五章

 十四年前に産声を上げた双子の男児は、兄は修司、弟は清司と名付けられた。

 二人は親でも見間違うほどの、全く合同の顔に生まれついた。しかし、よく笑い、よく泣く弟に対し、兄は一切の感情を表さなかった。

 表情豊かで、どこにでもいるような普通の子供だった弟は、『いれかわりっこ』というあそびを好んでいた。

「しゅうじ、『いれかわりっこ』しよう」

 そう言って何をするにも自発性のない兄を引っ張ってきては、両親に「どっちだ」と問いかける。

 最初はすぐにばれた。全く同じかに思われた二人の容姿だが、注意して見ると、弟の右目尻には小さなほくろがあった。父に指摘され、弟は初めてそれに気がついた。それからは、必ず右の目元を隠すようになった。一人だけ隠していては意味がないから、兄にも右目を隠させる。しかしそれでも、なかなか父を騙すことはできなかった。見破られて悔しがる弟を見て、父は笑った。「どっちだ」と声をかけるのはいつもお前だ、と。俺の変な顔を見て笑うのはお前だ、と。

 指摘される度に弟は学んで、兄に声をかけさせたり、変化のない兄の表情を真似たりした。しかし、母の目は騙せても、父の目はついに騙すことができなかった。

「俺にはわかる。なんたって、お前たちは俺の息子だからな」

 そう言って、父は朗らかに笑っていた。家に帰ってきては、汗と土埃のにおいのする膝に二人を乗せて、小さな頭を乱暴に撫でた。

 そんな優しかった父も、二人が六つの年に死んだ。

 父が死んで、母は変わった。注がれる愛情は平等ではなくなった。

 ――笑うな。口を利くな。母が愛したのは、弟ではなく、兄だった。


 夜半に目覚めると、母は寝室にいなかった。居間の方に明かりが灯っていて、何やら話し声が聞こえる。清司は足音を忍ばせ廊下を進み、聞こえてくる声に耳をそばだてた。

 ――清司は利発で、素直だから。

 母の声は自分を褒めているようだった。滅多にないことで、清司はにわかに嬉しくなった。

 しかし、話を聞くうちに、その遣り取りの内容に気づいてしまう。

(母さんは、ぼくをどこかへやろうとしている!)

 冬のことだった。床板はじっと立っていられないほど冷たく、夜まで続いた霙雪の冷気を含んだ風が、襖をカタカタと鳴らした。

 明日の夕べに、神社の前で。日と場所が決められて、話は終わった。

 急いで寝間に駆け戻って、清司は布団に潜った。隣の修司は静かな寝息を立て、人形のように横たわっている。

(ぼくは、母さんと離れたくない)

 布団の中で膝を抱えて、清司は必死に願った。噛んでぼろぼろになった指先が、細かく震えていた。

 父が死んでから一年以上が経過していた。それはすなわち、清司が愛されなくなってからそれだけの月日が流れたことを意味していた。――笑うな。口を利くな。言われた最初は、母が心の底からそう思っているとは考えられなかった。しかし、過ぎ去った歳月は、自分が「いらない子」であるという認識を清司に植えつけるのに十分な長さだった。何故かくも母が自分を嫌うのか、理由はわからなかった。母は清司に一切の愛情をくれてやらない代わりに、修司にだけ優しい微笑みを向け、修司にだけ明るく話しかけた。二人の間に清司が入り込む隙はなく、清司の存在は、一向に取り替えられる気配のない、古びて痛んだ畳と等しく黙殺されていた。

 清司は、愛情が欲しかった。母に、必要とされたかった。たった三人だけの閉鎖した世界の中で、幼い清司の寄る辺は、母親以外になかった。

 どうすれば、母と別れずに済むか。考えている内に、夜が明けた。障子紙の裂け目から差し込む冬の朝日が怖い。今日の夕べに、自分はどこか知らない所へ売られていく。冷たい布団を抱きしめ、清司は震えた。冷え切ったままの布団は、不安も恐怖も溶かしてはくれなかった。

 隣では、兄が置物のように眠っていた。――その、自分と同じ作りの顔。

 清司の脳裏に、父が死んで以来封じていたあそびが蘇った。

「――修司、『いれかわりっこ』しよう」

 母は少し早い夕飯の支度をしている。声を潜めて言うと、兄は「いいよ」と短く答えた。

 清司は母の化粧箱から盗み出した白粉で、右の目尻のほくろを塗り潰した。兄弟は二人とも、白粉が自然に馴染んでしまうほど肌が白かった。それから、父が遺した万年筆で、兄の右目尻、自分と全く同じ場所に点描した。

「ぼくがいいって言うまで、ずっとだからね。わかった? 清司﹅﹅

「うん」

 そうして、兄弟は入れ替わった。

 夕食時、いつも以上に静かなので母は不審に思ったが、子供なりに勘付いているところもあるのだろうと推測するに留めた。

 普段より早い食事が終わると、母は後片付けもなおざりに、優しい調子で「神社へお参りに行こう」と言って、清司――修司の手を引き家を出ていった。

 修司――清司は、普段兄がそうしているように、何も言わず、顔色も変えず、冬の夕暮れに消えていく二人の背中を見送った。ばれはしないだろうか。母は二人の『いれかわりっこ』を見破ることはできなかった。修司も一度した約束は決して破らなかった。しかし、清司の心の中には大きな不安が残った。

 一人で待つ間、思いつく限りの兄との相違を徹底的に潰した。日常的に噛んでいた爪を削って整えた。相当短くなっていたため、深くまで削らざるを得なかったが、策略がばれぬよう、血が滲んでも半狂乱で削った。

 白粉で隠し続けることは難しいと思い、爪を削ったやすりで右の目尻の皮膚を削いだ。白い粉に血が混じって桃色になった。自分と兄との最も明確な違いを、完全に消し去ってしまいたかった。肌の表面が削げて、赤い組織が露わになった。鏡を見て、清司は幼いながらに自分という人間の内部を――愛を得るために兄弟を売った本性を、見た気がした。

 目尻からとめどなく血が滲み出る中、清司は自らが犯した罪の大きさに気がつき始めていた。でも、兄を身代わりにしなかったら、一体どうすればよかったのだろう。

 やがて、母が帰ってきた。隣に兄はいなかった。

 傷のある清司の顔を見て、母は大いに驚いた。手拭いで血を拭いながら、どうしたの、と訊いた。

 転んでしまったんです、と清司は答えた。まあまあ、可哀想に、と母は柳眉を下げた。目の前にいるのが修司と思い込んでいるからこその反応だった。

「清司は、どうしたのですか?」

 手当をされながら、声の震えを抑え、清司は訊いた。薄闇の落ちる玄関はがらりとしていた。

「悪い子だったから、鬼に食われてしまったの」

 憑き物が落ちたように、母は晴れやかな顔で答えた。

 悪い子。自己を否定されたことに傷つくと同時に、清司は自らの罪に打ち震えた。

「もう、会えないのですか?」

 罪の重さに、今にも泣き出しそうだった。しかし泣いてしまえば、母は永遠に自分から離れてしまうに違いない。修司は何があっても泣かないのだから。

 尋ねると、母は数年ぶりに――記憶にある内では初めて、清司の頭を撫でた。

「そうよ、これからはずっと、二人きりよ」

 兄だけに向けられていた優しい微笑みが、清司の方を向いた。清司の不安や恐怖は、その瞬間に、外から兆した光によって隅へ追いやられた。

 清司は狂おしいほど求めていた母の愛情が、我が身に降り注いでいるのを感じた。

「――修司」

 愛おしげに、母は兄の名を呼ぶ。

 母が愛しているのは自分ではないということはわかっていた。清司は兄に成り変わることで、仮初の愛を受けているだけ。清司は修司の代用品に過ぎなかった。

 それでも、清司は満たされていた。

 たとえその認識が、次第に鬱積していく「歪み」を孕み、いつかは崩壊する定めにあったとしても――



 辺りは時が止まってしまったかのように静まり返っていた。

 開け放たれた内縁に佇む少年を、月明かりが皓々と照らしている。

「最後まで、母さんは気がつかなかったよ」

 夜気に流すように言って、八重垣修司は庭に目を遣った。視線の先、立ち枯れた李の木の影が、ゆらりと揺らめく。

 やがて現れた者の姿を見て、修司は笑みを浮かべた。

 

「――久しぶり、清司」


      ◇


「どうしたんです先生。急にこんなところへ呼び出して」

 月の映る濠を眺めていた男は、振り向きざまに脇腹を撃ち抜かれた。

 端正な顔が突如として訪れた苦痛に歪む。何が起こったのか把握できないまま左の横腹に手を遣ると、赤黒い液体が掌を濡らした。

「――先生、」


「死ね――いや、殺す。絶対に」


 黄泉坂は地面に滴った赤に、弟の最期を見た。

 ――なら、絶縁してやる。脳裏に蘇る苦い過去を血の色に重ね、立て続けに二度、三度と発砲する。

 ――もう家へは戻らない。銃口から白煙がたなびく。絶縁の折に手元に戻ってきた父の形見のナイフは、かつて黄泉坂がその手で弟に贈ったものだった。

 決別の証となった品を、幼き日の弟は、陽に輝かして遊んでいた。その屈託のない笑顔を、黄泉坂は家族への愛しみとは性質を異にする感情をもって眺めていた。

 弟を、失いたくなかった。できることならば、ずっと手元に置いておきたかった。見えない檻に閉じ込めて、永遠に、自分の庇護の元で、二人の言葉だけを交わして……

 しかし弟は、離れていった。兄たる鬼の想いに、身を挺した愛に気づかず、どこの馬の骨とも知れぬ、弟が初めて口にした言葉すら知らぬ女の元へと。

 諦めはしなかった。いつか自分の元へ帰ってくる。一縷の望みに縋って待った。愛想を尽かした弟の口から悪罵が放たれ、薄汚い売女と気味の悪い二人の子供が路傍に捨て置かれるのを――待てども待てども、弟は帰ってこなかった。

 そして、弟は死んだ。不帰の者となった。彼岸花の咲く九月のことだった。

「――お前が殺したのだろう、鎖々戸新太郎」

 黄泉坂の声は平静だった。

「ははは……先生も丸くなられたものだと思ったら――だったのですね。道理で、気がつかない訳だ……」

 三発の銃弾に身体を穿たれてもなお、鎖々戸は立っていた。その苦痛に歪んでいたはずの顔に、笑みが広がる。

 得体の知れない影が、薄く笑った美貌を過る。足元から這い上がった闇に首まで沈んだ五体が、蝋の如く融解していく。

「ほんとうに、ほんとうに残念です、先生。貴方のことは、好きだったのに――」

 百合のような面差しが闇の色に染まった刹那、鎖々戸の姿は跡形もなく消え失せた。

 追うようにして、黒い炎が上がる。あちら側――心影界に潜没した黄泉坂は、黒白の世界に描かれた外桜田の上に、異形の影を認めた。

「それが貴様の本性か」

 応えるように怪鳥が翼を広げると、両翼から黒い汚泥が迸った。内部から膿のように溢れ、絶えず流動するヘドロは、怪鳥の足元に黒い沼を広げていく。臭うほどの「悪意」を放つ泥土は内面の世界を塗り潰し、ついには一帯を腹に収めた。

 全貌を現した心の領域――異常心域の主は、けたたましい咆哮を上げた。その体表で、幾百もの目が一度に開眼する。無数の目はぎょろりと蠢いた後、目下に佇む剣客に据えられた。

「人の感情を騙ることしかできない化物のくせに、好いているなどとよく宣えたものだ」

 蓬髪の剣士の腰に刀はない。守るべきものを失くした刃はその胸に突き刺さっていた。化生は己が胸からずるりと刀身を引き抜く。

 呪詛の如く刃に絡む血を、刀を振って払った。顔には苦痛ではなく嗤笑が滲む。肉の鞘となっていた胸からは、膿のような体液がとめどなく流れる。

「いくら人の真似事をしようと、私も貴様も、生まれついた本性以上の存在には成り得ない……気取られないよう封じていただけで、私は最初から『憎悪』でしかなかった」

 襤褸同然の着物を濡らした血を見遣り、剣客は言った。大きくはだけられた衿から見える腹部に、肉の皮は張られていない。口のように開いた空洞の中では、どす黒い憎悪が煮えている。

「どうして心鬼というものは、こうも醜い――」

 逆手に持ち替えた剣を汚泥に突き立てると、ありとあらゆる悪意が入り混じる混沌を正すように、切っ先を中心として漆黒の闇が広がった。浅く水に浸った果てない汀の領域は、汚臭を放つ沼さえ飲み込む。

 全貌を現した異常心域に、泥中に咲く蓮華が如く赤い花が生え出る。黒白の世界でただ一つ色彩を放つ、朱の彼岸花。

 死人花の庭の中、剣を中段に構え、黄泉坂は鬼の文法を紡ぐ。

「此は貴様を殺すための地獄。美しい死などくれてはやらん――この憎悪に焼かれて無様に死ね」


      ◇


 走馬灯がカラカラと音を立てて回っている。薄暗い部屋に投影される、色。夢の中にいるような、現実味に欠けた世界。

 足元には女が転がっている。女は腹から血を流し、死んでいる。

 その場に立ち尽くす憐れな男の姿を、半ば開かれたままの三面鏡が捉え、幾重にも複製していた。


      ◇


「双子って、離れていても似るものなんだね。清司もぼくも、揃って『ひとごろし』だ」

 戯れに拝借した包丁を弄びながら、修司は薄く笑う。

「ねえ、清司。ぼくら兄弟だから、包み隠さず打ち明けるけどね、実はぼく、母さんを殺しちゃったんだ。人を殺したのは清司のくせにぼくのこと悪く言うから、かっとなって包丁で、ね。清司なら、ぼくの気持ち、わかってくれるよね?」

 幼い頃の口調を真似て、修司は道化の笑み貼りつけた。包丁を逆手に握って。

 影の如く佇む兄弟は、無言。修司は三数えて、「黙るなよ」廊下に横たわっているものを蹴る。

「見ろよ、これ。莫迦清司は言われたこと何でも鵜呑みにするから、何とも思わなかったんだろう?」

 力なく仰向けになった頭部が半ば縁から落ちかかり、絹糸のような白髪が、だらりと垂れ下がった腕と一緒に踏み石の上に流れる。

 刃物で執拗に切り刻まれ、布切れ同然のシャツを纏うのみとなった薄い胸部を、月明かりが照らす。腰骨まで露わになった下腹部には、酸を浴びたようなケロイド状の爪痕。興味本位で下まで脱がして目にしたものを思い出し、修司は赤い舌を覗かせ、足の爪先を床で拭った。


「こいつ、自分のこと女と思い込んでるみたいだけど――男だよ」


 修司の謎解きの結果を、清司は何も言わずに静観している。

 鼻で嗤って、修司は「御匣梅子」を自称する青年を見下ろす。息絶えたように眠る姿は、精巧な蝋人形にも似ていた。陶磁器のように白く、透き通ったその胸に、女性の膨らみはない。胸郭の陰影は薄く、雪原のようななだらかな胸板が、微かな呼吸に合わせて上下している。

「こいつが頭のおかしいやつだって、清司も気づいてたんだろう? 自分に都合の悪いことは全部知らんぷり。ぼくがわざわざやったのに、忘れたふりしてさ。余程、自分の世界を壊されたくなかったんだろうね」

 床で眠る男らしい特徴に欠けた顔立ちは、目も鼻も輪郭も、全て繊細でなよなよとした曲線で描かれていた。自分が女だと思い込む内に、元から備わっていたであろう男らしい角が取れてしまったのだろうか。母と同じく『いれかわりっこ』に騙された青年を見下げ、修司は思う。

 そのとき、死んだように横たわっていた青年の身体が、ぴくりと動いた。

 間髪入れずあちら側に生じた激震を、修司は感じ取った。振動し、断裂し、この世と重なった心影界が、「御匣梅子」を中心として激しく歪む。

 彼岸で生じた凄まじい変化は此岸にまで届いた。最初に見えたのは拳ほどの黒い穴。青年の胸のあたりに生じた一点を中心に、床に倒れ伏した身体が熱されたガラスの如く歪曲する。彼岸の腐臭が此岸を漂い始める。追跡のため倦むほど嗅いだ鬼の体臭と同列の、醜悪な――耐えきれず、修司は口元を押さえる。

 現実と異界は彼を中央に据え、円を描いて混じり合い、ついにはその混沌に彼を溶かし込んでしまった。

 異世界の入り口は音もなく収縮し、やがて何事もなかったかのように空間が凪ぐ。

 修司は御匣梅子が消えると同時にあちら側に顕現した領域を知覚した。圧を持って広がったそれは、「異常」と形容するより他ない。

 あまりの気配に修司は戦慄した。しかし、そのおぞましい妖気は転瞬の内に掻き消えた。

 ――放たれた矢の如く、化け物は南へ向かった。

「修司」

 呼ばれて、そちらを向く。先ほどと何ら変わらぬ様子で、兄は立っている。

「どうしたの、清司」修司の顔に、偽りの笑みが蘇る。

「君は、何が理由でここに来たの」

 備わっているはずの変化を欠いた、泣きも笑いもしない自分と瓜二つのその顔。

「ああ、そうだった」

 忘れていた風を装い、修司は眼帯を外す。

 その容貌に、清司のような瑕疵はない。心持ち切れ上がった右の目尻には黒い一点の刻印。

 修司は口角を吊り上げ、白い歯列を覗かせる。


「ぼくは、お前を殺しに来たんだよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る