二章

 四歳になったばかりの弟の手を握って、白い日差しの中を歩いていた。

「にぃちゃ、あつい」被せてやった学生帽の下、幼い輪郭を汗で濡らして弟は訴えた。

 今日は暑いな。足を止め、手で顔を拭ってやる。にぃちゃ、あつい? 舌足らずな問いかけに微笑む。「俺は平気さ」暑いと答えれば、弟は帽子を返そうとするに違いなかった。

「義兄さん、少し休みませんか」前を行く中等科の義兄に提案する。

「やはり連れてこない方が良かったな」

 黄泉坂よみざか嘉幸よしゆきは遠縁の兄弟に聞こえるように言った。青白い顔に嘲笑を浮かべ、「乳母すら世話を嫌がるような貧乏人に、動物園は贅沢だ」

「僕はやめておけって言ったのに、兄さんたら、貧乏人にもたまには娯楽を恵んでやろうだなんて。情けなんかかけても返ってこないに決まっているじゃないですか」

 次男の嘉昭よしあきが養子二人を一瞥した。

 同じく長兄の横に控えた九歳の嘉隆よしたかは威圧的に命じた。

「貧乏人。休ませてやるから、ラムネ買ってこいよ」

 義兄らの命令は絶対だった。長兄は財布を預ける時、盗むなよ、と念を押した。

 小さいながらに養家からの冷遇を察している弟は、兄と一緒にいたがった。だがこれ以上烈日の下を歩かせる訳にはいかなかったし、何より嘉幸が幼子の首根っこを捕らえ、財布の担保にする、と宣った。兄弟は引き離された。

 休日の動物園はごった返していた。背で感じていた弟の気配の臍帯は、不可視の領域に入り乱れる流れの中で早々に途切れた。発狂してしまいそうな程の焦燥に足を早める。汗は止めどなく流れた。弟は日陰で休ませてもらっているだろうか。愛しい存在に抱く懸念が、かろうじて鬼の子を人たらしめていた。

 目当ての物はなかなか見つからなかった。四人分の瓶を買って元の場所に戻る頃には、四半刻が経過していた。

「遅いぞ」嘉幸が舌打ちをする。

「辿は」弟は義兄らの待つ木陰にいなかった。

「あいつなら、泣きながらお前を探しに行ったぞ。止めたが、引っ掻かれてしまった」

 ちゃんと躾けておけ。手の甲の小さな蚯蚓腫れを見せつけてから、義兄は無言で立ち尽くす養子から財布とラムネ瓶をひったくった。

「おい、一本多いんじゃないか」意地悪く追及する声が聞こえたが、返事はしなかった。呼び止められるのも無視し、再び雑念の奔流の中を走り出す。

「辿、」

 心の耳を澄ませるも、溢れかえる気配は銀蝿の羽音や、解れた女の髪のように不快に纏わりついて耳目を塞いだ。人ならざる本性は改めてこの世の全てを憎み、呪った。

 人の形に造形された憎悪の周りで、人の世の住人たちは平和に笑っていた。彼らは自分たちの存在理由を決して疑わない。生まれながらにして正当性を与えられ、生涯それに気がつかない。

「辿、辿――」

 縋るように呼んだ名は雑踏に飲まれ、正しい者たちの履物によって踏み躙られた。

 ――憎悪という罪そのものの少年は、地獄で業火に焼かれながら、天の闇から垂らされた一筋の蜘蛛糸を握っていた。極楽を望むことはせず、手中のか細い光を、ただ尊んで大切に握り込んでいた。

 ――それすら、許されない。

 目に映る世界に、無辜の人間などいなかった。最奥から生じた炎が、内側から身を焼く。どれほど自己嫌悪を重ねようと、解放されることのない醜い本性。それでも愛しい存在を想い、全てを憎み続ける。憎悪から生じる炎は黒かった。

 ふと、周囲の喧騒が凪いだ。世界は色彩を失っていた。

 黒白こくびゃくの空間には、人形の黒いが亡霊のように蠢いていた。思わず見遣った自らの手は人のもの。腰に帯びた刀と纏った着物に、家を守れと亡き父に言われて通った道場を想起する。

 父が死んですぐに道場へは行かなくなった。そもそも、最初から家など守るつもりはなかった。されど剣を手放さずにいるのは、かつて弟に誓ったからに違いない。

 拡張された領域に集中する。研ぎ澄まされた六感は愛しい者の気配を捉えた。


 弟は、象が見えるベンチに座って泣いていた。

 辿。小さな頭には些か大きい学生帽に向かって呼びかけると、涙に濡れ、真っ赤になった顔が露わになる。

「にぃちゃ、」抱きついてきた幼い身体は驚くほど熱かった。

「にぃちゃ、ぼく、ね、にぃちゃ、さがしてた、」

 声を震わせながら、必死に伝えようとする弟を抱き上げる。

「一人にしてご免な。俺が悪かった」

 ううん。弟は首を振る。少し落ち着いてから、弁明でもするかのように真面目に兄の顔を見つめ、「にぃちゃ、さがしてたから、まいご、じゃないもん……」だんだんと俯いて唇を尖らせる。

 頑固な弟のことだから、大人に声を掛けられても譲らなかったに違いない。可愛らしい主張に、自然と笑みが零れる。

「俺を探してくれていたんだな。ありがとう、辿」

「にぃちゃがまいごになっても、ぼくがむかえにいくからね」

 得意気な言葉に、弟を支える腕に力がこもる。

「じゃあ、辿が迷子になった時は、俺が迎えに行くよ」

「ほんとう? ぜったいだよ?」

「ああ、必ず。どこにいても探し出してみせるさ」

 ――約束だ。

 やくそく。弟は嬉しそうに繰り返した。兄の腕から降りて、その手の母指を握る。

「にいちゃ、ゾウみよ!」すっかり笑顔になって、人の群がる広場を指差す。「はやく!」

「こら、言ったそばから迷子になるぞ――俺の手を離してくれるなよ」


 ――自分が化物であって良かったと思えたのは、後にも先にもあの時だけ。

 あの時いたシャム皇帝から贈られた象は、もう死んでいない。黄泉坂は位置だけはそのままのベンチを横目に、変わらぬ雑踏を足早に抜けていった。

「やあ、黄泉坂君」

 公園の出口では、丈の合わない軍服を着た同窓が待ち伏せていた。軍帽の下、煤けた鏡の目を細め、笑うともなく笑っている。

 黄泉坂は出かかった溜息を飲み込み、無言のまま、同類と連れ立って歩き出した。


 小径の脇、大暑を過ぎた紫陽花は、出来の悪い花火のようだった。

「学生の頃の下宿に似ていて、落ち着くんだ」

 薄暗く、湿気の籠った廊下を行きながら比良ひら景仁かげひとが言う。かつて一度だけ世話になった同窓の住処は、ここよりさらに日当たりの悪い裏店で、至る所に黴が生え、部屋の隅に積もった綿埃からは親指ほどの茸が自生していた。

 来客を家の奥まで案内して、無理矢理病床から徴兵されたかのような虚弱な軍人は、広間に戻っていった。

 黄泉坂は襖を開けた。性急なピアノの調べの響く、隈なくまじないの明かりに照らされた八畳の間。不快感に眉間に皺を刻み、視線を巡らす――英国の心鬼は死角に潜んでいた。

 来客の姿を認め、アルバート・スミスは完全な虚無から人らしい笑みを作り上げた。後ろ手に襖を閉めた来客ににじり寄り、手首から先を無くした右腕で畳を叩く。

 ――こんにちは、黄泉坂子爵。

 規則的な音の連なりはモールス符号だった。黄泉坂は膝をつき、左手の人差し指で応答する。その間異国の心鬼は碧眼を瞑り、微かな響きに耳を傾けていた。

 ...Average普通. 少しの沈黙の後、荒れた唇が無声音で評価した。その基準は不明だったが、アルバートは来訪者への警戒をやや解いたようだった。害意のない微笑みを浮かべ、

 ――僕に、何の御用ですか?

 ――鎖々戸新太郎にやられたのか。

−・−−y e ・・・s』端的に問うと、化生は明快な思考に基づき最短で肯定を返した。

 ――黄泉坂子爵も〈魔王Satan〉に?

 質問をするとき、アルバートは対象の顔を真っ直ぐに注視した。魔性に蹂躙されようと変わらず蒼天の清澄を宿す瞳が、同類の昏い双眸を捉える。

 応えずにいると、アルバートは実に事務的な調子で送信した――利用するまでもなかったね。

 部屋の隅に咲いた金の朝顔は、素知らぬ顔で音を垂れ流し続けている。反復される主題は、どこか狂気的な舞踏を想起させた。黄泉坂は黙々と指を動かす。

 ――お前の仲間は奴を狙っているのか。

 ――狙っていた、と表す方が正しい。

 ――何故。

 ――僕が失敗した。これ以上戦力を投入しても無駄だと上は判断する。彼がPhantomとして国家機関に関与する可能性も低い。

 金の睫毛が一度羽搏く間を置いて、黄泉坂は立ち上がり、襖に手をかけた。

 ――ところで、小夜鳴鳥ナイチンゲールは黄泉坂子爵にも歌いかけるの?

 脈絡のない質問に怪訝な沈黙を返すと、異国の心鬼はやや血色の良くなった白皙に純粋な喜びを広げた。ふふ、と無音の笑声。旋律は穏やかな休息の調べに変わる。

 ――そういえば。思い出したように叩かれた畳目のざらつきに、異国の町の名を聞く。

 その名を辿れば、記憶の奥深く、茫漠と広がる黒白の世界。方々に積み重なる無数の無音の死。別離の苦痛の裾を濡らす、血膿のように異界に染み付いた、異国の兵士たちの怒りと悲しみ。

 どうせ人にはなれなかった。生まれついての化物に、人の心など理解できなかった。それでもまた共に在れるいつかを信じ、蜘蛛糸の希望を握り込んで彷徨った地。

「……あそこにいたのか」

 ――任務でね。五月蝿い場所だった。とても。

 幽鬼はそばかすの散る鼻筋に僅かに皺を刻んだ。魔物の王による蹂躙よりも、それは不快な記憶らしかった。

 ――黄泉坂子爵のは昔と変わっている。何が貴方を変えたのかな。

 返答は見送った。畳の上で、碧眼が瞬く――には気を遣われた方がいい。

 ――僕たちの格を決定するのは、素質。それから、いかにであるか。余計なものは要らない。小鳥は歌う為に作られ、そう生きているから美しい。僕たちだって、そう作られたように生きるのが一番美しい。本質は、変えることができないのだから。

「開き直れと」

 微かに自嘲すれば、重たい金の前髪の下で、あどけなさを残す相貌が目を丸くする。一瞬の空白の後、白皙の美貌はにっこりと、人間を真似て微笑んだ。

 ――嘘は良くないよ。

「……嘘、か」

 人に擬態した同類を前に、訣別の苦痛が幻肢痛のように胸の底を掠める。

 もし、人でなしの本質が見抜かれていたとしたら。それが、愛しい者の不帰の原因であったとしたら。

 思い至って、かぶりを振る。

 ……どうであれ、今となっては関係ない。

 ――それでは、黄泉坂子爵。ご機嫌よう…… 幽鬼が奏でる音を聞きながら、襖を閉めた。


     ◇


(ミィちゃん吸いたい……)

 夏の往来を惰性で行きながら、空を仰ぎ、口を開く。可視化された溜息が、溌剌とした夏空へ溶けていった。

 肺の中身を全て吐き出して、早乙女すなおは再び煙草を咥える。風鈴の音の響かない、暑く澱んだ正午。雨の気配など一つもない青空は、不吉の予兆に違いなかった。

 早乙女の中で、陰鬱な梅雨は未だ継続していた。玄関に立てかけられた蝙蝠傘が使われなくなって久しいにも関わらず、梅雨の憂鬱は健在で、三日に一度、早乙女を自らの住処に呼び寄せた。憂鬱の名前は比良景仁といった。

 空はひたすら青く、早乙女は自身の置かれた状況を嘆いた。

 ――煙草。梅雨の湿気で黴の生えた脳が欲する。次の一本を咥え、後遺症の残る手で苦心して着火する。相変わらず家では吸わないが、前まで週に一箱だったものが、今や二日で一箱になった。喉に悪いからと、早乙女の喫煙に良い顔をしない者もいるが、先日目の前で吸ってやったら禁断症状で悶えていた。せめて香りを、と側に寄って深呼吸する様子を見ながら、池の鯉に餌を遣る居候はこういう心境なのかと妙に納得した。与える者の立場になって気持ち良くふかしていたら、能面の青年に迂遠な言い回しで注意された。が、煙で輪っかを作ってやったらその隣にいた赤いワンピースが大層喜んだ。騒ぎを聞きつけやって来た自称軍人が興味を示し、吸った途端に盛大に咽せた。肺病でも患っているかのような咳嗽がいそうに赤いワンピースが大笑した。その手から煙草を取り上げ、方法も知らないで勢いよく吸入した。咽せた。半ばまで燃え尽きた一本は年若の能面に託され、青年は面をずらして喫煙した。咽せなかった。拍手が起こった。二人と違い上手に煙を吸って、青年は戯れなのか、ほ、と早乙女に向かって息を吹きかけた。その瞬間、畳に這いつくばって様子を眺めていた虜囚が、床を叩いて騒ぎ出した。・・−・ ・・− −・−・ −・−……旧知の感情の発露に早乙女が驚く横で、能面の青年は小面の影で秘めやかに笑っていた……

 ――そんな日々が続いていた。

 出かけようとする度に、居候には「またですか」と憐れまれる始末。家の手伝いでもさせられていると思っているらしい。自称友人の治療を担当し、唯一事情を知る戸籍を持たない養子とは、秘密の口座を譲って密約を交わした。要するに、買収した。

 全てを知っていてもおかしくはない義兄は、何も言わなかった。以前と変わらず、義弟の行動には無関心を貫いていた。

(所詮僕は……)

 早乙女は義兄もかくやとばかりの溜息を吐いた。

 と、その時、目的地の門から見知った影が現れるのを見た。

「た――、」動揺を抑えきれず、痙攣した指が煙草を取り落とす。

 心の鬼たる義兄が早乙女を認識していないはずがなかった。だが、黄泉坂征は義弟には一瞥もくれずに、いつもの早足でその横を通過していった。

(どうして、いや、気づかれたのか? 違う、そんなんじゃない。僕に探りを入れに来たんじゃなくて、あいつに呼ばれたんだ。ということはあれにも会ったのか? 最悪だ……)

「おい、早乙女ぇ」

 広間に通され座布団に腰を下ろしても、早乙女は上の空だった。赤いワンピースに呼びかけられ、気怠くそちらを向く。

「何? 呼び捨てにするなって言ってるでしょ。年上なんだよ僕」

「あーん? いくつだよお前」

「三十一」

「ボク二十九。もうすぐ三十」

「は? 莫迦言え一つしか変わらないじゃないか。嘘は良くないよ」

「あ? うそじゃないもん。比良さぁん」

「どうしたの、神波君」出涸らしの茶を持って来た憂鬱は、軍服を着ていた。肩章こそ立派だが、病床から無理矢理徴兵されたようなひ弱な風体だった。

「早乙女がボクのことうそつき呼ばわりする〜」

「神波君が三十な訳ないでしょう」

「神波君は、嘘つきじゃないよ」湯呑みに希薄な茶を注ぎながら、比良が述べる。

「僕と黄泉坂君が、神波君と出会ったのは、僕が二十二で、黄泉坂君が二十一の時……」

 話の真偽はさておき、早乙女はこの手の比良の語りには辟易していた。事あるごとに、比良は義兄との関係性を強調した。大学時代に何をしただの、家に泊めただの、早乙女が知らない義兄の話をした。

 大方、今日もそんな厚かましい同窓の誼とかで義兄を招いたに違いない。義兄がどんな思惑でここを訪れたのか考えたくはないが、せめて義兄弟がかち合わないよう時間を調整しろ、秘密協定じゃなかったのか、と早乙女は内心毒づいた。

 比良はあくまでいつも通りに、任意の調子で話を進める。

「僕と黄泉坂君が訪れた流島ルとうには、およそ百年ごとに心鬼が生まれる血筋があって、神波君はそこの出身。初めて会った時は、確か六歳だったかな。このくらいの大きさで」

「そんなに小さくないもん」足をばたばたさせながら神波が抗議する。

「そうだったっけ。学生時代のことだから、忘れてしまった。

 早乙女さんに聞きたいことがあって。心鬼の因子は、遺伝するのだろうか。〈箱庭ガーデン〉では、何かそういった研究はされていた?」

 唐突に機密事項を問われて、早乙女の疲労感は急増した。

「話は聞いたことがありますが、結果は知りません」それでも律儀に答えるのは、この憂鬱にいろいろと握られてしまっているからだった。「前にも話した通り、僕はあいつとは違って落伍者で、中枢からは遠ざけられていましたから……」

「やーい心鬼のなりそこない〜」

 早乙女直の尋問に同席し、その来歴を知る神波は、べぇ、と赤い舌を覗かせる。

 それならお前は人間のなり損ないだろう。言い返したい気持ちに駆られたが、義兄の顔が過ぎって言葉を押し留めた。

「そんなことを言っては駄目だよ、神波君」比良がやんわりと注意する。

は、数が少ないから、どうやって人数を増やそうか考えているところなんだ。それぞれの能力を踏まえても、三人では心許ない」

 早乙女との間にある虚空を見据え、陸軍少佐は言った。

 覇気が欠落したその表情から心の内を察することはできなかったが、話の筋を予測し、早乙女は牽制する。「お言葉ですが」

「人間を心鬼にしようとするのも、心鬼の子を産ませようとするのも、やめた方がいいですよ。じゃない」

 義兄や自称友人とは違い、比良景仁という心鬼は決して自らの「ことわり」を見せなかった。解だけ示された黒塗りの数式のように、感情でもなく、欲望でもなく、何が彼の行動を導き出しているのかを掴ませない。

(何もないのが、一番恐ろしいけれど)

 常から眠たげな顔を前に、早乙女は思う。纏う空気は形式上の甥にも似ているが、どこまでも透徹した彼とは違い、比良は深く立ち込めた霧のように、どこまでも不透明だった。

「そんなことはしないよ」比良は断言した。よくよく見ると、色の悪い唇は僅かにへの字に曲がっていた。

「早乙女さんが、僕のことをどう思っているのかは知らないけれど…… 心鬼とはいえ、僕もそこまで鬼ではない。後天的な心鬼には、それだけの理由があることも知っている。それに――」比良はどこか遠くを見るように、二重の瞼を下ろした。

「僕らも、人の子だから……」

 明確な寝言のように発された声には、心鬼の内情とも取れる含みがあった。

 深い霧の狭間を見つけた気がして、早乙女はつい習性でそこに切り込む。

「人の子、ですか。比良さんのご両親はご健在で?」

「さあ……」

 比良は茶を啜った。早乙女はその首元に赤い縄の痕を見たような気がしたが、韜晦の霧は厚く切れ間を繕って、再び心鬼の正体を覆い隠してしまった。

「早乙女さんのご両親は?」するりと切り返しがくる。

「母は築地で魚屋をやっていますよ。父は知りませんが」

「ふふ、次に訊かれたら、僕もそういうことにしておこう」

 本気か否か宣って、比良は赤子と同じ生理的な微笑を浮かべた。ことりと湯呑みを置き、比較的親しげな眼差しを来客に向ける。

「――早乙女さんって、僕と似ている」

「は?」

 同意があることを前提とした、言い切りの形だった。早乙女は怪訝に煤けた瞳を見返す。凝視した眼窩には、穏やかな虚無が行儀良く収まっていた。

「え〜どこが〜?」間に座った神波が大袈裟に首を傾げる。

「神波君にだけ教えてあげる」

 比良は神波の耳元に顔を寄せ、筒にした手の中でこしょこしょと何か囁いた。密語を聞いた神波は無関心そうな顔で、ふーん、と言った。比良は少し不満げだった。

 きっと、大した内容ではないのだろう。早乙女はそう結論づけ、広間を辞した。


 足音を聞きつけた自称友人は、襖の前で待ち構えていた。心の底からの歓迎の笑みに、早乙女は深々と溜息を吐く。

 寝巻きの浴衣を尾鰭のように引き摺った姿は、陸に打ち上げられた人魚にも似ていた。時が過ぎるままに伸び、輝きを失った陽の色の髪の下で、蒼天の瞳だけが変わらず澄んでいる。

 騒々しい『半音階的大ギャロップ』がその心境を表すかのように、今日のアルバートはいつも以上に上機嫌だった。不穏だった。

 ――さっき黄泉坂子爵が訪ねて来たよ。

 しっかり襖を閉めてから、早乙女はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。軽快な旋律が嘲笑うかのように響いていた。

 ――小夜鳴鳥ナイチンゲールは僕にだけ歌ってくれるんだね。とても嬉しいよ。

(まさか直接訊いたのか……もう駄目だ。終わった)

 リズムに合わせ、スタッカートで修飾された信号を耳に嘆く。

(どうせ征君は全部知ってるしその上で何も言わないんだろうけど、せめて知っているという確証がないまま日々を送りたかった。もう無理だけど)

 絶望が凝固した顔を上げる。至極純粋な笑顔があった。

「お前のせいだからな」

 糾弾すると、アルバートは小首を傾げる――僕が何かした?

 早乙女は無言で両手を見せた。虜囚は得心したように、人間を模した微笑みを広げる。

 ――良いグローブだね。どこで買ったの?

 早乙女は体内の負の感情を全て吐き出そうと試みたが、叶わなかった。そのまま尻餅をつき、煙草に着火する。

 相伴に与ろうと、不恰好な人魚がにじり寄って来る。同じ目に遭わせてやろうかと思うが、貫く手もないのではどうしようもない。せめてもの腹いせに指で思い切り額を突くと、ぽかんと空白を浮かべた。――痛いよ、小夜鳴鳥。

 アルバートは頭を小鳥の膝の上に落ち着けた。灰皿にされても文句は言えないが、幽鬼は友人の善性を疑わなかった。早乙女は複雑な心境だったが、翼を捥がれた天使に憐憫を感じて自由にさせていた。人も殺せず、音も奏でられず、目の前の自称友人が何であるのか、早乙女には最早わからない。

 ――神父様がお前を探してる。

 未だ残る痛みに吸い口を噛みながら、独自の指文字で伝えた。

 アルバートは安らかに瞬きし、畳を叩いた。――そうなんだ。

「お前さぁ……」あまりの危機感のなさに閉口する。

 近いうちに箱庭の神父が訪ねてくることを、早乙女は確信していた。〈外科医Surgeon〉――アルバートは音信不通だと報告を上げてはいるが、鎖々戸新太郎の暗殺にアルバートを送り込んできた時点で、早乙女の信用は半ば失われていたに違いない。近頃は情報網からも露骨に弾き出されている。

 だが幽鬼らの長も、まさか自分たちの殺しの切り札が標的に惨敗し、発足したばかりの日本の心鬼部隊に漁夫の利的に捕獲され、こうして平和に退屈そうにしているなど思ってもみなかったのだろう。網目から漏れ出た少量の情報からも、血眼になって探していることは明らかだった。

 美しい緑に囲まれた〈箱庭ガーデン〉は、裏切り者を決して許さなかった。神と通ずる神父は、心の端に兆した僅かな疑心すらも的確に見抜く。

「……殺されるよ。僕もお前も。二人揃って、地獄行きだ」

 曲が終わって、続いて『高貴な愛Hohe liebe』が流れ始めた。皮肉のようだった。小鳥の膝を枕に、アルバートは眠るように目を閉じる。

 ――小夜鳴鳥が一緒なら、僕は、行き先が地獄でもいいよ。

 ――小夜鳴鳥と一緒なら、きっと、そこまで悪い場所じゃない。

 掠れたハミングが旋律に重なる。地獄の呪縛は、神父の脅しは、効力を失っていた。

「……お前はさ、」

 零れた声に、碧い双眸が僅かに開かれる。

「僕がもし、今、逃げようって言ったら、一緒に逃げてくれる?」

 ――もちろん。

 ――神父様に怒られても、天国に行けなくなっても、僕にはもう関係ないよ。

 ――小夜鳴鳥が、ずっと僕の隣で歌ってくれるなら、どこにでも。

 地に堕ちた天使は、それでも幸せそうに微笑んだ。

「はは、莫迦だねぇ、」

 早乙女は目尻を跳ね上げて嗤った。

(お前は利用されるんだよ。僕が、僕のまま、あの家で暮らすために)

 悪魔との契約の対価は小鳥の歌で、すなわち小鳥の命。愚かな小鳥が生き延びるためには、対価を踏み倒さなければならない。

「あはは、ふっ、あははは……」

(毒か、神波にやらせるか。いや、あいつらも神父と一緒にまとめて殺してもらおうか。今のこいつなら、僕にもやれるし。そうすれば、僕は自由に平和に生きていける。あの家で、征君と、清司君と、ミィちゃんと、役立たずで一番の功労者の居候と……)

(――本当に?)

 歪な笑顔のまま固まった頬に、冷たい温度が触れた。天与の指を失くした、幽鬼の手首だった。醜く爛れ、ケロイド状になった皮膚で小鳥の肌を撫でる。

 ――嬉しいんだね、小夜鳴鳥。僕も嬉しいよ。

「嬉しい訳ないだろ……本っ当に莫迦だね、お前は」

 早乙女は今日だけ特別に、一本恵んでやった。火だけ点してやると、自称友人は口だけで器用に喫煙した。まじないの明かりが満ちる部屋に、二人分の煙が充満する。もしかするとこの八畳の間は、この世で一番安全な場所かもしれなかった。

 ――ずっとここにいなよ、小夜鳴鳥。ここなら、神父様も簡単には来られないよ。

 紫煙を燻らせながら、少年の影の残る面差しが純真な微笑みを浮かべる。

 早乙女は応えず、上着を脱いで、部屋の外に吊るした。

 ジ、と聞こえた蝉の声に、ふと中庭を見遣る。陰性植物の楽園と化した、文字通り猫の額ほどの狭い庭には、青木が一本。

 そこから濁った呻きを上げて飛び立った蝉の消えた空は青く、そして遠い。


     ◇


 夏になると、決まって思い出す顔があった。

 重ねて陽に焼けた浅黒い肌に、凛々しい眉と、仔犬のように人懐こい二重の目。正直者故に感情が豊かで、臍を曲げては厚い唇を尖らせ、笑う時はまるで少年のように白い歯を見せて笑っていた。

 ――吾妻!

 暑さが見せる白昼夢の中で、青々とした夏空を背景に、自分より余程優秀なくせに中尉のままの同期が手を振っている。

 夏生まれの同期は名を八重垣やえがき辿たどる。旧姓を、黄泉坂といった。


 すれ違いざまに肩をぶつけて、吾妻亮一は我に返った。かなり深く夏の夢に潜り込んでいたようで、情けなくもぐらりと体勢を崩す。

「すみません」

「失礼」

 足を止め、カンカン帽に手を遣り会釈をする。同じく帽子の鍔を持ち上げた左腕の影に見えた切れ長の目と、薄い唇から覗く犬歯、浅黒い肌。

 懐かしい高さから笑顔の代わりに一瞥をくれた男は、身を翻し足早に立ち去った。無風の中でも風を生む颯爽とした歩みに、空の袖がひらりと浮く。

 吾妻はその人物に見覚えがあった。今も昔も直接的な関わりはないものの、よく知っている。

 上官に呼ばれている。息子が待っている。身分を偽り、邸宅に盗聴器を仕掛けた。住人の美青年の絵を未だに大切に保管している。同窓を名乗る同類に仕えている……諸々の思念が過るが、吾妻は決意して声を張り上げた。

「――黄泉坂子爵殿っ!!」

 同期の七つ離れた兄で、元帝大の教授で、呪われた子爵家の当主で――心鬼シンキ

 今しかない。決心して拳を固めた陸軍大尉を、雑踏の中で静止した男は振り返る。

 鮮烈に印象に残る、右頬のケロイド。神経質に凝った表情と、その本性をそのまま圧し固めたかのような昏い瞳――目が合った瞬間、吾妻は彼我の間に存在する絶対的な隔絶を感じ取った。それはまるで分厚い硝子の壁のようで、深く立ち込めた霧のようにぼんやりと遠く感じさせる上官とはまた違い、確然と知覚できる距離と質量をもって両者を分け隔てていた。

(この方が、辿の……)

 かつて兄弟で一緒にいるところを遠目に見たが、印象は全く違っていた。あの時は、まるで人間のように優しく笑っていた。上官と同じ化生の類だと言われても、決して信じなかっただろう。

 たかが十歩、しかし本質的には無限の距離の向こう、正体を隠すように細められた双眸に背筋を粟立てる。視線だけではなく、人外たるその本性で吾妻を照準しているに違いなかった。

(御宅で鉢合わせなくて良かった。御匣みくしげさんも比良少佐も、きっと同類だから平気でいられるんだろう……)

(――駄目だ。怯んでいる場合じゃない)

 冷たく汗の滲む拳を握り込む。心には、義務感にも近しいものがあった。

(今を逃したら、一生機会は巡ってこないに違いない。今のうちに――)

(信じるぞ、辿……!)

「自分は、辿の陸士の同期で、吾妻亮一と申します!!」

 蝉の合唱すら凌駕する申告が、夏空に朗々と響き渡った。


「ぶつかった上に引き止めてしまい、申し訳ございません」

 数分後、吾妻は銀座の喫茶の一席に座っていた。向かいには親しかった同期の兄。身分の違いもあり、正直、上官に不始末を申告する時より恐ろしかった。

「実は、歩きながら辿のことを思い出していて……半ば白昼夢のようなものだったのですが……ちょうどその時、不注意にも貴方とぶつかってしまって、お顔を思い出して、つい声を。突然失礼いたしました」

「構わないよ」返事は、人間の声。「数十年ぶりに街中で声をかけられたものだから、驚いてしまって。愛想が悪くてすまない」

「いいえ、こちらこそ突然申し訳ございません」

「私を知っているということは、もしかして前に会ったことがあるか? 私が一方的に忘れてしまっていたら申し訳ない」

「いいえ、昔、遠目にお見かけしただけで。辿からよく話は伺っていましたが、直接お会いしたことはありません」

 そうか、と子爵が応えた所に、二人分のアイスコーヒーが運ばれてきた。異様に喉が乾いていたので、断ってすぐ口をつける。子爵も左手でグラスを持ち上げた。

 喉を潤しながら、吾妻は目の前の心鬼の、人間の真似の精巧さに驚いていた。闇の底のように昏い瞳を除いては、話し方も所作も――確かに表情は本人の言葉通り無愛だが――違和を抱かせない。対峙する者全てに怪訝な顔をさせる上官とは違う。

 黄泉坂子爵は、人として在るために、何か特別な努力をしてきたのではなかろうか。同期は唯一の肉親である心鬼を、心の底から慕っていた――立派な、人間の兄として。

 コーヒーで一つ思い出して、吾妻は切り出す。

「黄泉坂子爵殿は、ブラックで飲まれるのですね」

「ああ、あまり考えたことがなかったな。いつも出されたものをそのまま飲んでいたから」

「そうだったんですね…… あの、辿の話をしてもよろしいですか?」

 許可を求めると、構わないよ、と静かな返答があった。黒い水面に目を落として、吾妻は懐古する。

「昔、よく同期で喫茶に行って……あ、純喫茶の方です。『純』じゃない店は、辿が嫌がりましたから、男だけで健全に……で、喫茶に行くと、皆揃ってブラックを注文するんですが、辿だけいつも途中でミルクを頼むんです。苦いのが苦手で、でも一人だけミルクは嫌だから、揃って注文する時には言わずに、後からウエイトレスを呼ぶんです。最初に言えばいいのに、恥ずかしいんでしょうね。でもあいつは中途半端なのが嫌いだから、呼びつけたウエイトレスに向かって堂々と注文するんです。ミルクをもらえないか、って」

 記憶と一緒に込み上げてくる笑いを堪え、続ける。

「それが面白くて、同期は皆、丁度いい頃合いになると話を止めて、にやにやしながらあいつが手を挙げるのを待つんです。そろそろなんじゃないか、って目配せしながら。一度、他の同期が代わりに呼んでやったことがあるんですけど、辿はえらく不貞腐れてしまって……そしたら、不機嫌そうにミルクを注ぎながら、貴方の話を」

「私の?」

「はい。 ――兄貴は俺がミルクを注文する時は、なら自分もと一緒に注文してくれる。俺じゃなくて自分が欲しかったみたいに礼まで言ってくれる。なのに何なんだ貴様らは。ミルクを入れることの何がおかしい。格好つけやがって。俺の兄貴だってミルクを入れて飲むんだから、貴様らはその尊大な態度を改めるべきだ……なんて大真面目に怒り始めて。辿に説教されながら、俺たちは、辿の兄上は優しい、よくできた方なのだな……と感心したのを覚えています。辿があんな正直者に、真っ直ぐ育った理由もわかったような気がして」

 そこまで話して、再度コーヒーを口に含んだ。ロンググラスは、コースターの上で冷たい汗をかいていた。

「辿は、よく私の話を?」

「はい! それはもう、事あるごとに――」

 そこまで応えて、吾妻は口を噤んだ。虚空に据えられた、昏く凝ったままの子爵の双眸。おそらく、吾妻が夢中になって話に興じる間も、変化は訪れなかったに違いない。自粛の要を感じて、吾妻は緩みかけた頬を引き締める。

「辿は、私たちに不満があると、いつも決まって貴方の話をしました。辿は絶対に嘘を吐かない、というより嘘を吐けない性分なので、私たちはあいつの言うことを信じる他なかったんですけど……でも、話があまりにも出来すぎていて、もし本当なら、辿の兄上は理想の兄上だな、なんて。同期は皆、口を揃えて言っていました。そんなに優秀で弟に優しい人格者なら、ぜひ上官に欲しかった、とも」

 学校で理不尽な目にばかり遭わされていたから、学生らは理屈の通った、真っ当な上位者を欲しがった。七つ上なら中尉、優秀だからきっとすぐに大尉になるな、と同期の兄に抜擢進級の夢を見て、何故学問を選んだのか、もったいない、と残念がった。

 その時の黄泉坂辿の表情は、今でもよく覚えている。

「辿は、本当は、貴方が自分の代わりに軍に入るべきだったと思っていたようで……兄貴の将来を犠牲にしてここにいるのだから、いつか、恩返しがしたい、一生かかっても返しきれないくらいの恩をもらったのに、兄貴が出来すぎていて、返し方がわからない……と、一度きりでしたけど、言っていました。だから……」

 言葉が続かず、吾妻は閉口した。黄泉坂子爵も無言のままだった。

 卒業の年の春、黄泉坂辿の苗字が突然変わった。訊けば、養家と縁を切ったのだと言う。結婚するのだと伝えられ、祝わざるを得なかったが、親しい同期たちはその夜、消灯後に便所で会議を開いた。誰もが黄泉坂改め八重垣辿の沈痛な表情を目にしていて、本件については追及を禁ずる、結婚を祝し、金を包むべし、と結論が出された。解散直前に見回りの軍曹に見つかったが、集った顔を見て鬼軍曹も察したのか、不問に処された。名簿も被服もそのうち改められて、辿は名実共に八重垣の人間になった。

 以降、しばらく辿から兄の話を聞くことはなく、卒業後は嫁と子供の話題に変わり、同期は彼の者に「愛妻家」「子煩悩」「親馬鹿」の三つの称号を贈った。唯一の所帯持ちの脇を小突きながら、事情を知る同期は皆、同じような寂しさを感じていた。

「……私の恩など、」

 吾妻は乾いた声音を聞いた。それきりだった。

「卒業して三年程経って、久しぶりに同期で集まって飲んだ時に、辿が、貴方とのことを後悔していると打ち明けて……私たちは、何とか説得を試みたのですが、辿は、それだけのことをしたのだから、相応の覚悟を見せないといけない、と頑なで……誰の目から見ても、貴方に会いたがっているのは明らかだったのに、結局……」

 兄との和解が叶わぬまま、同期は死んだ。二十六歳だった。葬式に、黄泉坂家の者は誰一人として出席せず、唯一の肉親である兄の姿もなかった。

 あの時、同期たちは遣瀬無い怒りを顔を見せない兄に向けたりしたが、心鬼だというこの人物は、弟の死に、一体何を思っていたのだろうか。

 窺った相貌に、感情の影は見られない。

「辿は、昔から頑固だったから」弟とは正反対の、酷薄ささえ感じさせる唇が発する。

(――それだけなのですか、)

 絶えた声に、吾妻は己の無力を悟る。

 厚い硝子の壁は見えずとも、依然として両者を分け隔てているに違いなく、人間の声は届きこそすれ、壁の向こうの心鬼の表情を変えることはない。たとえそれが、肉親の話であろうとも。

 ――〈心〉の周波数が違うんだよ、構造が違うから。上官の協力者たる混血の男の言を思い出す。人間の感情を、果たして心鬼は理解することができるのだろうか。

(シンキの貴方に、悲しいという気持ちはあるのですか、黄泉坂子爵殿)

(辿、伝えられるだけ伝えたが、お前の兄上は――)

 最後に、吾妻は手帳から一枚の写真を引き抜いた。仲の良い同期で撮ったものだ。

「辿が写っているものはこれしかないのですが……せめて、貴方が持っていてくださればと」

 いつ見ても気持ちの良い笑顔だった。裏表がなく誰からも人気で、実直さ故に衝突する事もあったが、丸きり辿のことを嫌いな者はいなかった。

 差し出された写真を、子爵は手に取った。そこだけ人外とわかる目を僅かに細め、

「……辿は、こうやって笑っていたのだな」

 低く凪いだ声を零すと、持ち主の方へ写真を滑らせた。

「これは君が持っていなさい。私が持っていても、仕方がないから」

「しかし辿は、」

「いいんだ」同期の兄は人間らしくかぶりを振った。「……十分だ」

 グラスの中で、半ば溶けた氷が音を立てた。頃合いだった。子爵は左手を挙げて給仕を呼んだ。弟の同期の申し出を固辞し、取り上げた伝票を財布ごと給仕に渡したところで、吾妻は改めて、子爵の右腕が半ばから失われている事を認識する。

「その右腕は……」

 事故だ、と子爵は応えたが、納得はできなかった。

 あの赤いのや英国人の捕虜のように、この世の裏から人を殺せる化物もいるくらいだ。心鬼だという同期の兄は、不審な弟の死について何か知っているのではなかろうか。

「黄泉坂子爵殿。あの、辿は本当に、貴方のことを……」

 流石に直接そんなことは訊けず、別れ際、何度も礼を言ってから、同期で親友の思いを勝手に代弁する。

 子爵はあらかじめ用意していたような微笑みを浮かべ、ありがとう、とだけ言った。亡き弟にではなく、伝令に労力を割いたその同期に対して。吾妻は最後まで不服だった。

「深入りはしない方がいい」

 空の袖を翻す直前、僅かに鼻根に皺を寄せて、心鬼はそう言い残した。

 おそらく、もう手遅れだ。吾妻は諦観の面持ちで、颯爽と去っていくその背を見送った。辿が言う通り、軍人になっていれば相当様になっていたに違いなかった。

 ――少なくとも、よりかは。


 かなり遅れて『三雲書法会』の広間に参じると、敷居を跨いですぐの所に赤いワンピースが脱ぎ捨てられていた。鮮烈な色に人死にを連想し、一瞬身体を強ばらせる。

「ちこくだぞ吾妻ぁ」

 ざらついた高音に咎められ、そちらに目を遣る。父の軍服を身につけたような少年が、これまた大きい軍帽を被ってくるくる回っていた。内心溜息を吐く。「遅れてすみません」

「明日はお供できませんので、どうかお行儀良くしていてくださいね、神波君」

 上層部に実力を示すためのを行うにあたり、人外と慣れ親しみ過ぎた吾妻は監視の任を外されていた。胃痛から解放される安堵が二割、更なる胃痛に苛まれる不安が八割といったところ。

 理解しているのかいないのか、神波は上機嫌にターンしながら、はぁい、と元気だけは満点の返事をした。ふいに停止し、華奢な身体の向きはそのまま、ぐるりと首だけ回して被食者の方を向く。

「どーぉ、吾妻。似合う?」にぃ、と音を立てて笑む。

「いや、ちょっと服装容儀的に」

「あーん? 文句あんのか」

「ないです。とても可愛らしいと思います」ぎょろりと睥睨され、慌てて訂正する。

 だろぉ? 神波はにんまり笑って、ご機嫌にステップを踏んだ。かと思うと余った裾を踏んでひっくり返った。「あ痛ぁ!!」

「比良さぁん、裾切ってぇ〜」

「お裁縫なら、吾妻君の方が得意だよ」鉄帽、水筒、ハンカチ、おやつ……比良は風呂敷の上に並べた品を、一つ一つ指差し確認する合間に言った。

「え」裁縫の腕を見せた事など一度としてない。

「吾妻ぁ」

「いいえ、そんなことありません。きっと五色君の方がお上手ですよ。――あれ、今日もお出かけですか?」

 助け舟を求めるも、比して常識的な化生はいない。近頃不在が多く、息子の暁夫は部屋の隅、座布団の上に寝かされていた。穏やかな寝息を立てて眠っている。

「今日は、早めに帰ってくるよ。明日の準備をしないといけないから」

 よし、と言わんばかりに頷いて、比良は抽斗から裁縫箱を取り出した。「よろしく頼むよ、吾妻君」

「はい吾妻」細く筋張った足を晒して、神波が脱いだ短袴を押し付ける。吾妻は仕方なく畳に腰を下ろした。

(お前が今の俺を見たら笑うだろうか。いや、きっとお前の事だから、気の毒だと憐んでくれるんだろうな)

 華族の家の出で、優秀な兄がいて。養家と縁を切って結婚すれば、愛に生きたと持て囃されて、美人の嫁に似た可愛い子が二人。片や自分はその親友が死んで十年後、三十五を過ぎてようやく所帯を持ったかと思いきや、子供が生まれてすぐ嫁は精神を病んで死んでしまった。

(お前が生きていたら、子供の話とか、平和な、普通の話をしたかったよ)

「五色君は、一体どこに行っているんでしょうね」

 もう一度神波に短袴を履かせて丈を測りながら、何気なしに尋ねる。

「よみざかししゃくのところ〜」裾を折りながら神波は答えた。「あいつボクに勝ちたくて、清司としゅぎょうしてるんだ。五色のくせにナマイキ」

「清司、」

 指先にちくりと痛みが走った。指の腹に生まれたごく小さな血の珠は、微細な、しかし看過し得ぬ痛みを与えた。

 あの美青年の絵はスケッチブックの間に挟まって、誰の目にも触れる事なく、後生大事に保管されていた。

 ――何か大切な事を、忘れているような気がした。


     ◇


「いや、あの、やめろ。何もそこまでしなくとも――」

「襖を弁償する御金がございませんので……この身体で払わせていただきます」

 わたしが止めるのも聞かず、能面の青年はしおらしく膝を折り、黄泉坂子爵邸の玄関に正座した。三段目で耐えるボタンを休ませるように胸を寄せ、三つ指をつく。

「僕にできることでしたら、何でもお申し付けください。誠心誠意ご奉仕させていただきます……」

 熱を秘め密な腿の肉に、スラックスの折り目は消失していた。比良の側近・五色は恭しく叩頭し、薄らと汗をかいた小麦色の襟足を晒した。

「多分のご迷惑をおかけした身、こき使われるのも本望でございます。下僕でも奴隷でも、どうぞ御匣さんのお好きなようにお呼びください……」

「ああ、ああ、そんな……おい、清司、助けてくれ……」

 廊下の奥から半分だけ身体を覗かせた清司は何も言わず、相も変わらず全くの無表情のまま、家人が額づかれる様を静観していた。同じくこちらをじっと見つめる白い仔猫を抱いて。

 ――それがちょうど、一週間ほど前の話。

「うわ、また揺れたな」

 どすん、と下から音がして、古い家屋が震撼する。壁に立てかけてあったカンバスが倒れ、流石のわたしも自室を出る。

 襖を開けた瞬間、鼻先に触れる上品な香り。年中立ち込めている陰気臭い感じも、その一種宗教じみた香に清められたのだろうか、最近は室内が明るかった。お化け屋敷の汚名返上となるか、程よく夏日を採り入れた二階を、心地の良い風が吹き抜けていく。

 塵一つなく掃き清められた階段を降り、磨かれた廊下を清々しい気分で進む。やはり家が綺麗になれば住む者の心も明るく前向きになるのだろう。ふんふん鼻歌を歌いながら上機嫌に歩くわたしに気づいて、専用の座布団の上で丸まった白い毛玉が目を開け、くぁ、と欠伸をした。近頃は逃げも威嚇もしない。ミィちゃんもようやくわたしとの距離を縮める気になったか。もしかすると、親代わりの早乙女が家を空けているせいで、寂しい思いをしているのかもしれないが。

 騒々しい音は断続して聞こえていた。またあいつらは、と呆れ半分、かつての開かずの間を開けると、共に十七の青年二人が畳の上で絡み合っていた。

「アッ……清司さんあかん、そこは……っ」

「諦めてはいけません、五色さん。この前お教えした通りに抜いてみてください――」

「何をやっとるんだお前らは」

 寝技の練習です。五色に覆い被さりながら清司が答える。その下で五色は眉根を寄せ、苦しげに喘いでいる。

「ひぇ、あ、み、御匣さん……!」

 素顔の五色は短く悲鳴を上げたかと思うとするりと技を解き、素早く清司の影に潜り込んだ。彫りが深くバタ臭い顔立ちから、わたしは下僕や奴隷と呼ばずにジョニーと呼んでいるが、渾名は一向に定着しなかった。

「その動きですよ五色さん」弟子の成長に満足しているのか、清司は頷く。

「何をそんなに恥ずかしがって。ずっとうちに通ってくれているんだし、今更気にする間柄でもないだろう」

 友好的に述べるが、恥ずかしがらずに絵を描かせてほしい、というのが本心だ。正直なところ、彫像のように理想的な肉体を描きたくて描きたくて堪らない。

 一体いくら包めば描かせてもらえるんだ……!

「一体いくら包めば……!」

「絵のモデルは嫌ですて、何遍も言うてます……あんまり見んといてください。御匣さんにそんな目で見られたら、いろいろ擦り減りそうです……」

「一瞬で目に焼きつけるから、頼む……!」

 拝むも、ジョニーの意思は固かった。「絶対に嫌です……」

「梅子さん。五色さんが嫌がっておられますので、諦めてください」

 五色と同盟を組む清司が加勢し、二対一でわたしは負けた。無言のうちに特訓場を追い出され、微睡むミィちゃんの横をとぼとぼ歩いて居間に入る。滅私奉公を掲げる奉公人の手が入り、他の場所と同様に随分明るくなった部屋は、黄泉坂子爵邸の一室とは到底思えなかった。長押に刺さった小さな金具にどこまで埃が積もるのか、楽しみにしていた訳ではないが、何だか少し寂しい。日の当たる場所に後ろ暗い者たちは住みにくいのかして、この家の中心部にも最近はあまり人が集まらなかった。輸血してもらった弱みか、早乙女は比良の使い走りをやらされているようだし、黄泉坂は大半を自室で過ごしている。昔書いたという論文やら、書棚の本を片っ端から読み漁ってよく気が滅入らないものだ。清司も五色とつるんでいることが多い。やはり同い年で共に心鬼だから、気が合うのだろうか。

 ――わぁ、清司さんお上手。

 ――お褒めに預かり光栄です。四つに増やしてみましょうか。

 暇人故にスケッチブックを持ってきてデッサンをしていると、鍛錬を終えた青年たちが遊びに興じる声が聞こえてきた。昨日はあやとりだったが、今日はお手玉らしい。

 ひとしきり遊んだら、五色はわたしや清司が風呂に浸かっているうちに飯炊きをして、それから自分も風呂に入るのだ。汗疹あせもができやすいからと、風呂上がりに清司に天花粉をまぶしてもらっている光景は感性に訴えるものがあった。

「はっ……」

 気がつくと、紙の上には扇情的に頭の後ろで手を組んだ青年が現れていた。我ながらに筋肉の陰影の付け方が素晴らしい。天人の肢体は腰のところで途絶していた。確か、腰回りに刺青のようなものを見た気がするが、どんな意匠だっただろうか……

「――御匣さんは、お絵描きがお上手ですね」

「は、え、ジョニー?」

 後ろから声をかけられて、慌てて振り返る。不透明な表情を浮かべた小面が、僅かに俯いてわたしの手元を見つめていた。

「……絵に描かれるのは嫌ですて言うたのに」

「いや、これはつい、」

「あれだけ言うたのに……聞き入れてもらえんようで悲しいです……」

 まるで能面からしくしくと声が聞こえてくるよう。五色は両手で顔、ではなく面を覆う。濃く漂い始めた香に、くらりと頭が揺れた。

 五色は密やかに紐を解き、面を外した。影から現れた顔半分には微笑。

 ――赦しません。

「……さん、梅子さん、」

「ん? あれ? 清司……? 五色は?」

「帰られました。今日は用事があるそうです」

 五色が作ったらしいを椀に注ぎながら、清司が述べる。居間にはやや褪せた夏日が差していた。時刻は午後二時前。どうやら、少し眠ってしまっていたらしい。

「冷麦か。久しぶりだな。スモモを食った時以来か」

「ええ――植えた種は、まだ芽が出ませんね」

「そんなすぐには出てこないだろう。わざわざ暑い夏に出てきて、ちょっと涼しくなったと思ったら冬っていうのもな。わたしがスモモだったら、来年の春まで待つぞ」

 そういうものでしょうか。清司は言って、庭に視線を遣った。呪われた子爵家の象徴はそこになく、柔らかく耕され、甲斐甲斐しく水を撒かれた土壌があった。

「結局あの日は早乙女も食べなかったから、実がなったらわたしと清司で山分けだな」

 提案するも清司は応えず、何を思案しているのやら、正座したままじっと庭を見つめている。

「梅子さん」無色透明な声。

「何だ」

「ぼくが不在の時は、水やりをお願いします」

 わたしは思わず失笑した。明言はしないが、清司のスモモへの執着は相当だった。毎朝欠かさず水をやって、こうして頼んでくるくらいには。まるで小さな子供のようだ。

「お前の頼みならしょうがないな。まあ、二人で山分けするんだし、それくらいの働きはしてやらんとな」

 たくさんなるといいな。言うと、清司は小さく頷いた。

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