一章
音もなく降る霧雨が、水無月の夜を閉ざしていた。
彼は摩擦をやめない。
足元には、熟れた女の死肉が横たわっている。
身体の内奥から滲むようにして湧き出た細かな水泡が、肌色の水面に殺到する。
彼は摩擦をやめない。彼は摩擦を繰り返す。
雨の衣を纏った血の香りが、有るか無きかの風に舞う。
やがて彼は無音で絶叫し――放出した。
◇
大正二十四年・六月
「待て、待たんか不審者っ!!」
つんのめって転びそうになりながら、不審人物の背を追って裏路地に入る。水溜りに足を突っ込んで泥を蹴立て、急ぐあまり草履を引っ掛けてきてしまったことを後悔する。
民家の明かりもほとんど届かない裏手の隘路には、夕方まで降り続いていた長雨の香りが濃く残っていた。危うく青蛙を踏みかけて、ぎゃっ、と叫んで飛び上がる。
何が目的か
「止まれっ、観念してわたしに捕まっておいた方が身のためだぞ!!」
わたしの制止も聞かず、鳥打帽を目深に被った男は路地を飛び出し、寺の横の人気ない道に出る。
男に続いて路地を出れば、重く垂れ込んだ梅雨の夜空が拝めた。道幅は十分に広い。不審人物の姿を目で追って、わたしはその先、塀からせり出した豊かな枝葉の下の影が、ゆらりと揺らぐのを見た。
――ばしゃん、と盛大に泥水が散った。
「あーあ、やったな清司。乾かないのに洗濯物増やした」
「梅子さんも足元が泥だらけです」
言い返す無機質な声は、青年のテノール。
清司は容赦なく水溜りに叩きつけた男を引きずり起こし、塀にもたせかける。汚れた雑巾のようになった不審人物はぴくりともしない。
「シャツにまで泥つけてる清司よりはましだ」
「本当だ。替えがもうありません。黄泉坂さんにお借りしないと」
上体を起こして自分の胸元を確認した清司の頭は、わたしより高い位置にある。
清司の背はここ二年ほどで青竹のように伸び、ちょうど去年の今頃、わたしの背を抜いた。今では早乙女より高くなって、黄泉坂の悪質な早足にも難なくついていけるほど。
「黄泉坂も、きっとお前に貸し出せるほど手持ちはないぞ。そのうち遺品を出してくるかもしれない」
出されたところで、黄泉坂の養父が使っていたらしい布団で寝ている清司は気にしないのだろうが。
仰いだ鈍色の空は、今にも休憩を終えて降り出しそうだ。悪天続きで、洗濯物は一向に乾く気配がない。仕方なく部屋に干そうにも、最近住み着いた新しい住人がいるせいで油断ならず、わたしのズボンは目を離した隙に裾がズタボロになった。追い出そうにしても、早乙女が庇うせいで上手くいかない。
「それにしても、何なんだこいつは」
ぐったり脱力したままの男を見下ろす。そもそもこいつが不用心にも黄泉坂の領域に立ち入ったりしなければ、服が汚れることもなかった。
「〈あちら側〉からは、
「匂いがしたということか?」
「はい。お線香に近い香りでした。お寺で嗅いだ記憶があります」
「〈
心鬼から匂いがするというのも、不思議な話だが。門の前に何かいる、と分厚い紙束から顔も上げずに言った黄泉坂も、その匂いを嗅ぎ取ったのだろうか。
男があまりにも動かないので、打ち所が悪かったのかと清司に命じて帽子を取らせる。
大丈夫か? 呼びかけるも、四十絡みの男は虚ろな目を見開いたまま微動だにしない。
「清司……お前、」
「呼吸は正常のようです。この人自身は普通の人ですから、おそらく、心鬼の影響かと。何者かに操られていたのかもしれません」
清司は獲物の息を確認し、述べる。
――あめあめ、ふれふれ、
そのとき、清司の推察の裏付けをするかのように、男は覚束ない呂律で歌い出した。
「『あめふり』ですね。北原白秋の」
この前ラヂオで聴きました。清司は冷静だった。
「貴重な晴れ間に、縁起の悪い。おい、やめろ、起きろ」
脱がせた帽子で頭を引っ叩くと、壊れたラヂオの真似をしていた男は、はっと身体を跳ねさせる。ややあって恐々とこちらを見上げた目は、正気を取り戻していた。
何があったか事情聴取をする前に、頰の痩けた男はわたしの顔を直視するなり悲鳴を上げて、まるで幽霊でも見たかのようにすたこらと逃げて行った。失礼な奴め。
「――逃げたか」
時期を見計らっていたように黒い炎が上がって、黄泉坂が姿を現す。
「追いますか? また来られても迷惑ですし」
「……いや、いい。放っておく」
心鬼の気配を纏っただけの人間は不問なのだろうか。釈然とせず伺った表情は、暗いせいでよく読み取れない。
「雨が降ってきました」
清司が口にして、水滴がぽつんと頰を叩く。ぱらぱらと雨粒が降り始める。
「ほら、あんな歌歌うから。急いで帰りましょう」
「私はあちら側から帰る。洗濯物を増やしたくはないから」
「ぼくも黄泉坂さんと一緒に帰ります。お先に失礼します」
文句を言う前に二人の姿は異界に消え、一人取り残されたわたしは悔しさに歯噛みする。心鬼としてのわたしは相変わらず、すぐ横の同類の気配すら感知できない有様。心鬼の体臭など嗅ぎたくはないが、利便さを享受できないのが不満だった。
濡れ鼠になる前に、急いで帰らなければ。足元のことは諦め、わたしは駆け出した。
◇
「ただでさえ雨ばかりで憂鬱なのに、こうも嫌な事件が続くと一層気が滅入っちゃうよねぇ」
重厚なデスクに腰掛け、早乙女は琥珀の瞳で窓の外を眺める。際限なく雨粒を降らせる、馬の腹のように垂れ下がった雲の下、烟る街は暗く、昼も夜も大差ない。
雨に閉ざされた帝都。その街並みには目下、雨音に隠れるようにして推定二名の殺人鬼が潜んでいる。
ここの長――警視総監は、物憂げに紙面に目を落とす。
「……『魔弾の射手』と『切り裂きジャック』か。洒落た名前をつけたものだ」
「ドイツのオペラと、イギリスの猟奇殺人犯ね。上手いこと言うね、帝都新聞」
早乙女は口調だけは感心する風。目線の先、降り続ける雨は、血も証拠も何もかも洗い流してしまう。
人々を脅かす怪物じみた人殺したちは、どちらも梅雨入りと同時に現れた。右翼思想に傾倒する青年将校らが狙撃・殺害された『青年将校射殺事件』。雨夜を出歩いた婦人が全身を切り刻まれ、見るに堪えない骸となって発見された『連続婦女惨殺事件』。
犠牲者は魔弾の射手が六、切り裂きジャックが四を数え、帝都新聞を始めとする各紙は次の犠牲を予想するのに躍起になっている。
「原作に準ずれば、魔弾の射手の弾は六発目までは射手の狙い通りに、しかし七発目は悪魔の望む箇所を撃ち抜く。今までに射手に殺されたとされるのが六人。七人目は悪魔が照準している――次の犠牲者は切り裂きジャックだ! なんて、面白いよねぇ」
「それで解決してくれたら、こちらとしても手間が省けて楽なんだが」
「はは、君も言うようになったねぇ」
「交代が近いからな。――で、貴様としてはどうなんだ」
問われて、早乙女はにっこり笑って目尻を跳ね上げる。
「悪魔がジャック・ザ・リッパーを射殺してくれたらなぁ、って、僕も君と同感。希望的観測を述べるよ。君と同じで、お役御免が近いから」
「職を退くのはお互い様か。魔弾の射手は?」
「引き続き、君らが追うといいよ。きっと、彼はまだ君らの管轄だろうから。――任期も終わりに近づいてみれば、僕らもなかなか便利だっただろう?」
それこそ悪魔と契約した気分だったが。真面目な顔で言われて、早乙女は笑みを深める。組んだ足の上で頬杖をつき、雨に濡れる帝都を眺める。雨は止みそうにない。
「……悪魔の狙いが外れたら、どうする」
「君にとっての悪魔らしい僕たちがどうにかするよ。ジャック・ザ・リッパーは君たちの手には負えないから。下手に追えば死体が増える。ごつい男が彼のお眼鏡に適うかは知れないけど」
「シンキとかいう存在か。射手とどう違う?」
「魔弾の射手には、シンキの文法がない」
絵画を鑑賞するように、雨傘が行き交う遠い往来を見つめ、早乙女は続ける。
「何も痕跡が出てこないのは引っかかるけど、彼の殺しにはシンキの文法が見当たらない。その〈心〉に――性質に従った理由が存在しない。
射手に殺された将校たちは、実業家や華族を、特に財界と近しい者の暗殺を企てていた。彼らは一人につき絶対一人は殺すつもりだったらしいから、六人も命を救われた財界は彼に感謝すべきだろう。将校たちも、楽に死なせてくれた彼に礼を言わないといけない。仮に彼がシンキだとしたら、頭に一発だけなんて、そんな楽な死に方はさせてもらえなかっただろうから。
シンキは心で人を殺す。遠距離から狙撃なんて論外。何人も殺すような殺戮の才能のあるシンキは、もっと理不尽に、本能的に殺す――まるで、食事でもするみたいに」
「……切り裂きジャックのあれは、食事なのか」
「おそらくね。四、五十のご婦人ばかり狙うなんて、かなりの偏食だけど」
早乙女は明るく笑顔を作った。隣の男の肩に手を乗せる。
「将校たちが狙ってた標的とその身内、もう一度洗ってみてよ。よろしく」
外に降る雨音の厚みが増す。笑みの明度を落とした早乙女はふとズボンの裾に白い毛を見つけ、微笑んだ。
◇
「こんにちは、
「これは
顔を上げると、鈍色の空を背景に、三十年配の男が人好きのする笑みを浮かべていた。少し背が高く、やや藪睨みなことくらいしか特徴のない大人しそうな男は東と言い、梅雨入り前、ちょうど
カンカン帽の鍔を持ち上げて、東はベンチに座るわたしの手元を覗き込む。着彩するんですか、と訊かれ、首を横に振る。
「素描の練習です。ただでさえ憂鬱な季節ですから、暗い色は使いたくない。色をつけるなら、夏になってからにします。蓮の咲いている景色が好きなので」
「なるほど。一面に蓮が咲く景色は、塗り甲斐がありそうだ。夏になったら、ぜひ、俺にも見せてくださいね。それで、もし御匣さんがよければ、俺に買わせてください――俺、御匣さんの絵が好きなので」
「……えっ、え!? そうなんですか!? そんな、買うだなんて……習作含めて家にたくさんあるので、わたしの絵でいいなら差し上げますよ?」
鉛筆を取り落としそうになるほど慌てて、わたしは腰を浮かせる。暇を持て余し、絵を始めてから三年近く。まさかそんなことを口にされるとは思いもよらなかった。
「そんな、ただで頂くなんて申し訳ない」東は鞄から財布を取り出す。「……おいくらですか」
「や、や、いいんですいいんです。財布をしまってください! うちにいっぱいありますから!」
――しばし押し問答を繰り返し、わたしは東を
「へぇ、ご立派な御宅ですね」
「大きいばかりで全然掃除が行き届いてなくて。汚くて申し訳ない。ちょうど家の者は出払っていますから、お気遣いなく」
さりげなく足で埃を払いながら、年に一度来るか来ないかの客人を客間へ案内する。が、襖の隙間からちらりと見えた陰鬱な雪景色に迷わず進路変更する。
「あ、何か白いのが。猫か犬でも飼ってらっしゃるんですか?」
鬼の生活圏に案内されていることも知らず、後ろを歩く東が声を上げる。ちりん、と微かな鈴の音を立てて、こちらを偵察していた白い毛玉が廊下の角に引っ込む。
「梅雨前から、小さい猫が。飼っているというより、住み着いている感じですが。わたしは嫌われているので、家にわたししかいないときはどこかに隠れているんです」
わたしのズボンをズタズタにした憎き猫畜生――通称「ミィちゃん」は、名付け親の早乙女と、早乙女から直々に餌やりを命じられている清司にしか懐いておらず、一番敬意を払うべき家主の黄泉坂のことは無視し、わたしのことは威嚇する。全身の毛を逆立て、小さな牙を剥き出しにして全力で拒絶してくる。余程わたしが気に食わないらしい。
こんなところで申し訳ない、と東を居間に招き入れる。黄泉坂がいつも座っているから上等なのだろうと、人の顔のシミが見下ろす方のソファを勧める。
「用意がなくてすみません。絵を取ってきますので、ちょっと待っていてください」
来客用の菓子など常備していないので、茶請けには清司がおやつに買って来た羊羹を出した。遠慮する東に断って部屋を辞す。自分の作品に値段をつけて売るなんて考えもつかなかったが、買いたいと言ってもらえたのは素直に嬉しい。この期に作品を見せびらかしてやろうと、弾む気持ちで階段を駆け上がる。
勢いよく自室の襖を開け、その惨状に頭を抱えた。中央にはイーゼルに立てかけた書きかけのカンバス。完成品はずらりと壁際に並べてある。床には画材が散らばり、水彩やら水墨画やら、描くだけ描いた絵は使い終わったスケッチブックと一緒に山と積まれている。清司を見習って、常日頃から部屋を整理しておくべきだった。まあ、清司は元から私物が少ないが。
選り分けるのが面倒で、結局書き溜めた習作をあるだけ風呂敷に包んで居間へ戻った。
「わぁ、こんなにたくさん。すごいですね!」
「暇だけは持て余しているので。去年のでよければ、着彩したものがありますよ。夏の弁天堂の」
直球の賛辞に内心穏やかではなかったが、悟られないよう努めて冷静に返す。風呂敷から溢れ、机からはみ出さんばかりの絵に目を輝かせる東はまるで子供のようだ。一枚一枚丁寧に眺めてはあの手この手で褒めそやす。
「どれも素晴らしい……! あれ、人も描かれるんですか?」
と、東が手を止める。秋の紅葉に春の桜、恩賜公園の四季の景色の間から、見目麗しい青年が顔を覗かせていた。
居間のソファに腰掛け、右手を支柱に上体を傾けた清司のスケッチだった。顔の造形だけでなく、清司の優雅な身体つきも十分表現できたと自負する自信作だ。
「ええ、練習に。良いモデルがいるので」
ふふん、と得意げに鼻を鳴らして、一度命じれば微動だにしない優秀な被写体を誇る。
「へぇ、それはいいですね!」東はしげしげと絵の中の清司を見つめる。「いやぁ、流石だ。彼の顔立ちに、御匣さんの腕が感じられます。こんな美しい人を描けるのなら、美人画もいけるんじゃないですか?」
「美人画? いや、その、わたしの腕以前に、彼は元からそんな顔です」
ええ!? と東は大仰に驚き、斜視の目で食い入るように絵を見る。彼の気持ちはよくわかる。
「……嘘だぁ」下にあった清司の胸像も矯めつ眇めつ検分し、東は感想を漏らした。
「俺も絵を通していろいろな顔を見てきましたが、画家の腕こそあれ、こんな美しい顔立ちの人はそうそうお目にかかれるものじゃありませんよ――ああ、いえ、御匣さんも整った顔立ちをしておられますが、彼は現実味が薄いといいますか。無表情のせいですかね」
「そんなわたしに気を遣っていただかなくとも。彼の顔が別格だということは重々承知しておりますから。彼をモデルにデッサンしていると、動かないのもあって何だか石膏像を相手にしているような気分になります」
描き終わった絵を見て、これは美化しすぎたな、とモデルの清司と見比べる。すると不思議なことに、絵の清司と現実の清司は同じ顔をしていて、わたしは自分の描写の正確さを再認識することになる。まさしく絵に描いたような顔なのだ、清司は。
あれから三年が経ち、初めて会った時のわたしの直感通りに、清司は美しい男になった。憎々しいまでに、一つの瑕疵もなく。
「あの……これ、いただいてもいいですか?」
『ソファに座る清司』を手に、おずおずと東が尋ねる。自信作を手放すのが惜しい気持ちもあったが、わたしと東の仲なので、他の人には見せないという条件をつけて、わたしは清司のスケッチを譲った。
大切にします! と東は心底嬉しそうな顔で言って、絵が折れないよう自分のスケッチブックに挟んで鞄にしまった。
「御匣さんは人物もお上手なんですね。風景画を見せてもらうつもりで来たのに、すっかり彼に見入ってしまってお恥ずかしい。いつか彼をモデルに大作を描いてくださいよ。その時のために貯金しておきますから」
楽しみにしていますから。そう告げて、わたしの謙遜を背に東は帰っていった。
居間に戻って、家人が帰ってこないうちに証拠隠滅をする。途中から二人して清司の顔を褒めていただけだったが、知り合いの少ないわたしにとっては貴重な楽しい時間だった。
風呂敷に収めながら改めて自分の作品を見ると、人物画は清司ばかり描いていた。浴衣姿の清司に上裸の清司は去年の夏、籐椅子に座ったまま居眠りする清司にはこの春の日付が記してあった。自室にある分も合わせれば優に百は超えるだろう。
対して黄泉坂の絵は、直線で構成された、ほとんど下書きのような一枚だけ。ソファに横になって寝ているのが珍しくて、急いで描いたが間に合わなかった。鉛筆を走らせる音で目が覚めたのか、黄泉坂は顔に乗せていた本を持ち上げわたしの姿を確認すると、何も言わずに居間から出て行ってしまった。もちろん作品は未完だ。早乙女曰く黄泉坂は写真が嫌いだとのことで、顔を残されるのが嫌なのだろうとそれ以降描いてはいない。偉い人は家に自分の肖像を飾るものだとばかり思っていたが、黄泉坂子爵は例外のようだ。
「あれ? 早乙女、早乙女、猫莫迦の早乙女……」
早乙女の分はなかったかと絵の山を探す。早乙女は黄泉坂ほど逃げはしないが、顔の印象が掴みにくくて描くのが難しい。清司とは逆で、よく描けたと自画自賛して本人を見たら、全然違う。どういう仕組みでそうなるのかはわからない。早乙女からも全く似ていないとケラケラ笑われて自尊心が傷つくせいで気は進まず、枚数は少なかった。
ただ本人の知らぬ間にこっそり完成させた最新作は満足のいく出来で、あいつの高い鼻を明かしてやろうと保管していたのだが……どうやらこっちには紛れていなかったようだ。
「うわ、また降ってきたか」
絵をまとめた風呂敷を泥棒のように担いだ直後、まばらな雨音を聞く。雨足はあっという間に勢いを増して、雑草の繁る庭を水浸しにする。
「あめあめふれふれ、かあさんが〜」
その光景に、荷物を背負ったまま我知らず口ずさむ。こうも雨続きでは縁起が悪いが、雨雲を吹き飛ばせとばかり軍歌のように大声で歌いながら居間を出た。下手くそでも家に一人の今は誰にも聞かれやしない。絵を褒められたせいで、わたしはすこぶる機嫌がよかった。
そういえば東は傘を持っていなかったが、無事だろうか。大事そうに鞄を抱えて走る姿を想像し、彼には申し訳ないが、少しだけ笑った。
◇
生ぬるい風が多分の湿気を孕んだ大気を攪拌し、土の香が漂い始める。
「――雨が降りそうだね」
背後から忍び寄り、隣に停車したフォードから声がかかる。雨が降りそうなのは他ならぬ雨男のせいではないのか。心の中で返して、カンカン帽の男は鞄を抱えて車に乗り込んだ。
「やぁ、ヒガシ君」
「……
ごく自然に投げかけられたのは冗談か否か。軟質な無表情を前に考えても無駄だと悟るまで一瞬、慣れ半分諦め半分で東――吾妻は応える。小さく息を吐いて帽子を取り去り、額に張り付いた髪をかき上げる。多湿なこの季節だけは、かつてのように頭を短く刈り込みたい。
隣に座る和装の男は、小ぶりな
あ、降ってきたよ。眠たげな幅広の二皮目で外を見遣り、独り言なのかこちらに反応を求めているのか、男はどちらともつかない調子で口にする――何を考えているのかわからない、雲のような男。吾妻の直属の上司は彼をそう評し、吾妻も同意見だった。
道端に停まったままの狭い車内に、雨音が反響する。
「――
独語と推定し、吾妻は現在の上司兼監査対象を呼ぶ。何、と返された声は穏やかな反面、どこか空虚だ。
(……この人の、どこが少佐なんだろう)
吾妻は後部座席に忘れたように置かれている機器のつまみを回す。ざざ、と短くノイズが走る。
『あめあめふれふれ、かあさんが〜』
じゃっのめでおーむかい、うーれしっいな。聞こえてくる歌声は雑音を差し引いても酷い。吾妻は逆の方向へつまみをやや戻した。
「へぇ、ちゃんと聞こえるんだね」比良は感心する風。
「聞こえはしますが……」
ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷらんらんらん!! 調子外れの歌声が遠ざかっていく。どうやら部屋を出たようだ。吾妻は安堵の息を吐き出す。
「……こんなことをして、本当に意味があるんですか?」作戦の意義を、吾妻は問う。「疑惑が満載とはいえ子爵の御宅の内情を探ったところで、私たちに何か利があるとは思えませんが。何かお考えでも?」
「意味は――特にないよ」
比良は平然と言い放った。「考え事も特にない。
「えぇ……」
そんな好奇心で自分は得体の知れない化け物との接触を命じられ、足繁く恩賜公園に通う羽目になったのか。役作りに励み、絵まで練習して。――順調に振り回されておるな。報告の度に憐れみを垂れてくる御影中佐の声が蘇り、吾妻は苦虫を噛み潰したような顔をする。そもそも、知り合いの家に盗聴器を仕掛けるな。
比良は見るからに武人のものではない白い手で、鹵獲した受信機に触れる。
――あれ、御影中佐が来ていたの? 二週間程前、彼らの拠点において、外出から戻った比良は留守を預かっていた吾妻にそう訊いた。
いえ、と客間で待機していた吾妻が否定すると、比良は何かを感じ取るように目を瞑り、そのまままっすぐ歩いて、付書院の下、地袋の小襖をストンと開けた。
「御影中佐、聞こえていますか? 裏手の車までお迎えに上がります」
電話の相手に話しかけるような平和な声音だったが、虚偽の報告をした吾妻も、裏道に車を止めて音声を聞いていた御影中佐もぞっと震え上がった。――かくして、比良少佐は最新の盗聴器を入手することに成功した。
「僕ら《﹅﹅》は、諜報活動に向いていると思うんだ。かくれんぼも、追いかけっこも得意だから」
独り言の調子で、唐突に比良は語り始めた。吾妻は怪訝に隣を見遣る。
「鍵のかかった建物に忍び込むことも、隠された人間関係を暴くことも、造作ない。他にも、幻を見せたり、心を操ったり、何の証拠も残さずに殺したり。僕らにできることはたくさんある。だから他の国も、僕らを――〈心鬼〉を、諜報員として利用しているんじゃないかな。
どう思う? 吾妻君」
「その国の機関において比良少佐の仰る〈シンキ〉というものの存在が認められているのであれば、可能性はあると考えます」
吾妻は事務的に応えた。勝手に喋っているだけだと思って聞き流していたら、急に問いが飛んでくる。比良の注意点の一つだ。
――一向に良い返事をしない自分たちに、遠回しに文句を言っているつもりか。勘繰るも、曖昧で真意の透けない特有の表情を前にし、口を噤む。
比良は僅かに頭を傾げ、虚の目を、形だけは穏和に細める。
「そう。可能性は十分にある。そして、もし、心鬼の諜報員が存在するのなら、彼が一番気をつけるべきは同類だ。心鬼だけが、心鬼を的確に見抜くことができる」
「つまり?」
結論が見えず、吾妻は急かした。
「つまり……遅かれ早かれ、僕らは他国の心鬼と接触する。水面下で、戦力の探り合いが始まる」
「他国のシンキが来日する可能性がある、と」
「うん。逆でもいいけれど、きっと他の国は、僕らよりも進んでいる……」
結局は迂遠な当て擦りか。吾妻は心の中で渋面を作った。
『かっけましょかばんをかあさんの〜!! ふんふふんふふんふふんふ』
「うろ覚え……」
「元気だね」
絵描きの心鬼は居間に帰ってきたようだ。吾妻は機器の音量をさらに絞った。
「へったクソな歌ぁ。ボクの方がよっぽど上手に歌えるよ」
「げ、
「あーん? 何ぃ、げ、って。何か文句あんの?」
粗いやすりをかけたような高い声を響かせ、運転手が振り返る。おかっぱ頭の少女みたいな男は、嗜虐的な笑みを浮かべている。爛々と光る丸い目は、人というより獣に近い。
「いえ、運転できたんだな、と」
「お前今ボクのことバカにしたろ。殺してやろうか」
「莫迦にしたつもりはありません。すごいと思っただけです」
「神波君が運転したいって言ったら、御影中佐が教えてくれたんだ」
「そうだよぉ、御影のおじさんとれんしゅーしたぁ」
「へ、へぇ……」
こんな危険人物相手によく身体を張ったものだ。面倒事を押し付けるばかりの上官を見直す。
太い眉に幼い丸顔と、見た目こそ可愛らしいが、神波は吾妻が派遣される以前から比良が飼っている猛犬、というよりは狂犬だった。比良の言う「僕ら」に該当し、無邪気に蝶の翅を毟る子供のように残酷で、血と殺しを好む生まれながらの殺戮者。「待て」はできるようだが、比良が「よし」と言ったが最後、惨劇の幕が開く。脳裏を血色の記憶が過ぎり、吾妻は背筋を震わせた。
「引き続き、吾妻君は盗聴していて。電波の届く範囲だと、僕たちは気づかれてしまうから」
吾妻に車を預け、比良は、帰ろうか、と神波に声をかける。
「他国のシンキが来日するならば、比良少佐や、三人シンキがいるという黄泉坂子爵の御宅に接触する可能性もあるのでは?」
「そうだね」
「なら、盗聴器を仕掛けたのも意味があるかもしれませんね。有益な情報が得られるやも」
「さあ、どうだろうね。黄泉坂君、無口だから。よその国の心鬼が来たところで、何も喋ってくれないと思うよ。御影中佐の秘密道具も、役に立たない」
仕事に意味を見出そうとした吾妻だったが、命じた本人から徒労だと言い渡されては乾いた笑みを浮かべる他なかった。意味もなく知り合いの家に、ましてや華族の邸宅に盗聴器を設置するな。
雨音の合間を縫うように、受信機からは音痴も甚だしい歌声。吾妻はがっくり俯く。
「じゃあね、吾妻君。また明日」
「あばよ吾妻。――比良さぁん、新しいお洋服買ってよぅ」
「御影中佐に頼んでみるといいよ」
上官に服を強請るな。顔を上げると二人の姿はどこにもなく、彼らの纏っていた気配だけが、残り香のように微かに漂っていた。
吾妻は溜息を吐き、鞄からスケッチブックを取り出した。
「……あれ?」
純粋に気に入って一枚もらった美少年の絵の後ろから、別の絵が現れた。二枚重なっていたらしい。
描かれていたのは白い子猫を抱いて眠る男。猫の毛並みや、男の長い睫毛が細い線で繊細に描写されていた。
(彼が、もう一人の……?)
黄泉坂子爵邸には心鬼が三と、人間が一。心鬼三人については比良から少々聞いているが、絵の中で眠る彼の情報はないに等しい。
化物に囲まれて暮らす人間に少なからず親近感を抱き、吾妻は他ならぬ化物の青年が描いた絵に見入った。
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