五章
「残念ながら、君に我々が望む才能は備わっていないようです」
予期していたにも関わらず、告げられた言葉は、存外深く心を抉った。
「けれど、君は優秀で、あの悪魔の餌として消費するには惜しい。だから、我々は、君に新しい居場所を用意しました」
ステンドグラスを透かした光が、壇上に落ちた神父の影に聖者の光輪を浮かび上がらせていた。逆光で暗い面差しの銀灰色の瞳に、紛い物の慈愛が満ちる。
「よい旅を、エド。君は賢いから、どこでも、上手くやっていくことができるでしょう。
――ただし、エド。賢い君は、わかるね? 逃げようだなんて、考えないこと。我々の神に背くような事をすれば、悪魔がどこまでも、それこそ地獄の果てまでも、君を追うでしょう」
神父の死灰の色の双眸は、何もかもを見通していた。心の内に隠した、既に潰えた希望も、唯一の友に抱いた淡い期待も。逃れ得ぬ神の手中で抱く諦念すらも。
「旅立つ君に、我々から餞別を贈りましょう。おいで、エド」
落伍者の名を呼んで、神父はその手に、白くて細い、小枝のようなものを落とした。
「戒めとしなさい」声だけは優しく、痛みを感じる程強く五指を握りこませる。
「……掘り返したんですか」
「君が安心して眠れる場所なんて、この世のどこにもないのですよ」
その意図がわからない程、神を信じてはいなかった。手の中の小鳥の骨は、存在しないに等しい軽さだった。
「さよなら、エド。これが君との永遠の別れとなる事を、我々は祈っています――」
◇
「あら斎藤様、こんにちは。ようこそいらっしゃいました」
三宅坂に長く暖簾を構える割烹。何も伝えずとも奥の座敷に通され、いつもの、と馴れた口調で注文する。
「あ、海老天もう一本追加で」
はぁい、と女将は愛想よく返事をして、座敷を出て行った。
ず、と早乙女は出された茶を啜る。隣の間からは、威勢のいい男らの声。陸軍参謀本部のあるここ三宅坂の料理屋は、昼も夜も軍の関係者で賑わっている。
待っていると襖が開いて、天ぷら蕎麦と一緒にここの一人娘が現れた。
「――東、比良。聞いたことない?」
配膳をする気弱そうな娘に囁く。「わぁ、美味しそう」視線は並べられる料理に据えたまま。
「……比良少佐」
「いい子」
小声で答えた少女の膝の上に報酬を置く。
「本部の、将校の方とご一緒でした。確か、御影中佐」
(――参謀本部の、情報将校か)
「そこに、薮睨みの男はいなかった?」
「……いました。吾妻大尉」
吾妻――あずま――東。早乙女は人好きのする笑顔を作った。配膳を終えた娘にさらに紙幣を握らせる。
「さすがサエちゃん。追加で取っときな。また何かあったら遠慮せず言うんだよ。僕と君はお互いに協力者。困った時に助け合う仲だから」
奥から女将の呼ぶ声がした。
「ありがとう、助かったよ」
じゃあね、と手を振れば、十六の娘ははにかんで手を振り返した。早乙女が最初に酔った暴漢から助けてやった時はびくびくと縮こまっていたが、随分笑うようになった。
(――比良と吾妻がぐるか。御影中佐も)
早乙女は天ぷらをつゆに浸した。三宅坂に来て正解だった。吾妻は御匣梅子に接近し、盗聴器を仕掛けた犯人で陸軍大尉。比良は――義兄の帝大の同期で陸軍少佐。その裏には御影中佐もいる。独自の情報網を有する参謀本部の異端児で、諸外国の動きにも敏いかなりの切れ者。
(比良景仁、)
帝大哲学科卒。在学中は民俗学と絡めた宗教論を、卒業後も大学に残り同研究を続けた。しかしそれは表向きの経歴で、実際は相当に胡散臭い。
――比良は心鬼だった。義兄と同じく、古参の。民俗学やら宗教学やらの蓑に隠れつつ、彼は長きに渡り超常能力を研究し続けていた。
早乙女が比良景仁の存在を知ったのは、今年の二月の事件。とある新興宗教の裏に心鬼の存在が疑われ、義兄と共に調査に向かった。だが待ち受けていたのは無残にも焼け焦げた本部の建物と、信者と見られる無数の焼死体。
――比良か。心影界を探って帰ってきた義兄は口にした。誰それ。知らない男の名前を耳にし早乙女は問い詰めた。義兄曰く、比良は帝大の同期で厚顔無恥な性質の心鬼。その口調に一種特別なものを感じ取り、早乙女は躍起になって義兄の同期を調べ上げた。
(少佐? 一体いつから)
そんな階級は、義兄を質問攻めにしても徹底的に経歴を調べ上げてもどこにも見当たらなかった。
だが、心鬼相手にそんな問いは愚問だ。記憶を操る者もいるくらいだから、経歴なんてどうとでも詐称できる。常識の範疇で考えてはいけない。
早乙女は蕎麦を啜った。……普通。天ぷらは美味いが。
(御影中佐が背後に。やっぱり、そう出てきたか……)
二月に獲物を先取りされてから、何か動きがあるのではと懸念していた。
(比良少佐は、シンキの部隊を作ろうとしている)
心鬼の軍事利用。超常的な能力を持つ有用な化物は、既に先の大戦に投入された実績がある。諜報に撹乱に、そして敵兵の命を奪う武器として。公に知られていないだけで、心鬼は戦場の裏に潜んでいた。
日本の心鬼部隊は、まだ準備段階にあるのだろう。その道に通じる御影中佐に接近し、彼を後ろ盾に、あるいは踏み台にして、心鬼という超常の存在を上に認めさせる実績を得るために、比良は動いている。二月のはおそらく仲間集め。義兄が逃した心鬼は、比良の傘下に入ったに違いない。
(……
御匣梅子の知り合いという時点でおかしいと思った。普通の感性を持つ人間は、あんな異様な存在にわざわざ近づいていったりしない。東という男には、絶対何か裏がある。そう考えていたら案の定、比良少佐に御影中佐――陸軍参謀本部と繋がっていた。
(情報収集? 征君や清司君を仲間に引き入れるつもりで内情を探っているのか? そんなことをしても梅子君の下手くそな歌しか聞こえないぞ……)
早乙女は箸を置いた。琥珀色の瞳を閉じる。
……意図的に情報が流されている。英国の諜報員が紛れ込んでいる、と。
そして実際に、英国の諜報員は日本に来ている。いや、順序が逆だ。来ているから、噂が流された。木立に身を隠す小鳥を枝から飛び立たせるために。そして、日本の機関をおびき寄せるために。――追い縋れるのは同類しかいない。極めて限定された相手を対象とした、撒き餌と罠。
承認を受けるための実績を欲しがる比良少佐が、その餌に気づいた場合。必ず食いついて追うはずだ。だから伝えた。盗聴器の向こうに彼がいることに賭けて、〈Phantom〉と。
〈Phantom〉――幻影、幽霊。日本においては、〈心鬼〉。
来日しているPhantomは、相当に危険な部類だ。雨の帝都で食事を繰り返しながら、本当の獲物を探している。魔弾の射手がその頭をぶち抜いてくれるのを、悠長に待っている暇はない。
生き延びるため何としてでも逃げ切って、片を付ける必要がある。義兄から、見えないところで。
そのためには同類と――心鬼の中でも邪悪な種と引き合わせ、葬ってもらわなければならなかった。
邪悪な種の心当たりは二。一つは、最近英国から帰国した鎖々戸新太郎。もう一つは、比良の傍にいると思われる、二月の事件において百名余りの信者を惨殺した殺戮者。
(〈
花の香のように悪意を振り撒く彼のことだ。三年前、再び飛んだ先の英国でも何かあったに違いない。先方がリスクを負ってまでエースを送り込んでくるくらいには。
本人の問題は本人に処理してもらうのが一番手っ取り早く、無駄な逃げを打つ手間もない。侯爵邸の近くでのんびりお茶でもしておけば、いつの間にか片付いているに違いない。どちらに軍配が上がるかは、正直わからないが。
早乙女は席を立った。店を出る。
――清司君、君に大切な話がある。
今朝、早乙女は清司に告げた。かつて義兄を救った心鬼に。弟想いの心鬼に。
――君の弟も狙われている可能性がある。危険な、英国のシンキに。
わかりました、と清司は頷いた。早乙女が何故それを知っているかについては一切触れず、ただ礼を言った。
早乙女は、一人で逃亡することを選んだ。比良少佐と、その懐刀を探して。
(……だから僕は、出来損ないなんだ)
清司には、いざという時の保険に、待ち合わせ場所と集合時間を伝えた。時間通りに来なかったら、その時は探してくれと付け加えた。どこかで死体になってて探すの大変かも、とは流石に言えなかった。
――結局、比良まで辿り着くことはできなかった。
築地本願寺の脇で雨露をしのぎながら、家では吸わない煙草をふかす。やはり、心鬼が相手では分が悪い。拠点も、何らかの手段を用いて隠蔽しているのかもしれない。あらゆる伝手を辿ってみたが、比良にまつわる情報は出てこなかった。
吾妻大尉に関しては期別と、彼の身を襲った悲劇の噂が得られた。士官学校の同期に黄泉坂辿。一昨年の暮れに妻が子と無理心中。早乙女にとっては不要な情報だが。
(清司君に会いにいかないと)
約束の時刻が近づいていた。煙草を踏み消し、二段式の折り畳み傘を開く。夜闇に振り込める雨に焦燥を覚え、足を早める。
――不穏な波が、精神を揺るがすのを感じた。
異様な気配に、心がざわつく。思考に、ごく僅かな狂気が兆す。白布に血が滲むように、化生の放つ瘴気が心を毒していく――
早乙女は鞄から取り出した小型の洋燈に火を入れ、小さく丸めた人毛を焼べた。その途端、炎が異常な揺らめきを示す――鬼の領域に、入ってしまっている。
(あいつの気配じゃない。でも、これはまずい)
見つかる。
必要以上に明かりが広がらないよう、本堂の正面階段下の通路に身を隠す。雨音が気配もかき消してくれるよう祈りながら、壁際に蹲り、傘で明かりが漏れるのを防ぐ。
ざあざあと、雨が降っていた。
「――やぁ」
声。早乙女は袖口から人骨のナイフを抜き放った。立ち上がって踏み込み、化物の喉元を狙う。
「どうしてそんなことをするの? 僕たち、友達じゃないか」
造作なく呪いの刃を躱し、碧眼の化生は異国の言葉を紡ぐ。相手が聞き取りやすいよう、調子だけは穏やかに。雨雲の色のコートを翻し、長い足で洋燈を蹴り飛ばす。
けたたましい破砕音。末期の炎の揺らめきを映しながら、硝子の破片が散る。
刹那、空間を圧して広がる鬼の心。
早乙女は二撃目の途中で身体の自由を失った。不可視の荊に全身を絡め取られ、動こうとすれば鉄の棘が肉を切り裂く。顔には苦渋と一緒に血が滲む。――時間切れだ。
「会いたかったよ、
心鬼は獲物を抱擁した。背を屈め、耳元で囁く。
――もう一度、僕のために歌っておくれ。
ピアノの音で目を覚ました。
早乙女は仰向けに寝かされていた。身動ぎしようとすると、頭の上で縫い止められた手に激痛が走った。骨を綺麗に避けて、何かが刺さっている。視界の外の両手は肉のサンドイッチになっているに違いなかった。視線を巡らせると、雨夜を透かしたステンドクラス。早乙女は祭壇の前に供物のように捧げられ、天井から吊り下がる環状の照明に照らされていた。
教会には『La Campanella』が響いていた。フランツ・リストの『パガニーニによる大練習曲』の三番。
旋律は鬼の感性で奏でられていた。恐ろしく精確な打鍵。しかし何の色も宿さない調べは、ただ白と黒の、譜面通りの音の羅列。
ペダルを踏み込んだまま、重複する音の反響が不安を掻き立てる。流れるような高音の連なり。気が狂った小鳥の囀りのようなトレモロ。丁寧に奏でられる主題は殺意を孕んだ囁きだった。整然とした音階に込められた明確な殺戮の意志。血の海で踊るワルツ。ナイフのように突き立てられるスタッカート。殺しの役を取り合うような右手と左手の問答。完全八度の高まり。
旋律が厚みを増す。鬼の昂りに合わせて最早その心も同然の空間に見えざる荊が巡り、あちこちに巻きついて結弦のように張り詰める。この世の裏の鋭利な棘は、冷たいメスのように獲物の肉を内側から切り開いた。人ならざる者の歓喜と共に。
曲の終わりが近づいていた。「
最期の八音が沈む。余韻もそこそこに鍵盤に蓋が落とされる。鬼の前戯が終わった瞬間だった。
英国の心鬼――アルバートは祭壇の紅い林檎を手に取る。獲物の横に立ち、フォールディングナイフを片手で開く。果実の皮が、床の上で赤いリボンのように折り重なる。
「オイシイヨ」
へたを摘み、獲物の顔の横でベルのように林檎を揺らす。青い目が、形だけは穏やかに細められる。
――喉が渇いていたら歌えないだろう? 行動の裏の意を読み取り、早乙女は顔を背ける。
旧知の心鬼に捕捉された瞬間、早乙女の運命は決定した。梅雨入りと共にジャック・ザ・リッパーが現れた時から、覚悟はしていた。義兄からは見えないところで、猫のように人知れず死ぬ覚悟を。
小夜鳴鳥。白皙に偽りの感情を凝固させて、化生はその執着の名を呼ぶ。反応がないと見るや瑞々しい果実を口に含み、咀嚼した。
早乙女は呻いた。頰を捉えた右手にびっしりと生えた、心の棘。冷たい彫像のような微笑を浮かべたまま、アルバートは獲物の表皮を切り裂き、その下の組織を抉り、全くの善意で、噛み砕いた果汁を飲ませた。
大きく咳き込んで、早乙女は自分を組み敷く男の顔に唾を吐いた。その意味は化生には通じなかったのか、アルバートは頰に垂れた唾液を親指ですくって舐めとった。擬態の笑みはそのままに、小鳥の喉笛を指先で撫でる。白い首筋に細く紅い線が刻まれた。
「歌って、小夜鳴鳥」
(――思い通りになるもんか)
琥珀の瞳が苦痛に歪む。赤銅の髪に汗を滲ませ、早乙女は両手の解放を試みた。
「っ……!!」
「Les anges dans nos campagnes...Ont entonné l'hymne des cieux...」
煙に掠れた声で賛美歌を口ずさみながら、アルバートは獲物を縫い止めた人骨のナイフをさらに押し込み、前後に揺らした。激痛に引き攣る喉元に耳を寄せ、発せられる音に耳を澄ませる。チューニングハンマーのようにナイフの柄を握り、今度は左右に動かす。ぎ、と歯を食いしばる音。これではない。アルバートは首を捻り、刃を上下に抜き差しする。まるで調律をするかのように。
「早く歌ってよ、小夜鳴鳥。僕は君の声が聴きたいんだ」
背を丸め、喉に耳を密着させたまま、ざらついた声は縋るように囁く。「お願い……」
鋭利な棘を獲物の身体に滑らせながら、荊が蛇のようにこの世の裏を這う。束縛の鬼の心に覆われた祈りの場は、荊棘の園と化していた。
「ねぇ、お願いだよ、小夜鳴鳥。我慢できないよ……」
早乙女は応えなかった。痛覚を切り離そうと努めて別の事を考える。真っ先に義兄の顔が浮かんだ。神経質に凝った浅黒い横顔に、屈辱と共に刻まれたケロイド状の傷跡。何年共に過ごそうと、義弟がその顔を歪ませることはできない……痛みに構っていたら気が狂いそうだった。
加虐は続いた。全身を切り裂かれ、早乙女は血にまみれた。傷一つついていない衣服が血を吸って赤く染まった。柄までナイフを押し込まれた手からの流血が酷かった。絶えず与えられる痛みの中、遠い義兄への懸想が、遠ざかる意識を裂けかけた薄皮のようにかろうじて繋ぎ止めていた。
「小夜鳴鳥、どうしたら、君は僕のために歌ってくれるの……?」
アルバートは最高の快楽を求めていた。それは即ち、美しい音楽を聴きながらの食事だった。馥郁と血が香る中、目の前には、最高の音を奏でる喉があった。
かつて聞いた天の囀りを脳内で反芻し、鬼の内部の細緻な機構を共鳴させるような、その繊細な響きに思わず身を震わせる。しかし最高潮に達している期待に反して、十年以上かけてようやっと捕まえた小鳥は頑なに歌うことを拒んでいた。荊に抱かれて、ただ血を流すだけだった。
捕らえた小鳥が人間でもあるという事に思い至り、アルバートは身を起こした。幼さの影を残す美貌で、善良な人間を模倣する。
「――ねぇ、僕が君の大切な人を殺すと言ったら、歌ってくれる?」
家族や親友、そういった近しい者を人質に取れば、頑なな人間もこちらの要求を飲むはずだった。
琥珀色の双眸が、僅かに見開かれた。精神の恒常性を保つPhantomとは違って敏感に感情を浮動させる、人間らしい反応だった。自分に黙って庭を去って行った友人を、アルバートは少し許した。扱いやすく無力な人間であるという点で。
「小夜鳴鳥が〈
捕食者の視線を血濡れの喉元に注ぎながら、アルバートは異国に暮らす友を諭した。
早乙女は、無言。靄がかった脳裏には、義兄と形式上の甥、居候の顔が浮かんでいた。
(……ついに、悪魔が来たか)
神の手から逃げたつもりはなかったが、悪魔は生じた心の隙を目敏く見つけたようだ。
あの時握り込んだ、小鳥の骨の軽さ。あまりにも軽い生命の残滓。死んだ小鳥に墓はなく、安らかに眠ることは許されない――それは即ち、早乙女直の存在そのものだった。
「早く歌って、小夜鳴鳥。さもないと、君の大切な家族を切り刻むよ――こういう風に」
悪魔は獲物の耳の付け根を切った。溢れ出た新鮮な血を映す碧眼に、どろりと欲が広がる。無意識なのか、指先が鍵を叩くように蠢く。白い首筋には無数の細かな気泡が浮かんでいた。
「さあ、早く……一緒に天国へ行こう……」
恍惚と微笑み、悪魔は組み敷いた小鳥に両手を差し伸べた。
――その間もしきりに腹に擦り付けられている感触に、早乙女は口の端を歪める。
(どちらにせよ僕を殺すんじゃないか。倒錯者め)
遠い昔、白薔薇の園で天使の光輪が失われるのを見た。しかし純真な少年の頭部で光輝を放つそれは、救いを求めた小鳥の、愚かな期待が見せた幻に過ぎなかった。
もしあの時、天使の神聖が朽ちることなく、エドと呼ばれた少年が信じた偶像が崩れ去ることなく、二人で箱庭を抜け出せていたら。少年たちはどこに逃げたのだろう。
今更考えても無駄だ――結局は、逃げたところで行き先は地獄に違いなかった。
(お前は知らないと思うけど、天国なんて、僕たちには用意されてないんだよ)
少年は二人とも、悪魔だったのだから。
この期に及んで家族の顔を思い浮かべた自分を力なく嗤い、言い放つ。
「地獄に堕ちろ」
一瞬の空白を置いて、悪魔は微笑んだ。「やっと声を聴かせてくれたね」そばかすの散る鼻梁には僅かに皺が刻まれていた。「けど、声が少し掠れてる。煙草は喉によくないよ」
「昔、神父様が言ってたね。悪い奴は地獄に堕ちるって。でも、僕は地獄になんか堕ちないよ――僕は、神に愛されているから」
殺戮者の襟元から引き出された木製の十字架は、何重にも塗り重なった血で穢れていた。
「人を殺して生きるよう造っておきながら、神は僕に音楽を与えた。音楽を美しいと感じることのできる心を、美しい音楽を奏でられる十本の指を与えた。間違いなく、神は僕を愛している。絶対に、僕を見放したりなんかしない。
神父様も、僕が神に愛された天使だって言ってた。地獄になんか堕ちるはずがない。僕は、天国に行くことが約束されているんだ」
「っはは、はははは」思わず、早乙女は笑った。衝撃で激痛が走り、目に涙を滲ませながら爆笑する。
「……? どうして笑っているの?」
アルバートはきょとんとしている。
早乙女直はその情緒の未完な赤子のような空白に、さらに笑みを深めた。目尻を跳ね上げ、にこりと笑う。――莫迦か。
「何言ってんだ性的倒錯者。お前なんか、人を殺してマスかいて、死体に精液ひっかけてるようなお前なんか、どう考えたって地獄行きだ。汚らわしい。神に愛されてる? はん、思い上がりも甚だしいったらありゃしない。今にお前はその神とやらに見放されて、地獄に堕ちるんだ。
神父様も、影でお前のこと悪魔って言ってたよ。僕聞いたもん」
気力を振り絞って言い切り、早乙女は床に釘打たれた中指を立てる。「ばーか」
「……神父様がそんなこと言うはずない。嘘吐かないで。嘘はいけないんだよ」
「嘘吐いたら地獄に落ちるんでしょ。嘘なんか吐く訳ないじゃん……悪魔のお前は地獄行きだけど」
言うと、素を覗かせていた幽鬼は再び微笑を形作った。天の法則に従い月が満ちるように、ごく自然で、一切の情緒も介在する余地のない、無機的な変化だった。
「もし僕が地獄に堕ちるのなら、君も一緒だよ、小夜鳴鳥。ずっと、僕の隣で歌っておくれ」
「それは無理」早乙女は即座に断った。薄れゆく意識の中、力なく微笑む。
「僕は、征君と一緒に地獄に堕ちるから。辿君は絶対天国にいて、何なら奥さんと仲良くしてるだろうから……僕はずっと隣で征君を慰めてあげるんだ。僕にした方がいいよ、って……はは、征君、生きても死んでも地獄だね……可哀想だなぁ……」
目を閉じた早乙女に、無関心そうな沈黙が降ってきた。血に濡れているせいか、身体が冷たい。
(僕が死んだら、征君、少しは悲しんでくれるかなぁ……絶対悲しまないだろうなぁ……あ、ミィちゃんの餌……鰹節……)
肉を切られる感触はあるが、痛みはもう感じなかった。
(偽って、偽って……僕なんか誰でもなかったのに、征君は……)
たった一瞬指向された感情が、苛烈な鬼の本性たる憎悪が、今でも鮮烈に心に焼き付いている。
(最後に聞いた言葉が『猫の毛』なんて……ああ、もう一度会って、『お先に』くらいは言いたかったなぁ……)
白い毛が服につく。どうにかしろ――おそらくそんな意が凝縮されていたのだろうが。思い出すと笑えてきて、早乙女はそのまま、暗闇に身を委ねた。
――頬を張るような音を立て、すぐ側の床が弾けた。
直後に銃声。アルバートが祭壇の陰に身を隠す。
それとほぼ同時、教会の扉が蹴り開けられた。永遠の眠りを妨げられた早乙女は、寝起きのように頭を巡らせる。
「征、君……?」
入り口のところに凝った、人の形をした影。中身を失くした右の袖が、ひらりと風に踊った。
◇
清司の報告に、庇の下に並んだ心鬼たちは静まり返った。鎖樋からぽたぽた垂れる水滴が、沈黙を可視化していた。
「神波君、外国の心鬼は、何か言ってなかった?」
「あいむふぁんとむ」
「……Phantom」
神波と羽織を被って丸くなっている五色の声が重なった。
「なんせんす、でぃなー……クソっ!! ボクをおいてどっか行くなんてぜったいにぜったいにぜったいに殺す!! 千等分して殺してやる!!」
おかっぱ頭を振り乱して叫んで、ふと神波はふとわたしの方を向いた。獲物を見つけた肉食獣のように、にたぁ、と笑む。「――あは、」
「神波君、駄目だよ」牽制しつつ、比良がふわりと黄泉坂に視線を向ける。「繋がったね」
「早乙女さんはきっと、〈Phantom〉と――外国の心鬼と、何かあったんだよ。神波君が興味を持つくらいだから、彼、只者じゃないよ。おそらく、人を殺せる。早く見つけてあげたほうがいいよ」
黄泉坂さん。清司にも呼ばれて、黄泉坂は苦々しく顔を歪めた。
「どいつもこいつも……」文句はその一言に集約されていた。
「相手はきっと、野良ではない。どこかの機関に所属する、少なからず訓練を受けている心鬼だと思うんだ。だからきっと、それなりに賢明。戦う相手を選ぶくらいには。
どう思う? 黄泉坂君」
「……向こう見ずには務まらんだろうな」黄泉坂はちょっとだけ神波を見た。
「うん。じゃあ、みんなで行こうか。早乙女さんを探しに。五色君、着替えて」
命じて、比良は眠たげな瞳で心鬼たちを見回す。
「黄泉坂君、清司君、梅子さん、神波君、五色君、それから僕。心鬼が六人もいるよ。真っ向から勝負しようと思う?」
「貴様がいる時点で近づきたくない」
「じゃあ、安心だね」
比良の中では、泳げない魚も同然のわたしも頭数に入っているようだった。相変わらず気の抜けた顔をしているが、纏う空気には若干の変化が兆している。
「……何だか、嬉しそうですね」黄泉坂に言ってみる。
「笑っている」
「え、あれで?」
不吉だ。忌々しげに黄泉坂は呟いた。
「不吉の予兆の二段階目だ。あいつが笑っているときは、十中八九厄介な事が起こる。一段階目は、雨を連れてあいつがやってきた時」
「……今のところ順調ですね。次の段階はあるんですか?」
「あいつが事を起こそうとしているのに、晴れている時。何もなかった試しがない」
黄泉坂は溜息を吐いた。疲れた顔をしていた。一体過去に何があったのだろう。
無事能面を取り戻した五色の準備が整って、みんなで出発することになった。
「忠犬ならぬ忠猫だな」
心域が広く感知能力に優れた比良を先頭に、黄泉坂らが心影界から異国の心鬼の気配を追った。潜没できないわたしと心域を持たない清司は捜索の間、黄泉坂の愛車の中で待機することになった。
運転席には清司、その隣の助手席には何故かミィちゃんがちょこんと居座っている。
「早乙女さんが心配なのでしょう」
「娘みたいに可愛がっているからなぁ、あの猫莫迦は。あ、毛が」
後部座席から手を伸ばすと、ミィちゃんは小さな牙を剥き出しにしてわたしを威嚇した。猫畜生め。わたしの何がそんなに気に食わないのか。
「ぼくが後で掃除しておきます。黄泉坂さんはミィちゃんの毛がつくのを気にされるので」
「猫の毛。だろう?」わたしは家主の口調を真似て、座席の白い毛を指差す。「猫、毛」の時もあれば、単に「毛」だけの時もある。黄泉坂はやたら白い毛を気にした。
「部屋の埃は何も言わないくせにな。変なところで潔癖症だ」
「鼻に入るとくしゃみが止まらなくなる、と。この前おっしゃっていました」
「ええ、本当か!? ならとっとと追い出せばいいのにな。子爵様の権限で」
実際にそうなると早乙女が泣いて縋りそうだ。だがいい話を聞いたと、わたしはにやりと笑んで声を低める。
「清司、今度黄泉坂が寝ている時にこっそり毛を顔にかけてやれ。黄泉坂に嫌われれば早乙女がいくら庇おうともこいつの居場所はない」
「おそらく、首謀者の梅子さんが追い出されることになるかと」
「お前わたしを売る気か」
「絵を描いているだけのどこかの誰かと違ってミィちゃんは世界平和に貢献しているのだと、早乙女さんがおっしゃっていました」
「ぐぬ……世界平和ならしょうがないな……」
この三年で、清司は先輩にも臆せず口を利くようになった。後輩の成長を感慨深く思っていると、車窓が叩かれた。
「……どうして猫が乗っている」車内を覗き、黄泉坂は開口一番そう言った。
「ミィちゃんがどうしてもと」
「猫は喋らん。君まで直のような口を利くんじゃない。毛は一本残らず掃除しておけ」
かしこまりました。清司が言う隣でミィちゃんは耳の後ろをけしけし掻き始める。黄泉坂は肘の内側で鼻口を抑えた。
「場所は築地の看護学校近くの教会。私はあちら側から向かうから君たちは車で来なさい」
「一緒に乗って道案内してくれないんですか」
そのつもりだった。言って黄泉坂は踵を返した。暗色の背広が、少し小降りになった雨の中に消えた。
「ミィちゃんのせいだな。清司、場所はわかるか?」
「この前早乙女さんと魚市場に行った時に近くを通りました。ミィちゃん、出発しますよ」
清司はアクセルを踏み込んだ。切り裂きジャックのせいで人通りが減った夜に、エンジンの爆音が響き渡る。
「――ん? 清司止まれっ! 道の真ん中に何かいるぞ!」
三叉に分かれた三吉橋の中心に人影を見つけ、わたしは叫んだ。
「ああ、比良さんは心鬼なので大丈夫かと」
「そういう問題じゃない!! ブレーキだブレーキ!!」
黄泉坂の同窓を撥ねる寸前でシボレーは停車した。清司は比良に何か恨みでもあるのだろうか――羊羹か。わたしは妙に納得する。
ヘッドライトの眩しさに、比良は元々半分の目を更に半分にしている。光から逃れるように、てくてくと車の脇に回った。
「Phantomは、こちら側にいるみたい。早乙女さんらしき人も一緒。うっかり心域に触れて相手を刺激してしまわないように、皆潜没しないで待機中。相手の心域は二百メートル程らしいから、僕と黄泉坂君の心域の広さも含めてとりあえず五百メートル離れてる。動くときは一緒に潜って、相手が行動する前に一息に近づくつもり。
梅子さんと清司君は車で先に行って。おそらく、相手は一番最初に梅子さんに気づくだろうから、僕たちはそれで出方を見る。よろしく頼むよ」
「……ということは、わたしたちは餌ですか?」
「言い方を変えれば、先遣隊かな」
比良は緩やかに敬礼した。行け、ということらしかった。
「何だあいつは。わざわざ言い方を変えなくたって餌だろう。黄泉坂には変な知り合いしかいないのか」動き出した車の中で、わたしは悪態をつく。
「ぼくの父は軍人でしたが、あんな敬礼はしませんでした」
「ふふっ、厳しいな清司。そういえばあいつ、何の仕事をしているんだろうな。黄泉坂の同窓で、心鬼、とは言っていたが……」
少しの沈黙の後、わたしと清司の声が重なった。
「職業、心鬼」
「職業が心鬼ですかね」
莫迦なことを言うな、とわたしは笑って、梅子さんも同じことを言いました、と清司が反論する。
「ぼけっとしているように見えて黄泉坂と同じかそれ以上に非情だな、あいつ。知り合いの家人を餌にするなんて、職業で心鬼をやっているだけはある」
エンジン音の他はやけに静かだった。雨はほとんど降り止み、雨雲も解れ、月の所在がわかるほど。晴れてさえいれば美しい月夜だったことだろう。
わたしに化生の妖気は感じられなかった。もちろん、相手に捕捉されているかもわからない。清司に心鬼の能力は効かないから、餌は実質わたしだけだ。相手に食いつかれて、ミィちゃんに襲われた黒い昆虫みたいにズタボロになる前に、黄泉坂なり比良なりが対応してくれる事を祈るしかなかった。
しかし終ぞ何も起こる事なく、黒塗りのシボレーは教会の門の前に停車した。ミィちゃんもずっと大人しく丸くなっていたから、幸運なことに本当に何もなかったのだろう。
鉄製の門扉は閉まっていた。小さな十字架の刻まれた脇の柱をよじ登る。清司も肩にミィちゃんを乗せて敷地に侵入した。建物の前には黄泉坂が立っていた。
「それ以上私に近寄るな」清司とミィちゃんの姿を認めるなり黄泉坂は言った。
「くしゃみが出るんですか?」
「目も痒くなる。君も近づくな。毛がついている」
黄泉坂はしかめっ面を肘の内側で隠し、横を向いた。相当重症のようだ。
「相手の気が逸れている隙に、比良が潜って自分たちの気配を隠した。私たちも、今のところ気づかれていない」
「早乙女さんはご無事でしょうか」訊いた清司の腕の中で、ミィちゃんはじっと教会の方を見つめている。主人がいることをわかっているようだ。
「死んではいないだろうが…… 比良にこちら側のことを押し付けられた。行くぞ」
空の右袖を翻した黄泉坂の後に続いて、入り口の扉の前まで進出する。目線で指示されて、わたしと清司はそれぞれ柱の影に隠れる。突撃の目算をつけるように、黄泉坂は視線を上下させる。利き腕を失くしてから、子爵様の足癖は悪化する一方だった。
――たぁん、と。銃声が夜気に尾を引いた。
それを合図に、黄泉坂が扉を蹴破った。懐から回転式の拳銃を引き抜きながら進む背中を追って、わたしと清司も中に入る。
壇上には血塗れの人物が横たわっていた。その奥には異様な気配――殺気。祭壇の陰に潜んだ金髪の男が銃を構える。無感情に見開かれた青い双眸が侵入者を見据えている。
双方のトリガーが引かれる寸前、清司の腕から飛び出し床に着地した白い仔猫が、異国の心鬼をカーッと威嚇した。
男の白皙に瞬間驚愕が過ぎる。黄泉坂が引き金を引いた。弾は男の肩を掠めた。
「〈Viscount〉...」
色の薄い唇が蠢き、漆黒の花弁が散った。
「――逃げたか」
呟いて、黄泉坂は床に転がるボロ雑巾に歩み寄った。
「征君……ミィちゃん……」
力なく、早乙女は声を発した。狐野郎の象徴たる丸眼鏡はどこかにやってしまったらしく、顔つきがいつもと全く違って見えた。
黄泉坂は応えず、手当てをしろ、とわたしに視線で命じた。ミィちゃんが先んじて主人に寄り添って、みぃみぃ鳴いている。
「早乙女さん、傷だらけの血だらけですよ」
「わかってるよ……先に手をどうにかして……ごめんね、ありがとうミィちゃん……」
「うわ、一体何をどうやったら手がこんなことになるんですか」
抜きますよ、と前置きして、わたしは白いナイフを引っこ抜いた。すぐさまハンカチで傷口を縛る。一枚しかない、と思ったところに黄泉坂が自分のものを放って寄越した。
「征君、僕は……」
「喋るな。死ぬぞ」
早乙女は口を噤んで、琥珀の双眸を閉ざした。顔色は白いを通り越して青白かった。対して服は血を吸って赤黒く変色していて、黄泉坂の言う通り、本当に死んでしまいそうだった。
早乙女にいろいろと芸を仕込まれている清司の方が傷の処置は得意だろうと、その姿を探す。しかし清司はどこにも見当たらない。
目を遣った教会の扉のところで、異界との繋がりを示す闇色の現象が生じた。空間に雨夜を凝縮したようなノイズが走る。黒煙が揺らめく。黒い液体が弾ける。三者三様の演出を伴って、比良一味が姿を現わす。
「また逃げられたっ!!」出てくるや否やざらついた高音で神波が叫んだ。
「彼は手練れだね。あのまま取り込めると思ったけど、振り切られてしまった。ぜひともお話を聞きたかったけど、残念」
寝起きの声で言って、比良は早乙女に目を留めた。
「貴方が、早乙女さん?」草履の足でぺたぺた近づいて、尋ねる。
「比良、後にしろ」
黄泉坂が制する。早乙女はそれを聞いて、焦点の合わない瞳で小ぶりな顔を睨みつけた。しかし言葉を発する気力はもう残されていないようで、そのまま脱力し、眠るように意識を失った。
「手当てが先だね。病院に連れて行く?」
「いや、一旦帰る。清司がそいつからいろいろ教わっているはずだ」
黄泉坂は養子の姿を探し、「どこへ行った」
「消えました。早乙女さん、かなり血が出てるので早く何とかしてあげないと。輸血だとか何とか、この前清司に教えてましたよね? 早乙女さん何型でしたっけ」
「A型だ。同じA型かO型の血しか使えん」
「そうそう、急にうちで大出血して助かるのはわたしと清司だけって話してましたね――大変だ」
AB型のわたしと清司は他の二人から血をもらえて助かるが、黄泉坂と早乙女は誰からも輸血してもらえずに死ぬ。僕の貴重な血を梅子君なんかにあげたくないなぁ……早乙女の声が懐かしく思い出され、わたしは三人衆を振り仰いだ。「この中にA型もしくはO型の方はいませんか!?」
「僕」比良が肘から上を起こした。「注射するの?」同窓生を見遣る。
「注射する」目を合わせずに黄泉坂は答えた。「太めの針を刺す」
「……そう」
「うちの者のためにありがとうございます」
血の提供を辞退される前にわたしは礼を言った。ちょうどその時清司が帰ってきた。
「すみません。戻りました」
「またお前は勝手に姿をくらませて。まあいい、早乙女を運ぶぞ」
問い詰めるのはほどほどに、黄泉坂が壊した扉のところに修理代を挟んで、わたしたちは教会を後にした。
◇
後ろから呼びかけられて、足を止める。
「何、」苛立ちを露わに振り返れば、自分と同じ顔。双子の片割れは何故かシャツの肩や腕から白い毛をたくさん生やしていた。
「何の用」
「修司がいたから」
「それだけ?」布に包んだ得物に着目されないよう、身体の陰に隠す。
「うん。それだけ」兄弟は首肯した。「じゃあ、おやすみ」
手まで振られて、修司は舌打ちを堪え、踵を返した。自己満足のために他人の時間を無駄にするな。腹が立って仕方がなかった。
「――さっきはありがとう」
一歩踏み出しかけた背中に声を聞き、咄嗟に振り向く。が、兄弟の姿は既になく、つかの間雨音の絶えた、静かな夜があった。
別に。言いかけた言葉を不服に吞み下す。お前のためにやった訳じゃない。
――修司。君のお父さんが危ない。英国の心鬼に狙われている。
昼間、行きつけの喫茶の個室で清司は言った。事実のみを淡々と伝える、聞き様によっては深刻そうな声調で。
――知ってる。そんなことをわざわざ忠告しにきた訳? 無駄足だね。ご苦労様。
そんな心もないくせにさも弟を気遣うような素振りを見せるから、刺々しく突き放した。兄は少し黙ってから、気をつけて、と気遣いの言葉を重ねた。
(清司に言われなくとも、重々承知さ。ぼくが知らないとでも思っているのか)
修司の父は、本人の意思に関係なく人々の悪しき心を呼び起こし、引き寄せる。遊学した先の英国でもそれは変わらず、朗らかな笑顔を絶やさぬ父は常に、渦巻く悪感情の中心にいた。そして笑顔のまま、自らの規範を乱す者を殺した。何人も。
鎖々戸新太郎は現世とその裏の両方から監視されていた。邸宅の周りにはいつも誰かの耳目が巧妙に潜み、この世の裏では同類が監視対象の挙動を伺っていた。どうやら向こうの化生どもは組織されているようだった。誰かから指示されているのか、見張りは交代制で、修司は毎週違う鬼のにおいを察知した。
父は自身に近づきすぎたそれら同類を、二、三匹屠った。修司は自室でホットミルクを飲みながら、この世の裏の断末魔に耳を澄ませていた。しばらくして父が何食わぬ顔で帰ってくると、修司も何食わぬ顔をして同じ飲み物を勧めた。父は牛乳に蜂蜜を入れて飲む修司の子供らしさを笑った。そんな夜は必ず、修司は父と同じ布団で眠った。同衾によって、修司は父の殺しへの理解を示した。同時に、同じ化生たる自己存在の許容を乞うた。鬼の悪意を一晩中肌身に感じ、眠りが浅くなろうとも、修司は朝、父を起こし、いつまでも共寝を許すその寛容に感謝した。寂しん坊め、と朝日が差す中微笑まれれば、執拗な監視も異国の妖の死も何もかも、平和に帰結するように思えた。
(……外した。殺しておくべきだったのに)
殺し損なった時の報復への恐れが感覚を狂わせたのか。それとも、天与の楽才を絶やすことに躊躇いを感じたのか。自尊心に生じた傷に、修司は歯噛みする。小鳥すら落とせる距離だったのに。
先日の夜会で嗅いだにおいに、覚えがあった。かつて異国の地で鼻に触れた、西洋の庭園のように整然と咲く花で飾られた血の臭気。隠しきれない、血腥い本性。鼻の利く修司にだけその存在を悟らせた殺戮者は、他の鬼とは違い、領域に立ち入り痕跡を残すような迂闊な真似はせず、徹底して対象と距離を保っていた。こちらが動けば同様に移動し、しかしその密着を気取らせない。修司の嗅覚と同じく何かしら鋭敏な感覚を備えたその鬼は恐ろしく無感情に、まるでそうあれと作られた一種の機構のように、静謐の内に任務を遂行していた。
まさかそいつが、海を渡ってくるとは。現世で顔を合わせるまでに接近してきたということは、向こうがこちらを狙い定めていることは確実。英国の組織は、鎖々戸新太郎を危険因子と認識し、遠い異国まで追跡してまで始末しようとしている。
(自分の国だけならまだしも、追いかけてくるなんて。あいつのいる組織は大きいのかもしれない。軍隊とか、国も絡んでいるのかも……)
早急に、次の手を打つ必要がある。愛する父の平穏が、これ以上乱されぬように。
(人間の姿の時に、あいつの領域の外から狙うのが一番いい。二〇〇メートルくらいなら簡単だ。上手く居場所を突き止めて、後をつけよう。気配を悟られないようにしないと)
修司は人目を避けて潜没し、この世の裏を行く。気晴らしに何か口にしようとしているのか、背中の腕が蛇のように揺れながら獲物を探していた。自身の無意識を反映するかのような散漫なその様子が気に障り、意識して腕を引っ込め、背中の口を閉じる。この姿の御し方も随分心得た。
(……清司のやつ、どうしてぼくだとわかったんだ?)
ふと、修司は黒白の線画の中で立ち止まる。思い返した兄弟の顔は毛まみれだった。
着弾から軌道を読んで目ぼしい方角を当たったのか。自分の領域を持たないからと目視で内面世界を探すなんて、毎回手間なことができるものだ。余程暇人に違いない。
(……言いたきゃ言えばいいさ。警察にでも何にでも。清司も父さんの約束を破ればいい。
君のお父さん、なんて。ああそうさ。もうぼくとお前は兄弟なんかじゃないさ)
不快に眉を顰め、帰路を急ぐ。昼間聞いた兄弟の声は、手の平に埋まった微小な棘のように、看過し得ぬ苛立ちを修司に与え続けた。
(兄弟じゃないから、助け合って生きる必要もない。父さんの約束はもう無効なんだ。とっくの昔にぼくらを残して死んだ無責任な父さんが、今更ぼくを責められるものか。清司が勝手に、大事そうに言ってるだけだ。あいつは莫迦で、人の言いつけを愚かに守り続けるしか能がないから)
心の中で言葉を連ねる。されど棘は刺さったまま、皮膚に引っかかってなかなか抜けない。
(気をつけて、なんて心配する振りまでして。白々しい。自分の代わりにぼくを殺そうとした奴の下についてるくせに)
呪われた黄泉坂子爵家の現当主は、死んだ父の実兄。調べてわかったことだが、生家と関わりを絶って婿入りした父は、維新の功臣として叙爵された初代黄泉坂子爵の従姉妹を父方の祖母に持ち、養子とはいえ元々は華族の系譜に名を連ねていた。生前終ぞ明かされることはなかったが、豪奢な暮らしに見合わぬ生まれを恥じていた修司も、血は確かだったらしい。色黒で武骨で、優雅なところなんて一つもなかった父とは全く似ていなかったが。
修司が侯爵家の子となったように、清司もいずれ子爵の伯父の跡を継ぐのだろうか。考えると憂鬱だった。全く同じ顔が二人。世間の追及は避けられないだろう。悪名高き帝都の記者たちはこぞって二人の経歴をほじくり返すに違いない。
――消えてくれればいいのに。修司は思った。今や自分の影たる兄が、邪魔だった。いっそ何もかも、ついでに修司の罪も背負って、兄弟を替え玉にした時と同じように、代わりに死んでくれればいい。謂れなき罪を着て、いつものあの無垢で厚顔な面のまま消えればいい。
(ぼくはお父様と幸せに暮らすから。清司も父さんとの約束を守れて本望だろう)
この三年で、修司は傲慢になった。現世の容姿はそれが許されるほど美しく成長したが、内面を反映した白黒の姿は背が少し伸びただけでそれ以外は変わらなかった。相変わらず、兄弟との唯一の違いを隠蔽するように、顔の右側には仮面が張り付いていた。母は死に、もう隠す必要もないというのに。
(ぼくはもう、昔のぼくじゃないんだ)
内面の世界に転写された鬼の巣からは、嗅ぎ慣れた悪臭が流出していた。父は帰っているらしい。こっそり自室に戻って荷物を置いて、それからまた家の外で現世に戻り、何気ない風を装って邸宅に続くなだらかな坂を登る。濡れた舗装路が月明かりに照っていた。
「あれ、ハナさん」
修司は
あら、と五十年配の女中は顔を上げた。どこを取っても肉厚で、邸内に蔓延している鬼の気配も含め、ちょっとやそっとのことではびくともしなさそうな体格だった。自分が生まれる前から家に仕えている彼女を、父は影で「ハムさん」と呼んでいた。
「修司様ったら、遅いお帰りで。雨に降られてはいませんか?」
太い声で女は訊いた。肉製品呼ばわりされていることを知っても、「食べちゃ嫌ですよ」と艶聞絶えない嫡男に軽く言ってのけるのがこの女中の美点だった。
「いいえ、降られてはいないけれど。ハナさんこそ、こんな遅くにお出かけ?」
「そうですの――そう、そう! 聞いてくださる? 修司様」
「なぁに? またお父様?」
修司が言うと、ずい、と間近に迫った顔が、おかしそうに笑んだ。「修司様ったら、よくわかっていらっしゃる」
「五位様がね、明日のブレークファストに餡パンをご所望で。しかもただ食べたいんじゃなくって、一から作りたいんですって。修司様と一緒に」
「ええ、ぼくと?」修司は思わず声を上げた。
「そうですよ、修司様もちゃあんと人数に入っておりますからね。私が今から小麦粉と小豆を買って参りますから、五位様と一緒に大人しく待っていてくださいましね。夜更かししても、今晩作るそうですよ」
「もう、お父様ったら…… 気をつけてね、ハナさん。今は晴れてるけど、雨の夜は、その、切り裂きジャックが出るらしいから」
気遣う修司に、女は笑った。
「まあ、なんてお優しい。呑気に手を振ってらした五位様に見習ってほしいくらいですわ。ご心配なさらずとも、タクシーを拾って行きますし、どこぞのジャックさんも、きっと私の分厚いお肉を見たら手間がかかりそうだと思って諦めますよ」
何たって五位様のお墨付きですから。太い声で笑って、女中は坂を下って行った。
修司は浮かない気持ちで丸太ん棒みたいな後ろ姿を見送った。こっそり後を尾けようか。ついさっき仕留め損なった異国の心鬼が、鎖々戸侯爵家の女中を狙わないとは限らない。
しかし万が一、鬼の魔手が身内に迫ったとして。修司に打つ手はあるだろうか。相手は父と同じく、心ごと肉を抉る術を持つ。
本国では上手く隠蔽されていたようだが、修司は遊学先の英国でも、今帝都を騒がす殺人鬼と同じ趣向の死体を目にしたことがある。同類の気配を辿った先、服は綺麗なまま、身体だけ無残に切り刻まれた死骸。鬼の餌になった憐れな娼婦。この世の裏に残された血染めの薔薇の香――定期的に繰り返される
(きっと、殺せるだけじゃない。心に作用する、別の性質も一緒に持ってる。それがわからないうちは、不用意に近づくのは危険だ)
修司は小さく頷いて、門の横の勝手口から敷地に入った。長大な車回しを歩きながら自分の住処の広さをしみじみ感じる。黒松の並びは夜闇に沈黙していた。
(それに、ぼくがあいつと何かあったら、お父様も黙ってはいないだろう。お父様に、あちらの姿を見せる訳にはいかない……)
人ならざる側面があることは、仲睦まじい親子の暗黙の了解だ。人間の姿における幸福な生活は、互いの本性に言及しないという無言の取り決めただ一つの、存外危うい土台の上に成り立っている。正体の露見が、関係を崩さないという保証はない。
――もし、助けに来てくれなかったら?
そんなことはない。修司は僅かに生じた不安を打ち消した。修司がそうであるように、父も修司を大切に思っていて、一人息子の危機とあらば駆けつけ、手を差し伸べてくれるはずだ。自ら秘を破り、本性を晒すことになったとしても。
靴のまま洋館を抜け、母屋の玄関を潜る。服は着替えるか風呂は入るかあれこれ傅かれながら、埃一つなく掃き清められた廊下を行く。奥の座敷からはゆかしい筝の音が響いていた。
雨露に艶めく庭を望めるよう、大座敷の襖は開け放たれていた。部屋の中には色とりどりの着物が屯っていて、家の女たちの中央で、シャツの首元を寛げた父は十三の弦を掻き鳴らしている。八橋検校の『みだれ』。優美な手の運びから戯れに奏でられる音は、本来よりも大分緩やかだ。それでも間延びした気怠い感じがしないのは、家道に親しみ続けた年月と生来の感性故だろう。修司の父はどこまでも優雅で美しかった。
「ひかる
女の一人が修司に気づいて美貌の貴人に声をかけた。連鎖的に女たちが修司を見、色めき立つ。
修司は光源氏の息子ということで夕霧と呼ばれていた。光源氏の実質の長子は冷泉帝だが、そこは藤壺中宮との不義の子ということで避けたらしい。数々の浮名を流した「好き者」の父とは真逆で色恋沙汰に疎い「まめ人」。修司は家の女たちから勝手にそう評されていた。
「お帰り、夕霧。こんな遅くに帰ってくるとは、もしや雲居の雁か?」
「違うよ、ただの散歩。それにぼくが夕霧だったら雲居の雁だけじゃなくて藤典侍も落葉の宮もいるでしょ。選択肢は一つじゃないよ」
わざと聞かせるように答えると、下は十六から上は七十まで、街灯に群れる蛾のように父に集まった女共が、悲鳴とも歓声ともつかぬ叫びを上げた。
「お前も隅に置けないな」喧しい輪の中心で、父は朗らかに笑っていた。「それはそうと、この前の、えーっと、桃子さんだったか。彼女のお爺様からお手紙が来てだな。ぜひ修司と――」
「ちょっと、それは後でにしてよ」面倒事の気配を感じ取り、修司は父の言葉を遮った。
「門の所でハナさんと会ったよ。今日は夜なべして餡パン作るんでしょ」
「ははは、会ってしまったか。いかにも、今夜は俺と修司で餡パンを作る。急に甘いものが食べたくなったんだ。一晩寝かせて朝に甘いものを食べれば頭も冴えるに違いない」
「お父様ったら、本当に急なんだから。ハナさんが可哀想じゃないか――あ、」
微風と共に土の香。いつの間にやら再集結し、厚みを増した雲が雨粒を零す。涙のようにしめやかだったのは最初だけで、すぐに本降りになった。池の水面が数多の波紋に白く烟る。女たちは家中の雨戸を閉めに散った。
「どうしよう、ハナさん傘持ってなかったよ。タクシー拾うって言ってたけれど、迎えに行ってあげた方がいいかな?」
修司は筝の横に胡座をかいた父に訊く。父は少し考えて、それから悪戯を画策する子供のように笑んだ。
「俺が直々に行ってやろう。俺なんかが迎えに来たら、ハムさんも飛び上がって驚くだろう。元はと言えば、急に遣いを頼んだのは俺だ。責任を取ってやらないと」
「お父様が行くならぼくも一緒に行くよ」
申し出ると、いや、と父は首を振った。
「こういうものはな、俺一人で、いかにも雨の中送り出した責任を感じているような顔をして行くのがいいんだ。修司がいると俺の甲斐性が半減してしまう」
「それがひかる君の手口?」
「そうそう、これが大正の光源氏こと俺の手口だ。ハムさんも俺の大切で特別な女中の一人だからな――なに、人探しは得意だ。すぐに見つけて帰ってくるさ」
そう言って、鎖々戸新太郎は腰を上げた。シャツのボタンを閉めながら、家令に外出の用意を命じる。
「修司は餡パン作りに備えておけよ。俺とハムさんが帰ったらすぐに取り掛かるからな」
「わかった」修司は父の顔を見上げ、頷く。「気をつけてね、夜は危ないから……」
付け足すと、父は右目尻のほくろが最も色めいて見えるよう、黒曜石の瞳を細めた。魔法がかかったような完璧な笑みだった。
――その裏の本性は、同類にしかわかるまい。
「俺の心配をしてくれるのか。可愛い奴め」
囁いて、化生は愛し子の額に口接けた。同じ形の鼻が触れ合いそうな程近くで、同一の黒瞳を覗き込む。
「……正直、俺は今までのどの女よりも修司を愛しているかもしれないな」
「本当に?」
「ああ。俺の愛は本物だ。毎回上手くいかないが、修司となら上手くいきそうな気がするよ。お前が一番愛おしい」
美しい顔が離れた。入れ替わりにすべらかな手が伸びてきて、修司の頰を撫でる。
告げられた言葉が、異界の鬼の真実であるよう祈るように、邪悪なその〈心〉に縋るように、修司は口にした。
「ぼくも、愛しているよ。お父様のこと。この世で一番、愛してる」
花の香のように悪意を香らせ、人の形をした毒花は微笑んだ。
お前が息子でよかったよ。言い残して、父は出かけて行った。
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