一章

「――哲学って、貴方の役に立ちます?」

 華奢な体躯の青年は、窓に映った自身に向かって問いかけた。

 雨は早朝に止んでいた。水無月の艶めく草葉に宿る雫は午前のうちに皆乾いた。依然空を覆う薄雲の御簾の向こうに、珠の太陽が天子の御顔のように光っていた。

 婚礼は予定通り、元麻布の教会で執り行われた。

「俺は、学校で勉強をすること自体に懐疑的な立場ですから。自ら進んで勉強される方のお気持ちが理解できないんですよ」

 青年は新郎の腹違いの弟だった。自分の鏡像に恍惚と見入りながら、ポマードで撫でつけた髪を入念に整え、纏った三揃いの礼服を隅々まで検分し、ようやく来賓に向き直る。

 鎖々戸侯爵家の次男・啓太郎は、心持ち切れ上がった目尻に兄の微笑の断片を過らせた。中性的で、虚弱な印象さえ与える繊細な容姿。物憂げな八の字眉の下、いつも上目に他人を窺っているような瞳を引き絞り、

は、特に変わっていますね。哲学を勉強されるなんて。何か思い悩むようなことでもあったんですか?」

 見据える先、義兄の代理で出席した男の足元、焼けついたように黒い影は、底無しの穴のようだった。

 黄泉坂征は自分と同じ深淵の闇を、青年の黒光りしている革靴の下に見た。

「……君も、心当たりはあるだろう」

「アハハ」端正な顔立ちの青年は愉快そうに嗤った。「重症ですね」

「哲学が、さしずめ貴方の処方箋ということですか。アハハ、頭の良い人は薬も上等だ」

「どうやら君は、兄上と同じ類のようだな」

「あんな色惚けの快楽主義者と一緒にしないでください」

 眉根に小さく皺を刻み、啓太郎は吐き捨てた。「俺は、あいつとは違うんです」

「どう違うのか、教えてほしいものだ……」

 憎悪の心鬼しんきは、愛する者を屠った仇と同じ気配を、目の前の同類に感じていた。

 鎖々戸啓太郎は表情を和らげた。伴って、形ばかりは心配そうに眉が垂れる。生来気遣わしげな造りの顔には、侮蔑と嘲りが滲んでいた。

「俺と違って、あいつは――兄は、現世に理想の世界を望む。そう……」

 ――アタラクシア。言葉は明確に発された。

 青年は後ろで手を組んだ。芝居がかった動きで一歩二歩と、まるで探偵を演じるかのように踵から地を踏む。

「昔貴方に教えてもらったのだと、本人から聞きましたが……教えない方が良かったんじゃないか、って。俺は思いますよ」

 耐え難い罪の一端をちらつかせて、美しい青年の姿をした化生けしょうは微笑んだ。すぐ隣の同類に向かって囁く。


「兄に理想世界アタラクシアを見せてしまったのは、貴方ですよ。先生」


「貴方のご教授のお陰で、いつも渦中の人物のくせして事勿れ主義の兄が、色恋の愉しさはそのままに、この憂き世を平らげる術を思いついた……屍の上に成り立つ極楽に至る道を、貴方は示してしまったんです。

 あの日、兄は嬉しそうでしたよ。軍にいると久しぶりに会うのだと、家の者に吹聴して回ってましたから。ええ、よく覚えていますよ。さぞ自慢の友人だったのでしょう、辿たどる君は……ああ、そういうお話ではありませんでしたね。俺と兄がどう違うか、ですか?」

 返事はなかったが、化生は構わず続けた。

「俺は、自分の死んだ後に、理想の世界を望む。俺の理想郷は、俺が死んでから完成するんです。兄と違って、平和でしょう?」

 ――他の親族と並んで、誓いの口接けが交わされる間も気恥ずかしそうに目を落とし、新婦の足元ばかり見つめていた青年の眼差し。

 そうか、と黄泉坂は短く返した。

「先生の理想の世界は、一体どこに在るんです?」

「……どこにも。どこにも、ない」

 アハハ。鎖々戸啓太郎は朗らかに笑った。

「哲学なんて勉強するからですよ」



「黄泉坂さん、ご飯できましたよ」

 北向きの自室には、夏の西日の落胤のような影が落ちていた。

 呼ばれてから、黄泉坂は学生の頃書いた論文から顔を上げた。襖のところから、白く色の抜けた八の字眉と、無数の傷痕が刻まれた目元だけが覗いていた。下の方で、束ねられた白髪が馬の尻尾のようにちらちら揺れている。

「え、何で今溜息いたんですか?」

 問いは無視して、黄泉坂は文机に論文を置き、立ち上がった。追いかけてくる居候を伴い、端に埃の溜まった階段を降りる。

「今日のデザートはスモモですよ。清司が買ってきたんです」背中に掛かる声は幾分高い。

「……要らない」

「あれ? お嫌いでしたっけ? ――あ、そういえばあれスモモの木ですよね。何か妙なきのこ生えてますけど。食べられるならいいですけど、毒があったら嫌なので、この機に植え替えません? 実が採れるやつ」

 夕陽の射す内縁うちえんは開け放たれていた。庭の隅、歪な影を落とす李の枯木こぼくは、死体に蛆が湧くように、菌類の侵食を受けていた。

「……勝手にしろ」

「よし、決まりですね。なるべく早く実がなるやつがいいですね。桃栗三年、柿八年……あ、桃が採れる頃には清司は二十歳はたちですよ。早いなぁ……」

 かつて「鎖々戸啓太郎」と呼ばれた青年は、指折り数えながら無邪気な声で言った。

「うーん、でもやっぱりスモモですかね。美味しかったですし――あ、つまみ食いなんかしてませんよ! 本当ですって」

 居間の前では、血の繋がらぬ甥がどこかから持って帰ってきた蚊遣り豚が、細く煙を吐き出していた。

 ふと、足を止める。

「……? どうしましたか、黄泉坂さん」

 振り向いた先、伸び切った白髪頭は落陽を受けてあかい。瑕疵きずだらけの真珠のようなかんばせ。その血を象徴する形の瞳が、人間のように瞬いた。

 ……いや。応えて居間に入る。傷んだ畳に落ちる、この世の裏側と通じる深淵の影。薄墨色の人形ひとがたが、後ろから重なった。

 誰にも知られないよう、嘆息する。

「今晩は冷麦です」

 無機質な声が掛かる。桶を持つ清司の口元は、果実の汁で濡れていた。

「あ、つまみ食いしたな清司」

「梅子さんも食べていました。黄泉坂さんもどうぞ」

 ざるの上でひしめき合う憧憬は愛慕は憎悪は、老いてから眺め入る青年期のように紅色に艶めいていた。果実の甘い芳香は、老醜を隠す香水のように鼻をついた。

 ――何を今更。

「要らない」

「お嫌いですか」

「ああ……」

「ひぃ、ふぅ、みぃ、よ……とお余り二つ! 黄泉坂さんが食べないなら一人四つですね!」

 勘定を済ませ、居候の青年は顔中に喜色を浮かべる。「ありがたく頂きます!」

 形式限りの養子は一つ頷き、養父に向き直る。「ありがとうございます」

「種を植えたら、芽は出るでしょうか、黄泉坂さん」

 言葉を返す前に、居候が手を打ち鳴らした。「その手があったか!」

 ――その日のうちに完食された李の種子は、翌日、先代が除かれた跡地に植えられた。

 かつて春ごとに白い花を咲かせ、実をつけた果樹の遺骸は、手頃な大きさに切り分けられ、庭の片隅に遺棄された。

 呪われた子爵家の象徴でもあった朽木が躊躇いもなくのこで挽かれ、根株ごと掘り返される様を眺めながら、黄泉坂は枝を削ぐだけに留めた己を嗤った。


     ◇


 長々と続いた会席の最後には、李のシャーベットが振る舞われた。修司は手をつけずに、隣の父に横流しした。

「どうした、修司。俺に食べさせてほしいのか?」

「もう、桃子さんもいるのに揶揄わないでよ。お腹がいっぱいだから、お父様に譲ってあげてるだけ」

 そんな子供みたいな真似しないってば。呆れる風を装って言い返せば、座布団の上に胡座をかいた父は悪戯を仕掛けるように黒曜石の瞳を細める。

「そうかそうか、しないか。それは残念だなぁ。俺は寂しいよ、修司。まさか、いつものあれももう――」

「お父様。は例外。秘密にしてよね」

「なんだ、よかった。新旧鎖々戸の若様のスキャンダルになりかねないからな。俺たちだけの秘密にしておこう」

 脇息に肘をつき微笑む父に、修司は安堵した。「シャーベット溶けちゃうよ、お父様」

「二人で内緒のお話なんかして、まるで仲の良いご兄弟のような悪友のような。桃子の入る隙などございませんな」

「お祖父様……」

 向かいに座る三好みよし桃子とその祖父は、仲睦まじい親子の世界に忘れず水を差した。

 鎖々戸新太郎は愛し子にちらと目配せし、目尻の妖精の口接くちづけが最も色を放つような艶麗な笑みを浮かべた。

「修司はようやっと巡り会えた、俺の真の恋人だからな。手放したくなくて必死なんだ。寂しい老後を過ごしたくはないから」

「爵位も継いでいないのに、もう隠居されるつもりでいらっしゃる」

「無事に桃子さんと結婚したら、爵位なんて一つ飛ばしで修司が継げばいい。一時いっときは、いつまでも鎖々戸の若様と呼ばれるのが嫌で爵位を欲しがったが、今は修司がいるからな。鎖々戸侯爵様なんかより、修司のお父様で俺は満足だよ」

 気取ることなく断言して、侯爵家の長男は銀のスプーンで氷菓をすくった。美貌の貴人は何でも美味しそうに食べた。

「あの新太郎様が、ご立派になられて。修司様のご功績に他なりませんな」丸顔の老人は美しい相似形の親子を見比べる。

「違いない。修司がいなかったら、俺は今頃、鎖々戸侯爵様と二人で撞球室だ。上達はするかもしれないが、人間的な成長は望めないな。さほど楽しくもない。俺が今こんなにしっかりしているのは、間違いなく修司のおかげだよ」

 顔を見られたくなくて、修司は俯いた。隣で父が笑う気配がした。

「ありがとう、修司。お前がいてくれてよかったよ」

 そんな、僕は。修司は顔を上げた。優美な微笑みの断片が視界を掠めていった。

 十七歳の青年の父親は、息子の妻となることが内定している少女に誠実な表情を見せる。「俺の修司を、よろしく頼むよ。桃子さん」

 少女は赤面し、その祖父は乾いた目のふちを潤ませた。少女のか細い返事を聞きながら、修司は努めて恥いる演技をした。小綺麗な座敷で、自分だけが台本の中身を知っているかのようだった。

 侯爵家長男の貴相は壮年となって一層魔力を増し、艶やかな花唇から紡がれる言葉は、耳朶に触れた途端に劇的に作用して、聞く者全てにこの上なく甘美な夢を見せた。

 万物万象が望ましい姿を得た世界の中心で、修司の父は莞爾として笑う。

「この部屋が寂しい老いぼれだけになってしまうが、若い二人で食後の散歩にでも行ってくるといい。俺たちはのんびり老後の話でもして待っているから」


「お父様は……」たった数瞬でも不快な空白に、修司は聖句を唱えるように父の話をした。

 魔法の代わりに振りかけられた父の香水だけでは、修司を悪夢から守るに足りなかった。悪夢の正体は背中から包丁を生やした母で、この世に存在する女という生き物全てだった。手の込んだ庭園の奥、朱い橋の欄干に置かれた少女のひ弱い指先にも、修司は怖気立った。

「――修司様は、本当にお父様のことを愛していらっしゃるのね」

 ――刺し殺したはずの母の幻影が、突如息を吹き返して修司を睨みつけた。頬を張られたように、修司は我に返った。

 隣の少女から詰責の気配は感じられなかった。ようやくまともに見た横顔は、下を流れる小川をじっと見つめていた。桃子の顔は最後に余った生地で作った団子のように小さく、そこに仔うさぎのような目と、赤い絵の具が滴ったような唇が控えめに整列していた。

 青い朝顔が、空を透かした薄雲のような色の着物に咲いている。修司は鬱々とした気分で川面に目を落とした。人工の川は狭隘で、あくせくした流れは眺め入る者の顔すら映さない。

「わたし、本当にいいのでしょうか……」修司は六感に、繊細な揺れを感じた。

「お二人の邪魔をしているようで、わたし、申し訳なくて……修司様も、お父様とご一緒の時の方が、自然なお顔をしていらっしゃるから、」

「そんなことはありませんよ。桃子さんと一緒だと緊張してしまって」

 純粋な人間のそれに心底辟易しながら、修司は返した。来路花サルビアのような紅唇は微かに緩んだだけだった。「修司様は、本当に優しい、素敵なお方ですね」

「お身体からだが良くなるまで、修司様はずっと大変な思いをしてこられたのでしょうから……わたしは、その分まで、修司様には楽しく過ごしていただきたいんです。修司様のような素敵なお方とご縁があるのは、とても嬉しいことなのですけれど……わたしのせいでお心が曇るようなことがあっては……」

「――桃子さんほど優しい女性に、ぼくは今まで出会ったことがありません」

 いかにも本心らしく告げながら、修司は彼女の間違いを片っ端から訂正し、同時に自らの血濡れた手を広げ、全ての罪を暴露してやりたい衝動に駆られた。

(ぼくが素敵な方だって? 誰を殺したか、何人殺したか、今ここで教えてやろうか)

 桃子は気遣わしげに修司を見上げた。金持ちの家に生まれただけの凡愚な少女は、他人の顔色を観察することに長けていた。相手の顔に少しでも違和を感じ取ると、生来の気弱さからくる遠慮がちな口調で先手を打った。心の鬼たる修司は、自分の思惑を察知されたことで二重に腹を立てていた。

「今度一緒に御猟場にお邪魔させてもらいましょう。お願いしてくれるお父様には悪いけど、二人きりで。こっそりついてこないよう、ちゃんと言っておきますよ」

 たかが小鳥の死でも、この繊細な少女には重いはずだ。好意的な調子で修司が提案すると、少女は戸惑いながらも嬉しそうに頷いた。


     ◇


「ご紹介に預かりました、陸軍少佐比良景仁であります。本日はお忙しい中、このような場を設けてくださり、より感謝いたします」

 丈の合っていない軍服を着た男は、そう前置きしてから話し始めた。閉め切られた部屋には、上は中将から下は少佐、ここ参謀本部にて指揮を執る上級将校らが集っていた。

「最初に、僕ら、心鬼シンキという存在について知っていただこうと思います。心鬼は、『心』の『鬼』と書きます。伊豆大島の東に位置する流島ルとうの伝承である『シンキ』に、僕が字をあてました。流島の伝承によると、シンキには、この世と異界を行き来し、神通力で人の心を操る力が備わっており、その名を付けた実際の心鬼も、同様の能力を有します。精神の世界ともいえる〈心影界しんえいかい〉と、この現実世界を自由に行き来し、人の心に影響を与えることができます。例えば幻覚だったり、感情・記憶の操作。種によっては現実の肉体への干渉……つまりは、殺傷。現実世界の人間のほとんどは、自分が心鬼から影響を受けていることに気がつきません。知らず知らずのうちに心鬼の術中にはまって、通常では考えられないような異常な行動をとる……僕らは〈心災しんさい〉と呼んでいますが、大正十二年の九月と、十九年の八月。それから三年前、二十一年の三月……お心当たりはないでしょうか。

 心影界において、心鬼の足は特急列車よりも速く、現実世界の障害物も透過して移動することができます。今、この会議室には鍵がかけてあるけれど、僕らには何の意味もありません。鍵をかけたくらいでは、僕らの侵入を防ぐことは不可能です。心鬼の能力によっては、人の頭の中だって覗き見ることもできる……僕らは、心鬼は、とても有用だとは思いませんか?

 御影みかげ中佐から報告を受けていると思いますが、先月、僕らが捕縛した英国の諜報員――彼も僕らと同じ心鬼で、心鬼は英国では〈Phantom〉と呼ばれているそうです。彼によると、英国には心鬼の特殊部隊が存在していて、心鬼は先の大戦にも投入され、戦果を上げていたと。西部戦線にいたこともあると、彼は話していました。現在僕らと協力関係にある他の諜報員の方も、概ね同じことを言っていましたので、信憑性はあるかと思われます。彼らが盗み出した陸軍の暗号表と、各部隊の編成、人事異動、装備に関する情報、それから対独の外交戦略……御影中佐と確認しましたが、内容に誤りはありませんでした。気をつけられた方がいいかと……心鬼には、ほとんど対応の仕様がありませんが。

 僕は、英国に倣い、心鬼の部隊を立ち上げることをここに提言します。僕らは、国にとって有益な情報をもたらす耳目にも、仇なす敵を攻め滅ぼす武器にもなれる。必ずお役に立つと、約束しましょう。部隊設立の暁には、国内の心鬼を集め、戦力を拡充し、同時に、部隊員への教育も行う所存です。心鬼の中には、その性質から人間社会に馴染めず、人間と接することに不慣れな者も多い。僕ら心鬼が人間と同じ生活をし、共に生き、人間のために力を使うことが、お互いにとって最善の、平和的な道ではないかと僕は思います。

 もし、僕の話を信じていただけないようでしたら――」

 乱暴に机に叩き落とされた拳が、陸軍少佐を名乗る男の声を遮った。得体の知れない二人の助手を左右に侍らせた陸軍少佐は、穏やかに小ぶりなおもてを傾ける。「何か?」

「何もあるか莫迦莫迦しいっ!!」

 怒声を上げ、作戦課長を務める少将は椅子を蹴倒して立ち上がった。

「シンキだの何だのと、訳のわからんことをべらべらと!! 時間の無駄だ!!」日陰の植物のような男の背後、直立不動で瞑目している異端者を睨み据える。「御影みかげ中佐!!」

 陸軍中佐御影伊鶴いづるは沈黙を守った。その隣の吾妻あづま大尉も姿勢を崩さぬまま、直属の上官に倣っていた。二人に抗命の胆力を与えていたのは、半分が旧態に固執し続ける者たちへの反骨心で、残る半分は諦観だった。「呼ばれているよ、御影中佐」無視した。

「情報戦の新たな一手だと、変人が何を持ってくるのかと来てみれば……御影中佐は、そのシンキだとか言う比良少佐に毒されて、精神に異常をきたしているに違いない」

 徐に腰を上げながら、主計将校が続く。「能が趣味だとは聞いているが、熱心なお弟子さんを持ったことだ。こんなところまでついてくるとは。そちらのお嬢……は、ご親戚かな?」

「ちがーう。御影のおじさんはおこづかいくれる人〜!」

 赤いワンピースの少年はにんまり笑って振り返った。「ね〜」

 御影のおじさんは黙秘した。晴天と隔てられて淀む空気に侮蔑が滲んだ。

「俺は帰るッ!!」

 作戦課長は怒鳴り声を叩きつけて踵を返した。数名がそれに従った。

「おい」その背にざらついた低音が投げかけられる。「比良さんの話、まだとちゅーだろ」

「な――」あまりの不敬に、陸大卒の少将は振り返る。が、こちらに視線を据える霞のような男の隣に、鮮烈な赤いワンピースはいない。

「さいごまで聞けよ」

 進路を塞ぐように、少年はドアの前に立っていた。不出来な粘土工作のような笑みの中、爛々と光る目が、五十年配の男を獲物と見定める。

 戦場で味わったものとはまた違う、被食者の恐怖に駆られ、男は思わず抵抗の手を伸ばした。

 ――華奢な肩口に触れた瞬間、右手に激痛が走った。見ると、掌が肉厚の刃物で斬りつけられたようにざっくりと裂けていた。鋭い痛みを伴う裂創は袖の中、肘のあたりまで続いているようだった。

「あは、」床に滴った血を映し、捕食者の瞳がぎょろりと蠢く。「わかった?」

 手負いの人間は、その楕円の双眸の内に決して理解し得ぬ人外のことわりを見た。流血は止まなかった。苦痛に呻き、腕を押さえる。彼に続こうとした者たちが血相を変えて群がる。負傷した将官は横たえられた。不可思議に刻まれた傷跡の全容を知るには、傷一つついていない衣服を脱がせなければならなかった。

「どういうことだ御影中佐」惨事から目を背けるように、主計将校は向き直る。

 陸軍中佐御影伊鶴は知らぬふりを決め込んだ。抑圧された声は、理不尽への怒りと恐怖に震えていた。どうやら化生が異界に潜る瞬間を目撃してしまったらしい。

 怪しい活動の予算を請求される時とは逆に、主計将校は情報将校に詰め寄った。

 その進路に、能面の青年が庇うように割って入った。

「何だ貴様は。面も取らずに、ふざけているのか」

 声音を荒らげると、年季の入った小面の下からぼそぼそと声。

 ――比良さんのお話、まだ終わってへんのですけど……落ち着きのない方ですね……

 ――赦しません。

 誰からも入隊を望まれるであろう恵まれた肢体を持つ青年は、緩慢に肘を持ち上げ、妙に婀娜っぽい仕草で面の紐を外した。小面の下から溢れるように漂う濃密な香。面の影に顔半分を隠したまま男の耳元に唇を寄せ、ほ、と息を吹きかけた。

 ――突然扉とは逆の方向に走り出したかと思うと、主計将校はそのまま窓を開け下に落ちていった。幸いにもここは二階。茂みの枝葉が折れる音を聞きながら、陸軍中佐御影伊鶴は少しでも期待してしまった己を恥じた。

 がらりと開け放たれた窓辺から、眩い文月の陽光が注いでいた。窓の形に切り取られた青空。夏風がふわりとカーテンを揺らす。室内は混沌と化した。

 競り売りの如き責任追及の声。情報将校は応えない。冷静な者は外に助けを求めるべく出入り口を窺うが、不敵に笑った赤い魔物が通せん坊をしたまま動かない。腕を真っ赤に染めた将官の苦悶の呻き。主計将校は窓から飛び出していったきり帰ってこない。

「お静かに」少佐を名乗る男は柏手を打つように長閑に手を鳴らした。

 喧騒は止まなかった。中天に昇った太陽が、大日本帝国陸軍人らの狂騒を見下ろしていた……

 ――気がつくと、皆して南の島の浜辺に立っていた。

 窓から落ちた主計将校も、いつの間にやら水際みぎわに打ち上げられている。爽やかな夏の風は、粘りを帯びた潮風に変わっていた。潮騒が揺籃ゆりかごのように安穏と反復する。

「僕らは、役に立ちます。どうか、仲間に入れてくれませんか」

 陰影を際立たせる眩い光の中で、幾重もの韜晦に煤けた瞳が、親しげに細められる。

 誰かが「考える」と言うまで、将校らは燦々と輝く灼熱の太陽の下、額に汗かきながら立ち尽くしていた。

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