四章

 『アタラクシア』とは、一体何なのでしょう。

 大真面目な顔をして青年が部屋を訪ねてきたのは、上野の銀杏イチョウが黄金に光る晩秋の頃だ。

「――何を急に」

 突然の訪問に面食らっていると、若い男は慇懃に頭を下げた。

「先生の講義は帝大でも評判なのだとか。是非ともご教授願いたい」

 学生の身分でありながら、彼は外国製のスーツに身を包んでいた。財力だけが取り柄の成り上がりには決して似合わない代物だが、持って生まれた気品のためか、一分の不相応さも感じさせなかった。

「あれはたまたま代理でやっただけだ。それに君みたいな者が、私なんかに頭を下げるんじゃない」

「じゃあ、侯爵家の長男の頼みだと言ったら、教えてくれますか?」

 そう言って居住まいを改めた男の顔――軽く首を傾げ、悪戯めいて笑っている。

 許しがあることを知悉した子供のような無邪気に、黄泉坂征は歯噛みした。

「……君、嘉幸よしゆき義兄さんに招かれて来たんだろう。客が急にいなくなったりしたら、義兄さんも驚くんじゃないか?」

 不愛に問うと、右目尻の泣きぼくろが特徴的な青年は形の好い唇を尖らせ、「みんな、俺を邪魔者扱いする」

「嘉幸君――黄泉坂子爵様が御用なのは、俺じゃなくて父の方です。体面ばかりの話にも入っていけず、退屈しのぎに茶々を入れていたら邪魔だと言われて追い出され、暇を持て余してしまった俺は、こうしてやむなく、帝大教授が住むと言われるオンボロ小屋を訪ねているのですよ」

「君はなかなか無礼な物言いをする」

「だって、事実じゃないですか」

 一転して、男は破顔する。興味深そうに部屋を見回し、

「母屋からも離れているし、隔離病棟じゃないんですから。俺が口を利いてさしあげましょうか? こんな物置じゃなく、一等いい部屋に住まわせてくれるように」

 黄泉坂は自嘲めいて笑う。

「義兄さん曰く、貧乏は一種の伝染病らしい。お気遣いはありがたいが、遠慮しておくよ」

「へぇ、本当に隔離病棟なんですね」

「そうだ。だからとっとと出ていってくれ」

「ちぇっ、けちだなぁ。――また来ますからね」

 にべもなく追い払われ、その場こそ素直に去っていった男だが、しかし数週間後、予告通りに再び姿を現した。

 土のままの玄関で、隙なくスーツを着こなした青年はにこやかに笑っている。

「先生の論文、読みましたよ。『永劫回帰と実在について』。難しいところはよくわかりませんでしたが、とても興味深い内容でした。ご友人に聞くところによると、先生は哲学科の首席であったとか。――さあ、もう逃げ道はありませんよ」

 相変わらず、爽やかにずうずうしい男だった。黄泉坂は厚い独語辞典を閉じた。

「余計なことを……あれを読むとは、余程暇なんだな」

「金と暇だけは有り余っていまして」

 履物を脱ぐと、ささくれが付くのにも構わず、男は痛んだ畳に正座した。

「どうか、ご教授を」非の打ち所のない完璧な笑みを浮かべ、言う。

 しばしの沈黙の後、黄泉坂は目を伏せ、深く息を吐いた。

「――Ataraxiaとは、一切の苦痛や恐れを排した、理想的な魂の境地のことだ」

 煤けた表紙から視線を移せば、望みが叶い、にわかに輝く美貌があった。――澄ましていればいいものを、どうにも子供臭い言動には呆れざるを得ない。再び目線を落とし、辞典の題を指先でなぞりながら続ける。

「……エピクロスの快楽主義の思想が元で、その名のせいで誤解されがちだが、快楽主義が理想としたのは、物質的な贅沢や肉体的な快楽を得ることではなく、飢えや渇きなどの苦痛、死や神に対する恐れからの解放だ。享楽のために心を削るより、欲を捨て、最低限の充足によって心の平安を保つ。心を乱すような不安要素を排した、穏やかに凪いだ海のような魂の平静を、Ataraxiaという」

「……何かに苦しむことも、怯えることもない。まさに理想ですね」

 密やかな声を追って視線を上げると、男は端座したまま遠くを見据えていた。

「生きながらに全ての煩わしさから解放されたなら……世界はあたかも天国のように思えるでしょうね」

「君に悩みなんてあるのか」

 失礼な。言って、男は瞑目した。新雪のような肌に影が落ちるほど、その睫毛は長い。

 ――アタラクシア。囁いた彼の眼裏には、まだ見ぬ理想郷が広がっていたに違いない。

 直後、小屋の戸が大きな音を立てて滑った。

「何だ、兄貴のところにいたのか。行方を眩ましたって言うから慌てて探し回ってたのに、呑気なやつだ」

「――ああ、辿君じゃないか」

「辿、帰ってきていたのか」

 入り口で呆れている青年は、軍服姿だ。

「知り合いなのか?」

「ええ、この前来たときに話しまして。こう見えて同い年なんですよ」

 二人を見比べつつ訊くと、ズボンの裾をはたきながら男が答えた。

「片や陸士の優等生、片や能なしのぼんくら。正反対なように見えるが、案外気が合ったりするもんでね」

「暇つぶしに、あちこち連れ回されてんだ。堪ったもんじゃねえ」

「――どこへ行く気だ」

「今日は近所をぶらぶらする予定です。――ついでにこいつの想い人を一目見ようかと」

「余計なこと言うな。行くならさっさと行くぞ」

「まあそう照れずに。――先生、今日はありがとうございました」

 初めて来たときのように、男は丁寧に礼をした。後ろでは弟が苛立たしげにその様子を見ている。

「今度来るときは、手土産でも持ってきますね。――では」

 華やかに笑んで、男は部屋を辞した。

 彼がもう一度会釈をして戸を閉める間際、弟と目が合った。

 合うや否や、弟は目を背けた。重ねて陽の色に焼けた横顔。刃を横に含んだように、固く結ばれた唇。頑ななその様子は唯一の肉親さえ、拒絶しているように思えた。

 待て。思わず口走った声は戸の閉まるけたたましい音にかき消され、誰にも届かなかった。

 二人の気配が遠ざかっていく。古びた物置きに孤独が再来する。咽るような黴の臭い。風のささめき。するはずのない李の香が、眩いばかりの夏の光と共に脳裏に訪れる――

 晩秋の冷気が忍び入る部屋の中で、黄泉坂は静かに憎悪を噛み殺した。


      ◇


「今日は朝から大変だったね。昨日の晩もある意味大惨事だったけどさ。よりにもよって僕を疑うなんて、酷いよ征君」

「ディーラーを疑うのは当然だろう」

「十年以上一緒にいるんだから信頼してよ。疑うなら梅子君の方にすればよかったのに。なんて可哀想で憐れでいたいけな僕」

「眼鏡を買い替える金くらいくれてやると、いつも言っているだろう」

「どういう意味さ」

 黄泉坂は答えなかった。眼前には、城のように頑強な、煉瓦コンクリートの建造物が聳えている。

 ――帝都の発展を代表する建築の一つ、帝国ホテル。

 その全貌は優雅な要塞と形容しても過言ではなく、事実、大正十二年に落成したこの建物は、同年の第一次帝都大心災の災禍を生き延びている。

 思案する風に建物を見上げ、黄泉坂は隣に向き直る。「何をしている」

「今日だけじゃなくて、いつもお洒落すればいいのになぁ、って」

 指で作った枠の向こう側で、燕尾服姿の早乙女は切れ長の目を引き絞った。

「せっかく格好良いのにさ、服も征君ももったいないよね――そうだ、今度写真を取ろうよ。僕と征君とで、家族写真。二人きりの」

「断る」

「記念写真は? 箱根に旅行に行ったら撮ろうよ」

「却下だ。旅行も行かない」

 背を向けた黄泉坂に早乙女は唇を尖らせる。「けち」

「もしかして征君って、写真嫌い?」

「……大昔に家族で撮ったが、あまり写りが良くなかった」

「ああ、なるほどね」得心顔の早乙女は隣に並んで心鬼の顔を覗く。「そんなに気にしなくてもいいんじゃないの?」

「一人だけ、人の顔をしていないのは目立つ」

「じゃあ、今度見せてよ。征君の子供時代、見てみたいなぁ」

 黄泉坂は同居人を一瞥し、「義兄さんと一緒に燃えた」

「……それは残念だね。日野道ひのみちの家族と撮ったんだろう?」

「そろそろ時間だ。離れろ」

 二歩の距離に追いやられて、早乙女は口の端を笑みの形に歪める。

「心配しなくても大丈夫だよ。僕、ちゃんとした場では、それはそれはお行儀よくするから。征君が一番よく知っているだろう? 僕が優秀な役者だってこと。

 お望みなら、素直で従順な――

 弓なりに目を細めると、返ってきたのは言葉ではなく、人ならざる者の視線だった。理を異とする、絶対的な隔絶の。

「厳しいなぁ、もう」呟いて、絹帽の下に目元を隠す。

 黄泉坂は義弟――黄泉坂直を置き去りに早足で歩き出す。人の顔で玄関をくぐる直前、足を止め、視線を後ろへ遣った。

 昼間の温度の名残を攫う風が吹き抜け、玄関前の噴水の、天の群青を映した水面がさざ波立つ。

 世界の彩度は薄らぎ、夜が訪れようとしていた。


「お久しぶりです、先生。少し、老けられましたか?」

 とある人物のために開かれた夜会も半ば、出席者への挨拶を一通り済ませ、豪華な西洋料理もそれなりに口にした黄泉坂と早乙女はテラスで休んでいた。

 椅子に腰掛け、黄泉坂はすっかり夜の色に染まった空を、早乙女は義兄の横顔を眺めていた。

 そこにやって来た人物こそが、今宵の会の主役であった。

「会うなり失礼なことを言う。英国留学で君も少しは変わるだろうと思っていたが、残念ながら相変わらずのようだな、鎖々戸ささど君」

「留学と言ったって、たったの二年です。その上ほとんど遊んでいたようなものですから。人間、そう簡単には変われませんよ」

 紳士――鎖々戸侯爵家の長男・新太郎しんたろうは目元に華やかな笑みを浮かべる。空いた椅子に腰を下ろし、足を組む。何気ない動作からも、生まれながらに備えた品位は見て取れた。

「先程は応対に追われていて、ゆっくりと話をすることができませんでしたからね。――ところで先生、この御仁は?」

 鎖々戸は心持ち切れ上がった黒曜石の瞳を、隣に座る赤銅の髪の男に据えた。その横顔は、東洋人のものに比べて高低の差が顕著だ。

「紹介していなかったか? ――おい、君」

 呼ばれて、早乙女は毒気ない愛想を浮かべた顔を向ける。

「こんにちは。さっきも一度顔を合わせました。前にも何度か会ったことがあります。黄泉坂直です。黄泉坂嘉宣よしのりの養子で、征とは義兄弟の関係です」

 早乙女直――ここにおいては黄泉坂直は友好的な年少者の笑みを形作った。

 鎖々戸は朗らかに笑った。

「やっぱり、会ったことがあったか。そう言えば、確かにさっきも会ったな。最近、顔と名前が一致しなくてね。どうやら俺も呆けてきたらしい。君のような面構えの人は滅多にいないのに。

 ――あまり人の生まれを詮索するようなことはしたくないんだが、気になってね。どこの国だい?」

 どこの血が混じっているのかと訊かれ、早乙女はほんの僅かだが口端に不快を覗かせた。しかしすぐさま化け狐の笑顔を作り直し、

「フランス」

「へぇ」

「――かもしれないし、貴方が遊びに、失礼、ご遊学されてきたというイギリスかもしれない。ドイツという噂もあるし、スペインだとも言われている。ひょっとすると砲弾に混じってロシアの方から飛んできたのかもしれない。突然変異が起こっただけで、実は日本人なのかもしれない――僕に流れている血がどこのものなのか、僕自身も知りません。けど、ルーツなんてものにとらわれる気はさらさらありません。元が何だろうと、僕には今の僕しかありませんから」

「こんなことを宣っているが、正体は築地の魚屋の息子だ。父親がどこぞの外人なんだと。頭だけは優秀で、才能に惚れこんだ義父がゆくゆくは自分の片腕にするつもりで家に引き入れたところまではまだよかったんだが、死ぬ間際、こいつを養子にするよう言い残してね。おかげで大迷惑を被っているよ。ろくなことをしないものだから」

 黄泉坂が口を挟むと、呆気に取られていた風の鎖々戸は肩を揺らして笑った。

「なるほど。一向に成長しない俺とは違って、あれほど堅苦しかったご隠居様も変わられたものだ。きっと、雲の上から御家の波乱を眺めて楽しもうと思ったんだろうなぁ……

 うん、そうだな。君を見てもわかる通り、ルーツなんて取るに足らない問題なのかもしれないな」

「由緒ある堂上華族の嫡男が、そんなことを口にしていいのか?」

「名前が新太郎ですから。新しく、自由であることが期待されているんですよ」

 鎖々戸は笑い交じりに言って、それからふと、真面目な顔つきになった。

「聞いてくださいよ、先生。昨日、不思議なことがあったんです」

 テーブルに肘を立てて両手を組み合わせ、やけに真剣な面持ちで続ける。

「俺は昨日の昼間にこっちに帰ってきて、それから時間も元気も有り余ってたんで、故郷の景色を懐かしみながら、ぶらぶら散歩してたんです。途中浅草寺に立ち寄って、今後の運勢を占えば凶。恋愛結婚共にするべからず。待ち人も来ず。またか、とがっかりしていたらですよ、いたんです。

 ――俺と、そっくりな子供が」

「へぇ」驚いた風に声を上げ、黄泉坂は先を促す。「それで?」

「先が気になりますか?」

 鎖々戸は勿体ぶって視線を落とした――かと思うと、顔を上げ、明るく笑った。

「残念ながら、それだけです」

「なんだ」

 黄泉坂は呆れたように息を吐き、「君の活動記録を聞かされただけか」

 俺にとっては一大事なんですから、と鎖々戸は居住まいを正す。

「結婚しても子はなし、その上死別。とことん縁がないらしい俺に、神様があの子を遣わしてくれたに違いない。

 俺がこんななせいで、このままだとうちの家が危ない。もう一度彼にまみえることがあったら、正式に俺の子になってくれと掛け合う所存です。彼曰く、誘拐は犯罪だそうですから」

 昨日の出来事を思い出したのか、可笑しそうに笑む。

「素直で、面白い子でした。また彼に会わせてくれと、彼と出会った浅草寺に神頼みでもしに行こうかな」

「こういう時だけ神を頼りにするなんて、調子のいい奴だ。

 ――して、鎖々戸君。君のご家族はお変わりないかい? 御両親と、それから弟御も」

 尋ねると、鎖々戸は声を上げて笑った。

「何を急に改まって。父も母も、相変わらずピンピンしていますよ。父なんかはなかなか俺に爵位を譲ってくれない。早く隠居しろと勧めているのにも関わらずね。おかげで三十四になっても、俺は無職のままだ。

 アメリカに留学している啓太郎けいたろうのやつは、たまに絵葉書を寄越してくるから元気にはしているらしいが、何分忙しそうで。しばらく会っていないなぁ」

「――そうか、」

 一瞬の無音。紳士は天から啓示を受けたかのように、黒曜石の瞳を瞬かせた。「ああ!」

「俺としたことが、目的をすっかり忘れていた。お二人をダンスに誘いに来たんだった。

 ということで、先生も直さんも、この後のダンスパーティーにぜひご参加ください。お二人とも好男子であらせられるから、臨席のご婦人方もさぞお喜びになることでしょう」

 鎖々戸の笑みは生来の品と、人を惹きつける純朴さを備えていた。右目尻のほくろは涼やかな瞳が細められて一層色を放ち、秀でた容姿を持つ彼が、社交界の花形やら貴公子やら褒めそやされているのを、黄泉坂は知っている。

「遠慮しておくよ。私もこいつも踊りが下手でね。ご婦人方をがっかりさせてしまうことは目に見えているから。夜会の花は一輪で十分だよ、鎖々戸君」

「相手を取っ替え引っ替えしながら一晩中踊らされる俺の身にもなってくださいよ。ちぇっ、生贄作戦は失敗か」

「私たちを身代わりに逃げる気だったな」

 悪びれる素振りもなく笑って、鎖々戸は席を立つ。

「では先生、俺はここらで失礼します。……申し遅れましたが、御兄弟と御両親のこと、本当に残念でなりません。先生も事故にはお気をつけて、それから、くれぐれもご自愛くださいね。――それでは、また会う時に」


「僕は、それなりにダンスが上手なつもりでいるんだけどな。征君と一緒にしないでほしいな」

 貴公子の背中が消えてから、早乙女は言った。幾分解れた寒さの中、澄んだ空には盆のような月がかかっている。

「ダンスって、ボンダンスのことか?」

「ろくにステップも踏めないくせに、よく言うよ」

 言い返すと、黄泉坂は静かに笑んだ。僅かに持ち上がった口の端から覗く鬼歯は、人間の仮面の名残。叢雲がかかるように三日月なりにたわめられた瞳に闇が満ち、夜の帳が降りるように口角が沈む。化生の静謐の回帰に思わず身震いし、早乙女は絹帽で口元を隠した。

 上目に見た義兄の横顔に、最早笑みの影はない。

「……会ってたんだね。もしかして、計算?」

 人の真似を覚える前は、四六時中こんな表情かおをしていたのだろうか。面差しを窺いつつ尋ねると、化生は形だけは人間の、ごく薄い唇を開く。

「いや、浅草か銀座か、賭けだ」

「賭けるのはコインだけにしてよ。僕らが清司君に踊らされてる間に、あちこち大騒ぎじゃないか」

「久しぶりに会って、余程驚いたんだろう」平然と、黄泉坂は言った。目線だけを義弟に寄越し、「そういえば、捨て札が行方不明らしいな」

「あれ? 僕、征君に伝えた覚えはないよ?」早乙女は目を丸くし――得心した風に笑む。

「ということは、なんだね。シンキって、ほんと敏いよね。

 征君の言う通り、破いて燃やしたらしいんだけど、痕跡がなくってさ。訊いてみたけど、記憶はあやふやで証言もちぐはぐ、まるで狐につままれたみたい。手続き上は問題ないから、残る原因究明は征君に任せようと思ってたけど……やっぱりね。

 もう。何がそういえば、さ。白々しい。わかってたのなら先に言ってよ。いつから気づいてたのさ」

「昨日の夕方くらいだな。

 ――新参のくせして小賢しいやつだ。無謀に仕掛けたりせず、相手を選んでいる」

 無音のうちに視線が交錯し、早乙女は軽く口角を持ち上げる。

「征君のせいで帝都が百鬼夜行じゃないか。蛇どころかとんでもない化物が出てきて、収集つかなくなったら嫌だよ。今日も朝から振り回されっぱなしで、僕、疲れちゃう。責任取って、」

 箱根、と口にする前に、黄泉坂は釘を刺した。「行かない」

「朝は何もせず寝ていただけだろう。追いかけたのは私だ。全く、縁者総出で迷惑をかける」

 つまみ食いした薬のおかげでぐっすりだったよ。早乙女はにっこり笑う。

「あの家系、一体どこから何が出てくるかわかったもんじゃないね。やっぱり血統なのかな。心の形成に作用する因子があるのかも」

「因子の存在は、可能性として十分にあり得る。とある島では、二、三代ごとに特定の血統に心鬼が出る。現の肉まで屠る、邪悪な性質のものがな」

「へぇ。心の質まで左右する因子があるんだったら、結婚相手は考えた方がいいねぇ。慎重に選んだところで、托卵してくるカッコウはいるけれど」

「……血縁に私がいるんだ。どうせろくな子は生まれなかったさ」

 義兄の顔に影が差すのを見て、早乙女は琥珀の目を細める。

「征君って、ほんと一途だねぇ」

 闇がそのまま凝ったような目が向けられただけで、言葉はない。

 鬼の深層にナイフの切っ先を宛がっている気になって、早乙女は笑みを深める。

……」

 隔絶の硝子の向こうから早乙女を見据えるのは、明晰な理智の下に血族を滅ぼし、それでも尚どす黒く滾る憎悪を宿す瞳。

「――何が言いたい」

 自分を見つめる顔に何の変化も生じないのを、早乙女は口惜しく思った。

(僕に、この顔を歪めることはできない)

 絹帽で隠した唇をそっと曲げ、呟く。 


「……僕は、征君の弟が羨ましいよ」


      ◇


 鬼の気配を追う清司は、わたしを伴い上野で市電を降りた。

「上野? 結局うちの近所に戻ってくるんじゃないか」

「いえ、気配を感じるのはもっと先です。梅子さんは家に戻って待っていてください」

 確認のためか、一度心影界に潜って帰ってきてから清司は告げる。

「む。足手まといということか。先輩であるわたしが」

「いいえ。相手に動きがありました。東に――ぼくたちの方に向かって移動しているようです。幸いこちら側にいるようですが、いつ潜るかわかりません。潜られると、心域も広くなりますから」

 危険です、と清司は念を押した。「ふいに相手があちらに潜ったとしても、ぼくらが気づかれずにいられる限界がここです」

「……そこまでわかるのか」

「はい。ぼくは、鼻が利くようなので。相手の間合いを上手くすり抜けて、住処だと思われる場所を調べてきます」

 何て優秀な後輩なんだ。頼もしいやら腹が立つやらで複雑な心境のわたしを、清司は丁寧に家まで送り届けた。

「呪いの灯火は点けておくから。危ないと思ったら全速力で帰ってこいよ。深追いは禁物だぞ」

「はい、わかりました」

 任せたぞ清司隊員。斥候に向かう後輩に、わたしは敬礼した。清司は真顔でわたしの顔を見、何も言わずに黒い破片となって散った。玄関は静寂に包まれていた。

 ――そうしてわたしは黄泉坂子爵邸の薄暗い居間で、清司の帰りを待っていた。

 いつもは早乙女が占領しているソファに寝そべり、部屋の天井をぼんやりと目に映す。年季の入った板目の、ちょうど黄泉坂の定位置を見下ろすあたりに、人の顔みたいな模様がある。半年ほど前、わたしと同じように寝そべっていた早乙女が発見し、面白がって大げさに取り立てた。朝の時間、ちょうど朝刊を読んでいた黄泉坂は天井を見上げて一言、「義兄さんだろうか」……

 あまり眺めていたいものでもないので、わたしはごろりと横を向く。埃の積もった長押に刺さった金具。飾られていたであろう遺影はない。仏壇も神棚も、この家のどこを探しても見つからなかった。信仰というものを、家主は持たないらしい。

 かつて子爵家に暮らした人々を知ることのできるものは極端に少なく、黄泉坂曰く、みんな火事で義兄と一緒に灰燼に帰したとのこと。

 火事と聞くと、あの黒い炎ばかり浮かぶ。燃えたのではなく、燃やしたのではないか。常から後ろに闇を背負っているようなものだから、黄泉坂が今さらどんな後ろ暗いことをしていようと、背後の闇に紛れてわからない。

 家族構成も、判然としないところが多かった。黄泉坂と早乙女は二人共ここの養子だが、元々この家には三人兄弟がいたらしい。過去形なのは、三人全員に等しく不幸が降り注いだからで、確か上から順に、火事、自動車事故、自死。妻子も巻き込まれたという。維新の功臣として叙爵された黄泉坂子爵家の血統は、最早途絶えたも同然だった。

 この家は、どうなるんだろう。漠然と現黄泉坂子爵亡き後を考えてみるが、早乙女は爵位なんかに興味はなさそうだし、思い出の詰まった家を泣く泣く売り払って、どこかへ引っ越してしまいそうだった。きっと、箱根のあたりに。

 わたしと清司は行く宛がないから、こぢんまりと、それでいて瀟洒に建てられるであろう早乙女邸に一緒に連れて行ってくれないかなぁ――なんてことを考えていると洋燈の明かりが揺れ、廊下から足音が聞こえてきた。

「ただいま戻りました」

「おかえり。何事もなかったか?」

 はい、と人形のような顔の小さな唇だけ蠢かして、清司は返事をした。

 あと十分程で十七時になろうとしていた。小腹が空いた気がして、戸棚に昨日土産のついでに買った羊羹があることを思い出す。食べながら報告を聞こう、と清司に向かいのソファを勧めると、清司は首を横に振った。さりげない手つきで洋燈を消す。

「ぼくが見てきたものを、お見せします」

 腰を浮かせたわたしを再び座らせて、清司はわたしの頭部に手を添えた。

「あっちを動き回って疲れているだろう? 居場所は割れたんだし、後は黄泉坂たちが帰ってきてからでいいんだから、少し休憩しよう。働きすぎはよくないぞ」

「いえ、記憶は時間が経つと薄れてしまいますから。今のうちに、梅子さんに見ておいてもらいたいんです」

 わたしは頭を掴まれたまま、上目に清司を見る。仄暗い闇が満ちる中、長い睫毛の影を落とした黒曜石の瞳が、わたしを見下ろしていた。

(――梅子さん)

 比較的近い位置で、彼がわたしに囁きかけた。(貴女はきっと、俺を殺すんです)

「……わかった。見せてもらおう」

 言って、わたしは目を瞑った。暗闇が広がるばかりの眼裏に、清司の記憶が投影される。

 ――大きな洋風の門を、清司は見つめていた。

 両開きの門扉は鉄製で、猛獣を閉じ込める檻のような鉄棒の並びの向こうには、広大な前庭を巡る車回しが見て取れた。経路に沿って見事な黒松が枝を広げ、ずっと奥にはまるで迎賓館みたいな洋風建築の屋根。点々と滴る黒い液体は、敷地の中へと道を示していた。

 清司は造作なく門をすり抜ける。景色が切り替わり、今度は先ほど屋根が見えていた洋風建築の前。正面からお邪魔して、欧州の城の中のような内装を突っ切る。靴を脱ぐ場所は存在せず、床には絨毯が敷かれていた。二階へ続く階段は壁に沿って緩やかな曲線を描きながら優雅に降ろされ、努めて多く設けられた窓からは明るい外の光が差していた。何から何まで、うちをまるきり反転させたような建物だった。

 裏へ出ると、最盛期の黄泉坂邸もかくやとばかりの大きな日本家屋があった。あったといっても裏口を出てすぐのところではなく、巨大な庭園を間に置き、洋館とは垂直の位置に玄関を構え、左右に甍の翼を広げていた。

「こんなに広くて、一体何人住んでいるんだ? 金持ちの家なのか?」

 集中しているのか、清司は答えなかった。

 清司は庭園の一角を占める築山に登った。人が作ったにしては大きな山の上の東屋からは恩賜公園と同規模の、鏡面のような池が望まれ、中の島に渡る反り橋のたもとでは、小舟が揺れていた。ここに鯉をたんと放して餌やりでもしたらさぞ楽しかろう。

 場面が変わる。おそらくあの和風建築の母屋の中だろう。清司は厨を覗き込んでいた。

 そこでは二人分のもや《﹅﹅》が、夕飯の支度をしているようだった。片方のもや《﹅﹅》に浮かぶ球は海の底のような暗い色をしている。

 あたりを見回して、清司は物陰で現世に戻った。

「……様は、優しいお方でした」

 聞こえた若い女の声は、震えていた。

「私の十六の祝いだって、私なんかに、自分のお着物をくださって……浅葱色の、とても綺麗な」

「そんなしんみりした話はおよし。お家の人のお耳に入るといけないから」

 年かさの女が答える。

「でも私、今でも信じられなくて。どうして――」

 清司は再び心影界に潜った。

 わたしは白黒の景色を見せられながら、二人の女の声を必死に耳から追い出そうとしていた。顔も知らない他人の声は、今は遠いわたしの幻聴に異物となって混じった。実際にこの耳で聞いたことがないという点において、両者には何の違いもない。声は漣に向かって投じられた石くれのように、優しい声の連なりを掻き乱した。

 清司は構わず奥へと進んだ。わたしの鼓動が少し早くなる。

「清司、清司」

 清司は応えない。

「清司、止まってくれ」

「――わかりました」

 記憶の中の清司は足を止めた。

「止まってくれって、違う、そういう意味じゃない。手を離してくれ。少し、疲れた――」

 ――清司は現実世界に出た。わたしを解放することなく、脳内に記憶を流し込む。

 色のついた現実は、和風の離れだった。歩み出た濡れ縁から見える空が広い。 

 そこに腰掛けて、後ろを振り返る。薄暗い室内には誰もいない。

 わたしの呼吸が、そこで一瞬停止した。

「どうして、いや、ここは――」

 一畳だけ違う、畳の色。どこかで見たような景色。

 色褪せた、夢の。わたしの夢の景色。

 彼の声がする。

(お願いですから、いつか、いつかきっと、)


(――俺を、殺してくださいね)


「あ、ああ、」

 なんてことだ。図らずしも道が繋がったことに、わたしは気づいてしまった。

 これが本当なら、わたしは――

 いつか不忍池で黄泉坂が問うた声が蘇る。


「……正直に答えろ。君は――――」


 ――人を殺したことがあるか?



「どうされましたか、梅子さん」

 清司の声で、はっと我に帰る。

 宵闇に沈んだ居間のソファに、わたしは横たわっていた。

「……昔のことを、思い出した……のかもしれない」

 重い身体を起こせば、暗い脳内で走馬灯が回り始める。回るうちに、投影される色は鮮やかさを増していく。

 清司は何も言わずに、わたしを見下ろしている。

 注がれる視線に耐えきれず、わたしは俯き、幻聴の響く頭を抱えた。回転し続ける走馬灯は、今や現実と同じ色を映している。

 青々とした夏空の下、縁側に座るわたしの後ろから、彼の声がした。

 解けゆく混乱の糸を、涙が伝って落ちる。

「聞いてくれ、清司。――わたしは、人を殺したのかもしれない」


 かつてわたしが、わたしではない誰かだった頃、わたしは、人を殺した。

 わたしが殺したのは――わたしに殺されたのは、おそらく、「彼」だ。

 彼は、夢で、幻聴の声で、いつもわたしに懇願している。

 殺してくれ、と。

 だからきっと、過去のわたしはその言葉に従って彼を殺した。清司が少女を殺したのと同じように、請われるがまま。

 ――あの家だ。あの家で、わたしは彼を殺した。今ならそう確信が持てる。

 いつもわたしが座っているのは、あそこだった。夢の中のわたしはいつもあの縁側に座って、空を眺めている。

 畳の色が……彼がいつも立っている場所の畳の色が違っていた。そこだけ新しかった。張り替えられたのだろう。わたしがそこで、彼を殺したせいで……

 請われての事とはいえ、人を殺してしまったかつてのわたしは、その罪悪感に耐えることができなかった。だから全てを捨てて、今の「わたし」を作った。

 わたしがいつも聞いているこの声も、きっとわたしの前身――「彼女」の罪意識からくるものだ。この声を忘れないことが、殺してしまった「彼」への罪滅ぼし。そうだ。そうなんだ……

 わたしの存在は罪滅ぼしなんだ……


 わたしが思うままに吐き出す間、清司はじっと、わたしの告白を聞いていた。

 いつの間にやら顔を出していた月が、明かりのない暗い部屋を、かろうじて顔の造形がわかる程度に照らしている。

「……謎解きをしましょう、梅子さん」

 全てを吐露し、放心しているわたしに関せず、清司は形の好い唇を蠢かせた。

「黄泉坂さんたちに報告するために、調査したことを整理する必要があります」

 清司は月明かりの差す窓辺へ歩み出た。表情は逆光で窺えない。

「まず最初に、ぼくは正門からあの家にお邪魔しましたが――表札には何とありましたか?」

「――――、」

「ぼくの記憶を、梅子さんは見たはずです。覚えていないのですか?」

「いや、見た。し、覚えている。ど忘れしただけだ。ちょっと待て、えっと……」

「いいえ、梅子さんが覚えているはずがありません。なぜならそれは、梅子さんにとって『都合の悪いこと』だからです」

 気味の悪い空白が、わたしの脳内から外界へと流出する。

「――どういう、ことだ」

 絞り出した声は頼りない。「わたしにとって都合が悪い、だと? 人の名前が都合の悪いことなんてあるか」

「では、訊きます。――あなたは本当に、『御匣梅子』さんですか?」

「何を言うか。わたしは『御匣梅子』だ。記憶喪失になっても名前だけは覚えていたんだから本当だ」

「窓を見てください。映っているのは、本当の『御匣梅子』さんの顔ですか」

 夜の庭を透かした窓には、歪んだ室内の景色が薄っすらと映っている。「やめろ!」清司が部屋の明かりをつけようとするのに気づき、大声を出す。清司がこちらを向く。何故制止する必要があったのか自分でもわからず、呆然と清司を見上げる。

 清司は僅かに目を細める。初めて目にする表情に、怖気が走る。

「梅子さん、あなたは間違いを犯しています。それはとても、根本的なものです」

 月明かりを背に、表情に影を宿した清司はこちらに歩み寄った。ソファに座り込むわたしの前に立ち塞がる。

 清司はわたしを覗き込み、決定的な一言を突きつけた。

「梅子さん、あなたは梅子さんではありません」

「そんなこと――!!」

 あり得ない。わたしが腰を浮かすと同時に、清司は心影界に消えた。

 現世から退出する直前、闇に沈んでいく清司は――笑っていた。

 頑固だねぇ。紅い唇から吐き出された囁きが嫌に耳に残る。

 一人残されたわたしは、直後、突然の激痛に襲われた。

 頭蓋を無理矢理割り開かれて、露出した脳髄に手を突っ込まれ、乱暴にかき混ぜられて。鍋の底を攪拌し好みの具が浮かんでくるのを待つように。やがて何かが掴み取られ、ずるずると、まるで臓物を引きずり出すかのようにぶちまけられる。


 ああ、ああ――


(――たとえ俺がいっぺん死んでしまったとしても、貴女は俺を殺すんです)


 理想世界が、壊れていく――


(約束ですよ――)

 

      ◇


 ――君の復讐に手を貸してあげる。僕を自由に使ってくれていい。言うことは何でも聞く。そのかわり、僕を、君の「弟」にして――


 早乙女直が黄泉坂征という男と最初に出会ったのは、彼が十七の時。

 当主の嘉幸に、その妻と、十と七の二人の子、先代とその妻、嘉幸の二人の弟とその妻子。そこに当時書生だった早乙女も呼ばれて、一同が顔を合わせる晩餐の席でただ一人、「異質」という名の孤独を纏って座っていたのが黄泉坂征だった。

 「異質」という点では早乙女も同じであったが、早乙女は黄泉坂征とは違い、先代に取り入り、信頼を得ていた。その分、形式限りではあるが孤独ではなかった。

 晩餐の途中、先代に請われて早乙女は自慢の弁才を披露した。見せかけだけの内容に皆が笑う中、黄泉坂征はただ一人、黙然と箸を動かしていた。

「おい、そこの」

 その様子が目についたのであろう。早乙女の隣に座っていた先代が、笑いを取り下げ言った。

 呼ばれても、浅黒い肌の男は顔を上げなかった。

「ずっと庇っていた弟に裏切られたのが、余程堪えたらしい。慰安旅行から帰ってきてもこの調子だ」

 常から蒼白い顔の嘉幸は鼻で嗤った。

 ここ三年ほど欧州にいたらしく、今年の頭にこの家に入った早乙女は黄泉坂征に関しては全くの無知だった。家の人間が彼について話すことはほとんどなく、話したとしても陰口で、早乙女自身も漠然と、彼がこの家の「弾かれ者」だと理解するにとどまっていた。

「その弟は、今何してるんです?」

「家と絶縁までして貧乏人の娘と結婚して、今は子供が二人。畜生腹だな、あれは。生活は何とかなっているみたいだが」

「俺も気になって覗いてみたんだが、あいつ、家にいたときより楽しそうにしていたぜ。それより、あの子供らは――」

 兄弟たちは口々に情報をひけらかす。早乙女はそれらを聞きながら、弾かれ者の挙動をつぶさに観察していた。――いつか、手玉に取ってやろう。男の陰鬱な、そして頑なな態度は早乙女の嗜虐心を刺激した。

「――部屋に戻ります」

 黄泉坂征は箸を置いた。そして、たった一瞬、弾指の間だけ、猫被りの書生を見た。

 ――その、苛烈な炎を宿した瞳。腹の中で煮えくり返る、憎悪の色。

 それだけで十分だった。目が合ったその瞬間、早乙女は黄泉坂征に屈服した。

 鬼のさがに魅入られてしまったのかもしれないと、早乙女は後に思う。


 それから三年の歳月が流れた秋、鬼の愛し子は死亡した。

 最早他人と成り果てた者の訃報はさして重要には扱われず、早暁の邸宅を弱った魚のような緩慢さで泳ぎ、布団の中で微睡んでいた早乙女の耳にも届いた。

 そのとき早乙女の頭に浮かんだものは、唐突に死した軍人の亡骸でも、それを見て嘆き悲しむ遺族の姿でもない。

 悲しみか、怒りか。はたまたもっと別の何かか。鬱血するほどに抑えつけられた感情が、鬼の横顔を歪ませるその瞬間だった。

 ――しかし結局、待ち望んだその瞬間が訪れることはなかった。


「僕は、――征君、君のことが好きなんだ。ずっと、初めて会った時から。一目惚れだったんだよ」

 高く昇った月が、二人を照らしている。

 早乙女は絹帽で口元を隠したまま、存外長い睫毛を持ち上げて上目がちに義兄を見る。

 ――その表情に変化は訪れず、二人の間には彼の本当の故郷である異界とこちらの世界の次元の隔たりを体現するかのような、無理解の仕切りが立てられていた。

 帽子の裏で唇を噛んで、早乙女は声を漏らす。「……悔しいな」

 異界の鬼に堪え難い苦痛を与えさいなみ顔を歪ませ、同時に救済さえもたらすことができるのは「弟」という存在だけだった。

 義兄の顔に無理解を見る度に、深部に触れられた際の不快や憂いを見る度に、黄泉坂直は自分がまがい物でしかないということを自覚する。

「……僕はあの時、征君にこの身を捧げた。好きだったからだよ。僕は、征君に恋をしてる。十年以上も。けれど、僕がこんなに好きでいるのに、恋をしているのに、征君はずっと、別の人の事を想ってる」

「――君は、自分の労働の対価を求めているのか? それとも捧げた身の責任を取れと言っているのか? 断っておくが、協力を申し出たのは君で、私はそれを利用したに過ぎない。好きだの恋だの感情を報酬に求められても、私にそんな心理が備わっていないのは百も承知だろう」

 鬱陶しげに、黄泉坂は嘆息した。

「それか――人間の真似事をする私を嗤ったくせして、私にそれを求めるのか?」

 虚を突かれて、早乙女は黙した。歯を立てられて歪んだ唇に、鉄の味が滲む。

 義兄の双眸は、遠いところから義弟の挙動を眺めていた。

 その懐に大事に抱えられた「弟」が、追咎ついきゅうして抉ってやろうと切り込んでもふいと奥に仕舞い込まれてしまう鬼の愛し子が、早乙女は羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。

「……死んでるくせに」

 ずっと昔に死んだくせに今もなお鬼の寵愛を受け、言葉を紡ぐ口もないくせに鬼を復讐に駆り立て続ける。鬼が――兄が、どんな思いでいるかも知らないで。生きている間もついぞ知らなかったくせに。血縁の楔を刺して、心の鬼を修羅の道に繋いでいる。

「征君の弟は、ずっと昔に死んだじゃないか」

「……ああ、死んだな」

 死んでしまった、と黄泉坂は遠く愛しい者に向けた目を細める。

 それが酷く悔しくて、早乙女は言った。「征君のわからず屋」

「その分を、僕にくれたっていいだろう? 無理して人間の真似なんてしなくとも、征君は、辿君を愛せたじゃないか。どうして、今ここにいる僕を見てくれないの。愛してくれないの。辿君は死んだんでしょ。もういないんでしょ。どうして、生きてる僕を見てくれないの」

「――それは君が辿じゃないからだ」

「辿君じゃないと駄目なの」

「……ありのままの私が認められたのなら、人間の真似などしなかったさ」

「僕じゃ、だめなの」

 ――返事は、ついになかった。

 静寂を破るように、どこからともなく鐘の音が響く。小さな人工池の水面では月が砕けて揺れていた。

「……時間だ」

 黄泉坂は立ち上がった。その視線の先、石灯籠の隣の影が水面の如く揺らぐ。

 虚空に生じた波紋は徐々にその色を濃くし、人の形を成す。

「定刻になりました」

 やがて人型の闇が散じ、一人の少年が姿を現した。

「御苦労」

 黄泉坂が労うと、少年――清司は口元だけを蠢かす。

「その者が心鬼ならば、もや《﹅﹅》は影の如く濃い。その命題を真とするならば、『彼』は心鬼です」

 黄泉坂は無言で頷き、二人に背を向けた。

「征君、」

「行ってくる。今晩は決して『灯り』を絶やすな。それから――」

 早乙女が呼ぶのには答えず、清司の方を見る。

「もし私が帰らなかったら、早乙女に従え」

「はい。わかりました」

 清司が命を受け取ったのを確認すると、黄泉坂はそのまま振り返ることなく立ち去った。


「……征君の莫迦……人でなし……」

 義兄が去った後、早乙女は彫りの深い異国の顔立ちを絹帽で覆い、小さな声で謗った。

「黄泉坂さんは心鬼なので人ではないと、今朝おっしゃっていました」

「真面目に答えないでよ……それも今朝って。早朝に一人で抜け出してお墓参りに行って、征君に迎えに来てもらったついでに二人で銀座のカフェで朝ごはん食べてきたの、僕すごく根に持ってるんだからね」

「フルーツサンドをご馳走になりました」

「清司君の莫迦。口の周りにクリームついてるよって指摘してあげない征君も莫迦」

 甘い香りの証拠をひっつけて帰ってきた清司を思い出し、早乙女は肩を落とした。

 少しの沈黙。

「あちら側から窺った時、早乙女さんの心は青色をしていました。悲しいことがあったのですか」

 秒数を数えていたかのように清司は唐突に切り出し、小首を傾げる。

 早乙女はじっと新入りの心鬼を睨めつける。空いた向かいの椅子を勧めないのは、清司を勝手に恋敵と認定しているからに他ならなかった。

「僕は悲しいんじゃなくて、悔しいんだよ」

 それでも早乙女は、清司に言って聞かせる。

「……いっそ人間のふりなんてせずに、シンキの力で好き勝手しちゃえば、征君も苦しい思いしなくて済んだのにね」

 清司は聞いているのかいないのか、まるで連合いのように石灯籠の隣に突っ立っている。

 ――人間の真似事を。少女を埋葬していた清司を探し当て、身柄を引き渡して帰ってきた黄泉坂はそう吐き捨てた。発見された清司は、臙脂色の首巻きを後ろでリボン結びにしていたという。

 心鬼のくせに、ありのままでも愛されて。言外にはほとんど厭悪のような羨望が含まれていた。――対して自分は、ありのままでいることを許されなかった。

 だが一方でそれは、自身の存在を歪めてまで心の鬼が弟を愛していたという事実。義兄の決定を耳にするまで、早乙女はこの複雑な系譜を持つ少年が葬られるとばかり予想していた。もしくは、憎悪の鬼の糧となるか。

 義兄が清司を処分せずにいるのは、早乙女には触れることすらできない鬼の本心の働きがあるからに違いなく、十年以上共にいる自分が知る事さえ叶わない異界の景色を、義兄と新入りが共有しているのが早乙女は面白くなかった。心鬼の複雑かつ細緻な心理構造に入っていくことは、常人である早乙女には不可能だった。

「……僕はシンキでも弟でもないから、征君をどうすることもできなくて、悔しいよ」

「早乙女さんは黄泉坂さんの義理の弟ではないのですか」

「義理の弟と本当の弟は違うんだよ。次言ったら梅子君に飲ませたのと同じ薬、百錠盛るから」

 覚えときな。言って、早乙女は計らずしも自傷してしまったことに気がつく。「……悔しいなぁ、ほんと」夜空を仰ぎ、月明かりに目を細める。

「あーあ、僕もシンキだったらよかったのに。そしたらこんな思いしなくて済むし、少しくらいは、征君に振り向いてもらえたかも」

「早乙女さんのもや《﹅﹅》は、濃くありませんでした。だから、早乙女さんは心鬼ではありません」

「わかってるよ、そんなこと。いいなぁ、清司君は。シンキってだけで、僕以上の働きができるんだから」

 恨みがましそうに、少年の方へ目を移す。

「僕はこのままここに泊まっていくけど、清司君はどうするの? 言っとくけど、恋敵と相部屋は嫌だよ」

「梅子さんをお迎えに、ぼくは家に戻ります。心鬼なので、『灯り』のあるお部屋には上がれません。ご安心を」

 ふん。早乙女は鼻で笑ったかと思うと、俯き、両手で静かに顔を隠した。表情を知られないようにあらぬ方を向きながら、ひらひらとぞんざいに手を振る。

「おやすみ、清司君。――征君を、助けてあげて」

「わかりました」

 返事をして、清司は夜の闇の中へ溶けていった。

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