三章

 ――清司さんって、童貞ですか?

 ……ああいえ、出し抜けにすみません。僕、今まで同じ年頃の友達おらんかったから……男友達やいうて、一体どんな話するんやろて……ごめんなさい、答えんで結構です。今のは忘れてください……すみません――『田んぼ』。

 あの、その、僕ね、清司さんにはまだ言うてなかったけど、比良さんとこに寄せてもらう前は、関西におったんです。あ、訛りが……ふふ、すんません。意外でも何でもなかったですね……清司さん相手やったら、自然に話せるから……え! ありがとうございます……そんな可愛かいらしいなんて……いえ、嬉しいです! 清司さんたら、お世辞がお上手やわぁ――『川』てどう取るんでしたっけ……せや、小指で……

 ええ、わかってます。清司さん、嘘なんて吐かはらへんもん。ほんまに、綺麗な顔してそんなこと言うて、ずるいわぁ……ああできた! 『船』。

 そう、でね、僕がおったとこ……■■■■■って、ご存知ですか? いえ、知らんのが普通ですんで……知らん方がええと思います、あんなとこ……今はもう燃えて、ないんですけど――え、僕は無事でしたよ? はい、何とも……ああ、僕が火事場から命からがら逃げてきたんかと思わはったんですね。ふふ、清司さんたら――『田んぼ』に戻ってきましたね。

 あそこはね、■■や言うてましたけど、中身は全然違って……まさしく淫祀邪教でしたよ。男と女で交わって、欲を落として極楽往生……阿呆みたいでしょ? 人間の欲なんて、いくら落としても際限なく湧いてくるのに、それを知らんと、ずっと、ずっとずっと、ずぅーっと、朝から晩まで獣みたいに腰振って――はい、『ダイヤ』。ふふ、清司さん、『鼓』と『カエル』、どっちにしますか……?

 ――僕ね、女の人嫌いなんです。あのぶよぶよした柔らかい感じ言いますのん? 内臓そのものみたいでどうしてもあかんのです。実を言うと、男の人も嫌いなんです。存在が厚かましいわ暑苦しいわ、特に中年の方なんかは、脂ぎった、嫌ぁな臭いがして。そのくせ、いつまでも自分が若いままや思てはるのが何とも気持ち悪ぅて……ああいえ! 男の人でも清司さんのことは好きです! ――あ、『鼓』にしはるんですね! もちろん比良さんのことも好きです……まあ、神波さんのことも好きですよ。ついでですけど。似た境遇といいますか、不能な点ではお仲間なんで……はい。本人には言わんといてくださいね。タマなしとかタネなしとか、面白がって騒がはるんで……『川』。あ、ちょっと冒険されるんですね。いいですよ……

 何の話してましたっけ……そう、僕は、そこで毎日のように酷い目にあってて……ある日、ついに耐えきれんくなって、心鬼になったんです――え、清司さん何ですかそれ。初めて見るわ……どうしよ……

 ……僕ね、最初絶望したんですよ。心影界って、白と黒でしょ。僕で散々自分の欲こき捨てて、しまいに腹上死したような人が極楽へ行って、僕だけ、あんな白黒の、地獄みたいな場所に落ちて……僕あかんわ思いました。皆の代わりに汚れてしまったから、神様仏様も見捨てはったんやと思たんです――あら、団子になってしまいました。ふふ、すみません清司さん。もう一遍最初からやりましょう……今度は僕から――『吊り橋』。

 あの時は腹立たしてかなんくて、ほんま赦せんくて……ほんまにほんまに赦せんくて……そしたら、比良さんが助けに来てくれはって――あ、最初から冒険されるんですね。清司さんたら……

 そう、僕、あの時ほんまに比良さんから後光が差すのを見たんです。いえ、幻やないです。絶対にちゃいます。意地悪言うたら清司さんでも赦しませんよ――あーあ、清司さん失敗しはった。

 ――『四角』て、ふふ、そんなんありませんよ――じゃあ『毛糸』? もう、上手いこと言わはって、ほんまに清司さんたら可愛らしい人……好きやわぁ……

 ……僕はね、比良さんみたいな無欲な方のほうが、人の上に立つのに相応しいんちゃうか思うんです。自分かて辛い思いして生きてきはったのに、他人にそれを知られんように気丈に振る舞わはって、傷を言い訳にしたりもせずに……ほんまに立派な方やと思うんです。小さい頃に黄泉坂子爵様に傘をもらったって、たったそれだけで僕ら心鬼のために身体張るなんて、普通の人にはできませんよ。素晴らしい報恩のお話やと思いませんか……

 せやから、ね、清司さんも僕と一緒に比良さんのところで働きましょう。やり甲斐のあるお仕事ですよ。清司さんがお父様のような軍人さんにならはったら、黄泉坂子爵様も喜ばれるんとちゃいますか。知りませんけど。清司さんなら、きっと制服もお似合いですよ。

 ――ねぇ、清司さんたら! もう、お耳を塞いだりなんかして。清司さん清司さん清司さん……寝たフリは効きませんよ。起きていらっしゃるんでしょう?

 ねぇ……それとも、僕にイタズラしてほしいんですか?

 ふふ……清司さんったら……


     ◇


 広葉樹の密な枝葉は古びた雨傘のようにかそけく木漏れ日を透かしている。木陰は帷を降ろしたように暗いが、盛夏の日差しを避けるには丁度よかった。

 木立に響く小鳥の囀りを聴きながら、比良景仁はおやつの饅頭を齧った。正午までまだ二時間ほどあった。

「――元気かな、神波君」

 ふと思い至ったように声を発する。

「あの調子でしたから、元気したはると思いますよ。何かしでかさんか心配なくらいです」

 独り言ともつかぬ調子だったが、五色まどかは律儀に上官に答えた。案内役の中尉から散々取れと注意された能面はそのまま、重い鉄帽は両手で保持している。それ以外は、理想的なの首筋から細く皮帯ベルトに引き締められた腰、脚絆にくるまれた脹脛ふくらはぎの線まで、歴の長い中佐から太鼓判をもらう程の、文句のつけようのない二等兵だった。

「神波く、神波伍長……」比良は思い出したように訂正した。「にしているのかな」

「ええ、きっと。御影中佐がご一緒ですから……」

 能面が紡ぐ上官の名には、微量の怨念が込められていた。褒めるついでに尻を叩かれたことを、五色は根に持っていた。

 頷き、比良は虚空に今朝の別離を思い浮かべる。吾妻の代わりの中尉が訪ねてくるより先に、陸軍中佐御影伊鶴は私用のフォードに乗って三雲書法会に現れた。身分を偽るためのいつもの背広ではなく、立襟の軍服を着込んで。

 さあ出発と意気込んで出てきた比良には触れず五色の着こなしを褒め尻を叩き、御影中佐は一番小柄な伍長を呼んだ。

 ――神波は今日は私と一緒だ。危ないからな。え〜、じゃない。日陰で菓子を食わせてやるから。良い子でいられたら服も買ってやるぞ。は? 鞄と靴も? 誕生日だから? ……くっ、しょうがない。買ってやるから、ほら、比良さんとバイバイだ。バイバ〜イ……

 元気な別れの挨拶が小径に響き、かくして神波伍長は連れ去られた。回想を終え、比良は饅頭をまた一口齧る。「神波君……」

「比良さん……」枯葉が落ちる音より微かな呟きを耳聡く拾い、五色は鉄帽をひしと胸に抱き締めた。「か、神波さんがおらんでも、比良さんには僕がいますっ……!」

 そのとき、雷のような砲声がこだました。びくりと身体を震わせてから、五色は恐る恐る双眼鏡を覗く。「……始まったようですね」

「どうしようかな……」

 倒木に腰掛けた足元、蟻の行列を妨げる饅頭の欠片に目を落としながら、比良は言った。

 ――両軍から機密文書を奪取し、捕虜となっている神波伍長を救出せよ。それが帝国陸軍の連合演習に、ゲリラ的第三勢力として呼び寄せられた、心鬼らに課せられた任務だった。

「さっき潜ってみたけれど、あちこちが焚かれていたし、心影界から探すという訳にもいかなさそうだ。神波伍長は、御影中佐と一緒にいるのだろうけど」

「僕らの弱点を他の人間に教えてまうなんて、意地の悪いことしはりますね。神波さんも連れてってまうし」

「うん……でもきっと、これはと同じだよ。人間が心鬼から身を守るためには、明かりを灯すしかないから。信じるかどうかは別だけれど」

 蟻は早くも天から降ってきた恵みに群がり、巣へと持ち帰り始めていた。比良はじっとその様子を見つめる。

「……神波君も、一緒がよかったな」

 危ないから、と神波ではなく巻き込まれる人間の方を案じ、武力を封じた上官の心理も読んではいるが。

「僕は、こうして何かをやろうとする時は、三人一緒がよかったんだよ」心境を吐露するかのように、小さな生命に向かって零す。

「比良さん……!」

 見様によっては寂しげなその姿に、五色は肩を震わせた。決意を固めるように鉄帽を抱える腕に力を込める。

「……ぼ、僕、行きます」大きく息を吐いて、面を外した。代わりに重い鉄帽を深く被る。

「五色君」

「僕が、こっちから明かりを消します。その間に比良さんは、機密文書と神波さんを探してください」

 告げた唇は戦慄き、伏せられた瞳は恐怖と不安に揺らいでいた。若々しく引き締まった輪郭を、大粒の汗が次から次へと伝い落ちる。

 濡れそぼった睫毛をぎゅっと瞑り、五色は小面の面を命の恩人に押しつけた。「すみません、これ、比良さんが持っとってください……!」

「……すごい汗だけれど、大丈夫?」

 二等兵はぶん、とかぶりを振った。

「比良さんは少佐ですし、悪い意味で目立たれてしまうので……! 不審人物やと思われて捕まってしまう前にっ……僕が……っ」

 それもそうだな。比良は思ったが、地面に落ちた最後の一口然り、どこか惜しいと思わせる何かが心の内に漂っていた。まるで快晴の空にぽっかり浮かぶ千切れ雲のように。

「――わかった」

 それはさておき、比良は左腕ともいうべき心鬼の面を小脇に抱え、反対側の手でゆるりと敬礼した。「ご武運を。五色君」

「比良さんこそ、お気をつけて――うっ」

 答礼した手でそのまま口許を押さえた五色はしかし、上官の心配を振り切って異界に潜った。

 ふわりと宙に溶け入った黒煙と、熱を孕んで濃く漂う残り香。部下の気配は箒星か、それとも黒々と長い女の後髪か。鬼の瘴気は尾を引いて遠ざかっていく。

「さてと」

 比良は再び枯れ木のベンチに腰掛けた。雑嚢から饅頭をもう一つ取り出し、小ぶりな一口をみ、咀嚼し嚥下し、また食む。皮ばかりで尖った喉仏が上下するその首元に、じわりと紅く首縊りの痕が浮かび上がる。

「ふふ……」

 最後の一口を収めてから自分の首に手を遣って、ふと、笑みをこぼす。

(――は、甘い物でできているのかもしれない)

 何となしにそう思って、化生の笑みを深める。断続的な砲の音は、人智の及ばぬ果てしなく大きな何かが、その怒りに任せて地を殴りつける様を想像させた。

 瞼を下ろせば、生半可な暗闇を、殴打の衝撃は何度も何度も揺るがした。そのうちどこかから腰紐を握った手が伸びてきて、空っぽの人形の首を締めるに違いない。

 比良景仁は、ゆるりと口角を引き上げた。目を開け、思いの外眩しい世界に何度も瞬きをする。しばらくかけてようやく定まった視線の先、砲煙が狼煙のように薄く漂っていた。

 うん、と一人頷く。

(今度訊かれたら、和菓子屋の息子ということにしよう)


     ◇


 小用に立った一等兵は、水音の合間にか細い呻きを聞いた。茂みの奥に向かって誰何すいかするも、返事はない。

 まさか噂に聞くゲリラ勢力か。姿勢を低め身構えるも、中隊長から直々に説明のあった第三勢力だとかいう少数部隊について思い起こすうちに莫迦らしくなり、警戒を緩めた。

 中隊長曰く、彼の者たちはまるで幽霊のように突然現れ、幻を見せ、人の心を操る。防衛手段は兵営の各所に焚かれた松明と、手持ちの洋燈ランプ。奴らの術中に嵌らないよう、なるべく明かりの当たる場所にいるべし。頭のおかしい奴を見つけたら洋燈で照らしつけて松明の明かりの届く範囲まで連行し、逃げないよう縄でくくるべし――当の中隊長も、苦々しい、いかにも納得のいかなさそうな顔をしていた。上からの命令で、自分は正常だ。そう主張したかったに違いない。

 中隊長は大尉だから、上といえば佐官。もしや大隊長や聯隊長が既にその幽霊みたいな奴らにやられているということはあるまいな。真夏に焚き火を囲みながら、出番を控えた兵卒たちは世も末だと嘆いていた。

 弱々しい呻きがすすり泣くような声に変わる。――始まって間もないが、まさか負傷者か。そう思い至って、一等兵はそろりと茂みの向こうを覗いた。

「わ――だ、大丈夫かっ!?」

 声を上げ、駆け寄る。二等兵は下生えに打ち捨てられたように倒れていた。

 ぐったり倒れ伏した肢体を抱き起こす。抱き起こさねばならないような気がした。銃弾に斃れた戦友にするように、悲壮な面持ちと劇的な挙動で。

 背中に添えた手には蒸れた布の感触があった。鉄帽の下、力なく睫毛を伏せた顔に覚えはない。隊にいればさぞ人気であろう、清純な若さを保ちつつどこか色気のある顔立ち。きめの細かい小麦色の肌は、汗でしとどに濡れている。薄く開かれた唇から、短い苦しげな吐息が繰り返し産み落とされていた。

 無防備な姿に、身体の深奥、本能的な部分が疼く――花束に顔を突っ込んだように、濃密な香を嗅いだ気がした。

「う……」悩ましげに顰められた眉がふるりと震える。

「安心しろ、今軍医の所へ連れていく……!」

 肩を貸してやるだけでもよかったが、一等兵は同胞を背におぶった。熱を秘めた肉には、女とはまた違った確かな質量と、筆舌に尽くし難い弾力があった。

「すみません……」

 吐息混じりの囁きが耳朶を擽る。一等兵は高揚していた。一等兵は今や英雄だった。傷ついた天女でも背負っているかのような心地だった。早く自陣に戻りこの功績を報告せねばならぬ。

 なんの。一等兵は強がった。背中の天女は一等兵より頭半分ほど大きく、体温は重みとなってのしかかった。

 意気地を汲み取ったのか、二等兵は微かに笑った。耳にかかった吐息から唇の形まで想像し、二十余り三つの男は眉根を寄せて歯を食いしばった。

 自陣に帰った一等兵は何事かと集まってきた兵卒たちに囲まれながら、声高に上等兵に報告した。報告を受けた上等兵は、部下の腕に抱えられた天稟の肉体に生唾を飲み下した。誤魔化すように燦々と照りつける太陽を仰いで、それから焚かれた松明を見る。大方、相手側の新兵が迷って彷徨う内に倒れたんだろう。そう見当をつけて、軍曹と軍医を呼んだ。軍曹は、軟弱者め、と言いかけてその身体の優れていることに言葉を失った。軍医は先日立ち会った身体検査を思い出した。二人は揃って隣の熱源へ視線を逃した。真夏の太陽の下、松明は音を立てて爆ぜていた。暑いな。その場にいた全員が同意した。軍医は一等兵に命じて、二等兵を天幕の中へ運ばせた。

「眩しいです……」

 寝かされる前に、二等兵は弱々しく呟いた。軍医は病人の胸元を寛げながら、一等兵に洋燈を消すよう命じた。不要な明かりは落とされた。

 ――途端、ゆかしい香りが濃く立ち込めた。

 鉄帽が取り去られる。いわゆる軍人刈りでないその頭髪を指導するべき軍医と一等兵は、思考ごと包み込む香気に言葉を忘失してしまっている。

「赦しません……」ボタンを留め直しながら、二等兵は呪った。

「僕の身体触って、じろじろ見て、やらしいこと考えて、服脱がせて……暑いのに火ぃ焚くし……ほんまに赦しません……」

 軍医の耳許に唇を寄せ、ほ、と息を吹きかける。

「ねぇ、こんな暑い日に焚き火なんかしたら、倒れる人が出るかもしれませんよ……?」

 やめさせた方がええんとちゃいます……? 二等兵は耳打ちした。惚けたような面持ちの軍医は頷いて、天幕を出ていった。

「……何ぼーっと突っ立ってはるんですか」

 気怠げに息を落として、呆然と立ち尽くしている一等兵に命じる。

「軍医さん手伝ったったげるべきじゃないですか? こんなとこで油売ってやんと……ああ、くれぐれも明かりの中に入らんように、軍医さんに伝えてあげてください……」

 格下の命を受け、一等兵は弾かれたように敬礼した。

 回れ右をして駆け出していく様を見て、二等兵は秘めやかに笑う。


     ◇


「ひぃ〜まぁ〜!!」

 神波ミツキは暇だった。

「御影のおじさぁん!!」

「今大事な話をしているから、ちょっと待っていてくれ」

「ひぃ〜まぁ〜って言ってんだろぉ〜!!」

「神波伍長、上官にそんな口を利いてはいけない」

「ひぃ〜〜〜まぁ〜〜でぇ〜〜あ〜〜りぃ〜〜まぁ〜〜すぅ〜〜!!」

 陸軍中佐御影伊鶴は苦笑し、部下を呼んだ。陸軍伍長神波ミツキは天幕の隅に設けられた特等席から駆けてきて、「どーん!!」と上官に体当たりを食らわせてからその隣に座った。

 足をぶらぶらさせながら、卓を挟んで向かい合う将官二名を品定めする。相手が自分を恐れているのを本能的に感じ取って、にぃ、と口角を吊り上げる。

「お前らぁ――」

 要らぬことを言われる前に、陸軍中佐御影伊鶴は予備の飴玉を使って部下を黙らせた。幼い造りの顔半分を覆う手の下で、骨を砕くように飴玉が噛み砕かれる。陸軍中佐御影伊鶴はそのまま話を続けた。

「分別のない子供が鉄砲を持っているようなものだ、と。先程仰ったが、だからこそ、大人が監督すべきではありませんか。お伝えした英国の『切り裂きジャック』然り、現に、こうして超常の能力を持つ輩は存在しているのです。彼らが誤った方向に力を使う前に、我々帝国陸軍という大きな力が、しっかりと手綱を取って管理すべきではないでしょうか」

「俺の意見は変わらない」正視する先、護りの灯火に照らされた顔の陰影は深い。作戦課長の数十針縫ったという腕は首から吊るされていた。「狂犬は殺処分すべきだ」

「恐ろしいものだから排斥すると。他国はその存在を受け容れ、利用すらしているというのに、大日本帝国陸軍は小心者の集まりのようですな。いえ、前線で血を流す若者たちは勇敢ですが。上が国を護る手段にまで贅沢を言ったツケを、彼らが払うことになるのが何より嘆かわしい。

 ――まあ、もし仮に私が敵国のシンキならば、最初にこの無防備な指揮所を落とします。頭の固い老いぼれ共を一網打尽にすれば、無駄な争いをしなくて済みますからな。若者たちが死ぬ必要もない。ははは、名誉の二階級特進ですから、お二方とも後悔はないでしょう」

「口を慎め御影」陸大の一期下の主計将校が鋭く制する。

「得体の知れない悪魔に魂を売って、貴様はそれで帝国軍人として胸が張れるのか」

 父の軍服を着たような伍長を一瞥し、

「言うことを聞けるところを見せる? 狂犬に利口も何もあるか。とんだ茶番だ。この『試験』とやらもな。先程も妙な真似をして。貴様のせいで、上は皆頭が腐っていると思われたに違いない。恥晒しめ」

「そもそも、あの比良とかいう奴は一体いつから『少佐』をやっておるのだ。調べてみたが、奴の存在を証明するものは何一つとして出てこなかったぞ。部内で奴を見かけた記憶があるにも関わらずだ。同期にいた気がすると言う者までいる。

 ――貴様、一体いつの時点から奴に騙されているのだ」

 今ならまだ、被害者として扱ってやる。同じ被害者の誼か、作戦課長は問い質した。

「ああ、それには訳が。少なくとも私は騙されてなど――」

「比良さんが御影のおじさんをだますわけないだろ」

 説明を試みた陸軍中佐御影伊鶴はしかし、隣の部下に番を奪われる。

 神波ミツキは立ち上がった。一拍遅れて椅子が後ろに倒れる。見開いた瞳孔で獲物を捉え、何気ない疑問を尋ねる時と同じ調子で言う。

「比良さんはうそつきなんかじゃない。うそつきはお前らだろ、にんげん」

「神波伍長、口を慎みなさい」

 だ、と口を尖らせた人外を、主計将校は鼻で嗤う。

「身分詐称は立派な嘘であるとこの子に教えてやれ、御影中佐」

「うるさいヒゲ」

「な――」毎朝十五分かけて整えられる口髭がぴくりと蠢く。「やはり、躾がなっていないようだな……」

「やーいヒゲ!!」

 無遠慮に弱点を指差し、神波ミツキは哄笑する。わざわざ椅子を起こしてその上に立ち、「ヒゲヒゲ〜!!」おかっぱの毛先を鼻のところへ持っていく。「はなげ!!」

「神波伍長、降りなさい」

 上官が諌めるのも聞かず、少年の姿をした鬼は高みで嘲笑う。

「くやしかったら明かりけしてみろよ、にんげん!! よわっちいにんげん!!」

 呵呵大笑の声が、魔を祓う灯火を滅茶苦茶に揺らめかせる。伍長は片足で卓を踏みつけた。音に身を震わせた上官二人に、「あはは、こわがってやんの!!」

「言わせておけば……っ!!」

「神波、いい加減にしなさい」

 机に足をかけたまま、神波ミツキは赤目と舌を露出させる。「あっかんぶるぇぇぇ!!」

「お前らが比良さん仲間外れにするんなら、ボクにんげん殺す!! 約束だから!! 比良さん、ボクににんげん殺してもいい場所くれるって約束した!! ボクは比良さんがいいって言うまでにんげん殺さないって約束した!! 比良さんに約束やぶらせるんなら、比良さんがハリセンボンのむかわりにお前ら殺す!! ミジンコぎりにしてやる!!」

 黒板に爪を立てるのと同じ響きを持つ声が鼓膜を刺す。神波、と呼びかけて、陸軍中佐御影伊鶴は内心で頭を抱えた。

 ――昔、約束したんです。人喰い鬼の主張を前に、霞のような男との会話を回顧する。ちょうど一年前、『三雲書法会』が彼らの住まいとなった頃のことだ。

「神波君は、人間が食事をしないと生きていけないように、人を殺さないと生きていけないから、いつも、お腹を空かせているんです」

 話は例の如く唐突に始まった。まだ少佐を名乗っていなかった比良景仁が鉛筆を削る横で、神波ミツキは大の字になって寝ていた。外見に反して雄々しい鼾が、陸軍中佐御影伊鶴の苦悩を嘲笑うかのように響いていた。

「食欲と同じように殺人への欲求があると」

「そうです。御影中佐は人間だから、よくわからないかもしれませんが……」

「貴様は理解できるというのか。人の命で腹を満たす感覚を」

「僕は、心鬼だから」寝言のように言葉を紡いで、比良は古びたノートのページを繰った。

 内容が気になって手元を覗き込むと、これでも博士はくしなのだとかいう男はさりげなく紙面を隠した。何故だ。顔を上げると目が合い、無言のまま見つめ合った。

「誰かの〈心〉を知ることは、ちょうど人間が耳で音を聞くのと同じように、にとっては自然なことなんです」

 何事もなかったかのように、話は本筋に戻った。

「仲間の声は、特によく聞こえる……」

「はん、貴様にはこいつの『腹が減った』が聞こえている訳か。こうして出前の寿司をたらふく食って寝ていても」

「そうですね。人の命は別腹だから」

「ふ、さぞかし美味いんだろうな。全く理解はできんが」

 言うと、化生は笑うともなく笑った。

「昔、約束したんです。いつか、僕が、神波君をお腹いっぱいにしてあげる、殺せば殺すだけ、褒めてもらえる居場所をあげる、って。

 ――僕は、神波君が、勲章をつけるところを見てみたい」

「勲章か……残念だが、現状は難しい」

 諜報活動にすら嫌な顔をするのに、得体の知れない、軍人どころか人間かすら怪しい存在を上は認めるだろうか。人間を容易く葬る力を持つとはいえ、その外見は多めに見積もっても志願兵の下限に届かず、精神的にも幼い。殺戮の才能に戦果を見込むより、自軍への損害を危惧するだろう。

「今のままではいかん。見た目はいいから、こいつに人らしい振る舞いを教えろ。できた人よと誰からも思われるような、信用に足る人物にしてみせろ。私の私兵で終わりたくなければな」

「人らしい振る舞い……信用……」他人に幻覚を見せる男は考え込んだ。しばし黙して、何故か小さく笑声らしきものを発する。

「人の振りは、知り合いが得意なのだけれど。神波君には、僕が教えます。僕も、信用に足る人間だと思われたいから」

 そう言う本人が一番怪しかったが、やる気があるなら重畳と陸軍中佐御影伊鶴は頷いた。裏屋の小庭には、夏の澱のような影が落ちていた。

 ――貴様は一体何を教えたのだ、莫迦者。陸軍中佐御影伊鶴は特大の苦虫を噛み潰したような顔で、護りの明かりに手を伸ばした。上官の制止も無視してつまみを捻る。

 ふっ、と微かな音を立てて結界が消えた。隣に悍ましい悪鬼の気配を感じながら、片方だけ口角を吊り上げる。

「消してやったぞ、神波。さあ、御二方。彼に言いたいことがあるのならどうぞ。腹を割って話そうじゃありませんか」

 闇に人喰い鬼がにちゃりと笑う音を聞き、忘れず釘を刺す。

「神波。お二人はまだ比良に約束を破らせていない。先に約束を破った方が針千本だぞ」

「……わかった」ややあって、人喰い鬼は返事をした。「比良さんに約束やぶらせたら殺す」

「今から『殺す』は禁止だ。使用禁止を命じる」

「え〜、なんで?」

「お前は、比良との約束のために信用に足る人物になる必要がある。無闇に他人を怖がらせるような真似をするな。もし戦場に立ったとして、お前はお前の欲求に従って人の命を食うのかもしれないが、我々他の人間はお国のためにとこの弱っちい身体と命を張って、怖い思いをしながら敵と戦うのだ。味方に自分たちの命まで食うような人喰い鬼がいては堪らん。比良との約束が大切なら、共に戦う心強い仲間だと味方から信頼されるような、頼もしい人間になれ。国のためにその力を使うと、ここにいるお二人と約束しろ」

 目も慣れてきた薄闇で、化生は不思議そうに口を開け、小さな歯列を覗かせていた。

「御二方も。御決断はなるべく早い方がいい」

 告げて、視線を巡らせる。「さもないと、もっと厄介なのが来る」

 その時、慌てた様子で外から陸軍中佐御影伊鶴を呼ばう声があった。天幕の隙間から差し込む光に眉根を寄せる。駆け込んできたのは、吾妻と同じく同志として目にかけている少尉だった。

「どうした」

「明かりがっ、明かりが全て消されています!!」

 寺の次男坊で、『変なもの』への抵抗が薄い少尉にはまじないの重要性をよくよく伝えていた。その手に掲げる洋燈の火は苦しげにのたうっている。

「先程、相手方から伝達があって……暑さに倒れる者がいたから消せ、と。言い始めたのは向こうの軍医らしいのですが、いつの間にか御影中佐が命じたということになっております。やめろと言っても誰も聞く耳を持ちません!!」

「ほう」陸軍中佐御影伊鶴は片頬を引き攣らせた。「私は火を消せなどと一言も言っておらんぞ」

「情報伝達の過程が妙だ。誰が倒れたかは聞いているか?」

「こちら側の二等兵と聞いておりますが、確認中であります」

「貴様らは自分の仲間の顔も知らんのか」

「それが……」少尉は言い淀む。

「――やたら良い身体をした二等兵がいる。誰かそんなことを言っていなかったか」

「は、はい、」少尉は肯定し、不思議そうに上官を見る。「どうしてそれを……」

 陸軍中佐御影伊鶴は観念したように天を仰いだ。

「莫迦者。そいつは五色だ」

 直後、少尉の背後で煙が上がった。残り香の如く漂う黒煙が消えるのを待たずして、後ろからぬっと手が伸びてくる。

「……貴方が最後です」

 振り向こうとした顔と洋燈を掲げた腕を掴まれて、少尉は短く悲鳴を上げた。

「やめろ、五色。もういい」

 溜息混じりに、よくやった、と付け加え、面に覆われていない年少者の顔を見る。半ば降ろされた神憑りの目元には濃く疲労が見て取れた。断末魔を上げるように、身を捩らせて灯火が鳴く。

 ――ふ、と一人でに明かりが消えると同時、二等兵はその場にくずおれた。

「五色死んだ」

「縁起でもないことを言うな神波。天現寺てんげんじ少尉、その隅のところまで運んでやれ。ついでに食べこぼしを拾っておけ。蟻が寄る」

 部下に命じ、言葉を発せずにいる人間二人に向き直る。

「先程、私がもし敵国のシンキならば、とお話ししましたが……まさにこういうことです。防衛の手段を持たない無防備な指揮所は瞬く間に落ち、我々指揮官はたった一人の攻撃性のシンキに斬り刻まれて、仲良く二階級特進です。その間に兵士たちは別次元に潜むシンキによって、身体を操られ幻を見せられ、抵抗する間もなく無力化されるでしょう。

 再三お伝えしておりますが、英国は既にこの力に目をつけ、国防に利用している。我々も、彼らを同志として迎え入れるべきだと思いませんか」

 視線を下げたままの作戦課長の顔は屈辱に歪んでいる。その横で憤怒を露わにする主計将校が、腰の拳銃に手を掛ける。

 ――至近距離で銃声。銃口は椅子の上に立ったままの伍長の頭部に向けられていた。

「……死なすぞ」

 発火炎の残光に白む闇の中、耳鳴りを鑢で削ぎ取るような低い声。息を呑み視線を向けた先、少年のような童顔に目鼻はない。上半分を消し飛ばされ、本来ならば即死の顔面に残された顎が苛立たしげに歯列を噛み合わせる内に、虚空より吸い出された黒い液体が結集し、鼻から上を再構築していく。

 そんな芸当もできるのか。驚き半分感心半分、陸軍中佐御影伊鶴は取り落とされた拳銃を忘れず回収した。卓の向こうで、陸大の後輩がそれこそ何かに取り憑かれたように身体を震わせ、膝を折る。

「こっ、このような化物共の介入を許し、皇国の軍を邪道に堕とせと言うのか……!! 今に後悔するぞ。領分を超えた力に手を出したこと、悪魔に魂を売ったこと……!!」

「国土と国民を守るのに、必ずしも正道を歩む必要はありません。正道を歩んだ事を誇れるのは、せいぜい負けた時くらいでしょう。我々は負けた、だが正々堂々戦ったと、死ななくてよかった者たちの墓の前で負け惜しみを言うのでしょう。屍だらけの正道を行くくらいなら、たとえ悪魔に魂を売ったと後ろ指差されようと、私は一人でも多く生者のいる邪道を選ぶ」

 そこまで言って、陸軍中佐御影伊鶴は波の音を聞いた。

「助けに来たよ、神波君」

 少し離れたところから声がした。燦々と照り輝く太陽の下、にわかに笑顔になった伍長が駆けていく。

「残念ですが、時間切れです」陸軍中佐御影伊鶴は、浜辺に尻餅をつく二人に宣言する。

 太陽がどこまでも不似合いな男は、部下の体当たりを受けてよろめいた。ゆっくりと後ろに傾きながら、妙に慣れた印象の受け身を取る。

 砂をぱらぱらと落としながら、陸軍少佐は身を起こす。眩い日差しに薄く骨張った手を翳せば、形ばかりは大人しそうな顔に、真っ黒な影が落ちる。御影中佐、と黒塗りの影の中から呼ばう声。

「『スシデマエニジュウサンカイ』、『ヤチンイチネンサンカゲツ』……それから、『ミミヲソロエテカエスベシ』。の内容は、これで合っていますか」

「正解だ」一字一句違わぬ報告と、機密文書の体を借りた請求が何の効果も及ぼせていない事実に、陸軍中佐御影伊鶴は苦々しく口の端を歪める。

「これでも貴様らに一矢報いてやろうと、ない知恵を絞って考えたんだがな――どうして隠し場所がわかった」

「五色君が、頑張って明かりを消して回ってくれたのですが」少佐は木陰に倒れている二等兵を見遣る。

「皆、明かりが消されても、何も気にしていないような感じだったのに、向こうの兵長と、天現寺少尉、それから、ここにいる御三方は、最後の方まで、ずっと明かりの中に隠れていました。隠れるのは、その効力をよく知っていて、かつ僕らから隠す必要があるものを持っているから」

「なるほど……頭の中に隠したのが裏目に出たな」

 視線を投げた先で、化物に名前を呼ばれた少尉が顔を強張らせている。多少の事では動じなくなってしまった吾妻大尉に、少しだけ思いを馳せる。

 演習が始まる前に、化物の対処法についてよくよく言い聞かせた部下に紙に書いた文字を記憶させ、上官にも同じように一文を見せた。どこまで頭を覗いてくるかわからないから、なるべく思い出さないようにと双方に念を押した。

 指揮所の明かりは自分で消してしまったが、どうせそのうち五色が消しに来ていただろうし、負けは確定していたも同然だった。浅知恵を絞ったところで、化物共がその気になれば、信仰の薄い人間の集団などどうとでもできるのだろう。

「明かりが全部消えた後に、一人一人見てもよかったのですが。それは、とても疲れるから」

「ふ、」何気なしに宣う化生に、人間の無力さを嗤う。

「化物め」砂の上に座り込んだ少将が、胸の内を代弁する。

「――そうかもしれません」半分夢心地でいるかのような応答は、たかが手程の大きさの影、されど深い闇の中から発されていた。

「それでも、僕らは、貴方たちの役に立ちたいのですが。駄目でしょうか」

 沈黙が降りる中、潮騒だけが粛々と時を刻んでいた。陸軍中佐御影伊鶴は海の方へ足を向けた。波を蹴散らしながら入水すると、ぬるい海水が軍靴に浸入した。とても幻とは思えなかった。

「何故、そう思う」

 後ろで、少将が尋ねる。

「何故……僕らの力は、有用だからです」寝言のような声で、化物が応える。

「有用だから役に立てたい。それだけか」

 ……はい、それだけです。返事があった。陸軍中佐御影伊鶴は、わざと大きく飛沫を飛ばしながら波間を歩いた。

「もういいのではないでしょうか」

 振り返って言えば、作戦課長は項垂れた。主計将校は力無く砂に拳を埋めた。

 人喰い鬼の、怪鳥の雛のような笑声がこだまする。膝頭で、白く波頭が砕けた。目線を上げる。遥か遠く、入道雲が昇りつめる先は、一面の青。

 幻の空の向こうには一体何があるのか。それは、人間にはわからない。


     ◇


 当時、比良景仁はとある密教の総本山にいた。

 春先の、小雨の降る肌寒い朝だった。大学の近くに借りた、質素な仮住まいの一室には木と雨の香りが濃く漂う。つい先ほど発覚した雨漏りに宛てがわれた頭鉢ずはつは、托鉢寒行の際に携えられていたものだった。

 比良は長年付き添った師の枕元に正座して、浮腫のせいで益々眠そうな顔のあたりをじっと眺めていた。

「……まさか、比良君に死に水を取られることになろうとは」

 力ない呼吸と混じった希薄な声に、煤けた鏡の瞳を瞬かせる。初老の男は弟子とも呼ぶべき教え子の、小ぶりな面を見て穏やかに笑んだ。

「正直なところ、比良君がここまでついてきてくれるとは思わなかったよ……出会った頃の比良君は、黄泉坂君と比べると、何というか……地に足ついていないような、不思議な、浮世離れした感じがあったから……僕は、比良君が、風に吹かれる雲みたいに、すぐに僕の研究から離れて、どこかへ飛んでいってしまうような気がしていたんだ……」

「そうですか」

「けれど、黄泉坂君が辞めた後も、比良君は研究を続けて、大学を追い出された僕にもついてきて……千里眼も念写も、結局、多くの人に認めてもらうことは叶わなかったけれど、僕は、僕たちの研究が、僕たちが歩いてきたこの道が……今は真っ暗だけれど、いつか明かりで照らされて、人間の可能性を、ひいてはこの世界を拡げる術を示すしるべになればいいと思っている……」

 師は酷く咳き込んだ。比良は起き上がったその背を、優しい面持ちで摩った。

 やがて咳嗽がいそうは止んだ。病人は倒れるようにして、再び身を横たえた。

 苦しげな喘鳴は、天井から漏る雨音を数えるごとに力を失っていった。まるで撃ち落とされた鳥の羽が、地に伏した体の横に一枚、また一枚と遅れて折り重なるようだった。

 いつしか雨音は随分と澄んでいた。僅かな胸の上下に見る、無音の風にそよぐ柳を思わせる息遣い。

「ああ、また雨だ……」教え子に向けられた目は混濁していた。「やっぱり、比良君は雨男なんじゃないかな……いつも、雨だよ……」

「きっと、すぐに晴れますよ」

 雨景色に向かって発せられた声には、不思議と確信的な響きがあった。

「本当かな……」

「ええ」

「なら、比良君を、信じるよ……」

 それからしばらくして、恩師の気配はふつりと絶えた。死んだらしかった。

 比良は自身の感覚の裏付けをしようとして、生き物らしい温もりを宿したままの手首をそっと握った。浮腫むくんだ肉は、生命の所在を教えてはくれなかった。

 化生は異界に潜った。煙のように散じ、色のない世界に溶けていく黒いの上でさらさらと柳糸を揺らす。終ぞ教え子の正体を知ることなく、熱心に人間の可能性を追い続けた男の残滓からは、何も感じられなかった。

 縁の欠けた市女笠の内側に、ぼんやりと紅色が滲む。血色の花の幻はたちまち柳煙に霞み、いつもの雨の街が回帰する。化生は幽かに笑った。

たい金剛きんこうしんさんけい……」

 現世うつしよに戻って、経を読んだ。口の中でむにゃむにゃと経文を転がしたところで、死した恩師がその内部に秘めた〈心〉を変じさせることは二度とない。ここに身体があるだけで、化生が長年人間のふりをして後をついて回った男は、もうどこにもいないのだから。

 ――どこにも。〈こちら側〉にも、〈あちら側〉にも。

「よし」

 読経を終え、比良景仁は立ち上がった。四十を三つ超えた膝が妙な音を鳴らしたが、気にせず自分の荷物を纏めた。思い出したように世話になった寺院宛に文をしたため、恩師の弔いを依頼した。手紙は下宿先を出る前に大家の老婆に渡した。

 雨は半ば上がっていた。ほの明るい空に古びた蝙蝠傘を広げる。遠い日に贈られた傘の影で、まばらな雨音を聞く。淡く煙る無人の通りの先に、小さくなっていく蛇の目傘が見えるようだった。頭に手ぬぐいを載せられた同類の少年の姿も。

 ……不空むなしからず。無音で唱え、化生は海中に潜るように、本来の世界に没した。

 比良はそのまま海を渡り、人喰い鬼の住まう南の孤島――とうに上陸した。既に何度も訪れているそこで一週間ほど世話になり、新鮮な魚介をたらふく食べた。

 甘味が果物しかないことへの疑問を投じるついでに今後の意向を伝えると、島民たちは大層驚き、急いで本島へ使いをやった。

 座敷で眠る人喰い鬼は、目覚めと同時に島で一等豪奢な着物を着せられた。まるで嫁入りでもするかのように飾り立てられた人喰い鬼は、「ボクかわいい?」と懇意の同類に尋ねた。比良は鸚鵡か九官鳥のように同じ言葉を返した。人喰い鬼はご満悦だった。

 自分たちにかけられた「呪い」そのものを着飾ってやりながら、島民たちが腹の底で何を考えていたか。それは鬼たちの知るところではなかったが、島民たちは二人が島を発った後、密かに宴を開いた。入れ違いで戻った使いが買ってきた酒饅頭は、皆で食べた。

 それはさておき、比良と流島の人喰い鬼は揃って東亰の地を踏んだ。

の意味を、一緒に探して欲しいんだ。神波君」

 本能のまま都会の人間を品定めしながら、神波ミツキは「うん!!」と元気よく返事をしたが、今でもそれを覚えているかはわからない。


「――どうしてにんげん殺しちゃダメなの?」

 二人で手を繋いで午後の通りを行きながら。問いかけた神波ミツキに、カンカン帽の比良景仁は柔らかい沈黙を返した。

 赤いリボンの麦わら帽子の影で、神波ミツキは幼い唇を尖らせる。

「御影中佐は、ボクに『たのもしいにんげん』になれって言ったけど、ボク心鬼だし。にんげん殺すためににんげんにならなきゃいけないの、何かヘン。にんげんも、牛やブタを食べるのにチクショウになったりしないでしょ。生きものを殺すには、それと同じにならなきゃダメ? 『カワイソウ』って思わないと、殺しちゃいけない?」

 カツカツと、ペタペタと。向日葵が顔を覗かせる木塀の横を、二人はそれぞれの履物を鳴らしながら歩いた。墨で塗り潰したような影が、化生の後を離れずついていく。

「神波君は、僕が、人間に見える?」

「うん。にんげんのおじさんに見える」

「そう……」比良は少しだけ声を落とした。

「じゃあ、ボク、かわいいにんげんに見える?」

「うん。見えるよ。

 ――そう。だから、僕たちは、心鬼であると同時に、人間である必要もあるんだ。人間の仲間に入れてもらうときは、特に気をつけて、人間の振りをしないといけない。たとえ、中身が違っても、人間みたいに悲しんだり、怒ったり、笑ったり、あと、」

「『カワイソウ』って思ってるフリもしろってこと?」

 三本折り込んだ指はそのまま、比良はこくりと頷いた。「そういうことだね」

「人間は、僕たちと違って、〈心〉がわからない……いや、〈心〉を感じ取ることができないから」

 並ぶいらかの切れ間から差した日足の眩しさに、化生は目を細める。

「あんな丸見えなのにね!」

「うん。人間は、僕たちの〈心〉はもちろん、自分たちの〈心〉ですら、見て、感じることができないんだよ。こちら側から感じられる、表情や声を頼りに推測することしかできない……僕らの中身なんて、わからない。わからないから、不安なんだ。

 だから、僕らが自分たちと同じ生き物で、同じような考えを持っているのだとわかれば、皆安心すると思う」

「にんげんをだますってこと?」

 神波ミツキに悪気は一切なかった。

 比良は気の抜けた顔のまま、一寸黙り込む。僅かに口を開きかけて、また閉じる。二度ほどそれを繰り返した。

「騙していたとしても、周りの人間から『頼もしい人間』だと思われていたのなら、それは本当なんじゃないかな。その心鬼への正当な評価で、周りからそう思われていたのなら、その心鬼はそうる。人間の世界で、人間から、人間として認められたのなら……その心鬼はきっと、人間だということだよ」

「ふーん」

 自分から訊いておいて、神波ミツキは既に疑問への興味を失っていた。むつかしい話は好きでなかった。

「で、どうしてにんげん殺しちゃダメなの?」

 比良が柔らかい沈黙を返して、会話は振り出しへ戻った。

「きっと、意味をつければいいと思うよ」瞳の形をした虚無で道の果てを見遣る。

「どんな?」

「御国のために、とか、国民のために、とか。同胞のために、とかでもいいかもしれない」

「わかった!!」

 駆け出したかと思うと、密かに陸軍伍長の階級をもらった神波ミツキは、鮮烈な赤いワンピースを血溜まりのように丸く広げて回れ右をした。広げたままの五指を麦わら帽の鍔に当て、褪せた夏空を背景に、元気だけは満点の敬礼をする。

「神波伍長、おくにのためににんげん殺します!!」

「人間、じゃなくて、敵兵の方がいいかもしれない」

「おくにのためにてきへい殺します!!」

 陸軍少佐比良景仁はゆるりと答礼した。部下が置いていったのを拝借したカンカン帽の下で、笑うともなく笑う。「『頼もしい人間』に見えるよ、とても」

「――これからもよろしくね、神波君」

「うん!! 比良さんとよろしくしてあげる!!」

 仲良く手を繋いで、化生二匹は人間に混じって午後の通りを歩む。最近できた銀座のパーラーに、フルーツポンチを食べに行くために。


     ◇


「――ですから、お兄様は誤解していらっしゃるのですわ。修司様が、そんな、人をあやめたりするはずありませんもの……」

「十分怪しいがな。狩りを趣味にしているような奴は、いずれその延長で人も手にかけるさ。いくら家同士の仲が良かろうと、鉄砲の音に驚いて寝込んでしまうようなお前にあの家は向かないよ。人死にだって異常に多いんだから」

「そんなの、偶然ですわ。新太郎様と修司様に関係なんてあるはず……」

 どうだかな。妹の椅子に腰掛けて、兄は不満げにワインを煽った。勉強机に置かれた仏蘭西産のそれは、侯爵家から贈られたものだった。

「今からでも遅くはないさ。酷い目に遭う前に、早めに身を引いた方がいい。お前は気弱で、嫌とは言えない性質なのだから。お祖父様だって、周りを放って一人ではやりすぎだ。俺は直前まで何も知らされていなかったんだぞ」

 言葉に詰まって、桃子は十三上の兄を見返した。妹が強くものを言えないのを知る兄は、少女趣味の椅子に座ったまま、ふん、と鼻を鳴らした。

 桃子の兄は、付き合いの長い財閥一家の後継として表向きは友好的に接しているが、前々から侯爵家の嫡子とその子供を疑っていた。長年積もった疑心は酒が入ると顕著に表れ、自分の妹との婚姻が内定してからは一層、歯に衣着せぬ物言いをするようになった。夕食の席で二人の話が出る度に機嫌を悪くして、それは何もかも持ち得る親子に、後継である自分の立場さえ奪われるのではないかと危惧しているようにも見えた。

 ――ただの嫉妬で、兄は妹の邪魔立てをしようとしている。そう予想して憤っているのは桃子だけではなかったようで、その日の晩餐で、普段は穏和な祖父が兄の言葉に激昂した。ついには修司に家業を任せるとまで言い出して、剣呑な雰囲気のまま、一家は解散した。

「もう……っ」

 力任せに閉められたドアが大きな音を立てる。桃子は叫びたいのを堪えて、誕生日に兄がくれたテディベアを壁に投げつけ、続いて同日に祖父が買ってきた色違いの一匹もベッドから追い出した。壁にぶつかっても、命を持たないぬいぐるみは悲鳴を上げなかった。

 小さく呻いて、花柄のベッドカバーの上で縮こまる。どこの誰のとも知れない悪感情が、自分を睨み据えている。そんな気がしてならなかった。不穏に波立つ心の中で、扱い方のわからない不安と怒りが渦を巻いていた。

 ぎゅっと目を閉じ、耳を塞いだ途端、蘇る恐ろしい音。桃子は手を震わせた。

 小鳥たちの命を立て続けに奪った銃声が怖かった。罪のない命に狙いを定める青年の美しい横顔が怖かった。長く伸びた発砲音は深々と森にこだまして、狩りに訪れた二人から遠く離れた場所で羽を休めていた小鳥を絶命させた。婚約者の青年は六羽殺した。そのうちの三羽は逃げる間もなく立て続けに射抜かれた。ただの一度も過つことなく、排出された薬莢も六発分。地面に落ちたそれに触れて、桃子は指先に軽い火傷を負った。

 桃子にとっては恐ろしかろうと、狩りは英国仕込みの優雅な趣味だ。侯爵家の美貌の御曹司の妻になるなど思ってもみなかった幸運で、不安に思うことなど何一つないはず。公家華族と血縁になれば、高貴な血統を持たない桃子の家も安泰が約束される。財はあっても血筋が江戸の商人であるのが、祖父の長年の悩みだった。

 身を蝕む過分な不安を、暴力的な手段を用いてでも振り払ってしまいたかった。侯爵家の青年との婚約に得体の知れない不安を感じ、尻込みをする贅沢は、恵まれた桃子には許されていないのだから。

「――あなたったら、本当に愚図ね」

 いつもならあり得ない暴言を吐いた口を、桃子ははっと抑えた。学校の迎えの車の中。のんびりしているが何事にも鷹揚に構えて、決して怒ったりなどしない女中は見るからに傷ついたような顔をした。桃子は心の底から後悔した。

 許されることではないが、ごめんなさい、と謝罪して、目線を落とす。一体どの時点からか、生じた亀裂は確実に桃子とその一家を蝕んでいた。

 あの日から、祖父は兄と一切口を利いていない。兄は居心地が悪いのか、仕事と言ってほとんど家に帰ってこないし、両親も些細なことで口喧嘩をするようになった。修司とはしばしば一緒に出かけているが、楽しいはずなのに、上手く笑えているかわからない。並んで歩いていると、道ゆく人が皆後ろ指を差して、つり合わないと謗られているような気がした。学校でもそんな気がして周囲を信じられなくなって、だんだんと孤立し始めていた。

 車内の沈黙が苦しかった。ふと思い立って車を止めさせる。気遣わしげに呼び止める女中に断って、一人で外へ出た。

「さっきはごめんなさい……ちょっと一人になりたいの。お土産を買って帰るから……ええ、気をつけるわ。お母様に言っておいて頂戴」

 確か近くに葛餅で有名な和菓子屋があったはず。甘いものを食べれば、家族の不和も少しは和らぐに違いない。セーラー服の襟をはためかせて、桃子は道を急いだ。

「修司様――?」

 店の中に婚約者の横顔を見つけ、思わず声をかける。

 声に反応して、青年が桃子の方を向く。月の世界に生きているような白い肌に、心持ち切れ上がった黒水晶の瞳。しかし服装は洗いざらしのリネンシャツに、ややくたびれた風合いのズボン。十箱も葛餅を積み上げた青年は、全くの無表情のまま、蝦蟇口を取り出したところで停止していた。

 桃子は強烈な違和感を覚えた。違う世界に迷い込んでしまったような気さえした。どこまでも澄んだ瞳が桃子の顔を映しているが、決して視線は合わない。

「ごめんなさい、人違いです……」

 怖くなって、目を背ける。ややあってから青年は動作を再開し、会計を済ませて店を出て行った。店番の娘が見送る声が聞こえるまで、桃子は振り向くことができなかった。

「すごく綺麗なお顔の方でしたね」

 自分と家族の分と、傷つけてしまった女中の分と、それから気まずい空気に巻き込んでしまった運転手の分も。人数分の葛餅を注文すると、ショーケースの向こうで店の娘が声を潜めた。

「確か、華族様の……お名前は忘れちゃいましたけど、知ってます? 絶世の美青年って言われてる方。イギリス帰りで英語が話せて、ダンスもお上手で、お父様の方も大正の光源氏だとかあだ名がついてる男前で……って帝都新聞の記事を読んだだけなんですけど。何だか、その人に似ていたような。もしかしてお忍びで買いに来られたご本人様だったり……? あれ、声をかけられたってことはひょっとしてその華族様とお知り合いなんですか?」

「いえ……」狐につままれているような気がして、桃子は呆然と返事をした。

 家の中が不穏だから、無意識に家の外の婚約者に助けを求めているのだろうか。青息吐息で店を出る。

「――修司を、ご存知なのですか」店の隣、向日葵が顔を覗かせる木塀のところ。

 居た。喋った。桃子は出かかった悲鳴を飲み込んだ。

 西に傾いた太陽が、そこだけ世界を切り抜いたような人型の影を塀に投射していた。生白い腕を晒した青年は、まるで脱俗願望の具現、天の羽衣を着せられたかぐや姫のような面持ちで、穢れた地上に存在していた。

「あ、あなたは……」

「修司の、影のようなものです」

 影の持ち主と同じ、形のい唇が、感情の宿らない無色透明の声を発する。

「影……ですか」

 目の前の矛盾を解決するには、ひとまずそう解釈するのが妥当なのかもしれなかった。影か、はたまた鏡像か。そっくり婚約者の姿を写し取った何か。桃子は不思議な夢を見ているような心地で、自分は修司の友人だと告げた。

 そうですか。影は素直に嘘を受け入れた。

「ぼくと会ったことは、修司には秘密にしてください」

「……は、本当の修司様に知られると不都合な事がございますの……?」

「――ぼくの存在は、修司の幸せの邪魔になりますから」

 恐る恐る尋ねると、一瞬の間を置いて、青年は断言した。

「そんなことありませんわ……」

 つい癖で否定するが、どこまでも透き通った目に、気遣いを必要とするような感情は見当たらなかった。

 青年はしばし停止した。

「失礼ですが、近頃はよく眠れていますか」

 え、と困惑する桃子に、自分の目元を指差してみせる。「ができていますよ」

 手鏡を取り出して自分の顔を確認して、桃子は驚いた。イタリア料理の二枚貝のようなくまが、生気を欠いた目の下にぶら下がっていた。

 お家はどちらですか。青年は尋ね、桃子は力なく方向を示した。赤面する女学生と連れ立って歩きながら、青年は空いた片手を差し出す。「お荷物をお持ちしましょう」

「大丈夫です……お気遣いありがとうございます」

 反対側の手に十箱も葛餅の入った風呂敷があるのを見て、桃子は断った。

「よろしければ、よく眠れない時のおまじないをお教えしますよ」

「ぜひとも……どんなおまじないですの?」

「髪の毛を燃やします」

「髪を……」

 どうやら「おまじない」というより、呪術の類のようだった。

「二、三本――あなたほどの長さでしたら、一本で構いません。寝る前に、蝋燭の火に焼べてください。異臭がしますし、眠るのには少し明るいかもしれませんが、その明かりの中にいれば、お化けのようなものは寄ってきません。あなたの不調の原因になっているかもしれない存在は、明かりの中に入ることができないんです」

 半信半疑で、桃子は、はぁ、と相槌を打った。

 ――もしかするとこの婚約者の影を名乗る青年は、「お化けのようなもの」側の存在なのかもしれない。だからこんなに親切に教えてくれるのかもしれない。ふとそんな事を考えて、まさか、と自分で自分を笑う。

 ふふ、と唇を緩ませて、桃子はそれが本心からの笑みであることに気がついた。

 隣を見上げる。平凡な自分には勿体ない、美しい婚約者と同じ作りの顔。しかしよくよく見れば、まるで間違い探しのように、父親と揃いの右目尻のほくろだけがない。

「あの、もう一人の修司様は、どこに住んでいらっしゃるの?」

「すみません。言えません」

「じゃあ……いつもは何をして過ごしておられるの?」

「友人と遊んだり、お菓子を食べたり、猫を撫でたりしています」

「まあ、猫を飼っていらっしゃるのね。どんな猫なの……」

 市電を降りて家路に着く頃には、桃子は自分が葛餅を買った理由も忘れてしまっていた。このありとあらゆる悪感情とは無縁そうな存在と話すうちに、心の中で渦巻いていた不安や怒りは、解けてどこかへ行ってしまった。

「ごめんなさい。わたしね、最初に修司様の友人だって言いましたけれど、嘘ですの。本当は、修司様と結婚のお約束をしているんです。わたしたちではなくて、お祖父様たちが決めてしまったことなのですけれど……」

 すっかり気を許して、真実を告げる。驚愕の間とも取れる一呼吸を置いて、婚約者の影は、「そうなのですね」

「ぼくは、修司の影として、あなたを見守ります――修司の幸せは、ぼくの幸せだから」

 どうか、修司をよろしくお願いいたします。影は僅かに黒羽の睫毛を下ろす。彼なりの笑みのようでもあったが、単に日差しが眩しいせいかも知れなかった。

「――桃子さん」

 前方からよく知る声がして、桃子は足を止めた。家の前で、本物の鎖々戸修司が待っていた。

 桃子は慌てて隣を見る。が、蝉の声が煩いばかりの夏に影はない。今まで楽しく話していた相手は一体何だったのか。今更自覚して顔を青くする。

「修司様、わたし、今――」

「どうされました? 幻でも見たような顔をして」

 仏蘭西で調香師に作らせたという香水を香らせ、品良くスーツを着こなした婚約者は、呆れ笑って肩を竦める。「もしかして、お疲れですか? 顔色が良くありませんよ」

「そ、そうかも知れません。わたしったら……」

 桃子は確かめるように青年の顔を窺った。淡く朱を滲ませた白雪の肌。暑さに取り払われた絹帽の下には、丁寧にくしけずられた濡れ羽色の髪。乱れないよう気を遣われながらしなやかな指を通される黒髪は、金銀と同じ光を纏っているように見えた。目を伏せると憂いを帯びたようになる長い睫毛。父君と揃いの、目尻の妖精の口接け……

 形の好い艶やかな唇が、上品に撓む。「そんなにじっと見つめて。照れてしまいます」

「ごめんなさい、ぼーっとしてしまって……」はっと我に返って、桃子は土産の葛餅のことを思い出す。

「あの、もし修司様がよろしければ、うちで葛餅を食べて行かれませんか? ちょうど買って来ましたの……」

「いえ、用事の前に少し時間があって、どう過ごされているのかと思って覗きに来ただけですから。お顔を見れただけで十分です。また今度、時間のある時にゆっくりお邪魔させていただきます」

 父譲りの完璧な微笑みを残して、婚約者の青年は去っていった。足元から伸びるやたら濃い影が、まさしくその影を名乗る存在を想起させた。

 少年らしい線の細さを留めた背を見送って、桃子は自分の頬に手を添えた。指摘されたは、触れた指先には何の感覚も与えない。毎朝鏡を見ていても気がつかないくらい緩慢な変化だったのか、それとも忽然と浮き上がってきたのか。もしくは、自分の鏡像を気にも留めないくらい、の状態だったのか。

 その晩、桃子は教わった通りに自分の髪の毛を一本抜いて、そろりと燭台の火に焼べた。炙られた髪は苦しむように巻き上がって、嗅いだことのないような異臭を漂わせた。

 本当にこれで不眠が解消されるのだろうか。風もないのに揺らめく灯火ともしびを怪訝に見つめて、桃子はベッドに横になった。

 ――気がつくと朝で、鬱陶しいとさえ感じていた小鳥の囀りに穏やかに耳を傾けながら、桃子はこの「おまじない」を家族にも教えてあげることにした。


     ◇


 日暮れてようやく辿り着いた深川の実家には盆提灯が灯っていた。物々しい外観とは裏腹に、「御影」の表札がかかった武家屋敷からは賑やかな声が響いている。

「あら伊鶴さん。やっと参られましたわね」

「銀座で拾った車が暴走してな。ようやく会いに来られたよ」

 玄関を潜ると、家の奥から兄嫁と、たとえ記憶していても親族関係を述べるのが面倒な遠縁の嫁に娘、元から家に仕えている女中たちが次々と顔を出した。

 鞄を取り上げながら、長兄の嫁は相好を崩す。「大旦那様も待っておられますよ」

 最早家法の諧謔に口の端を吊り上げ、騒がしい広間を覗く。

「おお、将校様のお出ましだぞ!」

 一体いつから呑んだくれているのか、酒焼けした声が響く。銘々膳を取っ散らかして、これまた縁は知れど語るに長い男共が酒宴を開いていた。その間を縫うように走り回る、情報将校の記憶力さえ凌駕して年々増え続ける子供たち。従兄弟の娘の子だったか、五つにも満たぬ男児が敬礼する。三十年ものの敬礼を返し、少しだけ手の角度を修正してやった。なかなか様になった敬礼に見送られ、広間を辞す。

 喧騒を少し遠く感じる仏間で、育ての父は骨になって待っていた。

 墓に入る前に来られてよかった、と豪勢に飾り立てられた仏壇と向き合って胡座をかく。薄闇に色を投げかけながら廻る走馬灯が、仏間に漂う辛気臭さを中和していた。

 育ての父との付き合いは二十を過ぎてから。母子二人の家を空けていた間に一体何があったのか、母はするりと材木業の旧家の後妻に収まり、陸軍中尉榎本えのもと伊鶴は青島チンタオの帰りに養父と引き合わされた。

 歳の離れた友人のような関係であったと思う。先に母が死んで、血の繋がらない、実家にも滅多に帰らない息子のどこを可愛く思うのか、それでもたまには遊びに来いと手紙を寄越して。仕事柄会える機会は少なかったが、父のことは大変好ましく思っていた。

 陸軍中佐御影伊鶴はりんで拍子を刻んだ。能を教えてくれたのも父だった――譲り受けた能面は、借り主の青年らの世話に奔走するうちに形見となってしまったが。

 ここで父が死んだと言って家に戻ったら、そのまま暇を出されて戻れなくなってしまうに違いない――留まった自分の判断に後悔はないが、父からの最後の呼び出しを蹴ってまでしがみついた地獄車が、このまま頓挫したらと考えると遣瀬無かった。

(仲間に卑怯者と呼ばれるより、貴方に親不孝者と呼ばれる方が応える)

 血縁上の父が死んで母と二人、遺産のおかげで金にも困らず何不自由なく満ち足りていたから、さらに贅沢になって自らの死にさえ正当性を求めた。

 しかし軍人になってもなかなか栄誉ある死には恵まれず、前線に放り込まれる兵卒になればよかったと気づく頃には、肩章の星と黄色の面積が増えていた。

 ――そんな時に出会ったのが父だった。

(とんでもない親不孝者になってしまったが……たとえ邪道を行こうと、私は貴方や貴方の家族のような、優しい人間が住むこの国を護りたい)

(そのためならば――)

 薄い唇を引き結び、陸軍中佐御影伊鶴は骨壷を開けた。

 御守り代わりにハンカチに載せた父だったものは、現実味が感じられないほど軽かった。

「この時間に帰った奴がいると聞いて来てみれば。どうした、幽霊にでも憑かれたか」

 宴が終わり、酒飲み共が方々で鼾を立てる夜半。数年ぶりに顔を合わせる従姉妹の旦那は一人縁側に腰掛け、背広のまま、濃く疲労の見て取れる顔で酒杯を傾けていた。

「中佐殿か。久しぶりだな――まあ、あながち間違いではないが」

「はは、笑えんな。良い拝み屋を紹介しようか。この上なく胡散臭いが、効果は見込める。何せ、そいつ自身が幽霊みたいなものだから」

「俺に憑いている幽霊と、中佐殿の拝み屋と、どちらが強いか試してみようか……」

 応えた声は力ない。前は黒々としていた八の字髭にも白いものが多く見受けられ、陸軍中佐御影伊鶴は「拝み屋」が冗談混じりの暗喩では済まされないことを悟る。

「――『切り裂きジャック』と、『魔弾の射手』だったな。同輩が世話になっている」

「ああ……大した成果を上げられず、申し訳ない。今は両方とも静かだが、どちらもまだ犯人逮捕には至っていない。退任前に、何としてでも片を付けたいところなんだが……」

「『狩人』の名にかけて、か。数々の難事件を解決に導いてきた警視総監殿も、今回ばかりは苦戦しているようだな。今の時点で、何か掴めていることはあるのか? 私が力になれることがあるやもしれん」

 間に置かれた酒瓶から勝手に一献もらいながら尋ねれば、公僕の同志は一寸黙った。喉元の躊躇いを押し流すように杯を煽り、双眸に真剣さを顕して親戚の軍人を見つめる。

「俺に憑いた幽霊は――いや、悪魔は。『魔弾の射手』が人の管轄であると言った。まだ、人の手に負えるものであると」

 何を莫迦なことを、と思うかもしれないが。苦々しく言い足した男に、陸軍中佐御影伊鶴は片頬を吊り上げる。

「……幽霊などと、生易しいものではなかったということだな」

「本当に、取り憑かれているんだ……俺は、悪魔共の力を借りる代わりに、そいつらの言いなりになっている……中佐殿は、俺が言っていることを信じるか?」

「残念ながら、」前置きをして、深く頷く。「私にも身に覚えがある」

「本当か」

「ついでに、警視総監殿に謝らなければならないこともある」

 杯を置いて、陸軍中佐御影伊鶴は寝巻きのまま立ち上がった。

「ここでは何だ。神社にでも行くか」

 無言の同意があり、そういうことになった。

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