六章


 異界から苛虐を受けた義弟の面倒は、彼の技術をそのまま受け継いだ青年が見た。戸籍を持たず、立場だけは養子として扱われる幽霊のような存在に何か思うところがあるのか、書生時代に医学を修めていた義弟は形式上の甥に持てる芸を全て教えていた。

「一度目を覚まされた時に比良さんの血を輸血した旨をお伝えしたところ、心底嫌そうな顔をしておられました。相当嫌だったのだと考えられます」

「……だろうな」

 心鬼の、しかも比良の血を入れられて、命が助かったことを素直に喜べる方がどうかしている。言動に異常をきたさないか、幻覚を見ないか。まず後遺症を懸念すべきだ。

 昼間破壊された襖の所から室内を顧みれば、血の提供者含め心鬼が三匹。比良は血が減ったからと残りの羊羹を口にし、その横で神波は延々と注射の感想を求めている。比良を挟んだ反対側で、五色はもじもじと身体の具合を伺っている。比良は羊羹を食っている。

 目を戻せば、清司は自分の菓子が他人の腹に収まる様子をじっと監視していた。

「また買ってくればいい」

「いつもより、少しいい物を買ったんです」

 言葉の羅列には含みがあった。この心鬼は感情を持たないが、「つっかかり」を覚えることはあるらしく、言外に表出したそれは、聞く者の思考の中で補完される。――楽しみにしていたのに。

 養子の無音の抗議を聞き取り、黄泉坂は言った。「襖と一緒に弁償させる」

 よろしくお願いします、と清司は事務的に応えた。

「――早乙女さんは、上で寝ているの?」

 常から夢見心地でいるような声。見れば、比良は虚の両目を虚空に据えていた。上の空の顔つきは、この世の裏に意識を向けていることの証左だった。

 応えないでいると、沈黙を肯定と取ったのか、心鬼は前を向いたまま続けた。

「僕は、早乙女さんとお話がしたい。なるべく早くがいいんだ。逃してしまったPhantomの分も、聞きたい事がいっぱいある。早乙女さんのお話は、きっと、僕らの役に立つよ。

 ――ほら、も。初めて見るよ」懐から黄ばんだ白い刃を抜き出す。呪詛のように彫刻が施された柄を握り、唐突に振りかぶる。

「黄泉坂君、避けられる?」比良はまじないの刃を投擲した。同期に向かって投げられたナイフは、何故か逆の方向へ飛んで、居間を出、独楽のように回りながら縁側を滑った。からん、と踏み石の上に落ちたのであろう軽い音が響く。

「危険だ。回収しろ」

「わかりました」

 命じられ、清司が現場の遺留品を拾いに行く。黄泉坂は不思議そうな顔をしている同類を見た。比良は顔はそのまま、ゆっくりと目だけを逸らした。

 悪事が露見した犬のような反応に、呆れて息を吐く。「勝手に物を拾うな」

「回収してきました」

 清司から差し出された呪具を手に取る。持ち主の血を吸った、淡く黄ばんだ刃は存外に軽い――骨か。

 痛みを感じる程度に刃を握り込んで、人の身を化生の本能に落とし込む。異界に潜り込むため、現の肉が炎のように揺らぐ。だが変化はそこで止まる。刃を握る左手を起点に、身体が現世に繋ぎ止められていた。接触している限り、潜没は不可。一度斬り込まれてしまえば、身体を異界に飛ばしての回避も難しい。人骨の釘と同様、心鬼に有効な呪具。比良に持たせておくのは危険。そう判断してベルトに挟んだ。

「あは、比良さん下っ手くそ! 今度キャッチボールして遊ぼうよ」

「ぼ、僕もやりますっ、練習しましょう」

「うん。手投げ弾とか、投げる機会があるかもしれないから、練習しておこう」

 両の袖を掴まれて、比良は頷いた。穏やかな口調に反省の色は見られない。

「貴様は軍人には向いていない」

 黄泉坂は同期に向かって断言した。緩やかに、比良が顔を上げる。昔と何一つ変わらぬ虚の双眸に、感情の影はない。

「……昔、貴様は私が止めるのも聞かず、剣道部についてきたな」

 ――黄泉坂君、剣道やってるんだね。僕らは人の気配に聡いけれど、それって剣道にも応用できるのかな。試してみたいから、ついて行ってもいい?

 絶対に来るな。黄泉坂は拒絶の意を表した。だが、比良は武道場までついてきた。部の人間に追い出してもらおうと考えたが、ちょうど顔を出していた比良の顧客が部外者を快く招き入れた。黄泉坂のノートの写本を勝手に売り物にする比良は顔が広かった。

「うん。覚えているよ。黄泉坂君が僕を滅多打ちにした」

「それは貴様がやれと言ったからだろう。被害者ぶるんじゃない」

 ――黄泉坂君の気配はわかりやすいから、きっと避けられるよ。連続で打ち込んでみて。

 黄泉坂は言われた通りにやった。歴十年以上の振るう竹刀は全て命中し、熾烈な連撃に比良は仰向けに倒れた。身体が追いつかないね。比良は所感を述べた。だろうな、と黄泉坂は返した。少し清々した。

 比良はその後も懲りずに、度々剣道部に遊びに来ては竹刀を振るった。気の抜けた男が振るう剣からは、気の抜けた音がした。上達は見込めなかったが、部員たちはたまに顔を見せるひ弱で厚顔な学生を、人付き合いの悪い黄泉坂への対抗手段として重宝した。

 黄泉坂は不快な記憶を飲み下す。回想に区切りをつけ、続ける。

「心鬼としての能力がどうあれ、貴様は軍人に不向きだ。身体が弱すぎる。運動神経が正常に機能していない。大人しく、そいつらと球遊びでもしていろ」

「そうかな」比良は自分の手を掲げ、眺めた。骨ばった薄い手の表裏を交互に観察する。

「そうだ」黄泉坂は肯定した。一刻も早く、姿を現そうとしている悪夢を砕く必要があった。人の姿を模しただけの化け物の、他ならぬ偽善を前に言う。

「……心鬼を戦争に利用するなど莫迦げている。私たちは、人の道理から外れているんだ。私たちのような化物が力を行使すれば、収集がつかなくなるぞ。貴様はさもそれが、人の世に馴染めぬ同類への慈善であるかのように語るが、私たちは――心鬼は、害悪にしか成り得ない」

 真っ当な人間でありたかったと願えど。抱えて生まれた鬼の心はそれを許さない。誰かを愛せど、結局は本性の為にしか生きられず、死ぬまで何かを憎悪し続ける。

 ――無理矢理それを愛と呼びながら。

 憎悪の心鬼は韜晦の心鬼にその〈心〉を向けた。

「貴様の存在理由作りに、他人を巻き込むな。同類の居場所を作るなどと情け深く宣ったところで、所詮貴様の優しさは偽りだ。弾かれ者を戦争に遣って、要らぬ傷を負わせてやるのが貴様の優しさで、他ならぬエゴだ。同類に情けを垂れる振りをして、自分の空洞を満たそうとするな」

 利用されていることすら知らぬ二匹は、比良の袖を掴んだまま、片方は爛々と光る目を、もう片方は真意の透けない能面を、憎悪の鬼に向けていた。

 比良は小ぶりな顔に僅かに力を込めた。それは極限まで希釈された怒りと不満だった。

「黄泉坂君にだけは言われたくない」韜晦の心鬼は丁寧に吐き捨てた。

「死にかけの同類が、自分と同じ弾かれ者に違いないと確信したから、黄泉坂君は僕に傘をくれたんでしょ。それなら、僕がやろうとしていることも君と同じだよ。居場所を持たない者に、居場所をくれてやる。それが、僕と君のエゴで優しさだよ。自分にも真っ当な人間の側面があるということを信じて為す、偽善だよ。現に僕は君の偽善に救われているし、僕の偽善も、僕ら同類のためになればいいと思っている。

 ――どうして黄泉坂君は、僕の偽善を否定するの」

「貴様の偽善は弊害が大きすぎる。同類一匹を救命するのとは訳が違うんだぞ」

「僕を助けたのは黄泉坂君だし、結局全ての原因は黄泉坂君だよね。君に僕を否定する権利はないよ」

「屁理屈をこねるな」

 指摘には応えずに、比良は元々の所有者に凝視されながら、最後の一切れを腹に収めた。落ち着き払って茶を啜り、

「どうして、黄泉坂君は軍人にならなかったの?」

 割合確然とした口調で言った。両手で湯呑みを保持したまま、同類の方を向き、

「君のお父上は陸軍軍曹で、弟の辿君は陸軍中尉だった。辿君に勉強を教えたのは君だって、彼と同期だった吾妻君から聞いたけれど。黄泉坂君は、どうして軍人にならなかったの?」

 黄泉坂は閉口し、その理由を比良は見抜いていた。二十年以上前から。

「……辿君が生きていたら、君は、僕に協力していた?」

 何も映さぬ昏い瞳が、笑むように撓む。かさついた、色味の薄い唇が、反転した祝福を紡ぐ。

「――いいね、黄泉坂君は。生きる目的があって」

 茶を置き、徐に比良は立ち上がった。手足にも等しい二匹の鬼の名を呼ぶ。眼窩の虚無を穏やかに細め、同窓を見据える。

「勝負しよう、黄泉坂君。僕が勝ったら、君は僕に協力する。君が勝ったら、僕は諦める。勝負は、どちらかが降参するまで続ける。君が速いか、うちの神波君が速いか。隣にいる梅子君も入っていいよ。ちょうど、三対三だから」

「殺していいの?」赤い狂犬が主人を振り返る。

 いいよ。比良は首肯する。「黄泉坂君は強いから、本気でやって」

「あははぁ、わかった!」神波は本性を抜き放った。獲物に飛びかかる寸前の獣のように身を屈め、少女のような五指を開く。小さな五体から眼に見えんばかりの殺意が流出する。

「ぼ、僕は、」両手で押さえつけられた能面の隙間からか細い声が漏れる。

「五色君は、できる範囲でいいよ。君はまだ不安定だから、無理をしないで」

 清司は隣に立つ養父を上目に見た。

「黄泉坂さん。今晩は炒り卵だと、梅子さんから伺いました」

「そうだ」家の主は溜息を吐いた。「手加減は無用だ。赤い奴をやれ」

「かしこまりました」清司は頷いた。

「いくよ、黄泉坂君」比良が長閑な声で宣言する。

 黄泉坂は再度鬱陶しげに息を吐き、弾指した。


     ◇


 パチン、と小気味好い合図が聞こえた。隣の間で息を潜めていたわたしは襖を開け放ち、まじないの洋燈を振りかざした。

 驚きに目を見開いた捕食者と視線がかち合う。しかしそれも一瞬。直後、素早く距離を詰め、間合いに踏み込んだ清司が神波の胸ぐらを掴み、背負って投げた。

 ぎゃっ!! と床に叩きつけられた神波が苦悶の叫びを上げる。清司はそのまま細い腕を取り、寝技に持ち込む。腕ひしぎ十字固めが見事に決まり、濁った絶叫が響き渡る。

「ぁいだいっ、あぎぃっ!! あいだだだだだだああああああああああああああああああ!!」

「協力はしない」

 黄泉坂は無情にも比良に銃口を向けた。

「――そう、」

 少し気落ちした風に答える首元には、赤い縄の痕が、蛇のように浮かび上がっていた。比良は炎の揺らめきに合わせ、脈打つ首くくりの痕に手を遣る。隠そうとしているのかもしれないが、側から見れば、自らの首を扼しているようだった。小ぶりな作りの相貌には何の色も浮かんでいない。

 比良を庇うように、五色が二人の間に割って入った。

「……赦しません」声は震えていた。

「比良さんに何かあったら、赦しません……」

 掲げた灯火が滅茶苦茶に揺らぐ。「赦しません、赦しません……」

 炎は今にも搔き消えそうな程だった。黄泉坂が呪いを保持するわたしにちらりと目線を投げる。

「いいよ、五色君。大丈夫だから。黄泉坂君に、僕は殺せない」

 強張った肩先に後ろから触れ、比良が宥める。

 ふつ、と微かな音を立て、面の紐が切れた。木彫りの小面が床に落ちる。

 能面の下にはぞっとするような無表情があった。仔猫の悪戯に涙を浮かべていた彫りの深い端正な顔立ちは、今や紛れもなく、人の理から外れた化生の相を表していた。ぼ、ぼ、ぼ、と呪いの明かりが鳴く。香木のような、異界の香気が薄らと漂い始める。

「五色君」比良は面を拾って、若い心鬼の本性を隠した。

「僕は大丈夫だから、赦してあげて。黄泉坂君も――君も」

 紐を括り直して、比良は五色をソファに座らせた。すとんと腰を下ろして、能面はそれきり放心したように動かなくなった。

 うん、と比良は頷いた。

「僕の負け。神波君、大丈夫?」

「いだいっ!! 殺す!! 殺す殺す殺すっ!!」神波は怨嗟の声を上げる。

 黄泉坂に命じられ、清司は技を解いた。わたしも倣って洋燈を消す。ようやく解放された赤いワンピース姿は畳の上でぐったりしている。

「手加減してあげてよ」やんわり抗議する比良の縊首いしゅの痕は消えていた。

「勝負を持ちかけたのは貴様だ」

「そうだったね。今日はもう遅いから、泊まっていい?」比良は平然と言い、首を傾げた。

「帰れ」黄泉坂はにべもなく突き放す。「これ以上他人の家を荒らすな」

「お湯だけ」

「その前に襖を弁償しろ。食った羊羹もだ」

「今度する。神波君もお湯もらいなよ」

 拒絶されたくせに比良はケロリとしていた。押しが強いのやらこだわりがないのやらよくわからない。

「妙な真似をしないよう見張っておけ」黄泉坂は背を向ける。

「え、泊まるんですかこの人たち」

「知らん」

 強い語調で言って、居間を出て行った。わたしはまた、清司と顔を見合わせた。

「梅子さん、清司君、お湯もらうね。五色君をよろしく」

「え、あ、はい」

 勝手知ったる他人の家とはまさにこの事。比良は神波を起こし、風呂の方へてくてく歩いて行った。黄泉坂が比良を無理にでも追い出さないのは、自由にのさばらせておくより追い払う方が疲れるからだと理由を悟る。奴と大学時代を共にしたその苦労が偲ばれた。

「今晩は本当に炒り卵ですか」清司が訊く。

「まさか本当に使う時が来るとはな……」

 炒り卵。清司がちゃんとした出汁巻卵を作るおかげでめっきり出番を失くしたわたしの得意料理は、失礼なことに、今や対心鬼戦用意の符丁として定められていた。わたしが呪いの灯火で相手の動きを制限し、黄泉坂と清司が実力を行使する。発案者の早乙女は不在だったが、ちゃんと機能することが証明された。

「晩飯の事は知らん。食えるかはわからんが、早乙女に粥でも作ってやるか。誰にとは言わんが絶対横取りされるから、多めに作っておけ」

「わかりました」


     ◇


「手狭で申し訳ありませんが」断って、清司は自室に予備の布団を並べた。

「いっ、いえ、そんな……こちらこそ、無理言って泊めていただいて……お風呂だけじゃなくて、夕食までご馳走になって……」

 殺風景な空間の隅で萎縮しながら、五色は何度も頭を下げた。どうぞ、と勧められ、恐々と布団の上に正座する。

 神波は居間のソファを気に入り、一足先にそこで寝た。比良は同年の清司に五色を託し、家主のところに行った。

 廊下から比良がここの主を呼ばう声が聞こえる。帰れ、との返答も。襖が滑る音。比良の気配は家主の部屋に居座った。動く気はないらしい。神波に殺しを許し、銃口を向け、殺意を向けあったくせに、互いに対する態度は変わらない。二人の関係性は、五色には理解し難いものだった。

 ――黄泉坂君に、僕は殺せない。その確信は、どこに由来するのだろう。

「お疲れですか」

 殺伐と思い詰めていたところ声を掛けられ、五色は、少し、と答えた。消しますね、と前置きがあって、電灯が消えた。

「――ぼくは生まれつき心鬼で、心がないから、五色さんのお気持ちを理解することはできませんが。あの時五色さんは、怖いと感じられたのでしょうか」

 目が慣れる前の真っ暗闇の中に清司の声が響く。誰の視線も届かない闇の中、面を外しながら五色は回想した。「そう、やったのかも、しれません……」

「無我夢中やったんで、あまりよく覚えてないんですけど、僕は、怖かったんやと思います。比良さんが死んでしまうかもって考えたら、今でも怖いから、きっと……」

「そうですか。五色さんは、比良さんを大切に思っていらっしゃるのですね」

「はい」迷わず、五色は肯定した。「比良さんは、僕を、助けてくれた人ですから。恩人なんです」

 ――たとえその正体が、韜晦に韜晦を重ねた虚であっても。

 彼が遠ざけている自身の原初、それと結びつくが故に隠匿し続けている傷を暴露された姿が、悲しく思い出された。

 あまり、見せたくないんだ。自分を思い出してしまうから…… いつかの恩人の声が蘇って、五色は咄嗟に前に出た。動いてから、諸々の感情や思考が怒濤のように押し寄せた。恐怖していたと同時に怒りを感じていたのだと思う。比良を殺そうと銃を向ける心鬼にも、力を封じられて何もできない自分にも。ここで恩人を失ったら一生自分を赦さない。赦さない、赦さない、と呪う内に、意識を失った。気がつくとソファに座っていた。比良と神波は風呂に行っていた。事の顛末はほとんど記憶にない。

 五色は布団に潜り込んだ。頭まで布団を被って、通気のために開けた洞窟のような穴から、隣の清司を窺う。

「僕は、清司さんと対立なんて、したなかった……気を悪くされたんやったら、すみません。でも僕は、比良さんが大切やから……」

「ぼくも黄泉坂さんのために、神波さんを投げて締めました。こちらこそ、五色さんのお知り合いを傷つけるような真似をしてすみませんでした」

「いえ、」思い返して、五色は少し笑った。「神波さんをあんな風に叫ばせるなんて、すごいです。もし清司さんがよかったら、また僕にもやり方を教えてください」

 いいですよ。今度一緒に練習しましょう。快諾を得、五色は布団の中で満面の笑みを浮かべた。ずっと昔に親戚中から可愛がられた坊やの笑顔は今も健在だった。

「清司さんも、その……黄泉坂子爵様のこと、大切に思われてたり、するんですか……?」

 二人並んでいた姿を思い出し、何となしに五色は質問した。淡々と命じる黄泉坂と、忠実にそれを聞き入れ実行する清司。二人は親子と言うより、長年連れ添った主従のように見えた。

 空白があった。

「血は繋がっていませんが、黄泉坂さんはぼくの伯父なんです」

「そ、そうなんですか……?」

 ええ、と静かな声が返ってくる。

「故人ですが、ぼくの父が、黄泉坂さんの弟にあたります。黄泉坂さんは、唯一の肉親であるぼくの父を、とても大切に思っていた……ぼくと黄泉坂さんは、少し似ているんです。ぼくにも、弟がいるから。兄同士なんです、ぼくたち」

「……弟が」

「訳あって、離れて暮らしていますが。そういうところも、ぼくと黄泉坂さんは似ているんです。黄泉坂さんは、ぼくの生まれをあまりよく思っていらっしゃらないから、そんな事を言ったら不快に感じられるかもしれないけれど……

 五色さんが比良さんを大切に思っていらっしゃるのとは、違います。ぼくには、心がないから。誰かを好ましいと思ったり、ましてや愛したりなんか、できないんです。だからぼくにとって黄泉坂さんは血の繋がらない伯父で……父の後悔の根本なんです」

「お、お父様の後悔……ですか?」

 はい。明確に清司は返答した。

「父は、黄泉坂さんと絶縁してしまったことを、おそらく、後悔していました。それが理由で、ぼくたち兄弟に、仲良く、協力して生きていくよう言ったのだと考えられます。ぼくは、父がぼくたちとそう約束する理由になった人を、見届けたいのかもしれません。黄泉坂さんは今でも、ぼくの父のことを大切に思っていらっしゃるから……ぼくと黄泉坂さんは全く違うけれど、黄泉坂さんに倣えば、心がないぼくも、修司のこと、大切に思ったり、愛したりできるかもしれない……」

「亡くなった弟さんを大切に思ってはるなんて、い、意外と人情家なんですね、黄泉坂子爵様は……全然そうは見えませんけど」

「人情家ではありませんよ。心鬼だから人でなしなのだと、ご自身でもおっしゃっていました。黄泉坂さんが大切に思っていらっしゃるのは、実弟であるぼくの父だけです。黄泉坂さんにとってぼくは、憎悪の対象です」

 清司は断言した。

「……なら、清司さん、比良さんのところに来たらええのに」

 五色は同年の心鬼を気遣った。「何で清司さんが憎まれなあかんのですか」

「黄泉坂子爵様と違って、比良さんは優しいですよ。寛大なお方やから、誰かを憎んだりなんかされません。それに、清司さんがうちに来てくれたらきっと喜んでくれはる思います。比良さんの考えてる事実現するの、僕ら三人だけではまだまだ人手不足ですから……黄泉坂子爵様は、お父さんも弟さんも軍人やのに、何で比良さんに協力せんのやろ……清司さんだけでも、うちに来られませんか?」

「お誘いは有り難いですが、ぼくは、ここにいます。黄泉坂さんと同じで、協力はできません」

「……何でですか? 比良さんの方が、黄泉坂子爵様より、清司さんのこと大切にしてくれはる思いますよ」

「いいえ」隣で、首を振る確然とした気配があった。

「――ぼくは、父との約束を守るために、黄泉坂さんと一緒にいるんです」

「……清司さんが言うておられる意味が、僕には、よくわかりません……」

 隔たりを感じ取って、五色はもぞもぞと布団の奥深くへ潜った。憎しみを向けられているにも関わらず、より良い居場所を蹴ってまで共に在り続けようとする意図が理解できなかった。所詮はこの人も黄泉坂子爵の味方で、比良少佐の敵なのか。少し落胆した。

 隣の気配は、今にも暗闇の中に透けてしまいそうな無色透明。五色の恩人も同じ「無」を感じさせるが、二人は違っていた。比良は決して、向こうの景色を透かして見せなかった。人型に切り取られた「虚」として存在していた。

 一呼吸置いて、清司は補足した。

「心がないから、自分の考えを説明するのが下手で。すみません。心鬼ではない早乙女さんが、黄泉坂さんは放っておけない人なのだとおっしゃっていましたから、わかりやすく言い換えると、おそらく、ぼくもそうなのだと考えられます」

「……放っておけないのは、きっと比良さんも同じです……案外僕らは、似たような人についていってるのかもしれませんね」

 運動ができず、脆く、それでも同類のために突き進んでいく。本当の自己を身体中の傷ごと幻の奥に隠して、自身からも見えないようにしながら。朝霧のように柔らかい自己嫌悪を抱いて。

 そうかもしれませんね。闇の中に澄んだ声が響き、そこで会話は絶えた。

「――あの、五色さん」腕の下から声が聞こえた。

「はい……」

「ぼくに、心鬼の能力は効きませんよ」

「……そうですか」

 残念です。五色は白い細緻な貝殻のような耳に、ほ、と諦めの一息を染み込ませた。道理で手応えがない訳だ。

「先日、うちの近くに心鬼の気配を纏った不審人物が出たのですが、あれは、五色さんの仕業ですか」

「ああ……僕が自分の力を使いこなせるようにと、比良さんが練習台を用意してくれはりました」

 ――五色君、ちょっとこの人を使って練習してみよう。比良は吾妻にどこぞの酔っ払いを背負わせて帰ってきた。上野の、黄泉坂子爵邸の近所まで歩かせてみて。言われた通り、五色は未だ慣れぬ異界に潜り、人型の黒いに向かって息を吹きかけた。男はふらふらと三雲書法会を出て行った。哀れな実験台が五色の心の半径を離れた後、どうなったかは知らない。戻った先の現世では、比良に教えられた『あめふり』の歌を、神波が延々と歌い続けていた。粗目ザラメ糖をまぶしたような歌声が、頭をぐるぐる回って離れなかった。

 どいてくださりませんか。言われて、素直に清司の寝床から降りる。頭からすっぽり被った布団と一緒に、草いきれのように熱を孕んだ香気を引いて、自分の場所に戻った。

 清司を操り、比良に協力させる作戦は失敗した。心鬼の能力が通じないのは厄介だ。比良の幻も神波の攻撃も、清司には何の効力も及ぼすことができない。後で比良に報告しよう。暗闇の中で、五色は冷静に考えた。

「五色さんは、比良さんに似ていますね」

「え! 本当ですか?」

 言われて、五色は俄かに顔を輝かせた。嬉しかった。はい、とだけ清司は答えた。

「どっ、どのへんですか?」

 布団の中から身を乗り出す。言葉を探す間があった。

「手段を選ばないと決めた時の、思い切りがよろしいところが……」

 ――果敢なところが似ている。そう聞き取れて、五色は大層喜んだ。清司のことが好きになった。ず、と敷布団を押して、清司との間に横たわる溝を埋めた。五色の性格は、心の鬼となりその器が歪んでも、人として生まれついたことに由来する若々しい純粋さに根差していた。

 長辺を接した布団の上で、五色は比良について語り始めた。清司は早乙女に教わった通りの適切な相槌を打った。話は夜半に五色が天性の予知能力で異界の変異を察知するまで続いた。清司は比良の名前が出る度に、食べ損ねた羊羹を天井の闇に思い浮かべた。かつての主人が好きだと言ったから、清司も倣って甘味が好きだった。


     ◇


 ――すももの花の咲く悪夢は、座布団を枕にして部屋に居座った、比良の意趣返しに違いなかった。


 春の夜だった。数ヶ月ぶりに養家に帰った弟は、かつて兄と暮らした離れの戸を叩いた。

 兄は耳聡くその気配を察していたが、人間を装い、音が聞こえて初めて独語の羅列から顔を上げた。兄貴。愛しい声がした。古びた戸を開けると、軍服姿の弟が立っていた。

「これは、黄泉坂軍曹殿」

「よせ。兄貴にそう呼ばれると、変な感じがする」

 記憶の中の弟は軍帽を押し下げ、視線を落とした。

 本来なら、父の後を継いで軍人になるのは兄の方だった。弟と比べるまでもなく、兄は頭抜けて優秀だった。学業の成績は申し分なく武道にも優れ、陸幼に入り、士官学校へ行き、将校になれる才覚を有していた。

 しかし兄は勉学の道を選んだ。疎まれるばかりの家を離れず、頭の出来が悪い七つ下の弟に付ききりで勉強を教えた。その甲斐あって弟は難関の陸幼に受かり、軍曹となって陸士に進み、順調に出世の道を歩んでいる――自分の面倒を見るために兄は自らを犠牲にした、本当は父と同じ道を選びたかったのではないかと、弟は負い目に感じていた。

 その心理を知る兄は、自らの献身の成果に満足していた。弟の栄進を支えているものが、自身の施した教育だった。光輝に満ちた道を歩む愛する者の足元の影は決して犠牲などではなく、善良な兄たる憎悪の鬼がそう望んだ在り方だった。

「そんな格好のお前を見ていると、日野道ひのみちの父を思い出す」

「俺は母さん似なんだろう。兄貴の方が父さんに似てたよ、きっと。俺は両方、写真でしか知らないけど……」

 鍔の下で、弟は今や叶わぬ兄の軍服姿を思い浮かべたようだった。

 その道行きが光明で照らされれば照らされるほど、足元の影は濃度を増して、弟は目を向けざるを得ないはず。最上の慈しみをもって掛けられた恩は、血縁の無力さを知る鬼の、懇願じみた布石だった。

 柄になく黙した弟を、兄は不思議に見守った。夜風に乗り、白い李の花が香った。

「――兄貴、」

 弟は軍帽を取り、刈り込んだ頭髪を現した。兄弟で同じなのは背の高さと浅黒い肌の色くらいで、顔立ちは全くの正反対だった。懸命に見開かれた、二重まぶたの黒々とした瞳。重ねて日に焼けた頰に朱が差しているのを見て、兄は不吉を悟った。

 一度引き結んだ厚い唇を、弟は決心したように開いた。

「兄貴。俺、結婚しようと思う。みどりと」

 弟の口調に迷いはなかった。李に象徴される忌々しい女の名を耳にした瞬間、鬼の心は自らが発するどす黒い業火に包まれた。

 人間の面を割って出ようとする本性とありったけの悪罵を押し留め、黄泉坂征は兄の声で諭した。

「世間体を考えろ。仮にも私たちは子爵の家の名をもらっているんだ。妾ならまだしも、そんな半分芸者のような女を娶るのはよせ。早計だ。お前はまだ十九で、学校も途中だろう。何故そう急ぐ」

 夢と知りつつ、黄泉坂は忠実に記憶の通りの言葉をなぞった。

 弟は、若く快活なかんばせに苦痛を過ぎらせ、俯いた。

「……子供が、できたんだ」

「お前のか」

 弟は答えなかった。

「――売女め。お前が責任を取る必要はない」実直さ故の責任感だと安堵した。

「お前の子だと言い張るようなら堕胎させろ。大方、家の金と子爵家の名が目当てなのだろう。そんな卑しい性根の女に、昔からお前は目をつけられていたのだな」

 長年想いを寄せた女に裏切られた弟が、自分の元に帰ってくる。考えると、憎悪まみれの五体が歓喜で震えた。じきに兆すであろう光条への期待に気を取られ、善良な兄の仮面を抑えつける手が離れていることに気づけなかった。剥がれかけた面の下で、鬼の本性が醜悪な笑顔を覗かせていた。

「辿。お前は優しいから、昔馴染みの女に縋られて、断れなかったんだろう。愛しているとでも言われたか? そんな不見転みずてんの言葉は全部利己的な嘘だ。他の男の子供をお前に押し付けるような女とは、この機に縁を切れ」

「……み鳥は、昔からずっと俺の事が好きだと言った。愛していると言った。嘘じゃない」

「お前を引きとどめるための嘘だろう」

 虫酸が走った。薄汚い売女が、一時の必要性でさも大事そうに愛を語るな。

 弟が顔を上げた。一転して色を失くした頰には、僅かに怒りが滲んでいた。

「違う。泣いてたんだ。俺に悪いから、子供を堕胎おろすと言って聞かない。死ぬとまで言う」

「そんなものただの脅しだ。卑怯な芝居に騙されるな、辿。捨て置け」

「俺にはそんなことできない。み鳥は、そんな奴じゃない……あいつに、子供を殺すようなことはさせられない――俺は、み鳥の事、愛しているんだ」

 拇指を握り込んだ白手袋の拳は震えていた。

「血の繋がらない、赤の他人の子を養うのか。家に居られなくなるぞ」

「――なら、絶縁してやる」

 弟は唇を戦慄かせた。母似の人懐こい双眸は、限界まで抑え込まれた発条ばねのような反発と共に兄へと向けられていた。

「そう意固地になるな。どうしてお前がを捨てる」

「家よりも、あいつと子供の方が大事だからだ。俺は、もう家へは戻らない」

 肌身離さず持ち歩いていた父の形見のナイフを、弟は兄の胸に押し付けた。追い縋る間も与えずに軍靴の踵を返す。

「……兄貴なら、わかってくれると思ってた」

 軍帽を被り直しながら、背で言った。

 ――お前は人でなしの化物だ。そう突きつけられた気がしてならなかった。その道に影を落とさぬように必死に善良な兄を演じ、鬼の心を砕き続けてきた、他ならぬ、弟に。

「辿、」

 待て。兄の声が、決然と歩む足を鈍らせることはなかった。――人の情を理解できない鬼は、去っていく弟の背に刃を浴びせることができなかった。人間を騙れど、所詮は憎悪の心から生じた化物。されど弟の言葉に反駁するように、違うと縋り付くように、黄泉坂は震える手で兄の面を抑え続けた。

 兄を演じ続ける限り、弟はいつまでも弟のまま、兄を捨て置かずにいてくれるはずだった。

「辿……」


「――あ、五色君が何かに気づいたみたい」

 後ろで比良がむくりと身を起こした。暗闇の中、布団で横になっている家主に構わず、着物についた畳のささくれを払い、衣桁に引っ掛けてあった羽織を被る。箪笥に何かがぶつかる音。あ痛、と小さく声が上がる。

「……箪笥を蹴るんじゃない」

「足の小指をぶつけた。とても痛い。折れたかもしれないけれど――ちょっと出かけてくるよ」

「放っておけ」背を向けたまま、黄泉坂は言った。

「僕は、同類は争うべきではないと思う。いろいろお話ししたいこともあるし」

 肩口を支える敷布団が、他の重みによって沈んだ。

「他人の布団の上に立つな」

 静寂。

「――黄泉坂君」韜晦の心鬼は親しげに名を呼び――くつくつと肩を震わせた。

「……ふふ、ふふふ、あははは、」

 不穏な笑声に振り返るも、同類の姿は既になかった。異界に生じた領域が、配下の二匹の気配を伴い、雨の余韻を引いて遠ざかって行く。

 子供のような無邪気な笑い声には、鴉の濁声にも似た不吉な響きがあった。

 気色の悪い。黄泉坂は暗闇の中息を吐く。突然の軽微な発狂の理由は、何となしに察していた。

 ――いいね、黄泉坂君は。生きる目的があって。比良が発した言葉は、即ち羨望。同時に、自嘲。

 同類の記憶に愛しい者への献身を、その他の者へと向けられる本性を見る度に、比良は自身と比べ、自身を嗤っていた。

 ――空虚だね、僕は。何の意味もない。肉親のために身を捧げる同窓への憧憬に、まるで根のようにぶら下がった、韜晦の鬼の自己嫌悪。

 あの遠い雨の日。黄泉坂は不覚にも、空洞が人の形を成した妖に傘を差し掛けた。餌遣るべからずと立て札すべき化物に、物を与えてしまった。初めて他者から贈られた傘の中で、空洞は自我を得た。永遠に満たされることのない、がらんどうの自意識を獲得してしまった。それは間違いなく、悪夢の始まりだった。

 比良景仁という名の虚無は、になりたがった。虚を実にするために、自らの虚空に意味を見出すために、何でもやった。それこそ虚に他ならぬ幻の力で、厭悪する自身の本質を隠蔽し、他者を欺いた。

 同時に、他人の存在理由を確かめるために、記憶を暴き、趣味の悪い夢の中に拐かすことも忘れなかった。

 黄泉坂は壁にかけた時計を仰いだが、暗さのため時刻を知ることは叶わなかった。厚顔な同窓の去った部屋は静かだった。

 ふと目を落とした左手の指先に見えたのは、白い花弁ではなかったか。養家を掌握した後、四肢を削ぐように一本一本枝を切り落として火に焼べた――瞬きをすると、それは濃く沈殿した暗闇の中に薄らいで消えた。同窓の嫌がらせと言うには細やかすぎた。

 その時廊下からけたたましい音がして、渋々立ち上がる。

「……怪我人が何をしている」

 全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、さながら埃及エジプト木乃伊ミイラのような義弟が、廊下で行き倒れていた。

 早乙女は嗚咽とも呻きともつかぬ声を漏らしながら這い進んで、義兄の足に縋りついた。

「征君の部屋から、あの男の声がしてっ……笑い声も聞こえたから居ても立っても居られなくなって……! 何もしてないよね? されてないよね? あいつはただの同窓生だよね……?」

「私は何もしていない」

「されたの!? ――うっ」

「大きな声を出すな。傷口が開く。清司、起きろ」

 片腕では運ぶこともできず、黄泉坂は救援を呼んだ。ややあって、廊下を挟んで対角の間の襖が滑った。

「どうされましたか」

「……あの能面に何かされたのか」

 寝巻き姿に、黄泉坂は濃い異界の香気を嗅ぎ取った。意図をもって纏わされたきつい香に、鼻の根に皺を刻む。

 ああ、と清司は右耳に手を遣る。

「寝込みを襲われました」

「そうか」清司が相手では、鬼の心も役に立つまい。黄泉坂は比良の配下の鬼の能力を、粗方見抜いていた。

 その足元で、早乙女は発狂寸前だった。風呂にも入れず血がこびりついたままの赤銅の髪を乱しながら叫ぶ。

「清司君まで汚された!! 許せない!! 出禁だよあいつら!! お願い征君もうあいつら出入り禁止にして!! ――あだだ」

「夜中にうるさいですよ早乙女さん! いつも鉛筆の音が気になって眠れないとか文句言うくせに、自分が一番騒がしいじゃないですか。怪我人なんだから大人しくしていてくださいよ」

 白髪を後ろで結んだ青年が顔を出し、文句を垂れる。部屋の中はぼんやりと明るい。

「また君は絵を描いていたのか」

「ちょ、ちょっといい感じの構図が浮かびまして……」恥じ入るように手に持ったままの鉛筆を後ろに隠す。「夢中になっていたらこんな時間になった次第であります」

 踵を揃えて報告する居候に家主は呆れて息を吐く。腹違いの兄によって無数の傷を刻まれた相貌には、まるで人間のような表情が浮かんでいた。年々、青年は人間に近づいていた。心の鬼たるその本性が、何百枚と描かれた絵に吸い取られているような気がしてならなかった。

 ――鎖々戸啓太郎。仇敵を討ち滅ぼし得るその真名を呼びかけて、取りやめる。

「君もこいつを運ぶのを手伝え」

「あれ、あの人たち帰ったんですか?」

「君も心鬼なら気配で分かるだろう」

「残念なことに全くわかりませんね……」

「出禁!! 出禁!! ――ううっ」包帯には薄く血が滲んでいた。

「比良の血を入れたせいか言動がおかしい。君、絵を描くついでにこいつを監視しておけ」

「えぇ……しょうがないですね。おい清司、運ぶから頭の方を持て」

 譫言のように出禁出禁と口にしながら、早乙女はずるずると家人に運ばれて行った。

 その様子を突き当たりの暗がりから見つめる小さな住人がいた。黄味の強い瞳は飼い主のものと色合いが似ている。

「今日は清司のところへ行け」

 仔猫は黙って餌係の部屋に入って行った。黄泉坂は自室に戻って横になった。向かいの間からは、鉛筆を滑らせる微かな音。鎖々戸啓太郎という心鬼の世界が紙の上に構築される音を聞きながら、眠りに落ちた。

 憎悪の心鬼は、夢を見なかった。


     ◇


 ――君は、天使なのですね。庭園の神父は微笑んで、柔らかい金の髪に手を置いた。

「君の力は、神に背く者を裁くためのものです。他の子と比べて、おかしいと思うことはありません。君は特別で、神から力を与えられて遣わされた天使なのです。神のために、その贈り物ギフトを使いなさい。我々の主たる神に、愛をもって尽くしなさい」

 その日から、少年は天使の自覚を持つようになった。


 暗い橋下から雨夜を眺め、女物の煙草に火を灯す。喉を焼く煙は、自身の声から天の響きが失われたその日から吸い始めた。天使は潔癖だった。主たる神に見放された部位を最初からなかったものとして、吸い終えた煙草のように踏み躙って棄てた。美点が一減ろうが、母数ごと減らしてしまえば天使の完璧はいつまでも完璧なままだった。

 碧空の瞳が見据える先、肉ごと着物の前を寛げられた女の身体を、雨が満たしていく。雨に洗われた肋骨のアーチが白く艶めいていた。腸と帯は逆の方向に伸びていた。聞き届けた終焉の声は、母より二音半低かった。

 母の声は今でもよく覚えている。腕の中の幼子に聞かせた子守唄は、初めて耳にした美しい音の並びだった。アルバートは人ならざる者としてこの世に生を受けた時から今現在にいたるまでの全てを記憶していた。

 初めてのは母だった。三つにして母の絶命の音韻を聞いた時、比較対象として頭蓋の内に響いた優しい旋律の五線譜の中に、化生の本能たる殺人欲も未だ目を開けぬ性欲も、全て織り込まれてしまった。後に組織に属する幽鬼となる幼子は、女の血と絶叫の中に心地よい音の調べを聴き取り、反対に美しい音楽の中にも、赤い血潮と末期の叫びを想うようになった。身体に人としての性徴が表れると、血と音楽の楽園に肉体的な快楽が加わった。楽園の中、全ての欲は素晴らしい調和を奏でていた。

「……小夜鳴鳥ナイチンゲール、」

 紫煙を吐き出し、ぽつりと執着の名を呼ぶ。美しい声を持つ小鳥は、終ぞ友のために歌ってくれなかった。どうして歌ってくれなかったのか、理由を考える――林檎はあまり好きではなかったのかもしれない。そのせいで機嫌を損ねてしまったのかもしれない。そういえば嫌そうな顔をしていた……アルバートはそばかすの散る白磁の顔にあどけない空白を浮かべる。小夜鳴鳥は、友達のためになら何度だって天の囀りを聞かせてくれるはずだった。小鳥は歌う生き物なのだから。

「〈子爵Viscount〉……〈Castor〉、〈白髪頭Gray head〉……」

 邪魔に入った幽鬼は小夜鳴鳥からの報告にあった、彼の潜伏先の家人。幽鬼が人間の家族のように寄り集まって生活しているのは奇妙だと感じていたが、まさか奪還しに来るとは。わざわざ探して取り返しに来たということは、彼らも小鳥の美しい声の虜に違いない。

 アルバートは吸い殻を執拗に踏み消した。白皙の美貌には冷たい無が凝っていた。二本目に着火する。薄く口を開け、息を吸って煙を喉の奥へ流し込む。晩餐を台無しにされた不快は恐ろしく冷え切っていた。

 ――不覚を取った。応戦も考えたが、全員を始末できる確証はなかった。自身の領域に違和を感じ、潜った異界にはさらに三人が潜んでいた。合計六、攻撃性の幽鬼が二人。流石に分が悪いと撤退した。その判断に誤りはない。

 この世の裏側に雨を降らせていた一人は、かつて一度だけ情報が入った〈子爵〉の旧知だという古参か。小鳥に気を取られていたとはいえ、その雨は索敵に展開したすら欺いた。広い領域と、そこに降る雨を媒介とし侵入者を取り込む幻は極めて厄介で、大きな障害に成り得る。〈箱庭Garden〉への報告が必要だ。

 調査がてら遊んだ山羊みたいな幽鬼は、雨の幽鬼と繋がっていた。無力な人間エサ相手には強いだろうが、攻め口が稚拙な上領域も狭い。ただあの性質は戦場に向いている。もう一人、面をつけた白装束は気配からして後天的に覚醒した者。自分を制御しきれていないのか、振りまかれる含意的な香はよく目立つ。雨の幽鬼を探す手がかりになるだろうが、性質がわからない以上迂闊に近づくのは危険だ。撒き餌の可能性もあり得る。

 口の端から細く煙を吐き出す。フィルターを挟む第二関節に熱源が近づいている。

 Bangバーン. 無声音で呟く。間延びした銃声は、繊細な鼓膜に鮮明に焼きついていた。

 射手の狙いは頭。誤差は数センチ。自分が神に愛された天使でなければ、無様に脳漿をぶちまけていたに違いない。協力関係にあるのか、もしくは偶然狙いが重なっただけか。集った六人の幽鬼との関係性は不明だが、どちらにせよ領域外からの狙撃は脅威だ。

 ――極東の都を騒がせる『魔弾の射手Der Freischutz』。精確無比な照準は彼としか考えられなかった。協力者らの調べでは、将校らの頭を撃ち抜いた銃弾は、英国で広く用いられているリー・エンフィールドの「.303 British」。

 脳内の記憶を引き出す。監視対象の親子は月に数回、知り合いの貴族に伴われて森で狩りを行っていた。主に狩っていたのは狐だが、その合間に父は子に銃の取り扱いを教えていたと、組織の調査で判明している。

 ――裁きを。天使と呼ばれる幽鬼の耳に、敬愛する神父の声が届いた。神と通じる神父の命は絶対だった。

 煙草を地に落とす。漆黒の花弁を散らし、アルバートは異界に沈んだ。


「――〈魔王Satan〉」

 神の敵対者は巨大な蛇の姿をしていた。無数の眼球を体表に光らせ、一つの円環となって荊棘の庭を囲んでいた。

 組織に所属する幽鬼を三人屠った邪悪は、自らの尾を飲み徐々にその内径を狭めながら接近してきた。異界の深部に張り巡らされた白薔薇の根を溶かし、花の神経を焼き、獲物に逃げ場を与えなかった。

 ――裁きを。再度、声がした。荊の籠の中で、天使は目を覚ます。

 鉄条の蔓が生物のように伸長する。鋭利な棘が、大蛇の腹に埋まった眼球の一つを抉った。割れた瞳孔が苦痛に絞られ、内部から黒い液体を涙のように垂れ流した。荊棘の繁茂は止まらず、ついには醜悪な巨体を太古の遺構のように覆い隠してしまった。

 束縛の幽鬼の棘は汚泥の鱗を容易く切り裂き、この世の裏に流れる黒い血を吸った。聖女の白薔薇は養分を得て咲き誇った。純白の花園と化した領域で、自らの象徴たる大輪の花を胸に、天使は翼を広げた。

「Alleluia……」

 清らかな面差しで自身の庭を眺める天使の脳内には、祝福の音が響いていた。

(僕は、地獄になんか落ちない)

(僕は、神から愛されている)

(僕は、神の御使い。殺戮は神から命じられた裁き。僕に咎はない。僕は、地獄には落ちない。僕は、悪魔なんかじゃない――)

 アルバートは微笑んだ。天の国は門を開いていた。いつか天の国に帰ったら、永遠、ピアノを弾いて暮らす。人を殺す使命からも解き放たれ、純粋な音楽を奏でながら、神を愛し愛されながら、安らかな日々を送る。

 目を瞑れば、故郷の美しい景色が広がっていた。

 ――その時、白薔薇の一輪が黒変した。闇の色に染まった薔薇は瞬く間に朽ち果てた。聖女の清美は見る影もなく、燃え殻のようになった花弁が音もなく地に落ちた。


 汚泥の上には白い花びらのように羽毛が散っていた。

 神に愛された幽鬼は、最後まで音を奏で続けていた。鍵を叩くため伸ばした腕。手首から先は存在していなかった。背後からぶちぶちと不快な音がしている。禍々しい化物がのし掛かる下半身は、ほとんど感覚がなかった。

(僕は――)

 地に引きずり堕とした天使を蹂躙しながら、魔王は鼻歌を歌っていた。楽しい予定でもあるかのようだった。

 ふと、五指を失った手の先を、雨粒が叩いた。あっという間に本降りになった雨は内面世界をしとどに濡らして、悍ましい魔王の気配を雨音の遠くへ運び去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る