二章

 雨の止んだ貴重な夜。雲に隠れた月の代わりに、夜会の光が露に濡れた芝生を照らす。

 しっとりと湿った夜気の中では、奏でられる音楽も叙情的に響き渡る。

「鎖々戸の若様」

 呼ばれて、修司は振り返った。煌びやかな室内が、夜を見つめていた目に眩しい。

 太鼓腹の、柔和な丸顔の老紳士――某財閥の総帥は、孫と思しき十五、六の少女を伴っている。上目にこちらを見上げる純真を絵に描いたような令嬢に、修司は微笑んだ。初心な娘の頰を紅く染めるには、それだけで十分だった。

「若様、よろしければうちの孫と踊っていただけませんか? 夜会は今日が初めてで、至らぬところは多々ありますが」

「そんな。初めての相手がぼくでよければ、もちろんです――さあ、お手を。一緒に踊りましょう、可愛らしいお嬢さん」

 顔を真っ赤にした少女の手を引いて、修司は華やかな輪に加わった。スローフォックストロットの緩やかな四拍子を踏む修司の姿を認めた婦人たちが色めき立つ。

「おや、修司が踊ってる」

「これはこれは。旧鎖々戸の若様じゃありませんか」

「ははは、旧とは失礼な。まあ、もう流石に若様と呼ばれる歳ではありませんね」

 鎖々戸侯爵家長男・新太郎は快活に笑い、声を潜める。「驚くことに、この前三十八になったんですよ」

「新太郎様もそんな御年に。はあ、時の流れは早いものです。私、初めて修司様にお目にかかった時、自分が二十年若返ったのかと思いましたよ。あまりにも修司様が新太郎様の若い頃と似ていたものですから」

「若い頃だなんて、何を仰る。俺は若様ではなくなりましたがまだまだ若いですし、それに今でも十分修司とそっくりですよ。ほらほら、ほくろの位置だって同じだ」

 右目尻を示し、鎖々戸はずいと旧知の富豪に顔を寄せる。

「どうです。定規で測ったら場所も大きさもほとんど一緒だったんですよ。散々騒がれましたが、俺たちが紛れもない親子だってことの証明です」

「わかりました、わかりましたから。子供のように意地を張って、修司様の方が余程落ち着いておられる。御顔以外が似てしまわないよう祈るばかりです」

「顔と、身体が丈夫なところ以外は似なくて結構。変な渾名は貰わないに限る」

 鎖々戸と老紳士は声を合わせて笑った。

「修司様のお身体はもう御心配ないんですか?」

「ええ、医者からも大丈夫だと太鼓判を貰っています。身体が弱くていつ死ぬかわからないからと、十何年も田舎に隠していたのが申し訳ない。元気になったからには、目一杯外の世界を楽しませてやりたくって。ダンスも俺が教えたんですよ」

 上手でしょう? 視線の先の燕尾服姿の青年は、草原を渡り歩くように悠々と、少女と連れ合ってステップを踏む。シャンデリアが投げかける硝子片の燦めきの中、桃色のドレスが花弁のようにひらめき、若い二人の姿は走馬灯のように、参列の紳士淑女に過ぎ去りし昔日を追懐させた。

「本当にお上手で。本場仕込みなだけありますな」

「イギリスは俺たちの第二の故郷ですから。今日は、父と仲良しな大使も来られているんですよ。ああ、まだあそこで喋ってる」

 鎖々戸新太郎が目線を遣った先では、父――鎖々戸侯爵が懇意の英国大使と歓談に興じていた。鎖々戸侯爵は背が高く、軍人寄りの厳つい体格をしているせいで欧州人と並んでも遜色ない。

 英国贔屓で知られる鎖々戸侯爵家は、大使を始め多くのコネクションを持ち、ロンドンの別邸で開かれる催しには王室関係者も訪れる。現地の人脈と語学力を頼まれ、鎖々戸侯爵は大正十年の皇太子の欧州訪問にも随行した。

 英国大使の後方には、黄金の髪の男が控えていた。大使の連れの医官は壁に背をもたせ、会場の様子を眺めながら水の入ったグラスを傾けている。参列の誰よりも長身だが、背の割に愛らしい顔の造りは少年の面影すら宿している。

 ――その碧眼と、目が合った。

「おや、若い二人が――わあ、見てください新太郎様」

「ん? おお! やるな修司」

 鎖々戸新太郎は囃すように口笛を吹いた。

 耳まで真っ赤にした少女を横抱きにして、修司は観衆の注目を一身に浴びつつ歩いて来る。ちょうど曲が終わった静寂。淑女たちは二人に熱い羨望の眼差しを送り、紳士の半数は若君の稀な美貌を心中で妬み、平然と表情を崩さない胆力を恥知らずと非難した。

「桃子も若様も、一体、どうしたんだね」

 祖父に問われて、俯いたまま恐る恐る足を地に着けた少女は「履物が、」と言ったきり黙り込んでしまった。羞恥に耐えるように、柔らかな曲線を描く肩を震わせている。

「靴が合わなかったようで。お怪我をされているから――わぁ! お父様!」

 修司の涼しい顔はそこで崩れた。自分が娘にしたように、今度は父が修司の膝裏に手を入れ、横抱きにする。間近に迫った父の妍容が、修司にだけ解るように片目を瞑る。

「うちの修司が申し訳ない。お詫びに俺がこいつを君と同じ目に遭わせてやるから、顔を上げて、お嬢さん――ほら、さっきの話に戻りますが瓜二つでしょう?」

「わかりました、わかりましたから。ほら桃子、新太郎様もそう仰っておられるから、顔を上げなさい。父君に付き合わされる若様が可哀想だ。お前が機嫌を直さないと、新太郎様は若様を抱いたままホールを何周でもされるぞ」

「高いところからすみません、桃子さん。失礼な真似をいたしました」

 声ばかりは反省する風に修司が告げると、少女はおずおずと顔を上げた。父親に横抱きにされた修司を見て、ふふ、と小さく笑う。修司の口角が微かに蠢いた。

「そうやって並ばれると親子というより年の離れた兄弟のようですな。啓太郎様はあまりこういう場は好まれませんでしたが、修司様は社交的そうで」孫娘の踵にハンカチを巻いてやりながら、老爺は言った。

「あいつは気難しい奴でしたから。修司は俺に似て明るく素直なんですよ。な、修司」

「早く降ろしてよ、お父様。恥ずかしいよ」

「そんなに照れて。可愛い奴め」

 ようやく修司は地を踏んだ。むっと不満げに父を見つめれば、指で頰を突かれる。いじらしい、と向けられる悪戯めいた笑顔が、修司は好きだった。

「ほら、これで少しはましになったろう。靴が合わないなら、今度からは先に言うんだよ」

「また怪我をしても、修司が運んでくれるさ。俺でもいいが」

「お父様とお母様が心配するから、運ばれるなら修司様にしておきなさい」

 はい、と真面目に桃子が返事をして、大人二人は顔を見合わせて笑い声を上げた。修司は少し置いてけぼりにされた心地で、追従して笑みを浮かべた。

 その時、転がり落ちるようなピアノの旋律が響いた。奏者は来賓の英国人だった。

「あの方は、確か、大使とご一緒に来られたお医者様の」

「アルバート・スミス氏です。弾いているのは、フランツ・リストの超絶技巧練習曲の八番ですね。『Wilde Jagd《荒野の狩り》』。難しい曲を、よくあんな簡単そうな顔をして弾けるものだ」

「難しいの?」修司はあえて訊いた。修司もまだまだだなぁ、と返された笑顔に、安堵する。

「手元を見ておいで。どれだけ難しいか、よくわかるさ。お嬢さんも一緒に行っておいで」

 修司は気が進まなかったが、行きましょう、と少女を伴って楽団の横、ピアノの後ろへ回った。漂う幽かな異臭に、眉間に小さな皺を刻む。

「――Don't you think the world made of black and white, like a music score , or like what I see, is beautiful?」

 背後に立った修司に、旋律を奏でながら、男は尋ねた。言葉を投げかける間も、十の指は目まぐるしく、人間とは思えない速さで鍵盤の上を飛び回っていた。

 楽譜を諳んじているのか、男は音の流れに酔いしれるように瞳を閉じている。

 ――は、美しいとは思わないかい?

「……I don't think so《ぼくは そうは思わない》」

 答えると、男の横顔に笑みが浮かぶ。三十二分音符が滑らかに連なり、瞬間の迷走。直後、血痕のように二音が滴る。

 休止符。

「I like music, because it's beautiful《僕は音楽が好き 美しいから》」

 荒々しい主題。紫煙に掠れたような声は、あどけなさを残す少年のような面差しに酷く不似合いだった。

「I can feel the beauty《美しいと感じられる》. I'm proud of this sense《それが僕の誇り》」

「何とおっしゃったの?」

 紅を引いた小さな口で、桃子は質問した。

「音楽が好き、と」短く、修司は答えた。

 つまらない回答に少女はいたく感心した。

「好きだから、目を瞑っていても弾けるくらい上達されたのね。たくさん練習されたに違いありませんわ。好きな事は、どれだけやっても苦になりませんもの。音への思い入れも一入なのでしょうね」

 よくここまで感想を述べられるものだ。その想像力に、修司は辟易した。

 すぐ横を楽団の人間が通過して、避けようとした桃子は怪我をした足をもつれさせ、侯爵家の若君に寄りかかった。期せずして密着した二人の視線が交差する。

「危ない。大丈夫ですか?」

 肩口に手を添えて問うと、ええ、と少女は顔を赤らめた。

 修司は全身を粟立てていたが、不快を表に出さないように桃子の支えになってやった。

 縋るように見た遠い父は、桃子の祖父と何やら楽しそうに喋っていた。置いてけぼりにされたようで、少し寂しかった。



 ――おいで。一緒に帰ろう。

 ぼんやりとした寒さに包まれたあの夜。血濡れた手を取った時から、修司の運命は一変した。

 血腥い臭気を纏った男と一緒に、タクシーの中で言い訳を考えた。隠し子、いや、孤児みなしごの方がいいか。それにしても俺たち、他人とは思えないくらい似ているな。やっぱり隠し子にしよう。俺は君を知らなかったが、母親は病気で死ぬ前に俺の存在を君に伝えたことにして――悪戯を画策する子供のように、侯爵家の長男を名乗る男は修司に囁きかけた。気配こそ悍ましかったが、無邪気な声の響きは何もかもを失い、同時に酷い自己嫌悪に陥っていた修司の心を解した。男はふいににこりと笑うと、土埃のついた修司の頭を撫でた。

「君も大変だったんだな」

 男は自作の脚本を自賛したに過ぎなかったが、その一言で、修司は救われた気がした。

 涙を零す修司の目元を親指で拭い、男は、あ、と小さく声を上げた。

 運命だ。言って微笑む男の右の目尻には、修司と同じ、一点の刻印があった。

「俺たち、ずっと前から親子になるって決まっていたみたいだな。君、名前は?」

「修司です。八重垣、修司……」

「修司。ふふ、修司、か。鎖々戸修司。うん、いい名前だ」

 着いた家に、修司は見覚えがあった。靴のまま入れる洋館に、広大な庭。母屋の日本建築――化け物の巣。修司は驚きも恐れもしなかった。包丁で自分の胸を突こうとするくらいには諦めていた人生に、手が差し伸べられただけで十分だった。その手が血に濡れていようと構うまい。記憶喪失の青年の因果も、修司には関係ないことだった。

「可愛いだろう。今日から俺の子になる。風呂に入れてやってくれ」

 母屋の玄関を潜った侯爵家の長男は開口一番にそう言って、出迎えた家人たちを大いに驚かせた。ホテルに泊まる予定のはずが夜遅くに、しかもあちこちぼろぼろになって帰宅し、その上隠し子だという小汚い少年まで持ち帰ってきたのだから三重の驚きだった。

「また五位様が突飛なことを……どこに隠してたんだか知らない子を突然連れて帰ってきて、お父様から叱られても知りませんよ。風呂に入れろと言われましてもねぇ。そう仰る五位様が一番汚れているじゃありませんか。せっかくのお召し物が、まあまあ、あらあら……」

「長い間、俺に子がないことに気を揉んでたんだ。ほら、こんなにも似ているんだし、そう煩くは言われんだろう。

 俺が一番汚いとは、盲点だったな。このまま寝ようと思ったんだが……しょうがない、俺も風呂に入るか。ああ、それなら一緒に入るか、修司」

 年嵩の女に検分されながら、風呂を沸かしてくれ、と男が命じると、使用人たちが修司の横を抜けて洋館の方へと小走りで駆けて行った。召使いがいることに、修司は呆気に取られて目を瞬かせた。男の高そうな上着には穴が三つも開いていて、腰を屈めてそれを検める老女はしきりに嗄れた声で遺憾の意を表していた。

 服は手遅れだと突き放され、汚いからと母屋にも上げてもらえなかった侯爵家の嫡男は、風呂の準備ができるまで、修司の手を引いてぶらぶらと庭を歩いた。鏡面のような池には丸い月が映っていた。

「もし息子がいたら、やりたかったことがあるんだ」

 ふと男はそう言って足を止めた。修司が不思議に見上げると、男は心持ち切れ上がった黒曜石の瞳を細めて、修司の後ろへ回った。

「――わぁ!?」

「おお、これが肩車か。ふふ、悪くない悪くない。暴れると落ちてしまうぞ」

 修司を乗せたまま、男は危うげに、しかし上機嫌に二歩、三歩と歩んだ。濡れ羽の髪に触れるのが躊躇われて、修司はどこにも縋れぬまま、わあわあ悲鳴を上げた。

「ほら、手をここに。こうすれば怖くないだろう?」

 小さな手だなぁ。修司の手を握って自分の頭に導いて、男は言った。池のほとりで足を止める。「まさか自分がする立場になるとは思わなかったな」

「昔、修司ほど大きくはなかったが、同じように父に肩車をしてもらって、ちょうどこうして池の周りを歩いたんだ。俺はそのとき父と一緒に池に落ちたが、修司に同じことはすまい。今はまだ寒いから」

「……もし、今が夏だったら?」

「ついうっかり、足を滑らせていたかもなぁ」

 可笑しくて、修司は小さく笑った。高さにも慣れてきて、目線を上げ、遠くを見る。春先の夜の松韻は切ない心の騒めきに似ていた。胸の奥が、幼い手で扼されるように、僅かに痛んだ。

 ――父さん、修司! 見て、あそこに柿がなっているよ!

 片割れと一緒に左右の肩に乗せられて、父の刈り込んだ頭の感触が面白くてしきりに撫でたり叩いたりしながら、修司は――かつての清司は、高所からの景色に胸を躍らせた。

 こっそり修司に柿を取らせてくれた父は、果てしなく遠い存在のように思われた。追憶の果て、最早輪郭すら朧げな、落日の色の実。

 ――母さんに怒られそうだから、俺たち三人で食って帰ろうか。お堂の横に並んで座って、父はぴかぴか光る新品のナイフで実を切り分けた。日に焼けた横顔は少し寂しそうだった。おいしいね。言うと、父は頭を撫でてくれた。硬い、武骨な手だった――父は、修司を愛してくれていた。修司も父の事が大好きだった。

「どうした? 修司。俺の足が覚束ないばかりに、怖い思いをさせてしまったか?」

「……いいえ、」

 訊かれて否と応えるも、修司の目の淵はたちまち潤んだ。貴人の頭を涙で汚してしまわぬよう、泥まみれのシャツの袖で顔を拭う。

(……どうして、死んでしまったの)

(ぼくは、父さんが死んだせいで、悪い子になったんだよ)

 修司は幼い頃に支えを失い、歪んで育った木だった。父が死んで母は変わり、死んだ父は、いくら願えど修司を助けてはくれなかった。不要品の虚しさを抱えた日々から救い出してはくれなかった。

 隠し子の異変を感じ取ったのか、男は修司を降ろした。向かい合って、服が汚れるのにも構わず膝をつく。

「もしかして、肩車をされたのがそんなに嬉しかったのか」

 真面目くさって問われて、修司は腕の下で笑みを返そうとしたが、唇は不恰好に戦慄くだけだった。

 修司はまた、自分のために父との約束を破ろうとしていた。

 差し伸べられた手を取るには、過去を断ち切る必要があった。何もかもを捨てて、隠して、男の講じた脚本の通りの別人を演じる必要があった。

 父との約束を破って兄弟を売った。母を殺した。少しでも修司の過去が露見すれば、せっかく伸べられた手が罪人の頰を打って、離れていってしまうかもしれない。男と浅からぬ因縁を持つ青年の傍にいる兄弟の存在は、知らないものとして永遠に黙っておかねばならなかった。

 お前たちは二人で一つだ。兄弟仲良く、協力して生きていけよ――父の声が蘇り、修司は心持ち切れ上がった目尻から大粒の涙を零した。修司は約束を破ってばかりだった。

(……だからぼくは、誰にも愛されないんだ)

 修司は怖かった。兄弟の代用となることでしか愛情を得られなかった自分に、大切な約束を踏みにじり続けている自分に、誰かを繋ぎ止めておけるような力はないに違いなかった。母が修司そのものを愛してはくれなかったように、男もまた、いつか修司を倦んで捨ててしまうかも知れなかった。利己的で、保身ばかり考えている修司の醜さが原因で。

 男は秀でた形の眉を下げ、泣き続ける修司を困惑した風に見上げていた。早く泣き止まなければ愛想を尽かされてしまう。修司は必死に涙を抑え止めようとするも叶わず、肩を震わせしゃくり上げた。

「……修司は、たくさん苦労したんだな。こんなに小さいのに」

 男は修司の汚れた髪を梳いた。泥と涙の染みた手首を握って、修司の泣き顔を露わにする。みっともない表情を見られるのが嫌で、修司は顔を伏せた。

 男は修司の両手を、自分の手で包んだ。同じ温度の、すべらかな手だった。

「そんなに泣いて、きっと俺には言いにくいこともあるんだろう。言いたくないことは言わなくていい。俺も、言えないことは山ほどある。修司が殊更悩まずとも、人間みんなそんなものだ。気にしてはいけない。

 それにしても、修司は随分と軽いな。これからは、俺が好きなものを好きなだけ食わせてやるからな。我慢も遠慮もなしだ。俺と一緒に楽しく生きよう。つらい思い出も忘れるくらいに。大丈夫だ。修司の居場所は、ここにある」

 ――俺は何があっても、自分で拾った手前、修司を捨てはしないよ。

 修司。呼ばれて顔を上げると、完璧に微笑む美貌があった。

「ぼくのこと、嫌いにならない……?」

「何を莫迦なことを。毎回上手くいかないが、俺の愛は本物だ」

 告げて、男は修司を抱き締めた。「そんなことで泣いていたのか。可愛い奴め」

 ごめんなさい。絶え絶えの声で言って、修司は震える腕で化生の抱擁に応えた。この世の裏から放たれる悪意を受けながら、一対の緋色の花片が紡ぐ声が真実であることを願い、ひとえにそれに縋った。

「パパ」

 修司の背に手を回したまま、唐突に、男は口にした。

「……ぱぱ?」

「違うな。ダディ」

「だでー?」

「うーん、お父様」

「お父様……」

「よし、俺は今日から修司のお父様だ。いいな?」

(――ぼくは、もう、)

 修司は頷き、全てを捨てた。

 そうして、二人は親子になった。

 鎖々戸新太郎と修司の親子は、周囲が余計な詮索をして喧しくなる前に英国に飛んだ。緑に囲まれた別荘で、父は子に、手ずから物を教えた。英語も作法も知らず最初は気後れしたものの、自由な暮らしは楽しかった。現地の使用人たちは修司が鎖々戸新太郎の隠し子だとわかると、皆納得した様子で世話を焼いた。侯爵家長男の実子。その身分が、修司という存在を保証した。

 英国式の英語もダンスも身につけて、修司はいつしか「鎖々戸の若様」と呼ばれるようになった。同時に少し高慢になったが、それが許される程美しくなった。仲睦まじい父子は、この上なく優美な一つがいの芸術品だった。誰の目にも美しいものとして映る二人を中心に、世界は回っていた。

 修司の隣で、父はいつも朗らかに笑っていた。修司は幸せだった。

 父が望む平穏を守ることは、居場所を与えられた修司の忠義だった。


 ――人差し指を、ほんの少しだけ強く握りこむ。それだけで、父の望みと、修司の願いはいっぺんに叶えられた。


     ◇


「ミィちゃんただいま〜! 寂しくなかったかい?」

 久々に姿を見た気がする早乙女は、帰宅するや否や出迎えたミィちゃんを抱き上げ、肺一杯にその白い毛並みを吸った。人を精神的に虐めて愉しむのが趣味のくせして仔猫をべろべろに甘やかす姿は、正直気味が悪い。

「早乙女さんおかえりなさい。黄泉坂さんと清司はまだ帰ってませんよ」

「うわ、見てミィちゃん。また暇人が絵描いてるよ。僕が忙しくて大変な思いしてるのに、いい身分だねぇ〜」

「『切り裂きジャック』に『魔弾の射手』、二人も相手にお疲れ様です」

「えぇ、何ミィちゃん? 穀潰しは出て行け? その通りだねぇ〜」

 わたしは一人と一匹の世界にわざわざ立ち入ることはせず、鉛筆を動かしながら茶番を聞き流す。

 ミィちゃんと戯れながら、早乙女は居間の床に転がった。小さな肉球が可愛い、ピンクの鼻先も可愛い、まん丸な目も。この世の可愛いが凝縮されている。どうしてこんなに可愛いのか。同じ空間にわたしがいるのにも配慮せず、正しく猫撫で声で、言葉の限りに仔猫を褒めそやすのはいかがなものか。

「はぁ……ミィちゃんの可愛さに全人類がひれ伏せばいいのに……世界平和……」

 早乙女は大分お疲れのようだ。わたしはそう結論づけて、趣味に集中することにした。

「――、」

「ん? 何か言いました?」

「ううん、何も」

 額にずり上がった眼鏡を元の位置に戻しながら、早乙女は急に立ち上がった。わたしに視線を向け、やけに神妙な表情で口を開く。

「――梅子君、うちに誰か入れた?」

「え?」

「入れたんだね」

 わたしの回答を待たず、早乙女は断定した。証拠は隠滅したはずなのに、なぜ。

 額に冷や汗を滲ませるわたしに対し、早乙女は毒気のない笑み浮かべる。

「別にうちに誰も呼ぶなとは言ってないよ。どんな人?」優しい声が、かえって恐ろしい。

「す、少し藪睨みで、背は清司と同じくらいで、でも清司ほど細くはなくて、見た目は三十代、くらい……どこにでもいるような感じの人です」

「どこの人?」

「どこの人……さあ。恩賜公園で絵を描いていた時に知り合って、絵の話をするくらいでしたから。お互いのことに関しては、特に何も話してません」

 早乙女は、へぇ、と言ったきり、ミィちゃんのことも置いて、部屋を出て行ってしまった。無害そうな笑みはそのまま。いつの間にやらその手には、何かしらの機械が握られていた。ミィちゃんが、みぃ、と鳴いて、白靴下の足を追いかける。

 一体、何だったんだろう。わたしは疑問符を浮かべたが、お咎めなしならこれ幸いと、机の上の林檎のデッサンに戻った。


 次の日の朝。いつも通り目覚め居間に降りると、そこでは黄泉坂が一人、茶を啜っていた。

「おはようございます、黄泉坂さん。他の二人はどうしたんです?」

 尋ねると、黄泉坂は机の上、畳んだ新聞の横に置かれた二枚の紙を視線で示した。

「家出します。探さないでください。SS《えすえす》……早乙女直……」

 その横には、

「出かけます。昼食はいりません。夕飯までには帰ります。清司……えぇ……」

 ローマ字の筆記体を思わせる癖のある細い字、教科書のお手本のような模範的な小さな字は、それぞれ間違いなく早乙女と清司の筆跡だった。

 黄泉坂は溜息を吐いた。

「今日の晩飯当番は君だ」

 面倒そうに双眸を伏せ、庭を見遣る。景色の彩度は低い。今にも雨が降り出しそうだった。


     ◇


 『三雲みくも書法会』は、その一間にも満たない狭い門だけが表通りに接していた。

 江戸時代からあるらしい由緒ある門を潜ると、両脇に紫陽花の植わった小径が裏屋へと続く。苔むした石畳は常に濡れたような色を呈していて、天気の良し悪しに関わらず、静かな小径には湿った薄い影が落ちていた。

 日陰者の住処と喩えるに相応しい古屋だった。かつてここを住まいとしていた書家も、人に教えこそすれ書芸で日の目を見ることはなかったという。

 吾妻は玄関の戸を、やや持ち上げながら横へずらした。木材が湿気を吸うせいで一層、立て付けが悪い。隙間に身体を捻り込むようにして中に入る。

 妖の巣のにおいは、黴臭い中に白檀のような一種宗教じみた芳香が幽かに混じる。湿り具合は家の外も内も似たようなもので、戸を閉めれば、流入した外気も陰鬱な室内の空気に溶け入る。

「こんにちは。報告に上がりました」

「殺す、殺す、殺す……殺い、殺がい、殺しょう……」

 大昔には子供らが肩を並べて書の稽古をしていたという広間では、人外が漢字の勉強をしていた。ふっくらとした唇を尖らせ、神波は珍しく集中しているようだ。

「やあ、吾妻君、こんにちは。神波君、ちょっと筆圧が強いよ。机が痛むから、もう少し優しく」

 はぁい、と神波は素直に返事をした直後、ぼきりと鉛筆の芯をへし折った。

「あーあ。比良さん新しいのちょうだい」

「どうぞ、神波君。吾妻君も座りなよ」

 比良に勧められ、吾妻は卓袱台を囲む座布団の一つに正座した。卓上には酷使に耐えかね折れた鉛筆の芯が散らばっており、見る角度を変えれば、光の加減で神波の努力の痕跡が浮かび上がった。

 K、I、L、L……Y、O、U…… 吾妻は物騒な刺青を彫られた机を哀れんだ。三雲書法会は御影中佐が伝手を辿って調達した、家具付きの貸家だった。

「あの、吾妻さん……」

 気弱な関西訛りが聞こえてそちらを向くと、能面の無表情があった。

「ああ、五色ごしき君。子守なんてさせてすまないね。ありがとう」

暁夫あきお君は、大人しい子ですから……大丈夫です……」

 均整な肉のついた若い腕から、吾妻は今年二つを数える息子を受け取った。草いきれのような熱を孕んだ芳香を残して、面を被った青年はじりじりと後退る。

 吾妻は残り香の中に玄関先で感じたのと同じものを嗅ぎ当てた。この陰気な家の香木の正体はおそらく彼だが、シャツに香を焚き染めている訳でもなく、どこから香っているのかは不明だった。

 顔を隠す面なしには生活できない極度の対人恐怖症ではあるが、今年の二月に加入したばかりの五色は、年若なせいもあって、この家に住む三人の妖の中では一番接しやすい。他の二人と違って気遣いができ、男鰥の身には有難いことに子守を買って出、御影中佐にもまともな茶を出す。

 比良曰く、後天的に心鬼になった者は感性も常人に近いところがあり、先天的な者と比べると性質が優しいのだそう。超常的な能力を持つ者の事情など吾妻は知らないが、生まれながらの心鬼たる比良と神波に人の心はないという事だけは確かだ。八百屋で肉が買えないように、比良と神波から慈悲は受けられない。もらえるのは出涸らしの茶と、声だけは愛想よく浴びせ掛けられるその飛沫だけ。

 暁夫を膝の上に座らせて、吾妻は比良に向き直る。

「本題に入りますが、比良少佐」

「聞いているから、どうぞ続けて」

 剃刀で鉛筆を削りながら先を促す比良に、吾妻は内心で渋面を作った。重要な仕事と私用を同時進行するなと言いたいところだが、自分も子連れの身故憚られた。

「……比良少佐の予想通りと言いますか」ぼんやりとしているように見えて、この男は不思議と勘がいいので油断ならない。「英国の諜報員の情報が、御影中佐から。ですが、」

 ――急に湧いて出た情報だ。まるで幽霊か何かのように、複数の情報筋から、突然に。

 参謀本部の情報将校たる御影中佐は少々変わった人物で、諜報活動に決して良い顔をしない者が多い陸軍内で、その重要性を説き、自らも独自の情報網を持っている。

 ――意図的に情報が流されている可能性がある。撒き餌、ということもあり得る。

 ならば誰の餌か。尋ねた吾妻に、御影中佐はにやりと性の悪い笑みで答えた。

 ――比良少佐なら、喜んで食いつくかもな。あいつ、いや、は、何でも食べるから。

 人の命でも何でもな。そう言ってからからと笑った。彼も吾妻と同様、もしくはそれ以上に、比良という存在を人として見ていない節があった。得体の知れない、だが有用なことは見込める化物。気の抜けた顔に油断してはならない。

「英国の諜報員が紛れ込んでいる、と。ただそれだけが、同時に複数の情報筋から」

「それを聞いた誰かが、動くことを予想して流されている。ということだね」

「そうなりますね」御影中佐は比良をけしかけようとしている。盗聴器を仕掛けた時と同じように、心鬼という異能の存在を試すために。「どうしますか? 比良少佐」

 僅かな思考の間を、器用に剃刀を滑らす音が満たす。

「――僕は、試験の時、解答に困ったら、鉛筆を転がして決めていたんだ」

「……はい」

「御影中佐は、きっと僕らに諜報員を捕まえてほしいんだね。情報を教えてくれたということは」

 姿勢正しく座した比良は、常から眠たげな瞳で、作品の黒い尖りをじっと見つめる。

「結構当たるんだよ」

 まさか、と吾妻が口を開く前に、鉛筆は既に卓上を転がっていた。小気味好い音を立てながら、比良に選択を委ねられた筆記具は卓から転げ落ち、五色に道を譲られて、畳の縁に引っかかって止まった。

 ふむ、と比良は考え込む様子。

「比良少佐、実はもう一件報告がありまして」

 鉛筆占いの結果は聞きたくないと、吾妻は別件を切り出した。

「何?」

「盗聴器が外されました」

 昨晩のことだ。比良の命を受けた吾妻は、路肩に停めた車内に身を潜めていた。機器の向こう側、留守を預かる御匣梅子は絵でも描いているのか、しばらく沈黙が続いていた。九時を回った頃誰かが帰宅した気配があり、しきりにミィちゃんを可愛がる心地よい揺らぎを持つ声から、吾妻は彼が図らずしも入手した二枚目に描かれた人物ではないかと予想した。『魔弾の射手』に『切り裂きジャック』。話の内容から、彼はどうやら警察関係者、もしくは記者のようだった。彼はしばらく、仔猫と戯れていた。

「そう。早かったね。何か聞こえた?」

「それが、」吾妻はその瞬間、盗聴器越しに比良に話しかけられた御影中佐の恐怖を理解した。

「――〈Phantom〉と」

 その声は確かに、盗聴器の向こう側にいる誰か――吾妻に向かって発された。

 直後機械音が鳴って、吾妻の作戦は終了した。受信機からは、もう何も聞こえなかった。

「Phantom……幽霊、幻、幻想……」比良は左上に目線を遣り、思案する風。

「声の主は、おそらくこの方かと」吾妻は鞄からスケッチを抜き出し、机の上に提示する。「名前は、早乙女さん、と」

 上手な絵だね。比良は御匣梅子の作を手に取り、紙面に空虚な目を据える。

「彼は、黄泉坂君の家の養子かな。元々書生だったとかいう。――ちょっと、黄泉坂君のところに遊びに行ってくるよ」比良はそのまま絵を袂に入れた。

「ええ!? べんきょー終わったらいっしょにお出かけしてくれるって比良さん言ったのにっ!!」

 卓袱台を叩き、意義を唱えたのは神波だった。やだやだ、と腰を浮かせた比良に向かって訴える。耳に痛いざらついた高音が響く。

「新しいお洋服いっしょに見に行くって約束した〜!! アイスクリン食べたいって比良さんも言ってた〜!!」

「ごめんね神波君。急用。吾妻君に連れて行ってもらいなよ」

 今度は吾妻が目を剥く番だった。

「ええ!? 困りますよ暁夫もいますし。それに神波君と一緒だと変な目で見られる……」

「あーん? 何だって?」

「神波君は可愛らしいから私みたいなのが並んで歩くと不釣り合いと言いますか」

 あはは! だろうね! ボクかわいいから! 神波が哄笑して吾妻は内心で胸を撫で下ろした。神波の扱いも上達してきたと思う。

「今日は家で留守番していて、神波君。天気も悪いし。きっと、そのうち降り出すよ」

 一人で出かけたら駄目だよ。そう言いつけて、比良は出かけて行った。玄関の戸を開けるけたたましい音がしたから、人の世を歩いて行くのだろう。雨男の象徴たる蝙蝠傘を差して。

 比良の姿が消えるや否や、神波はわーっと叫んで背中から倒れた。黒いおかっぱが古びた畳に散らばる。余程楽しみにしていたのか、やだやだと身を捩らせ手足をばたつかせ駄々をこねる。

 見た目や言動から大分幼く見えるが、神波は十七の五色より、三十七の吾妻と歳が近かった。御影中佐はそんな神波に小遣いを渡したりするが、神波がもらえるのなら自分ももらえるのではないかと、吾妻は不思議に思ったりもする。 

「あ〜っ!! お出かけしたかったぁ!! 吾妻が比良さんにホーコクなんてするからぁ〜!! 吾妻のせいだ吾妻のせいだ〜!!」

「ごめんなさいねぇ。私からも、今度神波君に新しいお洋服を買ってあげるよう比良さんに伝えておきますから」

「今日がよかったぁ!! あ〜っ!! 吾妻のバカやろ〜!! あああああああああ――あ、」

 ふいに、捕食者の瞳が部屋の隅で縮こまっていた能面の方を向いた。神波はむくりと起き上がり、愛嬌のある丸い頰を吊り上げた。

「五色ぃ。ちょっとボクに付き合ってよぉ」

「ひぃ」


     ◇


(――ここは、)

 心域には雨が降っていた。

 修司は自身の手を見遣る。雨。肘から垂れる天衣も水を吸って重い。白黒に染め分けられた前髪から、雫が滴った。

 周囲は木版画のような、平面的な雨の街。行き交う人々は皆、余所余所しく傘でおもてを隠している。巴水の版画にも似た、異界の景色。雨の軌跡ごと刻み込まれたどこか古めかしい街並みは、化生の〈心〉の投影だった。全容を現すまでに膨れ上がった、人ならざる者の内面世界。

 見知らぬ鬼の心に迷い込む前、修司は雨の銀座を一人で散策していた。

 視程の悪さを鬱陶しく思いながら、訪れた三越の屋上から通りを眺めていると、ふと、自身の心域に違和を感じた。偶然互いの領域がすれ違った訳ではなく、意図を持って、〈あちら側〉から肩を叩かれた。そう確信して、相手の誘いに乗った。

 修司は辺りを見回す。誰の肩を叩いたか理解させてやる。そう意気込んではいたものの、少し軽率だったかもしれない。上手く隠蔽された罠のように、潜った先には既に化生の心が展開されていて、降りしきる雨のせいか、自慢の鼻も利かなかった。幽けく漂う土の香が、鬼の体臭を掻き消していた。領域の主は一向に姿を現さず、それに腹を立てて躍起になって探す間に、修司は自分の座標を完全に見失ってしまった。

 それでも現世に脱出しないのは、父の騎士たる意地だった。父がいる手前、正体不明の心鬼をのさばらせておくわけにはいかない。父は、平穏を望んでいる。

 修司は背負った千の腕を方々に伸ばした。白く柔い手は雨に濡れながら、獲物を求めて奔放に広がる。

 しかし得られる情報は、全くの出鱈目だった。腕が傘を差す通行人をすり抜けたかと思うと、何もないところで誰かの心に行き当たり、ごそごそと記憶を拾い上げる。拾ったついでに背中の口に放り込むと、じわりと滋味のある承認の記憶。義母から褒められた。そんな若い女の映像が脳裏を過ぎる。続けて探ってみるも、雨の心域と関係のない情報ばかりが、予想外の場所から出土した。視覚情報は宛にならないようだ。

 幻を見せられている。直感して、修司は形の好い唇を歪めた。

 ――あめあめ、ふれふれ。

 そのとき、どこからか男の声が聞こえた。ぼんやりとした、寝言のような歌声だった。

 他人が道に迷う様子を、歌を歌いながら眺めているのか。幻の向こうに隠れて。怒りを覚え、修司は何が何でもこの心域の主を引きずり出してやろうと決意した。

 腕を引っ込め、鋭く視線を巡らせ、

「「あ、」」

 声が揃ったのは、やはり二人が双子だからだろうか。

 角から顔を出した影の心鬼は、二つの目をぱちりと瞬かせる。

「久しぶり、修司」

 走り寄ってきた兄が先手を打った。元気だった、とすっかり青年の輪郭になった首を傾げる。

 弟の動揺を嘲笑うかのような、影の不変の佇まい。修司は湧き上がる感情を抑え、努めて冷静に笑みを形作った。修司は今や侯爵家長男の子だった。

「やあ、清司。ぼくはこの通り元気だよ。清司は相変わらず影みたいで面白味がないね」

「修司が元気そうならよかった。ぼくは修司に話があって、会いに行こうとしていたんだ」

 声音に感情の起伏はないが、息災を喜ぶようにうんうん頷くのが気に障った。修司は仮面の下の右頬を引き吊らせる。

「へぇ、お前が? わざわざこんなところまでぼくに会いに来るくらいだから、余程大事な話なんだろうね」

「うん。大事な話。こっちを歩いてたら、偶然修司が見えた。会えてよかった」

 修司は心の中で大きく舌打ちした。

(会えてよかった、だって? もしかして健忘症?)

 昔と何一つ変わらぬ兄の態度が、忘れ去ろうと心掛けていた忌々しい歴史を修司に回顧させた。誰にも愛されず、必要とされなかった過去。それに由来する幼稚な八つ当たりも、修司が勝手にそうと感じた裏切りも、父という拠り所を得た今は、幸福な日々に影を落とす人生の汚点だった。目の前の影がその翳りそのもののような気がして、修司は冷たい笑みはそのまま、細めた瞳に嫌悪を滲ませた。

「あのね、修司」

「後にしてくれないか? ぼくは今、ここの主人に挨拶をしにいく途中なんだ」

「知り合いなの」青年の姿をした影は小首を傾げる。

「違う! ……ぼくにちょっかいをかけてきたくせに、隠れて出てこようとしないのが許せないんだ」

「修司と話がしたいから、ぼくも探すの手伝うよ」

 清司が協力を申し出て、修司は目的のため不承不承、行動を共にすることにした。

「広いね。三年前の大心災の時と同じくらい広い」修司に並んで歩く清司は口にする。「ずっと同じ景色が続いている。異常心域でも、こんな殺風景なものがあるんだね」

 修司は黙って聞き流す。隣に並ばれるのが気に食わず、無言で距離を置けば、清司も無言で距離を詰めた。終いには修司が道の端を歩く羽目になって、離れろ莫迦! と怒鳴る。

「お前、着いて来るだけで何もできないの?」

「ぼくには心がないから、心域もない。だから、目を頼りに心鬼を探すしかない」

 役立たず、と修司は毒突いた。鬼の領域に広がる、迷路のような街並み。こんな人混みの中では、目は一番使い物にならない。

 修司は自身の心域に意識を傾ける。領域の重なりは感じられるが、肝心の相手がどこにいるかまではわからない。気配は均一に降り注ぐ雨と同じように感知された。

「あめあめ、ふれふれ……」

「『あめふり』だね。北原白秋の。修司も知ってるの」

「いや、さっき聞こえた。男の声で。きっと、ここのやつが歌ってるんだよ――何? どうかした?」

 修司は振り返る。足を止めた兄弟は、目を瞑り、完全な影の塊と化していた。

 黒水晶の双眸が、静かに開く。

「――泣いているのは、彼かもしれない」

 そう言って、清司は歩き出す。

「どういう意味だよ」

「柳の木を探そう。彼は、おそらく、そこにいる」

 あらあらあの子はずぶ濡れだ。柳の根方で泣いている――清司は歌詞の一部を諳んじた。

 莫迦らしい。修司は思ったが、それ以外の手がかりはなく、渋々清司の提案に乗ることにした。

 思い返せば今までの道に木など一本も植わっていなかったが、迷いなく進む清司についていくと、橋の脇で有るか無きかの風に揺れる柳の老木に行き当たった。柳糸も少なでみすぼらしい風姿のそれは、突如として修司の前に現れたかのように思われた。

「見つけた」獲物を前に修司は好戦的な笑みを浮かべ――直後、表情を凝固させた。

「根方にはいないみたい。どこだろう」

 修司の心など知らず、清司は柳の方へ向かって歩いていく。

「どうしたの、修司」

 兄が振り返る。修司の喉が、苦痛に鳴った。

 清司の背後、柳の葉陰に、父と母の姿があった。

 軍服姿で日に焼けた、快活そうな面差しの男と、藤色の着物の、白百合のような容姿の女。互いに微笑み、仲睦まじく身を寄せ合った過去の記憶の住人は、瞬きすると掻き消えた。

「修司」

 呼ばれて、我に返った修司は怒りに唇を歪ませる。

 他ならぬ自分の――記憶の鬼の深部を漁り、一番忌まわしい過去の幻影を見せられたことが逆鱗に触れた。

「どいて!」

 清司を押し退け、それぞれ持物を携えた千の腕を伸長する。腕の一対で弓に矢を番え、狙うは頭上。

 ――鋭く矢音。矢が空を走り、雲を切り裂く。


「お見事」


 割れた雲間でくるりと回る、縁の欠けた偽りの太陽。回転に合わせ日輪の光輝が如く広がるは柳枝。むしの垂衣の代わりに柳をぶら下げた市女笠が、ふわりと踊った。

「この……っ!」

 修司が二矢目を番えるも、笠の心鬼の姿は瞬く間に薄れ、ついには心域ごと姿を眩ませてしまった。

 異常が去り、この世の裏側、黒白の線画の世界が回帰する。雨の予兆ような土の香が、そこに化生の心があった名残として漂っていた。

「修司」

 修司の心に生じた波濤のことなど知りもしないで、片割れは上を指し示した。

「話のついでに、一緒にアイスクリンを食べに行こう」

 は? だよお前となんか。言いかけて、修司は逆を答える。「いいぜ」

「お父様﹅﹅﹅とよく一緒に行く店があるんだ。個室があるから、そこにしよう。ぼくは自分に同じ顔の兄弟がいるなんて誰にも知られたくないから、お前はこっち側からついて来いよ」

 涼しい傲慢を浮かべて命じると、兄は、わかった、と短く返事した。

(父さんも母さんも、八重垣の人間はもうぼくには関係ない。清司だって、別の家の子だ。父さんの約束だの何だの、知ったことか。ぼくは、鎖々戸修司なんだから)

 あの性悪な鬼が何の目的で二人の幻影を見せたかは知れないが、とうに捨てた過去を今更見せつけられたところで、修司の心は揺るがない。修司はもう、鎖々戸侯爵家の子なのだから。

 ――清司にも、それを理解させてやらねばなるまい。

「修司はアイスクリン食べたことある」並んで歩き始めながら、清司は訊いた。

「家でよく女中が作ってくれる。ぼくが頼めばいつでも出てくるよ」

「すごいね」修司の少し上からの物言いに、清司は素直な賛嘆を返した。「幸せだね」

 すごい? 幸せ? 兄の人間らしい発言に内心驚いたが、心が備わっていなくても上辺だけなら何とでも言えるだろうと、修司は自分を納得させた。

「ああ――ああ、そうさ。ぼくは今、すごく幸せさ。昔からは考えられないくらいね。だから、くれぐれも邪魔するなよ、清司。お前の家の奴らもだ。ぼくやお父様に何かしたら、ただじゃおかないから」

 清司は心当たりを探す間を置いてから、わかった、と静かに応えた。

「黄泉坂さんにも伝えておく。黄泉坂さんは……君のお父さんをよく思っていないから、難しいかもしれないけれど。ぼくと修司は、二人で一つだから、修司が幸せなら、ぼくも幸せ」

 修司は、ふん、と鼻で笑った。

「そ。なら、ぼくのために尽くせよ。ぼくの幸せが、お前の幸せなんだろう? ぼくに何かあったときは、黄泉坂子爵がやったみたいに、清司が身代わりになれ」

 修司はかつての父との約束が無用だということを突きつけるために、その悪用を示唆した。

「いいよ」しかし、兄は迷わず首肯した。「兄弟で協力して生きるよう、父さんは言ったから」

「じゃあ、本当にそうしろよ」

 片方が既に破棄した約束を、愚直にも守り続けるがいい。いい様に利用されるばかりとは知らずに。

 うん、と頷いた兄を見て、修司は心の内で舌打ちした。

(父さんはもう死んでいないのに、莫迦みたいに約束を守って、利用される方が悪いんだ)


     ◇


 薄暗い仏間で、父と母の位牌を見下ろしていた。

 自身が夢の中にいることを、黄泉坂は悟った。目の前に仏壇がある時点で、居間のソファで微睡んでいた直前の記憶と合致しない。現在の黄泉坂子爵邸に、神仏への信仰を表すものは一つとして置かれていない。

 ここに小さく縮こまっている父と母は――自分の人間としての肉を形作った者たちは、遠い昔に死んだ。人から遠ざかるうちに、位牌を何処へやったかすら忘れてしまうくらい、昔に。

 心鬼という名の化物も、人間から生まれる。少なくとも、父と母は善良な人間だった。国に身を捧げ、片足を失くした挙句肺病で死んだ男と、死んだ夫が遺した金を騙し取られても、健気に働き続け過労と心労で死んだ女。そう考えると、いよいよ自分と彼らとの血縁を信じられなくなる。家族で撮影した写真に収まっていた幼子は、五つの時から化生の顔をしていた。

 人の道理から外れた化け物には、何かを憎む心はあっても、親であった者たちの死を悼む心はなかった。憎悪の心以外にあったのはただ――

「――兄貴、」

 背後の襖が音もなく滑った。声に振り返ると、弟が立っていた。

 永遠の断絶を言い渡された時と同じ軍服姿の、軍帽の陰に閃いた水の潤い。弟はまろぶように、一歩二歩と歩み出た。

「俺は、兄貴のところへ帰るよ」

 先立って肩同士がぶつかった拍子に軍帽が落ちる。垣間見えた弟の横顔は涙に濡れていた。

 抱き竦められ、耳元で紡がれた言葉は救済の言葉。確かな体温が、慈愛に満ちた重みとなって鬼の身体を包む。

「今まで、ごめん……俺は、これからずっと、兄貴と一緒にいる……」

 重ねて日に焼けた首筋から匂い立つ、陽と汗の香り。時は永劫と感じられるまでに引き伸ばされ、その内部で、切なる献身は実を結ぼうとしていた。脈を透かし、檻と化した萼に守られた、朱い鬼灯の実のように。

 ――鳥籠の中で、鬼に生まれた兄と人間に生まれた弟は、二人だけの言葉を交わして暮らしていた。満ち足りていた。二人きりの世界では、憎悪の鬼が自らの醜さを自覚することもなかった。鬼は人間と同じように弟に愛を注ぎ、弟もまた、兄にしか聞こえない言葉でその愛に応えた。そもそも二人しかいないのだから、兄弟である必要もなかった。鳥籠は普遍的な幸福と、優しい愛に満ちていた。死ぬときも、二人は一緒に死んだ。

(報われることはないと、知っていたくせに)

 瞑目し、自省する。扉を開けて待ち続け、取り残されて募るのは、がらんどうの後悔。

 愛を注ぐべき対象は死に、それでも変わらぬ想いを示す術は、本性憎悪でもってそれに殉じる他になかった。愛を授かったところで、憎悪から生じた鬼は、最初から憎悪に死ぬ運命だった。

(……それでも私は、お前を愛している。ずっと)

「兄貴……」

 幻想の香を吸い、息を吐く。軍服の背に回しかけた左腕を、半ばで止めた。


「――悪趣味だぞ、比良」


 雨音。

 蝙蝠傘がくるりと回る。

 庭先に立つ同類は、笑うともなく笑っていた。


「お変わりないかい? 黄泉坂君」

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