁寧に畳みながら言った。

「貴方はその話がしたくて、僕を待っていた訳ではない。僕たちが、人間として出会っていたのなら、そうやって相手のことを知ろうとするのだろうけど……貴方は、心鬼として、僕と話がしたいのでしょう」

「意外に話が早くて助かります。それなら、回りくどい真似はせずに、直接〈真世界Ideal World〉から会いに行けばよかった」

「〈真世界〉……気になっていたのだけれど、意味は『実在』の? それとも『理想』の世界?」

「両方です」

 神父が微笑んだところで、注文したものが運ばれて来た。神父の前にはティーカップと、赤い薔薇柄のティーコージーを被せられたポットが、少佐の前にはアイスクリームやらフルーツやらが盛られた金属製のコンポート皿が置かれた。

「そう」

 少佐は柄の長いスプーンを手に取った。アイスクリームはすぐ溶ける。

「そっちが本当の世界なんだね。貴方にとって」

「そうではありませんか? 〈真世界〉こそが本質、我々の在るべき、理想の世界であると」

 優しい声音で、神父は語りかける。

「こちらの世界において、本質は歪曲され、我々は制約されている。人間の皮というものによって。我々の知る世界、そこに存在する本質こそが、人間の皮という幻影phantasmを排除したこの世の真理であるとは思いませんか?」

「僕は、そうは思わない。

 ――〈幽鬼Phantom〉と、貴方たちは呼ばれているそうだけれど、人間の皮とどう違うの?」

「我々を見た人間が、勝手にそう呼び始めただけですよ。不本意な呼び名が浸透してしまって困っている。我々の方が、真の存在であるというのに」

「どちらも本物ということにすればいいと、僕は思うよ」

 アイスクリームを口に運ぶ合間に、少佐は言った。

「比良少佐は、変わった考えをお持ちだ」

「そうかな」

「ええ、とても……」

 神父は紅茶には手をつけず、組んだ脚の上に手を載せたまま話を続けた。

「では、我々の観点から、本題についてお話しさせていただきましょう。

 比良少佐は、我々高次の存在の共同体――貴方の国の言葉で言う、シンキの共同体を創設することに、ご興味ございませんか?」

「…………」少佐は見ようによっては真剣な面持ちで、二つ目の氷菓を切り崩している。

「我々は真の世界を知り、この世の真理を知る高次の存在ですが、数が少ない。多数を占めているのは、蒙昧で、不完全な人間です。彼らの存在は理に適っていない。安らかさや幸福を願っておきながら、それを手に入れるために争う。矛盾ばかりの彼らの存在は、〈真世界〉の調和を乱します。我々が協力して人間を管理し、〈真世界〉の調和の維持に努めれば、その投影であるこの世界も、平和になるとは思いませんか? 我々が、人間の軍隊に属するまでもなく」

「もし仮にそれが達成された時、僕らは何になるの」

「不思議なことを質問されるのですね。何にでも、貴方がなりたいものに成れますよ」

「神様とか、仏様でも?」

「ええ、貴方が望むのであれば」

 カン、と。スプーンが図らずも硬い音を響かせた。半球二つ分あったアイスクリームは金の皿の上で軌跡を残すのみ。

「……ふふ、」

「おや、どうかされましたか?」

 たとえ慈悲深く細められていたとしても、死灰の瞳が感情の色を宿すことはない。

 韜晦に黒く煤けた瞳も同様だった。少佐は不気味な笑みを取り下げて、何事もなかったかのように飾り切りの林檎を口に含んだ。しゃりしゃりという咀嚼の音が、素知らぬ顔で沈黙の中を通過する。

 四十五の男は音も無く食物を嚥下した。

「じゃあ、僕は、神父様の神様になろうかな……」

「ご冗談を」

 形ばかりは穏和な微笑みに、瞬間不快の影が過る。

「我々の神は唯一、」

「――貴方だけ?」

ああどういった意味で?」

「貴方は、神様に仕える身でありながら、神様なんて少しも信じてはいないし、あまつさえ自分が神様に等しいものであると思っている節があるよね」

 独り言の調子で言って、少佐は笑うともなく笑った。

「もし何かになれるなら、僕は、人間がいいな。心鬼で、人間。今も一応、人間だけれど」

何を言っているんだ本当に変わったお方だこのすっからかん今まで会ったことがないくらい

 神父は目を伏せ、胸に下げた銀の十字架を握った。僅かに口角を引き上げ、小さく息を吐く。

 再び前に向けられた双眸は、白黒二色の異界が溶け混じったような灰色。

「では、我々には協力していただけないと」

「うん。貴方の考えと僕の考えは違うし。

 ――僕は、人間の世界に、僕らの居場所を作りたいんだ」

「何故その考えを持つに至ったか、お訊きしても? 貴方の本質は、理解が難しい」

 柔和な表情を保ったまま、神父は首を傾げる。

「傘をもらった」

「黄泉坂子爵にですか?」

「そう」

「……それで?」

「それで………………心鬼の居場所を作ろうと思った」

頭がおかしいそうですか……」

 口元を緩め、神父は黒いキャソックの肩を竦めた。

 スプーンを握ったままのひ弱な軍人は、哲学的な顔をしている。

「黄泉坂君と同じことをすれば、僕も、黄泉坂君みたいに……

 そう。僕は、黄泉坂君みたいに、人として認められたかったんだ。黄泉坂君に倣えば、僕だって、誰かから慕われるような、優しい、立派な人になれると……これは、憧れ、なのかもしれない……憧れか……」

莫迦らしいもう結構です

「うん。

 ――ありがとう、神父様。長年の謎が、解決したような気がする」

 少佐の顔は心なしか晴れ晴れとしていた。満足そうにうんうん頷いている。

時間の無駄でしたなら良かった

 神父は目を細め、信者の声に耳を傾けるように、首にかけた十字架と、長い髪を揺らした。

「ところで、我々の愛しい息子は、寂しがってはいませんか? 早く家に帰りたいと」

「ううん。別にそうは見えないけれど。友達が遊びに来ると、とても嬉しそうにするよ。帰らない方が、彼のためなんじゃないかな」

悪魔め愛しい子……裏切ったな友を選んだのですね

 慈愛に満ちた表情で、神父は呟いた。紅茶にはまだ手をつけない。

「神父様は、いつまで日本にいるの?」

 少佐は隅に残しておいたスポンジケーキに溶けたアイスクリームを吸わせながら訊いた。

「未定です。いくつか仕事がありますからね」

「勧誘に来ただけじゃなかったんだね。僕の他にも、誰か誘ったりする?」

「いいえ。やはり他人は信用できない。人間も同類も、全てが劣る」

「神父様は、友達がいないんだね」

「いますよ。生涯の友であり、兄弟のようでもある……」

は、数に含めないよ」

 割合確然とした声で、少佐は釘を刺した。白いナプキンで口元を拭いながら、思い出したように、

「そういえば、自己紹介がまだだった。僕は、比良景仁。陸軍少佐。

 ――貴方は? 神父様」

「ジュリアス・ヴァレンタイン。ヴァレンタイン神父と呼ばれる事の方が多い」

「なるほど。珍しい心鬼だね。じゃあ、もう一人は?」

 神父は微笑み、ゆるりと首を振った。「名乗る必要はないと」

「そう」他人事のように無関心な返事をして、少佐は席を立った。

「では、僕はここで。さようなら、神父様」


 ――伝票は机に残されたままで。少佐が食べた分も代金を支払って店を出たヴァレンタイン神父は、雨の止んだ空を見上げ、全く別人の声で悪態をついた。

 ……くたばれ。


     ◇


 夜中に叩き割られた窓硝子は、片付けを命じられた女中の人差し指の先を切りつけた。

「くだらんことを……!!」

「ちょっとお祖父様。それでも大事な証拠の一つなんだから大切に扱ってもらわないと。それに、あんまりカッカすると頭の血管が切れてしまいますよ」

 ビラの一枚を苛立ちと一緒に握り潰そうとした祖父を、兄が止めた。短い指の間から既に半分丸くなった藁半紙を取り上げて、困り顔で皺を伸ばす。

「桃子、わかっているとは思うが、当分外出はよしておけよ。何があるかわからないからな。用があったら遣いを頼め」

「巻き込んでしまう訳にはいかないから、残念だが、修司様にお会いするのもしばらくやめておきなさい」

「事情は俺から話しておきます。ちょうど今晩、新太郎様と会う約束をしていますから。いいな、桃子」

 はい、と力なく頷いて、桃子は自室に戻った。

 祖父と兄は頑として見せてくれなかったが、夜のうちに庭にばら撒かれたビラには、桃子たち財閥一家は社会に巣食う癌だとか、今すぐにでも除かねばならないだとか、そういう語調の文言が印刷されていた。

 ワンピースのポケットから取り出した粗悪な広告を眺めて、桃子は深々と息を吐いた。

投げ込まれたのがただの石で良かった。良い方に考えて憂鬱を晴らそうとするも、上手くいかない。

 小さく呻いて、仲良く枕元に並んだテディベアの間に頭を埋める。悪い方に考え始めると――全てが、桃子と侯爵家の青年の結婚を妨げるように動いているように思えてくる。 今は大方解決したものの、家庭内の不和だったり、今回の悪質な嫌がらせ。まるで目には見えない大きな力が、桃子の身分不相応の婚姻の邪魔をしようとしているようだった。

 二人の結婚が決まる前、財界関係者の殺害を目論んでいた若い将校らが立て続けに射殺される事件があったが、その前後も、桃子の家を刺客が訪うことはなかった。それなのに、取り決めがあった直後に――

(結婚なんて、すべきではないのかもしれないわ)

 頭を左右からぬいぐるみに抱擁されながら、桃子は思った。

(もし神様がいるのなら、わたしなんかより、修司様に味方するでしょう。わたしが相応しくないから、あちこちから手を回して、修司様の幸せを守ろうとしているに違いありませんわ)

 婚約者の、美しい青年の姿を眼裏に浮かべる。その姿は月のように、闇に輝いて見えた。

 光を放つ白雪の肌の、そうあるべき場所に象嵌された黒曜石の瞳は、唯一無二の相似形の父を映す時、彼らが住まう七彩の世界そのままの色で彩られた。対して、家が豊かなこと以外に取り柄のない気弱な少女を映す時、黒い瞳は黒いまま、時折ちらりと何かの色が奥を掠めるものの、持ち主の感情をありありと表すことはなかった。

 桃子はわかっていた。青年が、桃子と共に在るために、本心を押し殺していることを。

(修司様は、お父様と一緒にいる方が幸せで、本当は結婚なんて望んでいらっしゃらないのでしょう。お父様が、修司様の結婚を喜んでいらっしゃるから、嫌とおっしゃることができないのだわ……)

 桃子は藁半紙の内容を再読した。

(こんなことがあったから、お互いのためにもしばらく会わないでおきましょう……そう言って、時に任せて白紙にできるものかしら。修司様のお父様は優しい方だから、きっと今より気を遣って、わたしたちの仲を取り持とうとしてくださるに違いないわ)

「修司様……」

 病弱故に寂しい田舎に隠されて、ようやっと肉親と過ごす安らかな、充実した日々を手に入れられたというのに。その心中は容易く想像でき、本来なら喜ぶべき立場にいる桃子は邪魔者の罪悪感を抱かざるを得ない。

 ふとした瞬間に青年の目に浮かぶ焦燥の色。桃子は彼がかなりの寂しがり屋だということを察していた。仔犬や仔猫を無理矢理親元から引き離すような真似は、桃子にはどうしてもできない。

 思い立って、桃子は身体を起こし、漂流者のように手を振ってみた。閉め切ったドアの方に、花柄のカーテンを引いた窓の方に。――見守っている。そう言った彼は、きっと来てくれる。不思議な確信があった。

「どうされましたか」

 部屋の隅から声がして、桃子は飛び上がった。

 白木のコートハンガーの横に、先日と同じ格好をした影が佇んでいた。

「こ、こんにちは……」

「ご無沙汰しております」

 婚約者の影を名乗る存在は、恭しく礼をした。

 少し沈黙があった。

「ぼくを、呼びましたか」

「ええ……急にごめんなさい。どうぞ、お掛けになって」

 来てくれるという確信があったのに、いざ目の前に現れると不穏な動悸が止まらない。

 失礼します、と前置きして、神出鬼没の青年はまず靴を脱いだ。三好家は洋風の造りで靴のままでも上がれるが、桃子は自室ではスリッパを履いた。

 桃子の案内に従って花の刺繍で足元を飾った青年は、壁際に年季の入った革靴を揃えると、来客用の上履きでぺたぺた歩いて少女趣味の椅子に腰掛けた。まるで写真でも撮るように背筋はぴんと伸びていて、佇まいに隙はない。

「お怪我はありませんでしたか」

 桃子の手元――折り目のついた藁半紙をちらと見て、影は訊いた。

「わたしは大丈夫です。が手を切ってしまったけれど……ご存知でしたの?」

「投石があったと、先程知りました。お家の前に人だかりができていたので」

「そう……」

 事件の穏やかな収束は見込めなさそうだった。明日、ともすると今日の晩には、帝都新聞あたりが大々的に騒動を書き立てるに違いない。

 桃子が相槌を打って、また間が空いた。だが居心地の悪い静寂ではなかった。婚約者の影は、桃子を急かしたりはしない。

 外からは、複数の人間の声が聞こえた。見物客をかき分けてやって来た警官が、入れ替わり立ち替わり財閥家を検分していくのだ。仲直りした兄と祖父は、その対応に追われている。

「あの……」

 決心して声をかけると、気弱な少女を映した黒水晶がぱちりと瞬いた。透徹した瞳の中で濾過された自分の像に、桃子は面食らう。

「あなたは、修司様の影だとおっしゃいましたけど……もし、わたしと、け、結婚したとして……修司様は、幸せだと思いますか……?」

「一般的に結婚は喜ばしいことなので、ぼくは、修司は幸せだと考えます」

 一呼吸置いて、婚約者の影はこてんと首を傾げた。「そうではないのですか」

「お父様と一緒にいらっしゃる方が、修司様は幸せそうに見えますわ……」

 懺悔でもしているような心地で、桃子は俯く。

「修司様は、今まで寂しい思いをたくさんなさってこられたから……わたしと結婚なんてせずに、もっと、お父様とのお時間を大切にされた方が良いような……そんな気がして……」

「あなたは、修司と結婚したくないのですか」

「いいえ……」桃子は弱々しくかぶりを振った。

「修司様は、とても素敵なお方で……とても優しくて……わたしが、初めてのダンスパーティーで怪我をして歩けなくなってしまった時も、軽々と横抱きにして運んでくださって……ろくに踊ったことがなかったから、何から何まで修司様に任せきりで、その上ご迷惑をかけてしまったのが申し訳なくて、恥ずかしくて……あの時は、ちゃんとお礼を言うことができなかったのですけれど……こんなわたしにも優しくしてくださる修司様は、本当に、王子様のような方で……でも……」

 そこまで言って、妙な静けさに桃子は顔を上げた。

「どうしましたか。どうぞ、続けてください」

 婚約者と合同の顔が、一心に桃子を見つめていた。拳を膝に置いたまま身を乗り出し、熱心な学生のように話を聞いている。

 この上なく真剣なようにも見える無表情とにらめっこをする間に、桃子は消沈し、尻込みをしていた自分が少し莫迦らしくなった。

 顔を背けてくすりと笑みを零せば、無機的な美貌は小鳥のように首を捻る。「どうして笑うのですか」

「あの、修司様の影様がよろしければ、修司様のこと、もっとお話ししてもいいかしら――」

「もちろんです。ぜひともお聞かせください」

 おずおず尋ねた語尾に重ねての返答。淡く頬を染めて、桃子は身の上自慢と誹られそうで誰にもできなかった話をすることにした。

「あのね、修司様はね……」

 いつも澄ました顔の婚約者の青年も、父親に揶揄われた時ばかりは子供のように赤面して拗ねること。父親と離れると、まるで親とはぐれた仔犬か仔猫のように落ち着きがなくなること、それを本人は気づいていないこと。それから、恋をする乙女のように、美しい相似形の父を目で追っていること。修司、と名前を呼ばれると、ぱっと表情が華やぐこと。父親の方も、自分の後をついてくる子を心底愛おしそうに眺めていること……

 ――本当は、そんな二人の間に割って入るより、少し離れた所から二人を見守っていたい。そんな自分の思いに気がついてしまったこと。

「わたしは、修司様と結婚することが幸せなのではなくて、修司様が幸せでいることが、わたしの幸せのように感じるの……これって、変なのかしら……学校のお友達はみんな、素敵な方と結婚することが幸せなのだと言うけれど……」

「いいえ。何も変ではないと考えます」

 断固たる否定に、桃子は救われた心地がした。

「ぼくも、修司が幸せだと――」

「影様も、修司様が幸せだと、自分も幸せに感じますか?」

「……そうであればと考えます」

 理解者を得てにわかに嬉しくなって、桃子は声を弾ませ訊いた。何も考えずに訊いてから、黒水晶の瞳が僅かに下を向くのを見て取った。

 少女が表情を曇らせる前に、影は右手を差し出した。「同盟を結びましょう」

「あなたと修司の結婚の邪魔をすることは、残念ながらぼくにはできません。それぞれのお家のことなので。でも、ぼくは、修司が幸せに暮らせるよう身を捧げましょう。ぼくは、修司の――修司の、影だから」

 言いかけた言葉は何だったのだろう。桃子は躊躇いがちに手を伸ばした。柔く交わされた握手には、確かに人間の体温が宿っていた。熱く感じるほどの。

「影様、あなたは、本当は、」

 深い洞穴の奥に微かな水音を聞くように、ある予感が少女の胸を震わせた。咄嗟に引き止めようと握り込んだ手から、滑らかな五指がするりと解けていった。

 婚約者と同じ背格好の青年は、花の刺繍のスリッパを脱いで、繕われた靴下を履き古された、しかしよく手入れされた革靴に収めた。

「あなたのような方がいてくれて良かったと、幸せに思える心がぼくにもあれば……とぼくは考えます」

 では。難解な謎解きのような言葉を残して、影は霞のように薄らいで消えた。


     ◇


 声をかけると、黒白の世界に落ちた人影は振り向いた。

 忌々しく呼びかけると同時に放った矢がその左胸を通過し地面に突き刺さるのを見て、仮面の下で口の端を歪める。

「一体、何がしたいんだよお前は」

 黒白の静寂に醒めた詰問が染み入った。相対する影は、最早不要となった答えごと塗り潰して黒い。

「……修司、ぼくは、」苛立ちが通り抜けた胸に手を当てながら、影は弁明するかのよう。

「まさか横恋慕? 裏でコソコソやってるみたいだけど、ぼくが気づいてないとでも思ってるの? 他人の婚約者に近づいてさ。お前って、相当趣味が悪いね」

 女の趣味がね。さも不快そうに舌を覗かせれば、影は僅かに視線を落とし、差し出された濡れ衣を自ら着込んだ。「ごめんね、修司」

「――でも、違うんだ。ぼくはただ、」再びこちらを見た瞳の透徹に舌打ちを飲み込む。

「何が違うんだよ。お前が桃子さんの部屋にいたのは事実じゃないか」

「それは事実だけど、違う。ぼくはただ修司の――」

「お前、またぼくから取る気? お前に何もかも取られて生きてきたぼくが、やっと手に入れられたものを? 意地悪だね。弟をいじめるのがそんなに好きなんだ」

 戯れに罪を着せられてもなお清浄なままの存在が気に食わず、声を遮り被害者ぶって糾弾する。息を飲むような気配がした。

「違う。誤解なんだ。聞いて、修司」

「嫌だね」

 拒絶し、嫌悪と侮蔑に瞳を細める。こちらに一歩踏み出したきりの影の片足。何かを掴もうとしたらしい腕が、静かに降ろされるのを見た。

 ふん、と鼻で嗤う。

(……何を今さら、)

 ――幸福な、優しい味の記憶を噛み砕いた背中の口はいつまでも咀嚼を止めず、だらしなく唾液を滴らせていた。

 化物の臼歯ですり潰した記憶の中で、無辜の者たちは両手を血で濡らした『ひとごろし』の幸福を祈っていた。

 ――今さら救えやしないのに。

 ――救う術すら持たないくせに。

 心を千の腕を持つ化物に変じさせても得られなかった愛を修司に与え、どうしようもなく穢れてしまったその手を取り、清らかな天上の楽園へとすくい上げてくれたのは父だった。父だけが、許されざる修司を許した。

 逆に父以外は、何者も修司を許さなかった。無言のうちに修司の罪状を読み上げ、同じ顔の兄弟と比しては蔑んだ。

「修司、」

「気安く呼ばないでくれる? ぼくは、なんだ。お前とは兄弟でも何でもない、赤の他人なんだ」

 は、許されない。

 保身のために兄弟を売り、母を殺した「悪い子」は。

 郭公の雛を心から愛した男にそむき続ける「悪魔の子」は。

 ――清司。

 忘れたはずの声が、捨てたはずの名を呼んだ。

 最初に手を繋いだ者の特権と、幼な子は手を引き急かして連れてきた父親の肩に乗って象を見ていた。父に肩車をしてもらうと目線は誰よりも高く、日除けにと頭に乗せられた軍帽が誇らしく感じられた。

 ――お前を見ていると、小さい頃の俺を思い出すよ。

 ――修司と、兄貴と、はぐれないようにしろよ。いつだって心配するのは兄貴の方だ。お前は俺に似て強情で、危なっかしいところがあるからな。

 ――ほら見ろ、清司。あそこに修司と母さんがいる。ここにいると踏んで探しに来たんだな…… ちょっと隠れてみるか――あ、修司に気づかれた。あいつはすぐに弟を見つけるな……まるで兄貴みたいだ……

(これ以上ぼくを――)

 いつぞやのように脳裏を過った記憶は許されざる罪の告発でしかなく。

 白黒二色に染め分けられた前髪の下から睨み据える先、兄は弟がどれだけ穢れようと無実のまま。

 化生の核が揺らいだ。暗い水底から浮上するように、墨池の空にごっそり欠けた歪な三日月が浮かび上がる。

 さらりと解れた足元に沈む、道化の先反りの靴。歪んでいく顔の半分を覆う仮面の下が熱を帯びる。方々に伸長した渇望の腕が砂を掻く。その様はまるで蜘蛛か蟻地獄。

 ――修司。

 声が切り替わる。世にも美しい毒花、耳朶に優しく作用するの声。甘美な響きは罪意識すら麻痺させて、憐れな少年を楽園へと誘う。

「――修司」

「黙れ」

「黙らない」確然とした声音。

「ぼくは、修司の幸せを願っている。修司の幸せが、ぼくの幸せだから」

「何言ってるの? ぼくを苦しめるだけのお前が」

「修司を苦しめてしまっているのなら、ぼくは償いをする必要がある。ぼくは、何をすればいい。何をすれば、修司は苦しくなくなる」

 は。乾いた笑みにひびが入る。「本当に、莫迦で愚かだな、お前は」

 ――どこまでも清いまま死んだ父親に似て。ゆらりと身体を起こし、異界の空を仰ぐ。貪欲な歯形が目に浮かぶように、意地汚く齧られた月。白く満ちていたはずの部分は夜の腹の底に消えたのか、行方は知れない。

(……お前には、一生わからないよ)

 月を喰らった闇と同じ色の影に言う。

「ぼくは親切だから、教えてやるよ。

 償いがしたかったら、本当にぼくの幸せを願うのなら――今すぐにでも消えてくれ」

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