四章

 その島に流れる邪悪な血は、およそ百年ごとに人喰い鬼を生んだ。

 鬼は血の香を好み、殺戮を欲した。何者かの命を奪わずにはいられないのが、鬼の性だった。鬼の心を鎮めるため、人々は多くの生贄を差し出した。しかしそれでも、鬼は満足することができなかった。いつも空腹だった。強いられる飢餓を憎み、退屈を噛み潰して生きていた。


「いつか、君がお腹いっぱいになるまで殺させてあげる。殺せば殺すだけ褒められる居場所を、君にあげる。約束」


 人喰い鬼と同じ鬼の男は、そう言って小指を差し出した。初めて約束というものをした人喰い鬼は、その日から、少しだけ我慢ができるようになった。

 男は時折島に遊びに来て、鬼に甘美な夢を見せた。

「センソウって、すきなだけころしていいの?」

「味方は駄目だよ」

「いっぱいころすのが、いいことなの? ボク、ほめてもらえる?」

「うん、きっと。勲章がもらえるかもしれないよ」

「クンショーって?」

「この人は頑張りました、すごい人です、っていう証」

「あはは! じゃあボク、いっぱいころす。いっぱい、いーっぱいころして、クンショーもらう!」

 人喰い鬼は、島を囲む海のように広がる血を、そこに山のように折り重なる屍を、その上に立つ自身を思い浮かべ、心を躍らせた。

 血を求め、殺戮を本能とする鬼がありのまま人の世に混じる理想世界を、男は提示した。

 人喰い鬼はにんまり笑って、男の袖を引いた。


「――はやくボクをそとにつれていってね、ひらさん」


     ◇

 

 赤いワンピースに、赤地に黒いリボンの帽子。赤い肩掛けショールを羽織って赤いヒールを履いて、赤い口紅を塗る。神波ミツキは赤色を好んだ。理由は、血と同じ色だから。

 捕まえた獲物が逃げないように、神波は五色の腕を捕らえて歩いた。神波より頭一つ高い五色は恐怖に震えていた。神波の性質は「殺意」だった。両手に刃物を持っているも同然の殺戮者が、五色の肘を掴んで放さなかった。

 五色は同時に道ゆく人々の視線にも怯えていた。さっぱりと刈り上げられた襟足から続く若々しい肉をつけた肩首の線は、五色の知らない彼の美点だった。正しい反りを示す背筋に、皐月の山のような肩甲骨の隆起、引き締まった腰、そしてそれらから予想される端正な容貌を隠す能面が、人々の目を惹きつけてやまなかった。

 全身赤色の、一目で年齢性別を判断することが困難な男と、小面の面で顔を隠した、天稟の肉体を持つ男。側から見れば仲睦まじい奇妙な二人組に、銀座通りは釘付けだった。

「ボク、赤いブラウスがほしいんだ〜」

「あっ、赤いのんやったら、も、もういっぱい持ってる、やないですか……」

「あーん?」

「ひっ、ひぃ……ごめんなさい……」

 神波は人間の格好を真似るのを楽しんでいた。だが人間を演じている訳では決してなく、あくまで人喰い鬼のまま、外の世界の文化を満喫していた。「御影のおじさん」からもらった小遣いで。吾妻から脅し取った金銭で。次は自分の番かもしれないと、五色は神波に呼ばれる度に身体を戦慄かせていた。

(比良さん、助けて……)

 つかの間の雨間に出かけようと思い立つのは皆同じようで、街路の柳が有るか無きかの風に揺れる中、帝都の住人は銀座の街をブラブラ遊行していた。

 たくさんの視線に晒されて、五色は限界寸前だった。一刻も早くここから逃げ出したいと切に願っていたが、人前で心影界に潜ることは避けるよう言いつけられていたし、何より神波にどんな目に遭わされるか。想像しただけで震えが止まらなかった。頼みの比良は、上野にあるらしい知り合いの家に出かけてしまっていた。

 後方の時計店ビルの時計台が、六時の鐘を打った。形ばかりは仲良く身を寄せ合った二人は昭和通りを渡り、歌舞伎座を左に、築地の方へ向かって歩いていた。

 時鐘の余韻が響く中、気まぐれな微風が生ぬるい大気を攪拌する。

「――ひ……っ」

 五色はか細く喉を鳴らして硬直した。花の香で粉飾された血の臭気。ほとんど直感のように面の下の鼻先に触れたそれは、即ち予知だった。臆病な小動物と同じ本能に根ざした危険予知の能力を、五色も持ち合わせていた。主に神波が原因で。

「あーん? 何、五色」

「あっ、あきません、神波さんっ。これ以上向こうい行ったら危ないです。かか、帰りましょう」

「あはは、犬肉にされる前の犬みたい。おら、とっとと歩けよぉ」

「痛いっ! やめてくださいっ……ひぃぃん」

 何度も首を横に振り、元来た道を戻ろうとする五色の腕を、神波は抓った。長く伸びた爪を立てて。

 五色と神波の感性は対極に位置していて、五色が嫌悪や拒否を示す時、そこには楽しく愉快な出来事が待ち構えているということを神波は知り得ていた。高くざらついた笑声を上げながら足を早める。片手で獲物の二の腕を鷲掴みにし、もう片方の手で人差し指を握り、じわじわと外側へ圧をかけながら。

「嫌っ、嫌です、止まってください神波さんっ、ああ痛いっ、痛いっ、ごめんなさい、赦してっ、比良さん助けてっ」

 その異質は既に、五色の心の領域とその境界を重ねていた。互いに互いを明確に感知することのできる距離にいた。一方、神波はまだ気づいていない。自身が、血の臭気を纏った同類から捕捉されていることに。

「――あは、」

 そして、照準。神波はにんまりと口角を引き上げた。不出来な粘土細工のように歪な、生まれながらの殺戮者の笑みを浮かべ、臆せず近づいていく。

 萬年橋の半ば、東亰劇場を背景に、その男は立っていた。

 厚く重なる雨雲と同じ色のチェスターフィールドコート。煙草を挟んだ手で中折れ帽を持ち上げる。同類を見据える、偽りの感情を宿す目は天の青碧。吐き出された紫煙が霧のように霞んで消えた。

 予知夢のように、五色の意識にこの世の裏の景色が挿入される。その領域は、白い花の咲く荊棘の庭だった。清らかな花の棘は冷たく鋭利に輝いていた。

ふー、あぁ、ゆーだれだおまえ?」

 五色の必死の制止も聞かず、神波は声をかけた。

 そばかすの散る白皙が、精巧な微笑みを浮かべる。


「――I'm〈Phantom〉」


 あは、と笑って、神波は五色の腕を放した。誘うように笑み、橋の向こうへ歩き出した異国の化生を追いかける。

「かっ、神波さんっ、」

 呼べど、神波は振り返りもしなかった。スキップでもし始めそうな軽い足取りにただならぬ事態を確信し、五色は橋から飛び降りる振りをして潜没した。



 自分と同じ血の臭気を纏った男は、親指で東亰劇場を示した。どうやら観劇をしようということらしい。

 神波はついて行ったが、乗り気ではなかった。劇よりも食事の気分だった。血を香らせた同種は美味いに違いない。殺意を隠そうともせず、殺す時の快楽をしきりに想像していた。今すぐにでもこの世の裏側に誘って、殺意の刃を振り下ろしたい気持ちでいっぱいだった。

あいむぼーどたいくつ

 足を投げ出して座って、神波は思ったままを口に出した。音楽に合わせて、人間が歌って踊っている。それだけだった。

 ――Whyなぜ ? と聞き取れた。

あいはぶのーいんてれすとキョーミない

 神波は人間の考える音楽に意味を見出せなかった。自分が楽しむために発声することはあれど、その歌詞の意味を考えたり、旋律を美しいと感じることはなかった。況してや他人の歌声など。断末魔や苦痛の呻きを聞いている方が余程心が踊った。

 What何に are you味が interestedある in……そんな感じの語句を、無表情な唇が紡いだ。

あいらいくぶらっど血が好き――あんどまーだー殺すのも

「――Nonsense」

 呟いて、男は席を立った。行こう。そんな意の視線を寄越して劇場を出る。

 街灯の光が雨に滲んでいた。雨音のノイズの中、無言のまま連れ立って歩く。

 男は人気の絶えた裏通りで足を止めた。その清らかな美貌に刻まれた彫像じみた微笑みが、小柄な同類に注がれる。

「……You are the same as a beast, a life without aesthetics」

 掠れた囁きは、雨中を縫って神波の耳に届いた。しかし、神波はその意味を理解することができなかった。

「日本語しゃべれよ」

 神波はもう、自身を抑えることはしなかった。顔いっぱいに笑みという形の殺意を広げ、際限なく沸き立ち沸き上がる本性を内面世界に放出する。

 ――血、血、血。他ならぬ自分が肉を切り裂き、血を浴び、芳しいその臭気の中で呼吸をする。赤い血。命。他ならぬ自分が奪い、蹂躙し、できたての遺骸を踏み躙り、その上に立つ。殺戮者は即ち生命の頂点。邪悪な血は即ち生命の極み。生まれながらにその存在はあらゆる血肉を屠る権能を有す。

「あは、」

 ぼた。尖った鼻から血が滴った。自壊しそうなほどの昂りににぃっと顔面を歪める。上半分は下に、下半分は上に。

 人喰い鬼の四肢がどす黒く変色していく様子を、異国の心鬼は擬態の笑みを浮かべたまま見据える。

「I'm not interested in you, but let's have "dinner" as you like」

「でぃなー? あはは、でぃなー!! 晩ごはん!! いいね!! 一緒に晩ごはん食べよう!! ボクと、お前で――お前が? あっはは、あはは、あはははははははは――!!」

 ざらついた哄笑を響かせ、水風船のように神波の五体は弾けた。

「――Noisy」

 舞い降りた天使の羽根が如く、闇色の花弁が散った。

「あはっ」面隠しの布の下で、神波は横長の瞳孔を細める。「お花だぁ」

 視線の先には白い薔薇が咲いていた。顔と呼ぶには大き過ぎる一輪の薔薇は、そこからずるりと垂れ下がる荊棘で捕らえた人型の何かを糧として咲いているようだった。美しい花に寄生された何かは、死んだように動かない。

 際限なく湧き上がる殺意で満たされた神波の頭には、湾曲した山羊の角。巫女装束を纏い、袴の下、硬い蹄をトカラトカラと上機嫌に鳴らす。両手に持った一対の斧は、骨ごと断ち切る肉厚の刃。

 スキップをするかのような軽やかさで、神波は跳んだ。

 相手を痛ぶり愉しむようなことはせず、一思いに殺すのが神波の流儀だった。同類を三等分にすべく双斧を振り上げる。

「――あいでっ!!」

 しかし鞭のように伸長したいばらに足を捕まれ、巫女は背中から地面に打ち付けられた。目の前で故郷の空の星が散る。

 神波が我が身に起こった事態を把握する間の沈黙があった。

(………………いたい)

 人喰い鬼として生を受けた神波は、ここで初めて、他人から痛みを与えられた。故郷の島の人間も、付き合いの長い比良も、神波に手を上げるような真似は決してしなかった。

 生命の頂点たる絶対的な捕食者を痛めつける。それは断じて許容し得ぬ行為だった。神波は殺戮者としての矜持を傷つけられた。殺す殺すと意気込んで飛びかかった同類に、いとも簡単に。飛んでいる蝿を叩き落とすかのように。

 図らずしもその経験は、神波の新たな境地を拓いた。

「――おこった」

 のそりと起き上がった神波の周りに、まるで鬼火のようにあかりが灯る。人喰いの鬼を中心として円状に浮遊する赤い炎は、化生の〈心〉の現れだった。

「ゆるさない」

 最早笑みの影さえない神波は、ぐわんと頭を振り、長い髪を踊らせ、鮮烈な鬼の心の燎原――〈異常心域〉を発現させた。深い木立の中、鬼の島の儀式の夜と同じ灯火の灯る参道が、ぐるりと辺りを巡る。まじないの燈に導かれ、生贄は人喰い鬼に捧げられる。殺戮の宴の始まりだった。

 生まれながらに心鬼である神波は安定していた。固定された人喰い鬼としての在り方を脅かす者もいなければ、心を乱されるような出来事も起こらなかった。確固たる捕食者の地位にあるが故に、外敵を察知する耳目も鼻も必要としなかった。

 獲物を見つけるための横長の瞳孔がぎょろりと蠢き、花の姿をした心鬼を映した。

「ころす」

 殺意の心鬼は、必殺の斧を打ち鳴らした。宴の始まりの合図というには、あまりに暴力的な音が響いた。

 しかし人喰い鬼の殺意の対象は無礼なことに、全く別の方向を向いていた。生物じみた動きで花弁が開閉し、その下に囚われた人型が目を覚ます。

「――Found you」


     ◇


「心域の半径はおよそ二百メートル。百五十メートル以内に近づくと距離を置くことから、相手は潜没せずともかなりの精度で領域内の動きを把握できるものと考えられます」

 言問橋の影で、異界から帰還した青年は述べた。

「……君ですら勘付かれたのか」

「はい。何度か試してみましたが、最後には現実世界の方から手を振られて、引き上げました」

 清司は生来の無表情のまま右手を挙げ、すべらかな手を二度揺らした。

 どうされますか。問われて、黄泉坂は黙する。学生らの競漕艇が、隅田川を下っていった。

『切り裂きジャック』の作とされる四人目の遺体は、隅田公園の片隅で発見された。

 犠牲者は四十八歳の婦人。喉元から胸部にかけて執拗に皮膚を切り刻まれ、気管と肺、鎖骨と肋骨が完全に露出していた。

 現場には、死体と、それに振りかけられた男の体液、骸の横で踏み消された吸い殻。凶器は医療用メスのような小型の刃物だと推定され、裂創は手首から膝下まで、広範囲に渡り散見された。被害者の血染めの着物は肉と一緒に乱雑に襟元を寛げられていたが、奇妙なことに着物に一切の傷はなく、裂傷は手付かずの帯下や背面からも見つかった。

 ――その上、遺体には身体を切開されたような痕跡が見られた。

 黄泉坂は今朝の新聞の内容を思い出し、「……帰るか」

「そのうち勝手に収束する。相手の関心がこちらに向いた時に改めて対処すればいい」

 清司に財布を手渡す。片手では不便なので報酬は自分で取らせるようにしていた。影の心鬼は規定分だけ紙幣を抜き、財布を持ち主に返す。

「ありがとうございます。黄泉坂さんはどちらへ」空の袖を翻した家主に、清司は首を傾げる。

「私は赤坂の方へ行く」

「射殺事件ですか。そちらは警察に任せると早乙女さんが」

「心鬼が絡んでいないとは限らん」

「調査なら、ぼくが行きます。相手が心鬼だった場合、ぼくの方が安全です」

 同類の能力が効かず、気配も希薄。対象が心鬼の際は、清司が斥候を務めるのが常だった。

「……いや、私一人で行く」

「ぼくは、黄泉坂さんと一緒にいます」

 明瞭な声に、黄泉坂は振り返る。揺るぎない黒水晶の瞳と見つめ合うことしばし。

「……勝手にすればいい」

 溜息を吐き、折れる。ありがとうございます。平坦な音声を聞きながら、憎悪の心鬼は異界に潜った。



 ――古参の心鬼二人は、外国の心鬼について行ったという神波の捜索のため、この世の裏を歩いていた。

「あんな化物を島から連れてきて……躾はしているのだろうな」隻腕の剣士は無愛に言う。

 その隣で、市女笠の心鬼は柳糸を揺らす。笠の中には、孤島の浜辺がぼんやりと霞んでいた。

「神波君は、お利口さんだよ。今のところ、僕に無断で人を殺したことはないし、よく我慢してくれている。渋々だけれど、勉強も頑張っているんだよ。字も読み書きできるようになったし、英語も少しだけなら話せるようになった。

 黄泉坂君、今度ドイツ語を教えてあげてよ」

「断る。ドイツ語なら貴様も習っただろう」

「gelebt...geliebt...gelitten...」比良の発音は怪しかった。「黄泉坂君のノートを丸暗記していただけだから、喋れる訳ではないんだ」

 何故肝心の会話文ではなく、片隅に走り書きした単語の方を覚えているのか。同類の的確な抜粋には気味の悪さすら覚える。

「自分の家のことは自分でしろ」

 突き放して、黄泉坂は既に比良の家の問題に巻き込まれてしまっている現状に嘆息する。

 黒白の内面世界にも雨が降っていた。ただしそれは比良が降らせているもので、「こうした方が見つけやすいから」と広く展開された雨域は即ち比良の異常心域だった。

「……どうにかならんのか、これは」

 そこを歩く黄泉坂はその雨でしとどに濡れていた。髪も着物も、同類の気配を吸って重い。

「晴れている風に見せることならできるよ。それか、試しに僕を被ってみる?」

 市女笠は、くらげのように柳の枝を振る。

「絶対に嫌だ」

「似合うと思うけれど」

 黄泉坂はこれ以上比良の調子に乗せられないよう黙した。

 付き合いの長い黄泉坂にしかわからないことだが、比良は少し、上機嫌だった。それは不吉の予兆に違いなかった。

心鬼僕らは、いくつかの種類に分けられる」

 例の如く、比良は唐突に喋り始める。

「心鬼を分類する前に、僕らの〈心〉の性質とその作用対象を、それぞれ『感情』と『思考』に分けて、窓を作る」言いながら、幻を操る心鬼は虚空に「田」を出現させる。

「僕は流島の〈シンキ〉に〈心鬼〉の字を当てたけれど、〈心〉の〈鬼〉と言うくらいだから、その能力において『感情』は『思考』に優越すると考えている。

 例えば僕は、性質が感情に起因しないし、力の作用対象も感情ではない。だから、どちらかと言えば無害な部類。黄泉坂君は、僕のちょうど逆だから有害。憎しみと、それを抑制するような、感情を殺す力。前に会った時は、思考ごと斬れるようになっていたみたいだけれど、作用対象が僕らが心影界から認識できる〈心〉になったということかな」

 貴様が無害な訳あるか。黄泉坂は喉まで差し掛かった言葉を押し留めた。

 化生が降らす雨の中を、そうとは知らない現世の存在が行き交う。各々の〈心〉を透かした、人型の黒いもや。

「心影界の僕らが〈心〉と認識しているものは、自意識の形象なのかもしれないね。その生命が死んだら、もやと一緒に消えてなくなる訳だから。魂という概念にも近いのかも。

 心鬼の種の中には、現実世界にある肉体にまで、物理的に影響を及ぼすことのできる者もいる。僕は、彼らが〈心〉で人を殺せるのは、この心影界の理が、〈心〉即ち自意識を、その生命の存在そのものと密接に関係させているからだと仮定している。

 黄泉坂君は、誰か知ってる? 神波君の他に、〈心〉で人を殺せる心鬼」

 四角い図が消え、景色は古びた雨の街に変異する。人の形のもやの代わりに、余所余所しく傘で顔を隠した偽りの通行人たちが姿を現す。

 道脇の柳の下に、絹糸の白髪を靡かせるなよやかな背中があった。裏葉色の影の中、振り返りざまにその姿が切り替わる。血縁故に顔の作りは似ているが――決定的に違う。

「……何が言いたい」憎悪の心鬼は忌々しげに口許を歪める。

 隣の比良は、大学に残り研究を続けていた頃の姿に変じていた。蝙蝠傘を傾げ、今より二十近く若い朧げな輪郭を、笑うともなく緩ませる。

「連続婦女惨殺事件の犯人『切り裂きジャック』。僕がさっき伝えた英国の諜報員。それから、最近英国から帰ってきた鎖々戸侯爵家の、新太郎君。

 ――黄泉坂君は、もう気づいている。それを、僕に言わないでいる」

 毒花の笑みを浮かべた悪魔の幻が消え去る。胸の傷口から一筋の憎悪が流れ、黄泉坂は残された左腕で、腰に差した剣の柄を握り込んだ。

 ――質の悪いことに、比良は雨を媒介に、心域内に立ち入った者の脳内を覗き見ることができた。しかも、かなりの深度で。

「新太郎君には、僕も一度だけ、会ったことがあるよ。黄泉坂君の論文を読みたいって、研究室を訪ねてきたんだ。彼が持ってきてくれたショートブレッドはとても美味しかった」

 ふわりと本来の姿に戻った市女笠が、ゆらゆら踊る。

「僕らは、殺し合うべきではないと思うよ。同じ国に住んでいるのなら、なおさら」

「貴様に協力するつもりはない」

「そう」

 街並みが元に戻る。雨の降り続く、黒白の線画の世界。

 五年前。鎖々戸啓太郎の暴走の際にも、比良は姿を見せた。七年もの断絶があったにも関わらず、どこぞよりふわりと現れ、心源となって大心災を引き起こしている化生に幻を見せて動きを止めた。その隙に黄泉坂が鎖々戸啓太郎を斬った。

 比良はその身柄を、黄泉坂に譲った。目的も承知した上で。その時も、同じ科白を口にした。「僕らは、殺し合うべきではないと思うよ」。

 口先では平和主義を掲げるが、比良は黄泉坂の復讐を止めなかった。

「あ、神波君の気配だ。どうしたんだろう。やけに広い」

 比良が言い、黄泉坂も雨の向こうに血の臭気を感じ取った。

 雨域を抜けた先では、異教の悪魔にも似た心鬼が高音で喚き散らしながら地団駄を踏んでいた。

「神波君、どうしたの?」

「比良さんっ!!」怒りを訴えるように神波は叫んだ。かと思うと、ふとその隣の黄泉坂に目を留め、「お前だれ?」

「黄泉坂君。僕の友達。一度会ってるはずだけれど、覚えてない?」

「知らなーい。比良さんにトモダチなんていたんだ」

「貴様と友になった覚えはない」

 市女笠は僅かに俯いた。

「神波君、外国人の心鬼に会ったの?」

「うん!! でもあいつどっか行った!! とちゅーだったのに!! ボクを投げておいて――クソっ!! ぜったいゆるさない!!」

 怒りが再燃した心鬼はわーっと叫んで双斧を振り上げた。

 さり気なく距離を置いて、比良は黄泉坂に正面を向けた。

「……協力はしない」

「早乙女さんと、僕はお話がしたい」それまでは行動を共にするから、という意思表示だった。

「神波君も見つかったし、帰ろう。五色君、お風呂に入れたかな」


     ◇


「せっかく早風呂してやろうと思って準備してたのに……」

 そんなことをぶつくさ呟きながら、白髪の青年は居間を出て行った。恐ろしい化生の気配が遠ざかって、五色は面の内で息を吐く。

 五色のことを気に入ったらしい白い仔猫は、床に座り込んだままの足にするりと身を擦り寄せた。

「あなたは優しい人なのですね」

 無色透明な声に、五色は顔を上げる。「ひぇ」その白雪の美貌に、思わず声が漏れた。

「ミィちゃんは優しい人とそうでない人を見分けられると、早乙女さんがおっしゃっていました。冗談かどうかは知れませんが」

 どうぞお掛けください。勧められて、五色は恐る恐るソファに腰を下ろした。比良の拠点――三雲書法会ではいつも座布団に正座しているから、新鮮な感じがした。

 雪のように白い肌に、艶やかな濡れ羽色の髪。黒水晶の目。絵に描いたような美青年は、優雅な所作で五色の向かいに腰掛ける。

「自己紹介が遅れてすみません。ぼくは、黄泉坂清司と申します。十七歳です」

「ぼ、僕は、ごご、五色まどかといいます。ぼっ、僕も十七です。……きゅきゅっ、急にお邪魔してすみませんっ、お、おお世話になります……っ」

「同い年なのですから、畏まらなくても結構ですよ。仲良くしてくださいね」

「ここここここちらこそよろしくお願いしますっ」

 声を裏返しながら五色は頭を下げた。同年代の知り合いができたことが嬉しく、能面の小さな目の穴から遠慮がちに清司を見つめる。

 比良の友人だという子爵や、さっき部屋を出て行った白髪頭の青年とは違って、清司からは怖い気配が感じられなかった。瞳もそうだが、どことなく比良にも通じるものがあり、心が安らぐ。

 その五色の後頭部を、小さな肉球がたし、と叩いた。

「あっ、やめてっ、ネコちゃんっ……ああっ」紐を引っ張られ、五色は必死に面を押さえつけた。

「いけません、ミィちゃん。おいで」

 清司がリボン付きの鈴を振ると、仔猫はぱっとそちらに飛びつく。

「す、すみません……ああありがとうございます……」

「いえ、うちのミィちゃんがすみません。リボンや紐が垂れ下がっているのを見ると、ついじゃれついてしまうようで。気をつけてくださいね」

 はい、と応えながら、五色は能面の紐を結び直した。少し手が震えていた。

「……お面も取らずに、す、すみません。これがないと、ここ、怖ぁて」

「構いませんよ。人にはいろいろ事情がありますから。なのですから、ぼくに気遣いは不要ですよ、

 銭湯にはたくさん人がいますから、うちの者も皆、あまり好きではないようで。今日はゆっくりお風呂に浸かってくださいね」

「はぇ……」

 五色の目に映る清司からは、紛れもなく後光が差していた。

 ――共通点を強調し、名前を呼んで相手の懐に入る。いいね? 早乙女が三年かけて清司に教え込んだ対話術は、確実にその実を結んでいた。

(比良さんと一緒で、優しい、ええ人や……)

 そんなことは露知らず、五色は無害な人たらしを崇拝の眼差しで見つめる。

 しかし清司にその純粋な憧れを利用しようと企むような邪心は一切備わっておらず、二人の関係はごく平和なまま進行した。

「五色さんも、心鬼なのですね」

「は、はい、一応……比良さんとか神波さんとはちごて、う生まれつきとは、ちゃうんですけど……」

 答えると、清司は何かを考えるように停止した。美青年の無生物的な側面を垣間見、五色は身を強張らせる。 

「心鬼になるきっかけが、あったのですね」赤い唇を蠢かせ、清司は問いかけた。

「あ、あんまよく覚えてないんですけど……きっと、あったんやと、思います……」

 五色の吃りと故郷の訛りは反比例していた。緊張し言葉が上手く出てこない時はぎこちない標準語が、逆に落ち着いている時は関西の言い回しが増える。清司が相手だと比較的安心して、素に近い状態で話すことができた。不思議と視線を向けられている気がしないのも、要因の一つに違いなかった。

 大変でしたね、と小さな声で清司は呟いた。

 廊下から足音がして、接近してくる気配に五色は怯えた。清司の膝の上で丸くなっているミィちゃんも、心なしか毛並みを逆立てている。

「すみません、所用で少し席を外します」

「えっ」

 仔猫をソファに置いて清司が立ち上がったちょうどその時、廊下から傷跡だらけの顔が覗いた。五色は恐怖で震え上がった。

「風呂が沸いたぞ」

「梅子さん、所用で出かけるので、五色さんをよろしくお願いします。すぐに戻ります」

「はぁ!? 清司、お前所用所用って、一体何をこそこそやってるんだ」

「すみません。待ち合わせの時間がありますので。行ってきます。梅子さんが案内してくれますので、五色さんはごゆっくりお湯をどうぞ」

「ひょ……」

 清司の姿が揺らいで消え、五色の喉からか細く空気が漏れた。


     ◇


「何度も出かけて、不良少年かあいつは……」

 早乙女といい清司といい、人に秘密で何をしているのやら。

「おい、五色とか何とか。そんなに離れたら迷うぞ」

 振り返って、廊下の角から顔を出している小面の面に声を投げる。陰気な黄泉坂子爵邸の雰囲気と相まって相当に不気味なのでやめてほしい。

 五色は哀れなまでに縮こまりながらそろそろと距離を詰めてくる。背が高く、ダンスホールで踊っていそうなスマートな身体つきのくせして臆病な奴だ。一体、何をそんなに恐れているのやら。

「まったく、」

 そういえば、ミィちゃんはどこへ行ったのだろう。見回すも、その姿はない。清司がいなくなったから、またどこかへ隠れてしまったのかもしれない。

 厨から土間に降りて母屋の横の風呂場へ五色を案内する。

 潔癖症の疑いのある早乙女を筆頭に、銭湯の人混みを嫌う黄泉坂、外に出ると目立ってよろしくない清司、風呂にはゆっくり浸かりたいわたしと、内風呂推進派しかいないせいで黄泉坂子爵邸の風呂は小さいながらも金がかけられていた。湯も瓦斯ガスの力で沸いた。

 五色に手ぬぐいを渡して、わたしは小さな木箱に保管されている秘蔵の品を出した。

「シャンプーだ。そのへんの石鹸ではない、髪専用のやつだ」

「しゃ、しゃんぷー……」

「使っていいぞ。持ち主不在のうちに減らしておいてやるつもりだから」

 綺麗好きの早乙女は腹の立つことに、おぐしをしっとり艶やかにすると謳われているシャンプーを身体を洗う石鹸と分けて使っていた。

 はぁ? 梅子君なんて石鹸で十分十分。そんな許し難いことを言われた腹いせにたくさん消費してやろうという魂胆で、遠慮せず使えよ、と笑顔で箱を押し付ける。

 滑りが悪いからと梅雨前に清司と修理した風呂場の戸は、逆に滑りがよくなりすぎて普通の力加減だと跳ね返って開いてしまう。ちゃんと掛け湯してから入れよ、と五色に言って、静かに戸を閉めた。


     ◇


(……そら猫も寄り付かんわ)

 心の耳を澄ませ、身の毛もよだつような悍ましい気配が完全に去るのを確かめてから、五色はサスペンダーから肩を抜いた。

(神波さんの方が、まだましや)

 単純で裏表がなく、殺すと口にするか殺すかなだけ、まだ。御匣梅子と名乗る青年は存在がちぐはぐで、まるで何重にも上塗りされた油絵のようだった。御匣梅子という絵の下から、ふとした拍子に別の絵が――本性が顔を出しそうで怖い。吾妻も、よくあんな得体の知れない存在と仲を深められたものだ。

(――神波さん、無事やろか)

 比良と、その友人だという心鬼。生まれた時から四十年以上心鬼をやっている二人が行ってくれたのだから、心鬼になって数ヶ月の新参があれこれ案ずる必要はないのだろうが。神波も、そこまで柔ではないはずだ。

 ボタンを外しシャツを寛げれば、小麦色の、若々しい張りのある肌が露わになる。化物と相対していたせいで、血色のよい肢体にはしっとりとした汗の艶めきがあった。

 鍛錬せずとも筋肉の陰影を顕に示す天性の肉体。下を脱げば、そこには極楽浄土が広がっていた。

 腰から大腿にかけて、男性の象徴の周囲には特に懇ろに刻まれた、かつて彼が属した教え――肉の交わりの果てに極楽往生を見出した淫祠邪教の教義。比良が五色を闇から掬い上げ、神波が教えにまつわる者全てを蹂躙してもなお残る、欲の刻印。

(……神様なんか、おらんのに)

 神の許しを受け極楽に至るために、五色はよごされた。比良と出会った今ならわかる。趣味の悪い刺青は一生消えず、全身には信者たちの、目には見えない欲の手垢がべったりとこびりついている。

 穢れている。だから、見られたくない。見られているということを、知りたくない。五色は最後に能面を外した。視界が広がり、呼吸が楽になる。だが、それが苦しいし、怖い。

 浴室に逃げ込み、隠れるように戸を閉めた。初めて見るタイル張りの床。木製の浴槽からは湯気が立ち昇っていた。

(あったかい)

 掛け湯をして、ありがたく湯船に浸かる。最後に肩まで湯に浸かったのはいつだろう。禊と称して冬でも冷水を浴びせられていた日々の前、祖父に連れられて銭湯に行った記憶は、相当遡らないと出てこなかった。

(比良さんも、後で入らせてもらったらええのに)

 比良も五色と同じような傷を抱えている。常から幻に包まれているそれは、かつて一度だけ、比良が明かした秘密だった。

 ――もっとあるけど、見る? 初対面で急に着物を脱ぎだした比良を、五色は決して忘れない。

 五色にとって、比良は恩人だった。終ぞ自分を助けてはくれなかった神の代わりに暗闇から五色を引き上げ、人の道理から外れた歪んだ存在でも誰かのためになれる道を示した。

(僕は、比良さんのために生きる)

 たとえ共に進む先に、恐怖や痛みが待ち受けていたとしても。

 御匣梅子に言われた通りシャンプーを消費して、風呂を出た。真っ先に面を探す。

「――なっ、ない!?」

 棚の上に置いたはずなのに、どこへ。慌てて辺りを見回すと、入り口のところで、みぃ、と鳴き声。

 僅かに開いた戸の前で、白い仔猫が能面の紐をくわえていた。

「返してください……」

 引っ張ってじゃれついて、その拍子に小さな身体に紐が絡まる。

「あっ、ああ……」

 五色は簀の上にへたり込んだ。

 ひっくり返って頭から面を被って、仔猫は暴れ出した。五色の目の前で、小面の面が床を跳ね回る。

「お願い返して!!」


     ◇


 叫び声が聞こえて見に行ってみれば、不気味な能面が一人でに地べたを跳ね回っていた。びっくりして「うわぁ」と声を上げれば、それに気づいた全裸の五色がわたしを見て絶叫した。わたしもつられてわーっと叫び、その時ちょうど黄泉坂たちが帰ってきた。

「あははははははははははははは!!」

 全身赤い服のおかっぱ頭の女――じゃなくて胸が平面だから男は、ざらついた高音で大笑いする。

「比良ざんっ!!」

 助けを求める五色は涙声だった。悲痛に眉間に皺を寄せた、彫りが深くバタ臭い顔。身体つきもそうだが、やっぱりダンスホールで踊っていそうだった。山田ジョニーとかそういう名前で。

「あらま」

 比良は五色に羽織をかけてやった。濡れているのにも関わらず、頭から。意外に優しいのかもしれないし、そういうのは気にしない質なのかもしれなかった。

「あはは五色!! お前猫にまでいぢめられてやんの!! おい猫!! 猫!!」

 比良の身内――おそらく神波が、踵の高い靴をカツカツ鳴らしてミィちゃんに近づいていく。頭に面を被ったままミィちゃんは最大限の威嚇をし、逃げた。能面が土間を上がって駆けていく。わたしと似たような対応で親近感が持てた。

「黄泉坂君、捕まえてきてあげてよ」

「自分で捕まえてこい」

 全く、他人の家で…… 黄泉坂はもう関わりたくないと言う風に背を向けた。部屋に帰るつもりらしい。

「ただいま戻りました」

 そこに清司が帰宅した。土間の奥から現れ、その手には面を被ったミィちゃんが抱かれていた。

「お前っ……どこ行ってたんだ」

「早乙女さんが、待ち合わせ場所に来られませんでした」

 絡まった紐を解いて、ミィちゃんを地面に下ろす。淡々とした口調で、清司は続けた。

「ちょっと危ない賭けをするから、もし時刻通りに来なかったら探して欲しい、と。今朝おっしゃっていました」

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