終章

 雨の似合う男は、紫陽花の咲く季節に現れた。陰鬱な雨の降り続く、去年の梅雨の事。

「――こんばんは、御影中佐」

 雨の中、誰かの独言だと思っていた声に自分の名前を聞き、足を止めた。振り返ると、雨夜と同じ色調の着物姿の男と、目に痛い赤色のワンピースの少女が一つの蝙蝠傘の中で身を寄せ合っていた。

 親子、ではなかった。

「神波君、こんばんはは?」自らの懐に入って羽織の両衿を持ち、翼のように羽ばたかせている少女に男は囁いた。

「こーんばーんわー」

 粗いやすりをかけたような高音。九官鳥のように真似をして、おかっぱ頭は男の衿を引っ張ってその中に包まった。にぃ、と口角を上げる。こちらを獲物と狙い定めているかのような、良い心地がしない笑みだった。

「どちらさまで?」

「僕は、比良景仁と言います。こちらは助手の神波君です」寝起きのような声だった。

「かんなみミツキ〜」

「です」

 でーす。間延びした語尾を付け加え、比良という男の衿を持ったまま、少女は身を乗り出す。その胸に膨らみがないのを見て、御影中佐は神波が男だということを悟った。

 怪訝に二人組を見遣る。女装した少年が助手? 二人まとめて医者や研究者には見えず、かろうじて冴えない文士といった風情だった。中性的で陰間みたいな子を連れて、一体何を書くのだろう。

 四十年配の男は、奔放な神波少年に好き勝手されていた。気に留める様子もない。恋人同士というより、多動な親戚の子の面倒を見させられている風だった。少年の後頭部が鼻に当たり、比良は呻いた。

「鼻血が出た」

「あは、はなぢ〜」

 神波が伝った血をべろりと舐め取ったのを目撃し、御影中佐は眉を顰めた。何故自分が呼び止められたのだろう。人違いのような気がしてならなかった。

「私に、何の御用でしょうか」

「諜報活動や戦争における、僕らの有用性を認めてもらいたくて。調べてみたら、御影中佐が適任かなと」

「わるぐちいわれてた。あいつはてーこくりくぐんじんにあらず!!」

 帝国陸軍人に非ず。大声で指差した神波を、駄目だよ、と比良が注意する。

 普段は影で流通している言葉を面と向かって言われ、御影中佐は一瞬の驚愕の後、ふん、と鼻で笑った。

「……変人奇人、異端児。卑怯者。そんな私に、君たちは何を売りつける気だろう」

 なんで、と不思議そうに振り返る少年と、め、と首を横に振る保護者。奇妙な二人組に興味が湧いた。薬をやっているか、もしくは自分と同じ変人かの賭け。口の端を右側だけ吊り上げ、返答を促す。

 比良がこちらを向き、笑むように目を細めた。二重の折り込みの顕な瞼の下、黒硝子の瞳に感情の影は見られなかった。

「実演した方が早いので」神波を押しながら歩み寄った比良は、徐に手を差し出した。

「えらそーなおじさんたちのわるくちか、ボクがすんでたみなみのしまか。ひらさんがみせてくれるよ」

 どっちがいーい? 間に挟まれた神波が首を傾げる。人というよりは獣のような、爛々と光る目をしていた。

 催眠術の類か。胡散臭いことだ。皮肉屋の笑みを浮かべ、御影中佐は比良と握手を交わした。「――では、どちらも」

 あはは、と神波は笑った。「ひらさん、ボクも!!」

 うん、と比良は頷き――視界が暗転した。

 ――太陽が燦々と照りつける南の島の浜辺では、参謀本部の将校たちが延々と陸軍中佐御影伊鶴いづるへの罵詈雑言を垂れていた。いくつかの小集団を作って議論を交わす様は、まるで立食パーティーのよう。彼らの肩に乗った階級章の星々に、眩いばかりの夏の日差しが降り注いでいた……

 おーじさーん。その滑稽な景色の向こうで、神波が手を振っている。通りがかりの船を見つけた遭難者のように、嬉しそうに。半笑いで振り返して、御影中佐は我に返った。何も映さない煤けた鏡のような目が、夢からの帰還者を見つめていた。

「どうでしたか?」

「まさか……ふふ、莫迦莫迦しい。実に莫迦莫迦しい……」

 思い出し笑いを堪えながら、そう答えた。料理屋の脇。まばらな通行人には飲み過ぎたところを比良に介抱されていると思われているに違いなかった。

 呼吸困難を起こしている背を摩りながら、比良は続ける。

「僕らは、鍵のかかった貴方の御宅に入ったり、姿を消して別の世界を移動して、また現れたり。他にもいろいろできます。神波君は証拠を残さずに人を殺せます」

「それは本当か」

「信じていただくために、実演しましょう。神波君、出番だよ」

「人は殺すな」

 その後比良と神波は全ての戸を施錠した御影邸にいとも容易く侵入し、邸内で壮大な追いかけっこを演じた。帝国陸軍人の本気をもってしても、二人を捕まえることは叶わなかった。二人は自在に姿を晦ませ、転瞬の間に敷地の端から端へと移動した。偶然その様子を目にした女中が精神を病んで、暇を取って国に帰った。

 ――そうして、比良景仁とその助手・神波ミツキとの付き合いが始まった。


「こんにちは、御影中佐」

 三雲書法会の門で待っていた比良少佐を一目見、空を仰ぐ。雨雲が去った、快晴の空。この男に太陽は似合わないとつくづく感じた。

 自分と同じく背広姿の吾妻大尉を後ろに伴い、暗色の羽織の背について小径を歩く。黴臭く、しみったれた裏屋だが、小径の脇の紫陽花だけは見事だった。

「本当に捕縛したのか」

「ええ。吾妻大尉からの報告の通り。今からご覧に入れます」

 薄暗い廊下には血混じりの異臭が漂っていた。奥の間の前では神波と、今年の二月に加わった五色が待っていた。軽く挨拶をして、二人は比良のために道を開けた。

 五色の纏う香木の香で鼻が改まった途端、消毒液の臭いが鼻を突く。部屋に近づく程濃度を増す血の臭気。肉が腐った臭いもした。あまりの悪臭に、手の甲で鼻を塞ぐ。

 どうぞ、と比良が襖を開けた。

「彼は、英国の機関に所属する心鬼です」

 あちらでは、心鬼は〈Phantom〉と呼ばれているそうです。補足した比良が手で示した金髪の男は、腿の半ばから下がなかった。

 腕も、右は手首から先が、左は肘から先が欠けていた。うつ伏せに寝かされた身体に治療の痕跡はあるが、包帯には血が滲み、敷かれた布団はあちこちに血が散っていた。

「こいつがあちらの機関に所属しているという証拠は?」

「今から話してもらいます。通訳は必要ですか?」

 いや、と答えた。比良は心鬼だという男の枕元に正座して、その頭に両手を添えた。

 ――No嫌だ, I don't地獄に wanna堕ち go to hellない!!

 ――Oh嗚呼, God神よ. Whyどうして have僕を you見捨て forsaken給う me!?

 ――Please僕に give音楽 me music返し back...

 ――Save me, please... Nightingale小夜鳴鳥...

 異界に逃げないようまじないの釘を刺され、呂律の回らぬ舌で男は叫び、懇願した。

 比良は穏やかな調子で質問した。男が答えないと、幻を見せて発言を促した。どんな地獄を見せられているのか知れないが、男は身を捩らせて絶叫した。行われていることは拷問に違いなかった。

「――どうです、御影中佐」

 英国には〈Phantom〉を養成するための機関がある。機関が正式に設立されたのは第一次世界大戦後だが、その前身の組織に所属するPhantomは試験的に欧州の戦場に投入され、成果を上げた。機関員の総数は不明。Phantomを指揮する優秀な指導者が存在し、有効利用のための研究が進められている――

 御影中佐は年季の入った天井を仰いだ。「……ついにやってくれたな」

 ――貴様ら心鬼という存在が国家機関に与するに値すると主張するのであれば、その証拠を示せ。諸外国ではどうなのだ。有用性が証明できたら、私が本部と掛け合ってやろう。

 諜報活動すら疎まれるこの国で、まさしく超常の存在である彼らが認められることは不可能。情報将校一人が有用性を解いたところで笑われるだけだと、難題をふっかけた。

 しかしこのぼんやりした、気の抜けた男はその難題を解いてしまった。他国の、その上同類の諜報員を捕らえ、参謀本部も欲しがる有益な情報を吐かせた。

「よろしい。私が貴様らのために一肌脱いで、席を設けてやろう。正直、腹を切る覚悟だが、約束は約束だ」

 比良は形だけの微笑みを作り、ありがとうございます、と丁寧に頭を下げた。

「御影中佐、」

 吾妻が気遣わしげに上官を見遣る。――失敗すれば、本部での居場所を失う。

「心配するな吾妻。もし駄目だと言われたら謀反を起こす。実力行使で説き伏せる。比良少佐、南の島を用意しておけ」

「神波君と五色君もいいですか?」

「いいぞいいぞ。みんなで行こう」半分自棄になって笑った。

 ――巨大な車輪が、まさに坂を下り始めた。そんな気がしてならなかった。


     ◇

 

「怪我の方は大丈夫かな。僕の血は、元気にしているだろうか」

「その節はどうも。赤血球ならまだ元気にしていると思います」

 そう。陸軍少佐らしい比良景仁は、他人事のような返事をした。

 紫陽花の咲く小径を行きながら、見上げた空は青い。雨雲の日々は夏と接していた。

 裏店の、陰気臭い家。逃亡を決意した梅雨、ついに辿り着けなかった比良の拠点に、早乙女は招かれていた。電話を取り次いだ梅子に賄賂を渡して、義兄には黙って家を出た。久しぶりの外出だった。

 清司にあれこれ教えていたことが功を奏し、殺戮者に切り刻まれ血みどろになった早乙女は、義理の甥の献身的な治療の結果、無事に生還することができた。復活に比良の血液が用いられた事はあまり考えたくはないが、いまだ幻覚等の後遺症が出ていない事から、心鬼の血も人間と同じように扱って問題はないのだろう。多分。

 ただ左右まとめて刺し貫かれた手だけは、以前のように動かすことができない。脱いだ靴を揃えながら、手袋を外すことのできない両手を不便に思う。

 教会の扉を蹴り開け義兄が登場したあの後、早乙女を切り刻んだ犯人がどうなったかは知れない。切り裂きジャックはぱったりと帝都から姿を消し、こっそり清司に訊いてみたが、「知りません」。義兄には質問する事ができなかった。

(……国に帰ったのか? それはそれで困るけど。また来そうだし)

「――早乙女さんのご友人が、ここにいるのだけれど」

 案内しながら、比良が切り出す。廊下を満たす闇は自宅のものと比べて湿度があった。家の奥からは異臭がしていた。

「友人?」怪訝に訊き返す。前を行く背から真意は読み取れない。

「彼は早乙女さんのこと、友達だって言ってたよ。

 重傷だったから清司君に処置してもらったけれど、身体より、〈心〉の傷の方が深いみたい。大分弱ってきているんだ。まだお話ししたいから、会ってあげてよ――小夜鳴鳥ナイチンゲール

 早乙女の返事も待たず、比良は奥の間の襖を開けた。

 部屋の隅に置かれたラッパ型蓄音機が、音だけは控えめに、騒々しいテンポのジャズを垂れ流していた。元気にならないね。花の調子を案じるように、比良は口にした。金管の喧騒は、白い薔薇の養分には成り得なかった。

 消毒液がつんと香る中、早乙女は琥珀の双眸を伏せた。陽の色の前髪の下、青白い瞼は閉ざされたまま。荒れた唇の隙間から、かろうじてその生存を示すように掠れた息が漏れていた。

「僕は、早乙女さんともお話しがしたい。少しだけ、僕らに協力してほしいんだ。早乙女さんのことは、黄泉坂君には、秘密にしておくから」

(……悪魔ザミエルは、この人だったんだ)

 魔弾の射手の弾丸は、六つ目までは射手の望む所へ。ただし七つ目は、悪魔が照準する的を撃ち抜く。

 魔弾の射手の犠牲者は六人。放たれた全ての弾は過たず、射手の望む的を――青年将校らの頭を撃ち抜いた。しかし七発目。奇しくも切り裂きジャックの頭部を狙った弾は、外れた。

 悪魔の思惑通りに。〈Phantom〉の情報を欲する比良景仁の、望むがままに。

「もし、僕が拒否したら?」視線を落としたまま、早乙女は問う。

「それは考えていなかった。どうしようかな……

 じゃあ、君がやられて一番困る事をしよう」

「たとえばどんなことを?」

 心鬼は、雨を媒介に抜き取り、入手した情報の裏付けをするように、明確に発音した。

「黄泉坂君に、協力してあげる。黄泉坂君の〈憎悪〉を、終わらせてあげる」

 ――その〈心〉に終止符を打つ。言外の意図を察し、早乙女は黙した。

 比良は異国の色の混じる顔立ちに、人間らしい悲痛を読み取った。労わるように化生の瞳を細め、ゆるりと口角を上げる。堪えるように肩を震わせ、

「っはは、あはは、あはははははははは!」朗らかに哄笑した。

 しかしそれもつかの間、目の前の人間が驚愕に目を見開くのを確認し、何事もなかったかのように笑みを取り下げる。「神波君の真似」

「……僕は神波君を知らないので、残念ながら評価はできません」

 呆然としたまま、早乙女は心臓に手を遣った。嫌な音がしていた。

「我ながら、よく似ていると思うのだけれど」比良は満足したように一つ頷く。

「さすがに僕も、黄泉坂君の背中を押してあげるようなことはしないよ。僕らは友達だし、同類は争うべきではないと、僕は思うから」

 早乙女は敵意を込めて、同じ高さにある化生の顔を見た。悪魔の姿は、得体の知れぬ幻影のように揺らいで見えた。

 人の子の心を見透かすように、比良は瞼を半分降ろした。

「悪いようにはしないよ。友達と、その家族に危害を加えたりはしない。帝国陸軍に所属する軍人たるもの、民間人には優しくしないと。

 君は、僕と少しお話しをして、そこの彼を、元気づけてあげるだけでいいよ。彼、君の歌を聴きたがっているから。神波君じゃ駄目みたい」

 よろしくね。比良は部屋を出て、ストンと襖を閉めた。足の小ささを思わせるしめやかな足音が遠ざかっていく。

 早乙女はしばし襖を睨みつけ、それから静かに壁際を伝い、蓄音機を黙らせた。

 蒼天の瞳が僅かに開き、虚空を彷徨う。

 ――小夜鳴鳥……? 乾いた唇が、無音の言葉を紡いだ。

 早乙女はその枕元にしゃがんだ。冷めた瞳で見下ろせば、幽鬼は安堵したように表情を緩めた。神と地獄がその在り方を縛る前の純粋な、赤子のような表情だった。

「……莫迦だねぇ……」

 小さく零した。肘を膝に置いて、両手で頬杖をつく。鳥のように唇を尖らせ、

「お前なんか人を殺せないよう部屋に閉じ込めて、一生ピアノ弾かせてりゃよかったんだ。神様なんかいないんだし……いるのは悪魔だけだから……お前はそれすら知らずに、あいつらにも見つからずに、永遠、死ぬまでピアノ弾いて生きてりゃよかったんだ。お前はそれで幸せだったんだよ。人も死なずに世界平和で、円満解決で、僕の手も、サンドウィッチにならずに済んだ……性的嗜好の歪みはどうしようもないけどさ」

 愚痴のようなものだった。口を尖らせたまま、目を瞑る。大層間抜けな顔をしているに違いなかった。

「――僕も降りられたらいいのに、」無性に、煙を吸いたい気分だった。

 爪先をとん、と叩かれ、下を向く。

 歌って。舌に釘刺された化生は、無声音で発する。急かすように、手首から先を失くした右腕で、小鳥の足に触れる。

「嫌だよ」

 きっぱり言うと、同い年の男の顔にぽっかり空白が浮かんだ。素の表情の種類は、乳飲み子とさして変わらない。

 止まり木から飛び立つ鳥のように、早乙女は膝を伸ばした。傷が開かないよう注意しながら、くぁ、と背を反らす。

「僕が歌うと、お前が元気になるから。僕はもう殺されかけるのは御免だし。お前の好きなリストのレコード差し入れてやるから、それで我慢しな」

 あばよ。早乙女は後ろ手に襖を閉めた。


 また来てね、早乙女さん。比良とその傘下の二人に見送られて、早乙女は紫陽花の咲く鬼の巣を後にした。手は振り返さなかった。

 上野駅でタクシーを降り、ぶらぶら歩いて家路に着く。雨と一緒に二大殺人鬼の影は去り、帝都は安穏と、夏に向けて支度を進めていた。気の早い風鈴の音が、凛、と耳に届く。

 ふとその気になって、帰り際に渡された品を鞄から引っ張り出した。これ返すね、と比良から手渡された二つ折りの紙は、不吉な呪いが書き綴られているに違いなかった。

 幸い家の近所で、何かあっても誰かが気づくだろうと、薄眼を開けて中を覗いた。最初に目に入ったのは、意外にも流麗な筆致の居候のサインだった。

 ――戒めとしなさい。耳に蘇った声に、早乙女は自省した。

(そりゃ悪魔も来る訳だ)

 居候の力作を鞄にしまい、動作の鈍い手で難儀して煙草に火を点けた。願えども空の浮雲にはなれない白い煙が、蒼空へ溶けていった。

「おーい、シロっ」

「シロちゃーん、こっちー!」

 子供らの声に引かれてそちらを見れば、塀の上に、見知った白い姿があった。首輪代わりにピンクのリボンを巻いた仔猫は、早乙女を見つけ、み、と鳴く。挨拶だけして、心地よさそうに丸くなった。

 夏めいた空の下、季節外れのたんぽぽの綿毛は平和に呼吸する。人間の複雑な事情とは、彼女はどこまでも無関係だった。

(ありがとう。ミィちゃん)

 脳裏に愛猫の勇姿が蘇る。理由は不明だが、白い毛の生えた獣を、悪魔は病的なまでに嫌った。かつて食事にされかけた時も、早乙女は気まぐれに通りすがった白猫に救われた。神など信じないが、黄泉坂子爵邸を宿に選んだ白い仔猫には、運命的なものを感じざるを得なかった。毛玉をお守りにすべきだろうか。早乙女は真面目に考える。

 無視をされても、子供らはシロ、シロ、としきりに名を呼んでいた。

(……うちではミィちゃん。君はそれでいいんだよ)

 輪にした煙を吐き出す。愛猫の別称を背に、早乙女は歩き出した。


     ◇


「うわっ、毛がすごいな」

 干した布団を叩くと、晴天の明るい光の中に無数の毛が散った。反対側で籐の叩きを振るう清司は用意周到で、ハンカチで鼻口を覆っていた。

 母屋の方でガタガタ音がして後ろを振り向くと、黄泉坂が縁側を閉鎖しているところだった。

「毛が入る。閉めてからにしろ」

 そう抗議する間にも猫の毛は綿毛のように宙を舞っていた。何ともないのをいい事に、わたしは布団叩きを旗のように振って空気をかき回す。白い毛がきらきらと陽に輝いて、幻想的な光景だった。

「遊んでいないで手伝え、居候」

「そんなに毛が気になるなら追い出したらどうですか? 黄泉坂さんとわたしには全く懐いてくれませんし」

 言いながら加わって、建具を引きずる。先立って家主を手伝っていた清司が、訴えるようにその横顔を凝視する。

「黄泉坂さん。毛はぼくと早乙女さんが責任を持って片付けます。ミィちゃんは早乙女さんを助けるために勇敢に敵を威嚇し、隙を作り、撤退させることに貢献した忠猫です。居候の梅子さんとは違います。追い出さないでください」

「あんな仔猫に威嚇されたくらいで驚く敵も敵だ。大体、あいつもわたしと同じ居候だろう。気まぐれにみぃみぃ鳴いてるだけの猫畜生と違って、わたしは飯も炊ければ掃除もできるぞ」

「ミィちゃんは猫です。気ままにご飯を食べて、寝て、その愛らしさで世界の平和に貢献するのが役目だと早乙女さんがおっしゃっていました。梅子さんと一緒にしないでください」

「清司も早乙女も猫に甘すぎるぞ! わざわざ魚市場まで出向いて新鮮な魚を買ってきたりだとか、まるで下僕じゃないか! 黄泉坂さん、うちがあの猫畜生に乗っ取られるまえに追い出しましょう。このままでは清司も早乙女さんも駄目になる。いや、もう手遅れです」

 好かれていないからと追い出そうとするのはよくない事だと考えます。清司の真っ当な抗議を無視し、わたしは家長に嘆願した。

 黄泉坂は左手で建具を滑らせる。

「……猫の寿命は知らんが、それなりに生きるのだろう」

 それだけ言って、閉めるついでに家の中に入ってしまった。猫の立ち入らない安全圏たる自室に籠るようだ。

 家主の言質を取れなかったことに、わたしは歯噛みする。ミィちゃんの居住権を確保した清司は一つ頷いて、布団叩きに戻った。

 清司と一緒に寝具を乱打し終え、溜まった洗濯物を干す。風に乗り損ねた毛の一本が空中に漂っているのを見つけ、梅雨に見失った早乙女とミィちゃんの絵を思い出す。身動きが取れないのをいい事に満身創痍の早乙女はたくさん描いたが、木乃伊のように眠る早乙女は、いつもわたしを莫迦にしているのと別の存在のような気がしてならなかった。

 帰ってきたらまた挑戦してやろう。比良に呼び出された早乙女の身を案じつつ、わたしは新しい絵の構想を膨らませた。部屋には早乙女の監視と引き換えにせしめた半畳ほどのカンバスがあった。


     ◇


「どうしてハナさんが一人で先に帰って来て、お父様が夜中に帰ってくるのさ」

「不覚にも迷子になってしまってな。なに、俺は大分遅刻したが、俺もハムさんも無事に帰ってこられたんだ。完成した餡パンも美味しい。問題なしだ」

 鎖々戸新太郎は朗らかに笑って、昨日の深夜に完成した手作りのパンを齧った。時刻は既に十一時を回っていた。すっかり高く昇った太陽の下、親子はバルコニーに設けたティーテーブルに座って、遅い朝食を摂っていた。

「好い日だ。雨は昨日の晩に降ったので全部だったのかもしれないな」

 呑気に言う嫡男のカップに紅茶を注ぐ執事は、目の下に隈をぶら下げていた。彼に限らず、侯爵家長男に仕える者の多くが寝不足に違いなかった。次期当主が夜遅くに帰って来たと思ったら、餡パンを作ると言って聞かない。寝支度を済ませる夜中まで付き合って、しかし朝はいつも通り。睡眠不足を押して働く使用人たちをよそに、親子は遅くまで、同じベッドで熟睡していた。

「このまま晴れが続くといいね」

 修司は自宅の広大な敷地を眺めた。ふと目を戻した先、父の手の甲には、小さな裂創があった。

 父はぼんやりと、空を見上げていた。心持ち切れ上がった黒曜石の瞳は、どこか虚ろだ。

「……お父様?」

「――ああ、昨日は夜遅くまで起きていたからな。少し、眩暈めまいがする。寝不足なのかもしれない」

「ええ、大丈夫なの? 十時まで寝ていても足りないんだね、お父様は」

「夜更かしなんて、慣れないことをしたからかもな。次は早起きして作ろう」

 また作るの? 修司は呆れて言ったが、父と一緒にパンを焼くのは嫌いではなかった。

「ちょっとぱさぱさしてるけど、美味しいね」

「修司と俺が作ったんだから、美味いに決まっている」

 父は息子を見つめ、優しく笑った。可愛い奴め、と手を伸ばし、修司の頰からすくい取った餡を舐めた。

 頰を染めながら、こんな晴れた幸せな日々がずっと続けばいいと、修司は願った。

 あ、と。父は声を上げた。悪戯めいて笑み、

「そうそう、昨日言いかけた話だが、この前の、えー、桜でも梅でもなくて……桃子さん。彼女のお爺様が、是非ともうちの桃子を修司にどうかと言っていてな。修司がいいのなら、それで話を進めようと思っている。桃子さんの御家にはうちも大分お世話になっているし、修司と桃子さんが上手くいけば、両家とも安泰だ。早いと思うかもしれないが、俺は愛する修司に自分と同じ道を歩ませたくない。親から結婚はしないのか後継ぎはまだかと何度も催促されるのが煩わしくて仕方なかったからな。

 ――どうだ、修司。無理強いをするつもりはないが、彼女と会ってみないか?」

 修司ははにかむように視線を伏せた。「……ぼく、会ってみたいです」

「そうかそうか! ふふ、これは早く連絡を差し上げないとだな」

 美貌に喜色を広げ、父は早速電話をかけようと腰を浮かせた。「修司、明日と明後日の予定は空けておけよ」

「ちょっと、早すぎるよお父様」

 電話室へ駆けていこうとする父の腕に縋りながら、見せかけの羞恥の裏で、修司は顔もろくに覚えていない少女との再会を心底面倒に思った。

 それでも父の幸福に繋がるならばと、修司は父に背中を押される振りをして、電話口で桃子と他愛ない言葉を交わした。声を聞いても、顔は浮かんでこなかった。

 今年の晴れた夏の日々は、きっと短いに違いなかった。


     ◇


「――辿を殺したのは鎖々戸新太郎で、君はその実子だ」

 声に反応して、血の繋がらぬ甥は無機的な造りの顔を上げた。膝の上に広げられた帝都新聞は、鎖々戸侯爵家の長男・新太郎と、忽然と現れたその隠し子の、遊学先での暮らしぶりを伝えていた。

 皐月の陽光すら他人事のように遠い、子爵家の暗い居間。向かいのソファで、黄泉坂は辞書の掠れた表題に目を落としたまま続ける。

「君の弟は、育ての父を殺した実の父たる悪魔に、そうとは知らずに養われているのだろうな」

 仮の親から愛を享けても、所詮は郭公カッコウの雛。掛けられた恩も知らず、同じ顔をした親の元に帰る。本当の親元で、雛は托卵先では決して得ることのできなかったであろう幸福を享受していた。

 裏切りだった。育ての父のかつての決心への。肉親を捨ててまで貫いた愛への。同時にそれは、捨て置かれた血縁に対する、信義厚き行為だった。弟を連れ去る者共に抱いた兄の憂惧を、その血の繋がらぬ子は十全に再現していた。

(あの時、殺しておけばよかったのだ。奪われてしまう前に、あの女ごと)

 黄泉坂は顔を上げる。不義の結実として生を受けた美しい顔立ちは、真っ直ぐに血の繋がらぬ伯父を見つめていた。

「君に、父を殺した悪魔への憎しみはあるか」

 他ならぬ悪魔の血を引いて売女の腹に宿り、鬼から唯一の血縁を奪った子に問う。

 いいえ、との返答があった。

「ぼくには、心がありません。だから、誰かを憎む心もありません」

 透徹した声は真実であり、憎悪の鬼がその存在を憎めども殺せずにいる理由だった。

 拇指を握り込んだすべらかな手を見て、黄泉坂は化生の双眸を伏せた。

「……私は、辿を殺した鎖々戸新太郎を憎み、その血が流れる君たち兄弟を憎んでいる。私は、辿を失ってしまった私は、最早何かを憎むことでしか生きられない……そういう風に生まれついた、人でなしだから。

 私はいずれ、この憎悪を、鎖々戸新太郎と同じように君の弟にも向けるだろう。君の弟は、私ごと君を憎むだろう。それでも君が、辿との約束を守ると言うのなら、君は、私の隣に居るといい」

 ――その約束の為に、憎悪の鬼を討つといい。心の内に言葉を留め、黄泉坂は微かに自嘲した。愛する弟の遺した後悔は、どのような形で兄を貫くのか。捨てた血縁を想うが故の後悔も、求めた種類とは違えど、つまりは愛だった。

 わかりました、と清司は答えた。

「ぼくは、父との約束を守るために、黄泉坂さんと一緒に居ます」

 それ自体が認印のような迷いない返事に、思わず苦笑した。

「……君が辿を父と呼ぶのなら、君は、黄泉坂を名乗りなさい」

 本来の八重垣清司は鬼籍に入っているため、形だけではあるが。いつまでも忌々しい苗字を口にされるのも嫌で、黄泉坂は弟と自分の家の名を与えた。

「では、黄泉坂清司と。外では、お父さんとお呼びした方がよろしいですか」

 首を傾げた養子を、いや、と首を振って拒絶する。

「私は君の父親でも、伯父でもない。辿の兄で――それだけだ」

「では今まで通り、黄泉坂さんとお呼びします」

 清司が返した時、部屋の外で、瓦礫をひっくり返したような騒音がした。

 二人して居間を出ると、廊下には白髪頭の青年が。その足元で横転している箱からは、鎧やら兜やらがはみ出していた。

「……何をしている」

 声を掛けると、青年――御匣梅子はぎくりと身体を強張らせ、恐る恐る振り返った。

「家の掃除をしていたら、五月人形を見つけまして。端午の節句も近いですし、清司の健やかな成長を祈って飾ってやろうかな……と考えておりました」

「あーっ、やっぱり梅子君やらかした! 征君に言いつけてやろ……ってもう見つかってるし」廊下の角から同じく箱を抱えた早乙女が姿を表す。

「見てよ征君。とっくの昔に処分したと思ってたけど、鯉幟、と梅子君が落として安否不明の五月人形。開かずの間の押入れに残ってたんだ。売ろうかとも考えたんだけど、清司君もいるし、せっかくだから飾ろうよ」

 赤銅色の髪の義弟は、長さだけはある廊下に箱の中身を広げた。

「ここ三人兄弟だったから子供の鯉が三匹もいるんだよね。親も合わせて合計五匹。こんな立派なの人数分用意するなんて、やっぱり元武家の見栄かな」

「こんな飾りを掲げることに意味など見出せなかったが……養子は数に含めないのだなと、子供心に思ったものだ」

 どうして俺と兄貴の分はないの。悲しい顔をする弟に、紙で自分たちの分を作ってやったことを思い出す。粗末な二匹の鯉が泳いでいた離れも、今はもうない。

「あっ、早乙女さんが無配慮な発言を」鬼の首を取ったように、梅子は喜色を浮かべる。

「ご、ごめんね征君……」きろりと居候を睨んでから、元書生は手を合わせた。

「もう三兄弟もいないし、征君と僕と、清司君と、居候は数に含めるかは知らないけど、飾ろうよ」

 勝手にすればいい。黄泉坂は答え、その年から、五月の黄泉坂子爵邸の居間は鎧飾りに圧迫され、その上空には四匹の鯉が泳ぐようになった。

 大正二十四年も同様で、雨の気配など微塵もない晴れ渡った皐月の空を、大小四色の鯉は悠々と泳いでいた。


了  

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