六章

 青年は立ち尽くす。足元には、愛した女の死骸が転がっていた。

 梅子さん。何度呼んでも女は答えない。蓮華の咲く薄藍の着物は赤黒く変色していた。腹ばかり赤く、露わになった大腿に血の色はない。

「貴女は、俺を殺すんですよ。約束したじゃないですか。ねぇ、梅子さん」

 うわ言のように、彼は呟く。

 彼の描いた夢は、必要不可欠の要素である彼女の死によって、敢えなく崩れ去った。――絶望の縁で、男は呆然と佇んでいた。その足元には美しい女の死肉が横たわっている。

 狂気が精神を蝕む中、真の世界ではなくあちら側の世界に、彼は何者かの気配を察知した。ほとんど我を失った身にすらありありと感じられる、異様なまでの妖気。彼は化生としての性を解放した。

「貴様ァァァァァァアアア――!!」

 肉の衣を脱ぎ捨てた彼は絶叫した。目の前には兄がいた。異形の身体にはめ込まれた無数の眼球全てが、眦を裂き、今にもこぼれ落ちんばかりに彼を凝視している。

「――俺は、平穏に過ごしたいんだよ、啓太郎」

 怪鳥の額を割って、汚泥の中から兄の美貌が現れる。いつも微笑を湛えているその顔に、感情の色はない。

「俺は誰にも、心の平穏を邪魔されたくない。お前なら、わかってくれるだろう?」

 言葉を紡ぐ間にも、兄の「悪意」は幾百の目から放たれる視線となって啓太郎に突き刺さる。

「俺は、いつか、アタラクシアに至る――」

 腹違いの兄は、不幸にも、「悪意」という性質そのものに生まれついた。望む望まないに関わらず、彼の「悪意」は人々の心の邪悪を呼び起こし、彼の元へ引き寄せた。

 兄と同じく心の鬼である啓太郎は、種々の負の感情とは縁遠いような朗らかさに隠された、その本性に気がついていた。境遇が故に自身の「平穏」を渇望し、心の平静を保つためならば人を殺すことも厭わない、最大の邪悪たりうる本性に。

 だが、啓太郎は愛してしまった。非情の鬼の妻に想いを寄せ、あまつさえ手を出してしまった。

 それは鬼の定める「規範」に触れた。啓太郎は御匣梅子共々、鬼の平穏をかき乱す咎人となった。

 ――粛清の結果は、足元にあった。

 正気の糸がふつりと途切れ――ついに、啓太郎は発狂した。

 憚ることなく狂気をまき散らし、咆哮し、慟哭した。喉が引き千切れんばかりの叫びを上げ、眼前の鬼に踊りかかった。

 兄はそれに応戦した。高潔な兄弟は獣の次元に堕ちた。二人は特殊な鬼だった。心の世界に住みながら、二人は現の肉にまで魔手を伸ばすことができた。

 皮膚を焼き、肉を削ぎ、互いの存在を奪い合う戦いの果て、勝ったのは兄だった。兄は弟から、彼が彼であるための部分を奪い去った。しかし自身も浅からぬ傷を負い、全てを失ってもなお暴走を続ける弟を置いて撤退した。

 一人残された啓太郎は叫び続けた。愛した女を呼び続けた。狂鬼の叫びは人々の自己認識を歪ませ、内面の世界を汚染した。

 やがて彼は討たれ、固く封印されたが、心影界には深い傷跡が残った。人心は荒み、帝都は再び大正十二年の悪夢を見ることとなった。

 ――これが二年前、第二次帝都大心災の顛末だ。


 喪服を纏う心鬼の頭部は走馬灯だった。黒白の世界に鮮やかな色を投げかけ、走馬灯は廻る。廻る、廻る、――

 しかし突如として、その灯りが絶える。闇を宿すばかりとなった頭部に、びしりと亀裂が走る。心鬼は苦しげな呻き声を上げ、身体を仰け反らせた。

 直後、額の亀裂から汚泥が噴出した。脱ぎ捨てられた黒衣が、ぱさりと音を立てて落ちる。

 その姿は単眼の異形。真の姿を得た心鬼は、たった一つの気配を目がけ、南へと駆け抜ける。


      ◇


 ――どうしても心の内に留めておけないことがあって、実直な彼は、責めはしないから、と親友に訊いた。親友は答えなかった。わかった、答えたくないならいい、そう言って踵を返した刹那、彼の腹は貫かれた。真赤な血が軍服の腹を濡らして、自分の身を襲った不幸がわからないまま、彼は倒れた。九月のこと。曼珠沙華の寝床に伏し、彼はうわ言のように何度も家族の名前を呼び――それも長くは続かず、溢れ出した血は胸まで真赤に染めて、彼は悲しげに見開かれた目尻から一筋の涙を零し、息絶えた――


「――なぜ、辿を殺した」

 下方から斬り上げ、問う。切っ先が鬼の身を掠め、ヘドロの飛沫が散った。

 鬼は答えなかった。変幻自在の身体を蛇に変え、紅い花弁を蹂躙しとぐろを巻く。

 呼吸すら躊躇うほどの瘴気が漂い始める中、剣を構え、相手の気を――吐き気すら催すほどの「悪意」を感じ取る。

 鎖々戸新太郎という心鬼は「悪意」の種から生じ、自らもまた「悪意」という芳香をばら撒く毒花だった。

 現の肉まで蝕む猛毒を内包した美しい花は無邪気に、さも当然の顔をして人の世に咲いた。魅力的な外見の裏に巧妙に毒を隠し、人心を魅了する笑みを浮かべて。まるで神からの啓示があるが如く、的確かつ優美な言葉を紡いで。

 尋常の者は、その人間存在に必要な情を欠き、「悪意」に満ち満ちた花を毒とは決して思うまい。人心を喰らうという心鬼の特性において、鎖々戸は実に優れた捕食者だった。

 生まれついた性質故悪気なしに放たれる毒花の香りは、人心に眠る「悪意」を否応なく目覚めさせた。気まぐれにこの世の裏で遊ぶ度、鬼は幾百もの「悪意」の視線を放ち、現実世界の人々を悪質な疑心暗鬼に陥らせた。人々は自らに向けられる「悪意」の所在を探し、汚染されたことすら知らぬまま争った。「悪意」は連鎖的に拡散され、花に帰着することもあった。しかし、美しい花を手折ろうとする者は、残らずその劇毒で命を落とした。

 鎖々戸新太郎は何よりの災禍でありながら、何よりも静穏を望んでいた。心の凪を乱す者は皆咎人であり、粛清の対象だった。粛清において鬼の猛毒と情を欠いた性質は遺憾なく発揮され、鎖々戸は何の罪悪を感じることもなくこの世の裏から手を伸ばし、何の証拠も残すことなく咎人の腸を、心臓を、抉り取った。

 粛清された者の中には、黄泉坂征の弟もいた。

(嗚呼、可哀想な辿)

 弟は、苦しんだだろうか。優しい弟は、死してなお親友の裏切りを赦すだろうか。妻となった女の不義さえ赦し、いずれ自身を殺す悪魔の血を継ぐ子さえ愛したのだから。

(何故辿が死んで、お前が生きている)

 胸の傷からは絶えずどす黒い溶岩が流れ出ていた。それは長年に渡り腹の中で煮られてきた憎悪だった。弟への腐乱した愛情だった。

 涼やかな風の吹く九月の夜、黄泉坂辿は胸に紅い花を抱いて死んでいた。その死を悼むかのように、遺体の周りで咲き乱れる曼珠沙華――

 憎悪の鬼は、そこで狂った。自傷のための封魔の剣で幾千もの心を斬り捨て、二つの世界を地獄に変えた。地獄には血色の花が咲いた。

 時が経ち二つの世界が凪ごうとも、鬼は心に地獄を飼い続けた。

 構えは正眼、敵を見据える。殺意は切っ先から迸り、点々と咲く地獄花を揺らす。

 ――辿。愛しい者の名を呼ぶ。救済は最早この世に存在せず、憎悪の鬼はただ復讐がため修羅の道を征く。

 一息に踏み込む。刃を振り上げ、怪鳥の額を捉える。汚泥に刃が切り込む感触があった。

 しかし、聞こえたのは絶叫ではなく密やかな笑い声。

 ただならぬ気を察し後ろへ飛び退ろうとした右腕を、悪意の奔流が剣ごと喰らった。

 腕を離れた封魔の剣は弧を描いて飛び、赤い花の一輪を落とした。漆黒の沼に突き立った刃はその半ばまでを闇に埋める。

 利き腕を失った剣士に、間髪入れず化生の魔手が襲いかかった。身を翻し寸前で躱すが、変幻自在に流動する敵の手数に抗う術はなく、ついには退路を塞がれ、眼前で大蛇が鎌首をもたげる。

「……私一人では、腹ごなしにもならないか」

 出方を窺っているのか、緩慢に首を揺らす様子は楽しんでいるようにさえ見える。

 黄泉坂は歯噛みする。忍び寄るように瘴霧が立ち込め、剣士の四方を塞ぐ。紅い花の咲く墨池に大きな気泡が浮かんでは弾け、鼻を刺す「悪意」を撒き散らした。月が陰るように、心域が蝕まれていく。数ある心鬼の種の中でも、鎖々戸新太郎は別格の存在だった。

 いくら同族を喰らって己の毒性を高めようと、現の肉まで手を伸ばすことは、黄泉坂には叶わなかった。憎めどもにくめども、美しい毒花を斬って散らす力は手に入らなかった。

 足元の一輪が瘴毒に枯死した。死に瀕し色褪せ、それでも花の形であろうとする醜い妄執。弟が骨壷に収められた後に見た、土手一面の執着の色。

 ――いっそ人間の振りなんて、しなきゃよかったのに……。義弟の言葉が蘇る。いくら悔いようとも弟は死に、二人のための鳥籠は思い描く理想の幻想ユメの中で朽ちて遺構と化している。

 理想世界は最早遠く。のように自分の心の内に築き上げる思い切りのよさもなく。兄を演じた鬼は腑を腐らせて、弟のいない地獄を一人生きる。

(――辿。辿、)

 胸から一際太く激情が流れ出ると同時、紅い花が心域を覆った。唯一の色彩は足元の漆黒すら塗り潰し、辺り一帯を鮮やかに染める。

(……こんな兄で、申し訳ない)

 紅い海の中、微かに嗤って、黄泉坂は幾百の視線を一身に受ける。

「此は貴様を――貴様の心を殺すための、憎悪の地獄」

 何千輪もの花が揺れ、鈴のような音を奏でた。その旋律は、心を永遠の眠りへと誘う。

「多少勝手は違うが、貴様の望む理想世界アタラクシアまで導いてやろう。もう何かを思い煩うこともない、永久の平静をくれてやる――」

 それが意味するところは「心の麻痺」。心を眠らせてしまえば、何かを感じることも、何かに思い悩むこともない。反射される「悪意」に怯えることもなく、虚の心を肉体に釘打たれたまま、まるで生ける屍のように醜態を晒し続ける。

 一段と高く、冷たい麻酔の音色が響き渡る。憎悪の鬼は祈るように瞑目した。紅い花の毒は雪のように、拡張された心に降り積もる。

 ――調べを掻き散らすようにして、声。

 鬼の猛毒が降り注ぐ中、声は朗らかに笑っていた。

「俺が楽しく健やかに生きる権利を、そう簡単に剥奪されちゃ困りますよ」

 巨大な蛇の身体がその頭頂から崩壊した。黒い汚泥が蝋の如く融解し、朱の色彩をさらに上から塗り込める。

 深い闇を湛えた沼が再び顕現し、身を焼く濃度の「悪意」が立ち込めるその中央には、人の形をしたあやかしが立っていた。

 悠々と長い尾羽を引き、鎖々戸は黄泉坂に歩み寄る。泥の羽毛に包まれた手で、瘴気に毒され、跪いた剣士の顎をついと浮かす。

「心が死んでしまったら、せっかくの理想世界アタラクシアを楽しむことができなくなってしまいますよ、先生。理想世界が何かって、教えてくれたのは貴方じゃないですか」

 異形の姿になっても、鎖々戸の美貌は健在だった。死人のように色のない顔の、得体の知れない光を秘めた瞳を細める。

 空いたもう片方の手で、化生は咎人の頬を撫ぜた。黄泉坂は短く呻く。撫ぜられた箇所が、酸を浴びたように醜く爛れた。「悪意」は微笑む。

「実は、先生のご案内を受けなくたって、俺はもう理想世界にいるんです。今は少し外していますが、すぐに戻れますよ」

 弓弦の如く引き絞られた双眸が、屈辱に歪んだ剣士の顔を捉える。

「お可哀想に。先生は俺と違って頭がいいから、その分悩み事も多そうだ。もっと俺みたいに、楽天的に暮らした方が身のためですよ。そんなんじゃ、いつまで経っても理想世界は遠い――ああ、もしこの世で叶わないのなら、あの世に望めばいいじゃないですか。名案でしょう、先生。向こうなら、辿にも会えますよ」

 妖の唇に、ただ美しいだけの笑みがのぼる。薄く開いた花唇の間に、白い歯列がちらりと見えた。

 その本性とのあまりの相違に、黄泉坂は口端を歪める。――反吐が出る。

「あの世か……そこで辿に会えるのなら、是非とも行きたいものだ」

「死んだ弟の事を想うなんて、美しい兄弟愛ですね。羨ましい限りです。うちは兄弟仲が最悪ですから」

 明朗に言って、何が可笑しいのか、鎖々戸はくつくつと笑い始めた。

「――恨みますよ、先生」

 黄泉坂を解放し、鎖々戸は空を仰いだ。一面の黒に、そこだけ丸く切り抜いたような白い月がかかっている。

「ついでに殺しておいてくれればよかったのに」

 溜息混じりに人妖は言った。

 直後、凄まじい風が手負いの剣士を襲った。横向きの「圧」と化した殺意に気圧され、黄泉坂は倒れ伏す。脳内に、頭が割れんばかりの怨嗟の叫びが響く。

 月が翳った。頭上に感じる、強大な妖気――

 漆黒の空では、腹に単眼を光らせた巨鳥が三対の翼を広げていた。

 鎖々戸の顔に、最早笑みの影はない。

「昨日ぶりだな、啓太郎」


      ◇


「ぼくは、何もかも清司に取られてばっかりだ。――まず、母さんでしょ」

 声だけは明るく、修司は親指を折る。

「ぼくの居場所、」人差し指。

「ぼくの人生、」中指。

「ぼくのソンゲン、」薬指。

「それから、ぼくの命」小指。「これは、未遂だけど」数回曲げ伸ばしして、そのまま折り込む頃には貼りつけた表情も消えている。

 ただの握りこぶしになった右手から醒めた視線を移し、修司は兄弟を見た。

「清司、ぼくを殺して生きてる気分はどうだい?」

「ぼくは、修司を殺したの」

 歪んだ笑みを向ければ、同じ血を分けた兄弟は首を傾げる。その昔と変わらない瞳は、否応なく修司を苛立たせる。

 無垢で、無知で。まるで自分が、何の罪も犯さずに生きていると公言しているかのような。

「へぇ、」修司はありったけの嘲笑を浮かべる。「知らないんだ」自分の内部がふつふつと、熱を帯びてねじ曲がっていくのが感じられた。犠牲を数えた拳が震える。

「ねぇ、清司。今日の新聞、見た? 清司が死んだって書いてあったよ」

「ぼくは、死人になったらしい」

「そう。清司は死んだ。けど清司は生きている。なぜかって、ぼくが身代わりになったから。『いれかわりっこ』しよう! なんて、一言も言ってないのに、ね。清司の代わりにぼくが死んでも、新聞には清司が死んだって載るんだねぇ……」

「――どういうこと」

「あの黄泉坂とかいう心鬼のおじさんがやった。ぼくを眠らせて、清司の代わりに牢屋に入れた。寸前で逃げたけど、変な注射、刺されそうになったよ。あれ刺さってたら、ぼく、死んでたかなぁ……」

「黄泉坂さんは、修司にそんなことをしたの」

 そうだよ。にっこり笑って肯定すると、清司は黙した。言葉を探しているとも取れる沈黙。修司は情緒に欠けた兄弟の口から、どんな空虚な労りが出てくるかと待った。

「――父さんは二人で一つだと言った」

 やがて清司は言った。「ぼくたちは、二人で協力して生きていかないといけない」

 それを聞き――修司は爆笑した。荒いやすりをかけたような醜い笑声が響く。

「それ、お前を売ったぼくに対する当て擦り?」

 修司が一番不快に感じる場所を、清司は的確に突いた。修司が最も嫌う、無実を声高に宣言しているような無垢な表情を浮かべて。

「お前はいいねぇ。何もしなくとも愛されて、必要とされて、自分は何も悪くないみたいな顔で。ぼくは、必死でお前の振りをしても、いらない子なのに――」

 兄弟の前でゲラゲラ声を上げながらひとしきり笑って、修司はふと真顔に戻った。

「殺してやる」

 ――清司は何の反応も起こさなかった。修司の激情は無視されたも同然だった。

「あはは、」また笑みが溢れる。瞑目する。頭の中ではしきりに何かがひび割れている。割れ、歪み、再結合し――「あははははは」つぎはぎのようになりながら拡張していく心に身を委ねる。

 破砕音と笑い声の狭間で渦巻くのは記憶。猥雑に混じり合いながら、上へ上へと巻き上げられ、深部に抑圧された原初を呼び起こす。修司、と母の声がした。

「お前のせいでぼくは愛されなかった。必要とされなかった。だから、お前を殺す。殺す殺す殺す。お前の居場所も人生も何もかも奪って、ぼくは本当の清司ぼくになる――」

 闇色の硝子が砕けた。

 りん、と腕輪を鳴らし、修司は無彩色の空間に降り立つ。足元は冷たく乾いた白い砂漠。黒い空にはごっそり抉れた歪な三日月。

 異常心域の主の姿は上は衆生救済の如来、下は滑稽な道化。世にも奇妙な鬼の背から千の腕が伸び、後光が如く円を描いて広がる。

 その柔く優しく伸びた腕の根に囲まれるようにして、心鬼の背中には大きな口があった。口は唾液を滴らせながら、ずらりと並んだ人の歯で、絶えず何かを咀嚼している。鬼は人間の記憶を――そこに胡桃の仁のように内包された感情を噛み砕いていた。

 暴食の鬼の好物は「誰かに愛された記憶」。心影界に潜っては、己が心域に立ち入る人間の脳内を勝手に漁り、食欲をそそるものを見つけると断りもなしにつまみ出して背中の口に入れた。甘く温かな感情を含んだ記憶を食べると腹が満たされた。さすがに同類の記憶は食当たりを起こしそうで、口にはしなかったが。

 千の腕が新たな標的を見つけ、一斉にそちらを向く。耳飾りを揺らし、修司は左目で客を迎える。

 そこには影があった。現実世界の姿と何ら変わらず、兄弟の形をした影は直立している。

 その漆黒に塗り潰された人影が、ぱちりと目を開けた。こちらを見据える、無辺の闇を宿す両目。

「それが、お前の心か」

 清司の心影は、人に付き従う影そのもの。お似合いだ、と修司は顔いっぱいに嘲笑を広げる。

 少し愉快になって、どこまでも乾いた柔らかい砂の上、先の反り返った道化の靴で軽やかにステップを踏む。修司の姿はこの無彩色の世界を体現していた。クラウンのズボンは鯨幕をそのまま用いたかのような白黒の縞模様。少し伸びた風の髪は左右で染め分けられ、右側の白い前髪の下には黒い仮面。清司があんな墨を被ったみたいに真っ黒なら、仮面でほくろを隠しても意味がない。修司は笑顔に僅かに自嘲を加える。

 世界の裏は、案外楽しい。兄弟の真似をしないと生きられない、窮屈な現実世界と違って自由で、同類の気配にさえ気をつけていれば何をしたって怒られない。

 人間の記憶を食い漁るのも面白い。まるで金持ちになったみたいに食べ物を選り分けて、心ゆくまで口に入れる。愛されることの疑似体験は、修司の心を大いに満たした。ただ、食後は少し虚しい気分になった。

(――どうしてぼくは、愛されないの)

 修司は足を止め、「あーあ、」大きく息を吐く。笑顔を取り下げて、「全部清司のせいだ」横目で兄弟を見る。

「ぼくがもし、君に嫌な思いをさせたのなら、ぼくは君に謝る必要がある」

 目以外どこにも見当たらないのに、清司は普通に口を利いた。

「……謝られたところでどうにもならないよ」修司は無感情に繰り返す。「どうにもならない」

 辺りは決して潤うことのない一面の渇望。心鬼が本来の世界に戻ることで、人間の器に閉じ込められていた心が解放され、心域となって内面の世界に広がる。一帯に広がっている砂漠は、修司の心そのものだった。全貌を現すほどに強度を増した、異常と形容する他ない化生の心。

 自分がもう元には戻れないほど歪んでしまっていることを、修司は知っていた。

「あはは」本物の修司﹅﹅は笑わない。修司は声を上げて笑った。「殺す」宣言し――千の腕が空を走った。

 影の心鬼を引き裂かんと無数の腕を伸ばせば、背中の大口が醜い叫びを上げる。

 殺到する魔手を前に、清司は何の行動も取らなかった。ただ無感動に、自らに迫る危機を静観するのみ。

 ――修司はいらないのか? 巻き上がった砂煙を見つめる修司の脳内に、ふと、過去の場景が蘇る。記憶はまだ修司が清司と呼ばれていた頃のもの。

 色褪せたフィルムには、軍服姿の父と、小鳥柄の銘仙を着た母。父に手を引かれた二人の子供。かつて清司だった幼子はショーウィンドウの中を、一心に見つめていた――

 ブリキの飛行機だ。遠い記憶が、頭の中ではっきりと輪郭を結んだ。年月に比して鮮やかな色が心の柔い部分を刺激し、修司はかぶりを振ってそれをかき消す。

「――よけるのが上手いね」

 鋭い爪が、確かに影を裂いた気がした。だが清司は変わらぬ姿で立っていた。

 腕が一度引き、なだらかな動きで再び円状に広がる。それぞれ持物じもつを携えた腕の一対が弓に矢を番える。

 ――お前を泣かせたやつは誰だ。俺がぶちに行ってやろう。

 矢が射掛けられる寸前、再び記憶が浮かび上がり、修司は唇を噛み締めた。夕暮れ時、歪む視界の中、眉をつり上げ腕を捲る父。やめときなさいよ、と面倒そうに言う母。弟を庇って頰を殴られたのに、泣きもせずに立っている兄――

 やめろ。修司は内心で叫んだ。背中の口が唾を飛ばして咆哮する。空を切る鋭い矢音。見れば、矢は清司の後方に突き刺さっていた。

「どうして――!!」

 天衣を靡かせ駆け抜け、修司は己が手に持ち替えた宝剣を振りかざした。

 ――お前らは二人で一つだ。協力して、生きていけよ――

 その瞬間、聞こえたのはまたしても父の声だった。古い記憶の中で、父は李を齧っている。夏の夜のことだ。

 すっぱい。未熟な李に手を出して、修司は顔をしかめた。どれどれ。父は小さい手からまだ青みの強い実を取り上げ、かぶりつく。――ああ、酸っぱいなぁ。言いつつ、父はむしゃむしゃと食べた。ああ、酸っぱい、酸っぱい。日に焼けた横顔は歪んでいた。父はそのまま、皿に乗っていた李をみんな平らげてしまった。ああ、酸っぱい、酸っぱい。何度も何度も唱えながら。父さん、ぜんぶ食べちゃった。修司が口を尖らせると、父は隣でちまちまと食べていた清司に言った。半分分けてやれ。――いいよ。清司は答えた。修司の方を見て、父は満足そうに笑んだ。そして、二人の頭を乱暴に撫でた――

 鈴、と腕輪が鳴った音で、修司は我に返った。振り切った腕の先を見る。剣は影をすり抜けていた。

 清司は何も言わず、修司を見つめている。今度は逆袈裟に剣を振るう。刃はまたもや影を透過した。

(――結局ぼくが、)

「違う!!」

 心の声を掻き消すように叫び、修司は真の世界へと戻った。追うように姿を現した兄を前に、包丁を構える。切っ先を兄に向け、横腹に柄尻を当てる。

(――清司は、何も、)

「殺してやる――――!!」

 絶叫し、修司は突進した。どうしようもない心の矛先を、清司に向けて。

「――ごめんね、修司」

 しかし刃先が触れる寸前、修司の視界はぐるりと回転した。

 天地が真逆になり、気がつけば、地面に組み伏せられていた。上に乗った清司が後ろに固めた腕をひねると、あれだけ強く握っていたはずの包丁は呆気なく手から落ちた。

「謝ってもどうにもならないのなら、ぼくはどうすればいいの」

 平坦な声で、清司は言った。

 上に跨られているものの、重みはほとんど感じられなかった。加減されていた。

「黙れっ、黙れよっ!!」

 抵抗するも、無駄だった。固定された身体はびくとも動かなかった。口の中に土が入って咽る。奥歯が砂を噛み、不快な音を響かせた。

 満足に唾を吐き捨てることも叶わず、砂利混じりの唾液を口端に滲ませ、修司は左手で地面を掻いた。深爪の指先が痛い。それでも爪痕を刻む。舌の上で転がる砂粒から、土の味が広がる。

 ――兄弟、仲良くな。頭のどこかで、父の声がした。声に引かれ、線香の香りが鼻先を掠める。五歳の時、父は死んだ。ただひたすら悲しくて、泣きじゃくった。怖くて、死に顔は最後まで見ることができなかった。

 先ほどの記憶が、脳裏に再来する。それらが意味するところを悟って、修司は息を詰まらせた。

「――!!」

 自分に言い聞かせるように、心とは逆を叫ぶ。

 身体を押さえる力が緩み、修司は清司を撥ね退け、包丁を手に再び飛びかかった。

 組み敷かれた清司は無抵抗だった。その白い頬に、点々と雫が零れ落ちる。

「飛行機が欲しかっただけなのに!! 泣かされたのはぼくで、ぼくは一つも悪いことしてないのに!! ぼくは悪くないのに!! どうしてぼくが売られなくちゃいけないの!! ぼくのどこが悪かったの――ぼくは、どうすればよかったの!!」

 その答えを知るにはもう遅く、修司は母の言う通り、本当に「悪い子」になってしまっていた。

 空を仰いだまま、修司は怒鳴る。

「清司!! お前のせいだ!! お前がぼくのもの全部取るから!! ぼくは愛されなかった!! 誰にも必要とされなかった!! お前のせいで、お前のせいで、ぼくは――!!」

「――修司、ごめんね」

!!」

 修司はわんわん声を上げて泣いた。

(――結局、ぼくだけが悪い)

 兄弟を売ったのも、父との約束を破ったのも、母を殺したのも、全部修司の罪だった。対して清司は、請われて少女の望みを叶え、ついでに心臓を食べた以外は、修司が身代わりに立てられたことも知らなければ、自分が売られたとも思っていない。修司が破った父との約束を守り続け、幼稚な八つ当たりの的にされても、何も疑う事なく謝罪する。

 罪を負い、穢れているのは修司ばかり。

「泣かないで、修司」

 修司の下からするりと腕を抜いて、清司は兄弟に手を伸ばそうとしたが、修司はそれを力一杯振り払った。

 ――清司を殺し、再び清司に戻ったところでどうにもならないということを、修司は知っていた。修司の居場所はもう、この世のどこにもない。

 修司は両手で包丁を握り、高く振り上げる。

「――どうして死なせてくれないの!!」

 刃を受け止めた清司の手から、赤い血が滴った。

 切っ先は修司の胸を向いていた。

「どうして、死にたいと思うの」

 清司の黒く澄んだ瞳は、ぐしゃぐしゃの泣き顔を映していた。

「死んだら、父さんや櫻子さんみたいに、二度と会えなくなる」

「黙れっ、離せ!! 人を殺したくせに何だよ!!」

「ぼくは、嫌だと言った」手を血で濡らし、清司は告げる。

 ――は。口を開けたまま、修司は停止する。「どういうこと、」

 清司は真っ直ぐに修司を見つめ、告白した。

「ぼくと修司は兄弟だから、修司だけに話す。――ぼくは、櫻子さんを殺せなかった。櫻子さんは、自分で胸を刺した。ぼくは、櫻子さんが死にたいと思う理由がわからなかったから、心臓を食べた」

 ――心臓を食べるためにぼくが殺したことにすれば、櫻子さんは死にたいと思わなかったことになる。

「――そんな、」

 脱力した修司の手から包丁を抜き取って、清司は滴る血ごと遠くへ放り投げた。

 呆然と、修司は兄弟を見下ろす。清司の頰は泣いたように濡れていた。

「……ぼくには心がないから、父さんや櫻子さんが死んでも、悲しいはなかった。涙も出なかった」

 どうしてぼくには、心がないの。遠いものを見るような目で、清司は修司を見つめる。兄弟揃って泣いているようにも見えるが、清司は泣くに至る感情を理解することができなかった。

 投げ出された手の傷から、血が広がっていく。

「心がなくても、血は出るし、痛い……」

「――ぼくだけなの、」

 掠れた声で、修司は訊いた。「清司は、『ひとごろし』じゃないの?」

「死体を損壊して、遺棄した」

 平然と、清司は答えた。

 修司は立ち上がった。胸の奥からせり上がる感情を押し留め、咄嗟に掴まれた手を振り払う。血が滲むほど唇を噛みしめる。

 唯一同じであると期待した汚点さえ、清司は持たなかった。――清司は全くの無実だった。


「――お前なんか、嫌いだ、」


 修司。再び清司が呼んだ時にはもう、弟の姿はなかった。


      ◇


 彼は、自らの美しさを知っていた。事実、彼は美しかった。秀でた美貌を皆が褒めた。しかし、己の美しさを誰よりも熟知していた彼は、並べられた讃嘆を内心で嘲笑っていた。彼の前では皆等しく無知だった。誰も自分の本当の美しさを理解し得ない。そう思っていた。

 そんな彼は、「美しい」自分が、「美しい」何者かによって虐げられるのを想像することを好んでいた。夢の中で、彼は美しい獣に成り下がった。頭を踏み躙られ、腹を蹴られ、惨めに泥を舐めた。彼を苛んでいたのは、いつも美しい「足」だった。滑らかで、すべすべとした、女性らしい柔らかさとしなやかさを備えた足だった。

 妄想は加速し、ついに彼は、殺されたいとまで願うようになった。残酷な加虐の果て、美しい足の下で息絶える。自らの「死の図式」を精緻に思い描いた彼は、図式を完成させるため、「美しい女」を追い求めた。

 そして十七の時、彼は運命の女性との邂逅を果たした。


 狂気の叫びを上げ、単眼の怪鳥は降り立った。翼は三対。羽ばたけば殺意の風圧が黒い沼を波立たせ、飛沫を散らせる。

 見るも禍々しい彼の者は二年前、黄泉坂がその剣をもって封じ込めた鬼だった。鬼の名は鎖々戸啓太郎。怨敵・鎖々戸新太郎と血を分けた、邪悪な化生。

「先生は、俺たちに同士討ちをさせるためにこいつを飼っていたのですか? そうだとしたら、人の悪い」

 泥にまみれた剣士を、鎖々戸は一瞥する。

 汚泥に浸っていない顔半分で、黄泉坂は密かに嗤った。――鎖々戸の推測は正しかった。黄泉坂は鬼を殺すための手段として、同じ血を持つ鬼を麾下に迎え入れていた。「梅子」の皮を剥がせるかは危険が伴う賭けだったが、清司が上手く手引きしたのか、兄の気に触発されたのか、覚醒した啓太郎はここへやってきた。

「生きていたんだな、お前。死んだとばかり思っていたよ」

 叫び続ける、狂気と怨念の化身。鎖々戸は細めた目に嫌悪を覗かせる。

「これほど兄に迷惑をかけるとは、悪い弟だ。俺はまだ、好意的に接していたつもりなんだが……お前は俺のことが嫌いと見える。見てくれがいいからと甘やかしたのが悪かったんだな」

 沼の表面で気泡が弾け、立ち込める瘴気が一段と濃度を増す。意思を持つかのように汚泥が持ち上がり、心域の主を覆っていく。

「黄泉帰ってきたところ悪いが、もう一度死んでもらおう。俺は、平穏に暮らしたいんだ」

 無数の目が一度に開眼する。漆黒の沼の上で対峙する、二体の妖。

 異形が放つ気のあまりの濃さに、黄泉坂は身動きすらできなかった。第三次帝都大心災の災禍は、すでに幕を開けていた。

 這うように四つ足をついた単眼の魔獣は、三対の翼を伸長させ一際高く咆哮した。その絶叫に理性を読み取ることはできない。

 泥濘を蹴立て、踊り狂うように弟は兄に襲いかかった。静謐の内に殺意を漲らせ、兄は応戦する。鮮血が如く黒いヘドロが飛び散り、邪悪な奔流が渦巻く。心の鬼たちは内面の世界を汚染しながら、互いの血肉を削ぎ合い、存在を奪い合う。

 ――しかし互角に見えた戦いも、次第に兄が弟を一方的に屠るものへと変化していった。存在自体が「悪意」である何本もの魔手が、啓太郎の身体を幾度も執拗に刺し貫いた。かつて美しい青年の姿をしていた醜悪な魔物は、苦しみに叫喚する。

 鎖々戸啓太郎は憐れな鬼だった。自らが思い描いた「死の図式」の不可欠要素であった「御匣梅子」を喪い、発狂した挙句自らを「御匣梅子」に置き換えることで図式を再現した。彼の中では、殺されたのは「鎖々戸啓太郎」であり、その死を糧として生き続けているのは「御匣梅子」だった。

 黄泉坂らと生活を共にしている「梅子」は、大心災を引き起こすほどの暴走の結果生み出された全くの別人格であり、何も知らない記憶の番人。

 固く封印された記憶の中、「鎖々戸啓太郎」と「御匣梅子」は永遠の理想郷に住んでいる。

 凶手に穿たれ、啓太郎は一際高く叫びを上げた。

(――わたしは、誰だ)

 そのとき、傍観するばかりだった黄泉坂の耳に声が届いた。

 直後、空が光る。重たい首を上げて見上げれば、天は一面の鏡と化していた。澄んだ悲鳴を上げ、鏡の空はひび割れていく。

(わたしは、誰だ)

 声は再度問いかける。黄泉坂はその疑問を、自分自身が発しているような感覚に陥った。思わず見遣った自分の左手――この手は、一体、誰のものだ。

 にわかに危機意識を抱いた自己さえ定かでない。自己意識と肉体がめりめりと音を立てて乖離していく。確かに同一であったものが、離反していく。

 ――辿、辿。名を呼ぶも、この声はこの口は、本当に自分のものなのか。自分は本当に、辿の兄であったのか。遠い記憶の中、弟を負い道を往く少年は、本当に自分であったのか。確かだったものが、不確かになっていく。

 自己意識が崩壊を始める。ひび割れた鏡には、幾百もの見知らぬ人間の顔が映っていた。

 空に顕現した心域と放たれる異常は、梅子の性質と同一のもの。鎖々戸啓太郎が自らを鑑賞するために用いた「自己投影」の能力が元になった梅子の「自己暗示」は、梅子が常から自身にかけている呪いであり、梅子が梅子である限り、その欺瞞の存在は決して梅子本人に気づかれてはならず、他者に使用されることもない。鎖々戸啓太郎が自己の境目まで見失っていることの証左だった。

 黄泉坂と同じく異変を感知した鎖々戸は、弟の息の根を止めんと更に殺意を濃くした。立ち込める瘴気は酸の如く異形の肌を焼く。先から汚泥を迸らせる鎌形の前肢を振り上げ、弟の首元を狙う。

 しかし殺意が啓太郎の喉を貫かんとしたその刹那、甲高い破砕音が鳴り響き――鏡の天が落ちた。一瞬毎に異なる煌めきを反射する無数の破片が地に降り注ぐ。

 その内の一片が光の剣となって異形の兄の横腹を刺し貫いた。鎖々戸は苦悶の声を発する。

 すかさず単眼の瞳孔を割って槍の如く衝き上げられた蛇の尾が、仰け反った腹を貫通した。汚泥が散り、丸い目玉が南京玉ビーズのように転がる。苦しげな呻きを上げ、巨大な化生の姿が融解していく。

 みるみるうちに妖は泥の山となり、築かれた山の頂上から一羽の妖鳥が飛び立った。

 螺旋を描いて翔け上がった黒い鳥は、長い尾羽を靡かせ、形ばかりは凪いだ空に紛れていった。

 墓標のように鏡が突き立つ庭の中、鎖々戸啓太郎は泣き叫んでいた。転変を繰り返し、かろうじて人らしい姿の逆関節の膝を折り、分別のない子供のように泣きじゃくる。

 黄泉坂は最早、自らの意志で身体を動かすことができなくなっていた。自己認識に生じた齟齬のせいで、身体が命令を受け付けてくれない。四肢はもう、自己に属さなくなっていた。

 ――辿。弟を呼ぶ。しかしその名も、含有する意味を失いつつあった。遠ざかっていく記憶は自我を持たない幼年期に垣間見た、絵本の中の一幕であるかのように思われた。その絵本の一頁を眺めているどこかの少年を、自分らしき存在は傍観している……

 ――辿、辿。辿、たどる、たどる………… 名を呼び、必死でしがみついた「自己」は、すなわち弟だった。黄泉坂の存在は弟と等しかった。故に、弟が死んだと同時に、黄泉坂も死んだ。今まで生きていたかのように思われたそれは、憎悪と愛情を腹の中で腐らせた屍だった。屍は自らにかけた呪いのために動いているように見えていただけだった。

 ――兄貴。誰かが自分を呼んだような気がした。果たして本当に自分を呼んだのだろうか。自分に弟なんていただろうか。それより、自分は一体誰なのだろう――

 呆然と捉えていただけの景色に、何者かの足が映った。

「お待たせしました」

 誰のものだかわからない漆黒の影は、抑揚のない声を発する。

「遅くなってしまい申し訳ありません。早乙女さんから仰せつかりまして、ただいま参りました」

 影はこの瘴気の中、平然と立っていた。その手に握られた剣の切っ先が、突き立った鏡の破片に触れて微かな音を響かせる。

「剣をお借りします、黄泉坂さん」

 影そのものの心鬼は叫び続ける人妖を見据え、剣を正眼に構えた。重心の置き方といいしゃんと伸びた背筋といい、非の打ち所のない姿勢だった。

 そして、

「やぁ」

 踏み込み、一瞬の間に距離を詰めると、平坦な気合いを合図に刃を振り下ろした。

 一刀のもとに鬼の首を断ち切り、そのまま刃を翻し、胸を貫く。

 その瞬間、辺り一帯を覆っていた異常心域が消失した。線で描かれた夜の中にはただ、無表情な白い月が浮かんでいる。

「……二段という話は本当だったんだな」

 しん、と静まり返った闇。倒れた心鬼の前で残心の構えを取る清司に、黄泉坂は言った。

 清司は振り向き、律儀に血のりを払ってから形式限りの納刀をした。

「声が小さいと、いつも言われます。――父は、もっと強かったのでしょうか」

 黄泉坂は目を閉じた。瞼の裏には、夏の日差しが差していた。 

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