一章

【春水屋令嬢殺害事件 犯人少年の尋問調書】


 ……あなたはなぜ、春水はるみ櫻子さくらこさんを殺害したのですか?

  ――彼女がそうするようおっしゃいましたので。

 彼女の心臓を食べたのも?

  ――そうです。

 どういう風に、彼女はあなたに指示したのですか?

  ――あたしを殺して、あたしの心臓を食べてみなさいな、と。彼女は前に、心は心臓に宿るのだとおっしゃっていましたから、おそらく、ぼくに心というものを教えたかったのではないでしょうか。

 ……その言い方だと、あなたは心がわかっていない、と取られかねませんが。

  ――はい。残念ながら。

 ……なるほど。わかりました。では最後に、何か言っておくことはありますか?

  ――一つだけ、質問なのですが……

 (少年、自らの胸に手を当てる)

  ――心とは、本当に心臓に宿っているのですか?

 ……心臓は身体中に血液を送り出す、いわばポンプのようなものですから…… ものを考え、感じることのできる心がもしあるとするならば――私見ではありますが――それは心臓ではなく、脳の方かと。

  ――わかりました。ありがとうございます。

 (少年、一礼する)

  ――それではぼくは、脳を食べればよかったのですね。


     ◇


 大正二十一年・三月初頭


 綿埃のように降っては風に舞っていた雪片はいつの間にか消え、帝都には薄ぼんやりとした寒さだけが取り残されていた。時折思い出したように風が吹いては、淀のような大気をなおざりにかき回していく。

 春の気配は弥生といえど希薄で、雲間から射す陽光の中に、砂金の如くごく僅かに含まれているのみ。車窓から見える桜並木も、頑なに蕾を結んで沈黙している。あと半月もすれば、固い蕾も咲かぬ内から桜色の気を発し、もういよいよと春を匂わせ始めるのだろうか。

「……櫻子、か」

 その名の花を待たずして死んだ少女を思うと、脳裏にはいつ見たとも知れぬ満開の桜が浮かぶ。その美しい木陰に、彼女は眠るべきだった。だが彼女が死んだのは二月のこと。十六の少女の墓となるべき樹に花はなく、まだ柔らかな死体を根に抱き、凍てた大樹は無言で冬の夕暮れに立ち尽くしていた。

 彼女を殺したのは十四歳の少年だった。零落した武家の家系に生まれ、六つの年に軍人であった父が死に、その次の年、呉服卸の春水屋はるみやに奉公に出された。

 下男として御家の雑務を手伝う傍ら、彼は次女の櫻子に気に入られ、その付き人をしていた。年若い二人が主従を越えて恋仲になることは何ら不自然なことではなく、二人は今年の二月頭に消息を絶ち、半月の逃避行の末発見された。しかし、そのときすでに、櫻子は彼によって殺害されていた。

 凶器は櫻子が護身用に持っていた短刀。死因は胸を刺されたことによる失血死。

 桜の木の下から発見された遺体には、心臓がなかった。

「死因が胸からの失血ってことは、つまり、」

「生きたままも同然だろう。おそらく齧る時も動いていたんじゃないか。新鮮な《心》が」

 状況を想像して、わたしは思わず舌を出した。これが海産物の話ならまだ食指も動こうが、話題は人肉嗜食カニバリズムだった。貪欲にも脳髄にまで手を出そうとする神経は、常人のわたしには理解できない。

「心は心臓に宿る。故に心臓を食せば、心を手に入れることができる――同物同治論で心が継承されるかはさておき、心の座を心臓に据えるというのはアリストテレス的考えだ。古代埃及エジプトにも通じることだが」

 運転席に座る元帝大教授は淡々と述べた。さも他人事のような物言いをするが、分類上は彼も人食い人種と似たようなものだ。きっと、庭に人のはらわたが転がっていても眉一つ動かさないに違いない。

「じゃあ、彼女は偉大な哲学者だったわけですね。残念ながら目論見は外れたみたいですが、開頭手術をされなかっただけましでしょう」

「魔性のクレオパトラという説もある。世間から見ればそうだろう」

「どこの新聞社も『うら若き妖婦バンプの悲惨な最期』だとか『美少年との禁断の主従関係』だとか、好き勝手囃し立ててますから、身をもって己の哲学を体現した彼女も、ラブ・ロマンスに飢えた大衆からすると魔性の女になるのでしょう」

「ちなみに埃及の木乃伊ミイラは鼻から脳を取り出すそうだ」

「あなたに人の心はないんですか」

「ない」

 今更だろう。冷然と言われて、わたしは素直に頷いた。人ならざる者に情けを乞うのは八百屋に肉を売れと言うのと同じことだと、この一年で嫌ほど学んだ。

 九段坂を上ると、靖国の鳥居が姿を現した。黒塗りのシボレーはそのまま西を目指す。

 濠を越えると、やがて右手奥には陸軍士官学校の門。高台にある校舎に見下ろされながら、ちょうどわたしたちとは逆の方向へ、学生たちが担えつつで行進していく。

 ふと前を見れば、隠然とした鋭気を湛えた古狼のような相貌が、軍靴の響きの中に何かを探すように、外へと向けられていた。

「ひょっとして、知り合いでもいるんですか?」

 ……いや。一拍置いて返答があったが、否定したというよりは、問いを保留したと表した方が正しい。学者然とした怜悧な面差しも、心なしか雲がかっているように見える。

「他所見して事故を起こすのだけはやめてくださいね。高かったんでしょう、このお車。新聞に載るのも御免ですよ」

「気をつけよう。二台目も廃車にしたくはないからな」

 元教授で現子爵様は義兄弟を自動車事故で亡くしていたが、感性が常人とは違う故に身内ではなく車の方を惜しんだ。その辺りは居候の口からは指摘しづらく、わたしは慎ましやかに家主の交通安全を祈る。

黄泉坂よみざかさん……あの、再三確認しますが、彼は間違いないんですか?」

 目的地までの道のりは残り半分を切っていた。浅黒い首筋に問いかけると、鏡越しにわたしに冷たい一瞥を寄越す分の間が空いて、「何か不都合でもあるのか」

「い、いえ、決してそんなことは」

「資料も渡しただろう。それにわざわざ確認せずとも、間違いなく、彼は《シンキ》だ」

 ――《心》に《鬼》と書いて、《心鬼しんき》。

 わたしたちの間でその語句は、「無慈悲な心」や「疑い惑う心」といった、辞書通りの意味を持たない。

「さては彼がうちに来ることで自分の立場が脅かされるかもしれないと、戦々兢々としているな。役立たずの自覚があるのはいいことだ」

「飯炊きはしますから放り出すのだけは」

「小間使いにするつもりで拾った覚えはない。君も心鬼なら、それらしいことをしてもらわないと困る」

「何度も言ってますけど、わたしは心鬼なんかじゃありませんよ。黄泉坂さんみたいに何もないところから突然現れたり、二、三町先の殺人犯に勘付いたりなんてできませんから。何かの間違いですよ、きっと」

 超常能力者と同じにされては困る、と抵抗するも、人心を解さない故の拒絶の沈黙に打ち勝つことは不可能だった。

 心鬼とは、歪な《心》を持つ者を指す。この世の裏側に存在する内面の世界――《心影界しんえいかい》と現実世界とを行き来して、その異常とも形容すべき心で人心を毒し、時に喰らう、言わば人の姿をした化生の類。……とのこと。言葉で教えられ実際に瞬間移動するところを見せられても、常人たるわたしは仕掛けのわからない手品を目にした時と同じ疑問符を浮かべることしかできなかった。

 見込んで拾った人材のとんだ無能さに、黄泉坂は常から不満げだった。

「心鬼のくせに同類の気配にも気づかず、《あちら側》にも行けないとは、泳ぎ方を忘れた魚と同じだぞ。頭でもぶつけたか」

「頭をぶつけたかは知りませんけど。あなたや心がないから心臓を食べた彼とは違って、わたしにはちゃんと人の心が備わっているんです。常人に無理を言わないでください」

 できないものはできません。肉屋に魚を求めるなと言わんばかりに、わたしは腕を組み、そっぽを向く。

(――ね、約束ですよ)

 ……ふと生じた思考の空白を若い男の唇が横切り、わたしは真顔になった。無視を続けていただけで、声はずっと耳の奥底に在った。

(いつか、いつか絶対に――)

 慢性化した幻聴は、空虚に、(必ずですよ――)しかし幾重にも頭蓋に反響する。わたしはそれを、意識の一段低いところに沈める。(――)どうせまた、何かの拍子に表層に浮かんでくるのであろうが。

「うちに来るのはいいとして、彼、また心臓が食べたいとか言い出しませんか。あ、次は脳ですか」

「資料には書いていないが、早乙女のやつが面白がって感想を訊いたら、口には合わなかったと答えたそうだ」

「それで人肉にも懲りてくれたらいいんですが。それにしても心ありきの心鬼のくせに心がないなんて、変な話の気もしますけど」

「心鬼を語るにおいて、心は必ずしも感情と同義ではない。彼は自分が感情に欠けていると言いたいのだろうが、感情の有る無しに関わらず、器がそう在ればそうだ」

「なるほど! 黄泉坂さんが湯呑みで珈琲を飲んだりするのと同じですね。中身は珈琲ですが、器は煎茶です」

 自信を持って発言すると、前の席から深い溜め息が聞こえた。

「君は阿呆か、それとも莫迦か? 記憶喪失者は何かにつけて間の抜けた発言をしないと気が済まないのか? 

 役立たずの居候に忠告しておくが、調べによると、新入りは算盤そろばんとヴァイオリンと英語、合気道と剣道を習っていたそうだ。炒り卵も出汁巻きと言い張る不器用も甚だしい君が、どこまで善戦できるか見物みものだな」

「文武両道の完璧超人じゃないですか……どうか彼が料理音痴で味覚異常者でありますように」

 両手を合わせ、私は天を――低い天井を拝んだ。

 ちょうどその時、甲高いブレーキ音を上げ、シボレーが急停車した。

「着いたぞ」事もなげに、黄泉坂は言う。

「……怒ってます?」

 顔面を強打することは何とか免れた。前の座席にしがみついたまま言うと、黄泉坂は「さあ」

「感情を察するのは心鬼の一番の得意科目だ。同類ならば尚更簡単なはずなんだが」

 鏡越しにこちらを見た化生の、聡明そうに開かれた眉間。中折れ帽を目深に被り直すその表情かおは、人間を模倣していた。きっと、哲学を教えていた頃のものなのだろう。昏く冷たい瞳だけが人に扮しきれず、隠すように細められている。

 四十余り一。まだまだ元気らしい黄泉坂は、軽やかな動きで愛車を降りた。

「待ってください」

 慌てて外套を羽織って、髪を鳥打帽の中に押し込む。外に出て、男みたいな自分の格好を車窓に映す。

「我ながら完璧な変装だ。こんなところにずかずか女が入って行くのは目立ちますからね」

 振り返れば、威圧的に聳える堅牢な囲壁。

 ここは、市ヶ谷刑務所――異称を東亰監獄。被疑者・被告人を拘禁するだけでなく、死刑囚の収監・処刑をも行う罪人の終着駅。

「置いて行くぞ」

 ちょっと、と呼び止めようとした時にはもう遅かった。黄泉坂の足元にちろりと生じた黒炎は、転瞬の内に無音の唸りを上げる火柱となってその全身を覆い尽くした。

 憎悪に憑かれた狂女が如く、諸手を振り上げ燃え盛る業火。全人類の怨念の化身とも言うべき漆黒の火焔が虚空に消え入った時、黄泉坂の姿はそこになく、ただそうであった存在の残滓だけが、奇術師が去った後のように漂っていた。

「……相変わらず、禍々しい演出だこと」

 ぽかんと開いた口を閉じ、わたしは壁の中に踏み入った。


「――すみません、」

 舎房に入ってすぐ、見張所に控えていた看守に声をかける。

 こちらを見、怪訝に眉間に皺を刻んだ看守は何かを言いかけて――そのままの表情で凝固した。周囲を見回せば、運悪く居合わせた数名も同じ様相で沈黙している。

 虚ろな顔の前で手を振ってみるが、反応がない。まるで硝子製の目を嵌め込まれた剥製のようだった。

「……鍵をお借りしますね」

 ほんの一瞬のうちに人心を毒する手法は、何度目の当たりにしてもぞっとする。若干の申し訳なさを感じつつ、独房の鍵を手に収める。

 素知らぬ風を装い、舎房の奥に向かって歩き出すと、少し行ったところで視界の端に黒い炎が散った。

「珍しく、手間取らなかったな」

 虚空から現れた黄泉坂が、わたしの横に並ぶ。

「心を斬られて茫然自失している人間相手に、そうそう手間取ったりしませんよ」

 未だ残る恐れを気取られないよう言うと、この世の裏から無辜の民を斬り刻んだ心鬼はわたしの手から鍵束を奪い取った。家人からはすこぶる評判の悪い早足で、他人の足の短さを顧慮せずつかつかと歩いていく。

 薄暗い舎房の壁に映る影は二つとも焼きついたように濃く、その持ち主の正体を無音のうちに表していた。

 等間隔で並ぶ格子と扉を数えるのに飽きてきた頃、黄泉坂が足を止めた。

 黄泉坂が鍵束を繰る横で、わたしは鉄格子の小窓を覗く。

 窓を塞がれ、日の差し込まない暗い房内。唯一の光源たる洋燈ランプは、人ならざるものの動きを封じるためのまじない。

 闇の中、灯火に照る横顔は雪原のように白く、形の好い小さな唇は血に濡れたような生々しい赤色を示していた。一体何と向き合っているのだろうか、彼は真っ直ぐ顔を上げ端座している。

 こいつが――、とわたしは息を飲む。

 来訪者に気づいたのか、人形のような無表情がこちらを向く。あたかも感情の欠片であるかのように、黒く透徹した瞳に灯火が揺らめいた。

「出ろ」

 黄泉坂が独房の扉を開け、少年は少しの間の後、無言で従った。存外に安定した足取りで房から出てきた囚人服姿は、想像していたよりも小柄でひ弱い。目の前に存在しているのに気配は薄く、よく見ると背景が透けていたりしても不思議ではない。

 まるで魂を半分どこかに――桜の木の下にでも埋めてきたみたいだ。黄泉坂の後ろから観察しつつ思う。

 そのとき見張所の方から足音がして、見れば、看守が一人、こちらへ向かって来ていた。

「黄泉坂さん、人、人が来てます」わたしは指差しして注意を促す。

「五月蝿い」

 対する黄泉坂は再び扉を施錠しながら文句を言っただけ。少年は外界が眩しいのか僅かに目を細め、同類の黒い二重回しの背を見つめている。

 看守はわたしたちの前に立ちはだかった。固い表情に僅かながら畏れのようなものを滲ませ、じっとわたしたちを見据える。

「――早乙女様から伺っております」

「言われた通りにしてくれ」

 恐々と口を開いた看守に、黄泉坂は鍵束と一緒に紙幣数枚を握らせた。よろしく頼む、と告げた顔には人間の仮面。聡い者はその細められた目の奥に、底深い闇を見るのだろうか。

「帰るぞ」

 憮然と言って、黄泉坂は少年の手首を掴んだ。歩調も合わせず普段通りの早足で歩くものだから、少年は小走りでついて行く他なかった。

 可哀想に思ったが、これも黄泉坂子爵家うちの洗礼の一種だろうと、わたしは何も言わずに後を追った。


 黒塗りのシボレーは快調に新宿通りを下っていく。

 横を市電が通り過ぎる。ガタゴトと喧しいのは外だけで、車内に会話はない。

 あまりの静けさに耐え切れず、わたしは横目で隣を窺う。

 ――そこには、彼がいた。

 陶磁器のように滑らかで、一点の曇りもない白い肌。小さく結ばれた唇は薄紅を引いたかのように紅く、黒水晶をそのままはめ込んだような澄んだ瞳は、何者の像をもその内側に結ぶことなく、ただ前方へと据えられていた。

 新聞でやたら取り沙汰されていたが……確かに美少年だ。

 彼は――たしか十四だったか――歳にしてはまだ性に未分化だという印象が強い。中性的な容姿はある種霊的でもあり、喉仏の目立たない生白い首は囚人服を引っ掛けただけのなだらかな肩へと続き、薄い胸板にかけて、触れればたちまち解けてしまいそうな繊細な輪郭を描いていた。

 同乗者の視線に気がついたのか、端正な顔立ちがこちらを向き、全容を表す。 

 彼の右目には痣があった。どこかにぶつけたのか、はたまた打たれたのか、目尻を囲むようにして、痛々しい内出血の痕が見て取れた。

 両の目で、彼はわたしを見る。凝視と言ってもいいほどに。しかし、間違いなく視線は交錯しているのに、彼は何の行動も取らなかった。それが他動的か自動的かは関係なく、ただ首が回転したのに従ってその方向を見ているという風だった。

「……何か言ったらどうだ」

 見られているのに、見られていない。形だけの凝視という違和感に打ち勝つことができず、追い立てられるように、わたしは口にした。

 だが、返答はなかった。身に纏った沈黙を、彼は脱ぎ去ろうとしない。かれこれ十分近くこうして乗り合わせているのに、わたしは未だ彼の声を聞いていない。

 隣で端座している様子も、人間というより人形に近い。薄緋うすあけの唇は真一文字に閉ざされたまま。そういう形に彫り込まれ着色されているだけであって、本当に口という器官であるのかすら怪しい。

 まるで彼だけが――もしくはわたしが――言葉の通じない別世界の人間であるようで、気味の悪さを感じる。

「なぁ、」

 この状態からの逃走を望む本能が、口からまろび出る。背中が嫌に冷たくなっていることに気がつき、気概で負けるわけにはいかないと、一層声を尖らせる。

「今日からうちに来るからには、わたしがお前の先輩なんだぞ。だんまりを決め込むだなんて、そんな無礼があっていいと思っているのか。いいか、お前が下で、わたしが上だ。たとえお前がどれほど優秀だろうと、上下関係は絶対だからな。絶対に絶対だからな。弱肉強食など決して持ち出すな。わたしの前では進んでへりくだるんだぞ」

 先輩の立場を死守すべく、小鳥の雛に刷り込むように、よくよく言って聞かせる。

 いいな、わかったな、と力強く念を押したとき、わたしはその一連の動きを目にした。

 爪の脇に乾いた赤のこびりついた人差し指で、少年は自らの口端を指し示した。とん、とん、と二度。まるで挑発するかのような緩慢な速度で赤い唇を叩く。

 わたしは眉間に皺を刻む。

「何だ、先輩に向かって指図する気か。言いたいことがあったら言え。お前の口は飾りか何かか」

「――ああ、忘れてた。『釘』だ」

 今まで無干渉を貫いていた運転手が、前を見たまま言った。

「舌に『釘』が刺さっているんだ。心鬼があちら側へ逃げないようにするための、まじないの釘。前に教えただろう。私は今手が離せないから、代わりに抜いてやってくれ」

 地獄の心鬼講座を思い出し、わたしは顔をしかめた。

 心鬼に関する事柄はその性質上、俗信や土着宗教じみたものが多い。対処法も例に漏れず、狐狸に化かされないよう眉に唾をつけるように、人骨から削り出した釘で舌を穿ち、火葬場からもらってきた火で結界を張る。世間一般からすれば、「おまじない」に分類されるようなものばかりだ。

 心鬼自身はその効果をよく知っているし、心鬼一匹が及ぼす悪影響も熟知しているから、同類には抜かりなく施す。人間の身体を持っている以上心鬼にだって痛覚はあるし、舌に人骨を刺される苦痛は長く味わいたいものではないだろう。わたしは袖をまくった。

「舌を出せ。こう、べぇっと」

 手本に舌を露出させると、数秒の凝視の後、少年も倣って赤い舌を覗かせた。

 熱くぬらついた舌を、親指と人差し指で挟み、引っ張る。

 舌の中ほどには、直径五ミリほどの白釘が突き刺さっていた。淡く黄ばんだ釘の周囲の肉は薄っすらと盛り上がり、血混じりの唾液で湿っている。

「……黄泉坂さんって本当に容赦ないですよね」

「上達はしているつもりだ」

 道具はやっとこ、施術手順は地獄の閻魔大王とほぼ同じ。向上しているのは技術ではなく冷血の度合いだろうと、厚い舌筋を貫き通した呪術を観察しつつ思う。舌を縦横に引き伸ばされて、少年は相変わらずの無表情ながらも、目尻に生理的な涙を滲ませていた。

「よし、ちょっと痛むぞ。我慢しろよ」

 決心し、わたしは残った右の指で骨片を摘まんだ。

 濡れた釘はよく滑り、なかなかその芯を捉えることができない。熱を孕んだ呼気が指に纏わりつく。痙攣する舌先からわたしの腕を伝って袖口へ、粘性の低い唾液が染み込んでいった。赤い唇から垂れたものは着物に点々と小さな円を描いた。

 わたしの不器用さもあり、呪術を解くのには結構な時間を要した。やっとのことで釘が抜けると、舌に開いた穴は筋肉の蠕動に従って収縮した。様子を見る限り、塞がるのに長くはかからないだろう。

 釘を外へ放り捨て隣を見ると、少年は背もたれに手をかけ、嘔気に喘いでいた。内側からこみ上げてくるものが喉元に差し掛かると、ひ弱な肩が僅かに盛り上がる。

 何とかそれを飲み下し、安堵するかのように息を吐く彼を見て、わたしは少なからず罪悪感を覚える。

「……大丈夫か?」

 手を拭いつつ問うと、少年は頷き、

「――はい」

 と、初めて声を発した。齢十四。性に未分化な見た目にしてはやや男性的な、しかしあどけない響きを残す年相応の声だ。

 彼が顔を上げる。――そのとき、心持ち切れ上がった目尻に生まれた光の珠が、ほのかに紅のさした頬を滑り落ちた。

 ――こいつは、美しい男になるだろう。その一瞬、少年が身を置く境遇・背負った罪も忘れ、純粋に、わたしは予感した。同時に、

 ――魔性だ。

 そう直感した。

 畏れの声を漏らさないよう口を結んで、そこかしこに散らばった書類をかき集めた。はらはらとこぼれ落ちてきた髪を耳にかけ、居住まいを正すと目が合った。やはり、視線が交わっているという気はしなかった。

 資料に目を通す振りをして、心の準備を整える。

 目は心の窓。そう言ったのは誰だろうか。決意して見つめた窓の奥には、真っ黒な虚無があった。

 吹き込んだ風が、少年の濡れ羽の髪を一撫でする。紐綴じの資料がめくれ、あたかもそれが必然であるかのように、とある頁をわたしに啓示した。

「……八重垣やえがき清司せいじで、間違いないな」

「はい」

 迷いなく、少年――清司は答えた。


「あなたがおっしゃる通り、ぼくは、間違いなく、八重垣清司です」

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