終章
「お前たちは二人で一つだ。兄弟仲良く、協力して生きていけよ――」
俺は、上手くやることができなかったから。当時は修司だった清司を膝に乗せ、父は言った。夏の月夜、反対側の膝では、双子の弟が静かな寝息を立てていた。
「父は、おそらく、後悔していたのだと考えられます」
風通しのいい家の、薄暗い居間。向かいのソファに座った少年は、無表情のまま述べる。腿の上で握られた両の手は、右側だけ拇指を内包していた。
(――だからこの子は、殺せなかった)
つややかな濡れ羽の髪も、心持ち切れ上がった涼しげな目元も、白雪の肌も、未成熟ながらに優雅を纏う身体の線も。全てが黄泉坂が「悪魔」と呼び、忌み嫌う存在から受け継がれた要素だった。
しかし、彼の持つ、手を握る時の癖や、首を傾げる角度や何気なく視線を据える方向、副菜に箸をつける順番などの細かな所作の一つ一つは紛れもなく、愛した弟と同一のものだった。清司は完全に、弟の仕草を模倣していた。
黄泉坂は立ち上がり、少年の隣に回った。
そして、懐から取り出したナイフの切っ先を突きつけた。
「……流石だな」
僅かに口角をつり上げる。清司は動揺することなく突き出された手首を掴み、虚空に固定していた。早乙女の調べに、偽りはないらしい。
腕の力を抜くと、清司も倣って手を離した。正確に固められていた関節が鈍く痛む。
「元は私が辿にやった物だ。君が持っているのが妥当だろう」
くすんだ刃を鞘に納め、黄泉坂は父と弟の形見を手渡した。
清司は何も言わずに、それを受け取った。
「――父は、兄弟仲良くと、ぼくたちに言いました」
敷居を跨ごうとした黄泉坂は、あらかじめ録音されていたかのような発声を背で聞いた。戸に手をかけたまま、立ち止まる。
「ぼくは、父の約束を守ります。修司がいなければ、ぼくは父の約束を守ることができません。ぼくたちは、二人で一つです。欠けることなどあってはなりません」
――だから、修司を殺さないでください。修司は、ぼくの大切な兄弟です。
含有する意味だけなら、清司の言葉は切なる懇願とも受け取れた。
(――郭公の雛が、兄弟愛を口にするか)
見遣った庭の隅には、全ての枝葉を落とされ死んだきりの李。黄泉坂は口の端を歪める。
(血縁に由る愛など、)
最も唾棄すべき、憎悪すべき。その神聖を冒さぬために――弟を愛するがために、心の鬼は忌まわしい仮面を被った。いつか訪れるだろう救いを信じて。愛しい者の口から紡がれる、優しい言葉を待って。
だが終ぞ救済は訪れることなく、慈愛の声は耳朶を潤すことなく、愛しい者は永遠に喪われた。父の形見を返し去り行く弟を背後から斬りつけることもできず、その気になれば人の子などどうとでもできた鬼の本性が、無様な献身の結果を嗤っている。
(いくら心を砕こうが、所詮――)
「……辿は、兄弟仲良くと言ったのか」
「はい。兄弟仲良く、協力して生きていくようにと言いました」
「……もし、君の弟がそれを拒絶したら、どうする」
「君」を「私」に置き換え、
兄でいることの正当性を確かめるように、剥がれぬよう押さえつけた仮面の裏で唱えられた、幾千もの仮定。対象が故人となった後も、打ち遣られた庭に根を張る雑草のように際限なく芽吹く命題。かつて降り注いだ悲劇など、除草剤にも成り得なかったとでも言うように。
清司の回答に迷いはなかった。
「それでもぼくは、父との約束の通り、修司の助けになります」
そうか、とだけ黄泉坂は返事をして、部屋を辞した。
隙間風の吹き込む廊下を早足で行きながら、冬の黄昏を回顧する。
灰色の外套に、女物の臙脂の首巻き。項で形作られた二つの輪が、少年が愛されていることの象徴のように思えてならなかった。
自分も清司のような、心域も性質も持たない無害な存在でいられたのなら。いっそ、普通の「兄」でいられたのなら。弟は、幸せだっただろうか。
(……こんな兄で申し訳ない、か)
「兄」を演じることを憎んでおきながら形を結んだ謝罪はおそらく、憎悪まみれの執着と唯一の救済を想う愛が、長年理智を挟んでせめぎ合いを続けた結果発されたものだろう。
生死の瀬戸際でそんな事を思うなど、案外自分も人間らしいと、自分を嗤う。
「憎悪」に生まれつき、人を憎むことしか知らず、弟が生まれるまでは、不快と嫌悪しか表現の術を持たなかった。そんな鬼の子に愛を教えたのは、他ならぬ弟だ。
それでもぼくは――。脳裏に、どこまでも透徹した清司の声が蘇る。見かけによらず、いっそ清々しいまでの厚顔に、口の端を歪める。他人の事などお構いなしのあの類は、少々苦手だ。
(それでも私は――)
面の皮の厚さを見習い、自分の言葉を当てはめる。
――だから、縋らせてくれ。
お前のために生きさせてくれ。
お前が望まずとも、復讐を許してくれ。
そして、いつかまた、
――撫でた墓石は、ほんのりと陽の温かさを宿している。
「――必ず、迎えに行く」
◇
――ずっと遠い昔の話。
「母さんが飴くれたから、清司にあげる」
「でも、母さんは修司にくれたんでしょ。一個しかないなら、ぼくには、」
「一緒に食べよう」
「……どうやって? 割るの?」
「五秒ずつ舐めよう。清司からね」
そう言って双子の兄は、自分がもらった飴玉を弟の口に突っ込み、長い五秒を数えた。
「次、ぼくね」
兄が飴玉を舐める間、弟はもっと長い五秒を数えた。
仕舞いには一秒がめいっぱい息を吸った上での一息になって、米粒みたいに小さくなった飴は譲り合いの果てに地面に落ち、蟻の餌になった。
あーあ、と兄弟仲良く、庭の隅で蟻の行列を眺めていた。
「清司、」
「なに?」
「ぼくたちは、二人で一つだから。ずっと一緒にいようね」
うん。弟は笑った。兄は笑わなかったが、かつて父がしたように、弟の頭を撫でた。
ぼんやりとした寒さに包まれた夜。ひょうたん池の中州のベンチに座り、無残に焼け焦げた凌雲閣を眺める。
「……ぼくを警察に連れていけば、少しはお金がもらえるかもしれないよ」
半ばまでの高さとなった十二階を見遣ったまま、修司は言った。一つ隣のベンチには、人の気配がある。
「あいにく、金なら持て余すほどあるんだ」
隣に感じる気配は、普通の人間のものとは明らかに違っていた。しかしそんなことは、修司とってもうどうでもよかった。
「へぇ、金持ちなんだ。じゃあ、ぼくを養ってよ。このままじゃ死ぬしかないからさ」
浮かんだ笑みには諦めの色が濃い。冗談のつもりで、修司は口にした。だが、
「――いいぜ」
返ってきた答えに、思わずそちらを向く。
血生臭い気配を纏った男は、心持ち切れ上がった涼やかな目元を細めた。
「金はあるが、人手には困っているんだ。どうやら、縁がないらしくてな」
完璧に笑んだ男の顔は、修司と同じ性質を備えていた。
◇
――みんな、いつまでも若いままでいられると思っているけれど、あたしは違うの。ちゃんとわかってるの。やあねえ、清司。あたし、すぐにお母様みたいにおばさんになっちゃうの。そんなの、あたし、嫌だわ――
附属病院に向かう道中、清司は昔のことを思い出していた。かつての主人との記憶には、今日と同じような、暖かい春の陽が差していた。
髪を流行のマガレイトに結い、矢絣の着物に海老茶袴の、女学校の制服に身を包んだ主人は桜の幹に背をもたせて言った。
清司は何も言わずに、薄桃の影の落ちた少女の顔を見つめていた。
彼女の宿病たる厭世と悲観は美しい影の中に溶けていた。儚く微笑した少女は、清司の頬に手を伸ばす。
――清司は、きっと変わらないでしょうね。十年先も、五十年先も、あたしがおばあさんになっちゃっても、清司はずっと変わらずに、今のままの姿でいる。そんな気がするの。――ねぇ、清司。あたしが、忘れちゃだめ、って言ったら、今のあたしのこと、今この瞬間のあたしの姿、ずっと、死ぬまで憶えておいてくれるかしら? 色褪せた写真みたいにならないように、今の色のままで、ずっと心の中に飾っておいてくれるかしら?
真っ黒な瞳を見つめて、少女は問いかけた。
――人間は老います。だからいずれぼくも、老います。清司はそう答えた。
ばぁか。笑って、櫻子は少年の両の頬をつねった。上に引き上げて笑顔を作ってみたりして一通り遊んだあと、形の好い唇に口をつけた。
「――忘れちゃだめよ、清司」
◇
――ねぇ、梅子さん。
いつか俺を殺しても、俺のこと、忘れないでくださいね。
貴女の記憶の中で、俺はずっと、死んだままでいますから。貴女に殺された瞬間のまま、ずっと横たわっていますから。ずっと、ずっと。
迷惑ですって? そんなこと、言わないでくださいよ。無欲な俺の、たった一つの願い事なんですから。どうか、どうか叶えてあげてください。約束ですよ――
「何だか久しぶりだなぁ、清司」
カードをして飲んだところから、記憶はすっかり抜け落ちていた。いつの間にか一月近くが経過していたようで、上野の桜は満開に咲き誇っている。
「お久しぶりです、梅子さん」
めでたく退院したわたしは、病院からの帰り道、清司と共に不忍池のほとりを歩いていた。何故入院していたのか理由は知らない。清司から伝え聞くに早乙女曰く、酔って暴れて頭を打って倒れたとのことだが、そんな自分の失態を信じたくはない。
「相変わらずだな」
一月分の変化など皆無の無表情に言って、わたしは立ち並ぶ桜を見上げた。清々しく晴れ渡った空から、暖かい陽気と一緒に花びらが降り注いでいる。
「櫻子さんは、桜が好きだとおっしゃっていました。桜の木を見ていると、櫻子さんの笑顔が思い出されます」
清司はインバネスの肩に着地したひとひらを摘まみ上げた。薄桃の花弁と同じように繊細な指先で挟んだそれを、感慨深げに見つめる――感傷に浸る心などが備わっているのかは知らないが。
「――お前は言われてその櫻子とやらを殺したそうだが……殺すときには何も思わなかったのか」
桜の雲を眺めながら、わたしはかねてからの問いを投げかけた。
清司は澄んだ瞳をこちらに向け、
「どうして死にたいのだろう、と疑問に思いました」
相も変わらず、平坦な調子で答えた。
「……なるほど。確かにお前が『死にたい』なんて言うところは想像がつかないな」
「それと――」
と、再び花びらを見つめ、清司は続けた。
「櫻子さんには、ずっと生きていてほしい。――何かを望む心など、ぼくには備わっていませんが、あのとき浮かんだ考えを言い表すのであれば、きっとぼくは、そう思ったのだと考えられます」
清司は小さな花弁を風に流した。清司が放したひとひらは風に乗って、大勢の仲間と共に蒼天へ昇っていく。
わたしたち二人は、薄桃の雪片が彼方に消えゆくのを、無言で見守った。
「……多分、多分だぞ」
先立って歩き始めながら、わたしはふと、思い浮かんだことを口にする。
「わたしの憶測に過ぎないが――その櫻子とやらは、『永遠』になりたかったんじゃないのか?」
「……はて」
追いついた清司は、小鳥のように首を傾げた。「どういう意味なのでしょう」
「さ、さあな。今のはナシにしてくれ」
ロマンチストな発言は、少女雑誌の読みすぎが原因か。我ながらに恥ずかしくなって、わたしは前言撤回した。
「おーい!! 希代の酔拳使いー!!」
道の向こうから、不名誉な二つ名を呼ぶ者があった。
「うるさい寝返りディーラー!!」
公園の出口、不忍通りに早乙女の姿があった。その後ろには黄泉坂と、愛車のシボレーも見える。
「行くぞ清司」
「はい」
わたしたちは駆けだした。多少後ろ暗いところはあるものの、わたしはそれなりに黄泉坂子爵邸での居候生活を気に入っている。
「うわっ、その腕どうしたんですか黄泉坂さん」
「落とした」
「きっと不摂生のせいですよ。どうせ飯炊きのわたしがいないからって、猫まんまと卵かけご飯ばかり食べてたんでしょう?」
右腕のない上司の顔半分には、酸を浴びせられたような、ケロイド状の皮膚の変異があった。わたしが眠っている間に、一体何があったのやら。
「君と違って、清司君は立派な出汁巻き卵を作るぞ」
「嘘ですよね」
「嘘じゃないよ、晴れて穀潰しに昇格した梅子君。ビーフシチューにコロッケも出てきたんだから」
美味しかったなぁ。にっこり笑った早乙女が口を挟む。「梅子君の出汁巻きにはもう戻れないや」
「お褒めに預かり光栄です」
「嘘だ」
「そんな雨に濡れた捨て犬みたいな顔しなくて大丈夫だよ。まだ追い出されると決まったわけじゃないから」
「追い出そうものなら門の前で物乞いしてやりますからね!」
「早く帰るぞ」
黄泉坂が言い、わたしたちは粛々と黒塗りのシボレーに乗り込んだ。わたしと清司が後ろで、助手席には黄泉坂、運転を担当するのは早乙女だ。
「早乙女さんに運転なんかさせたら絶対面白がって危険な運転しますよ!」
「もし事故になっても私と清司君は助かる。二人仲良く入院するなり死ぬなりするがいい」
「梅子君と一緒は嫌だから、安全運転を心がけるよ」
白皙に薄ら汗を滲ませ、ハンドルを握る早乙女の手は心なしか震えていた。清司が運転席に座る日もそう遠くはないのかもしれない。
傷が癒え、眼帯の取れた清司は、両目で外の景色を見つめている。
窓からひらりと迷い込み、膝の上に乗った花びらに頬を緩め、わたしは清司に言った。
「先輩命令だ、場所を代われ清司。こっちの窓からは桜が見えない」
「申し訳ありませんが、それはできません」
首を横に振った清司は窓枠をしっかりと掴み、不動の構え。
「先輩に向かって生意気だぞ!!」
わたしは後ろから羽交い絞めにし、清司を引き剥がしにかかる。
「ちょっとうるさいよ後ろ! 集中できないから静かにして!」
「安全運転が過ぎるんじゃないか、直。この調子だといつまで経っても家に着かないぞ」
「征君も黙ってて!!」
四人を乗せた鈍行のシボレーは、ゆるやかに坂を上っていく。
大正二十一年、四月。帝都はつかの間の春の中にあった。
了
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