二章

二章


 鱗のように散りばめられた木漏れ日が、だんだんと淡く砕けていくのを眺めていた。

 頭上で楠が豊かな葉叢を揺らす。暑い日だったが、木陰は居心地がよかった。それは単にそこが涼しいからではなく、陽の当たる側と分け隔てられたこちらの領分の方が、本来自分の在るべき場所のように思えていたからに違いなかった。

 道行く人々に適当に会釈をしながら焦心の時間を過ごしていると、やがて待ち人はやって来た。

「――こんなところで何してんだよ、兄貴」

 偶然の出会いに驚いた風に、顔を上げる。

「ああ――なぁに、疲れたから、ちょっと涼んでいただけさ」

 お前を待っていたんだ。本当のことは言えなかった。

 今日は暑いな。言って、微笑む。弟の前でなら、自然に笑うことができた。

「こんな暑いのに散歩たぁ、余程うちにいるのが嫌なんだな」

 呆れた風の表情を取り繕い、弟は、何か秘め事でもあるかのようにふいと目を逸らした。ついさっきまで胸いっぱいに抱いていたのであろうすももの香りが鼻についた。

 心臓のあたりで、熱を帯びて疼くものがあった。

「……また、あれと会っていたのか」

 ばっとこちらを見た弟と目が合った瞬間、心に落ちた黒点が広がった。誰にも気づかれないよう、歯噛みする。

「この前も注意しただろう。周りにも迷惑がかかると。私だって心配なんだ」

 年上然として言い聞かせる。周囲への迷惑などという尤もらしい文言は形骸に過ぎず、形式限りの心配はエゴにまみれた本心の言い換えだった。

 弟は大きな瞳を懸命に見開いて、こちらを睨んだ。噛みつかんばかりに言う。

「迷惑被ってるんなら、証拠を出せよ。それに、心配してくれだなんて俺は一度も頼んでない」

「お前、」

 頑なな独立心・反抗心は実に子供じみていた。しかし大いに指摘の余地のあるそれらにさえ、口を出すことは躊躇われた。

(――お前は何も、わかっていない)

 体裁としての兄の顔が無理解を嘆く一方で、どす黒い本性は熱を孕んで膿を湧かせた。

 大人ぶった苦言なら、何とでも言えた。行き先を告げずに出ていくこと、家人に黙って李をくすねること、家格の違う女と会うこと――だが模範的な兄の言葉を探すこの瞬間にも、昇温を続ける内面は兄の顔を熱し、不出来な陶器のように亀裂を生じさせようとした。

 反論がないのを機と見たのか、弟は矢継ぎ早に口にした。

「この際だから言うけど、ずっと前から気に食わなかった。兄貴があいつのこと『あれ』って呼ぶの。『あれ』って何だよ。あいつを、あいつの家を見下してるからそう呼ぶんだろ。今の家にもらわれる前は、俺たちだってあいつと同じ、いや、あいつよりも貧乏な家に住んでたんだろ。なのに何だよ。金持ちの家にいるからって、そんな見下すような口ぶりで」

「だから……」

 違う。その場しのぎの弁明を口にしてしまえば、言葉の綻びから知られたくない感情が顔を出すのは必至だった。兄でない者の声を漏らさぬよう口を噤み、腹の底で煮え滾り、今にもおもてを割って滲出しようとする本性に蓋を落とした。行き場をなくした熱が臓腑を焼く。

 堪え難い苦痛の中、不安に見つめた弟の目は、いつになく鋭かった。

「――だから何だよ」棘のある声が、脆い表皮を引っ掻く。

「いや……すまない」

 虚ろに謝罪し、思わず手を遣った自分の顔。人外の化生が愛する者と暮らすための、善良な兄の仮面。美しい家族愛を憎んでおきながら決して捨て去ることのできない、真っ当な人間の顔。

 風が、李の香りを運んだ。思い出したように、蝉が鳴き始める。

(――私が『あれ』ならば、)

 浮かんだ考えは虚しい仮定に過ぎなかった。不毛な願いを嘲笑うかのように李はどこまでも厚顔に香り、口にしたことすらない果実はきっと、甘いに違いなかった。

 どれほど兄の仮面に固執し、兄を演じようとも、二人の共生のただ一つの理由である血縁は、弟を引きとどめる楔にはなり得なかった。何食わぬ顔をして、赤の他人が弟の手を引いてゆく。必死に心を砕いてきた血縁には一顧も与えずに。

 ――それは到底、許容できるものではなかった。

「……帰ろう、辿たどる

 兄の顔で手を伸ばすと、弟は笑った。呆れやら侮蔑やらがない交ぜになった、形容し難い表情だった。

「よせよ兄貴。俺、もう十四だぜ? 餓鬼じゃあるまいし、手なんか繋がないぜ?」

 ――あっはっは、そうだな。私ももう二十になるのを忘れていた。

 仮面が響かせた空虚な笑声は、最早美徳と化した自己欺瞞を軋ませた。

「まったく、兄貴はいつまで俺を子供扱いするんだよ」

 ポケットに手を入れ、早足でこちらを追い抜いていった白いシャツは、斜陽と同じ色に染まっていた。

「おーい、兄貴」

 弟が振り返る。日に焼けた首筋。凛々しい眉は結核で去った父に、人懐こい大きな目は心労に倒れた母によく似ていた。

「ああ、今行く」

 仮面のまま歩み出た陽の世界は、やはり居心地が悪かった。



「お前が私の、全てだったのに」

 父を喪い、母を亡くし、引き取られた親戚の家で陰惨な少年時代を過ごした。養父母に義兄弟、屋敷に勤める使用人にまで疎まれ、存在を全否定された。

 賤民。乞食。本当は鬼の子なんだろ、正体見せてみやがれ。三つ上の義兄からの加虐は夜中まで続くこともあり、身体には生傷が絶えなかった。時にはその兄弟に友人も加わり、惨めに足蹴にされた。

 しかし、心身共に疲弊し切り、それでもなお「人間」として破綻することなく生を続けることができたのは、紛れもなく弟がいたからだった。

 おかえり、兄貴。寝ぼけ眼を擦り、迎えてくれた弟を再び寝かしつけ、その寝顔を見守った。一日を終える時には、起こさないよう柔い頬に密かに口をけた。

 弟のために生きていた。弟が傷つき、立場を失うことに比べれば、自分の自尊心など、鬼としての本分などどうでもよかった。床に額を擦りつけて懇願することも、靴を舐めることも厭わなかった。弟のために、心の鬼はどす黒い本性を抑圧し、真っ当な「人間」を演じ続けた。

 弟が全てだった。物心がついた時――父が死んだ時分にはすでに、兄弟という枠組みを超えて弟を愛していた。弟こそが、その存在を愛することこそが、人の道理に弾かれた鬼の、唯一の救済だった。

 それなのに――

 胸に咲いた、彼岸花より紅い血の色。苦労にまみれ節くれだった手は、空を掴んだ形のまま投げ出されていた。常に意志の光を透かしていた瞳は夜闇に塗り潰されて昏く、乾いてひび割れた唇が、兄貴、と呼んでくれることは二度となかった。

「――お前は私を、置いていった」

 撫でた墓石は、冷たかった。

 骨の浮いた手の甲にふわりと落ちた雪片は、その瞬間に水の色に透けて、消える。

 ここで生を抱えている者は、ただ一人だけ。彼岸花の咲かない墓地は寂寞と、外界と隔絶された無音の水底に沈んでいた。

 見上げれば、薄灰色の空。その彼方から、足音を忍ばせ、雪はやってくる。人肌に容易く懐柔されてしまう軟弱なは、しかし確実に、下界を白く蝕む。

 年月は、その雪に似ている。音もなく降り積もり、遠い日の記憶を覆い隠していく。忘れまいと誓ったはずの面影さえ柔らかく包み込み、どこか遠くへ運び去っていく。

 弟は、どうやって笑っていたのだろうか。

 自分は、どうやって笑っていたのだろうか。

 無情な侵食の果てに残されたのは、熱を帯びて疼く執着だった。記憶も、それに付随する感情さえ冷たく凍てつき、自分の座標すら失った雪原の中で、そこだけぽっかりと穴の空いたように、雪を溶かして醜い地表を晒していた。疾うに見失ってしまった過去への執着が、回帰を望む願いだけが、醜悪に熱を放っていた――

「……もう、こんな時間か」

 懐中時計をしまって、代わりに肌に冷いライターを手に取る。赤錆びたホイールを弾くと、今にも絶えてしまいそうな小さな燈火が生まれる。

 火に線香の束をかざすと、手で探るような覚束なさで熱が移っていく。

 ほろりと灰が零れた。懐かしい香は深く埋もれた記憶の袖を引き、色彩を失くした心に在りし日の淡い光明を投げかける。

 動物園で弟が迷子になったのは、いつの日だったか――閉じた瞼の裏、僅かに溶けた雪の下から、柔らかな熱が伝わる。

「……なあ、辿」

 〈こちら〉にも、〈あちら〉にも。どちらにもいなくなってしまった、遠い者の名を呼ぶ。


「……もう二度と、私の手を離してくれるなよ」


 ――返事は、なかった。

 黄泉坂は僅かに目を細め、最後にもう一度、弟の頭を撫でた。


「じきに、迎えにいく――」


      ◇


 歪な〈心鬼〉の〈心〉は時として、現実世界に未曾有の災禍をもたらすことがある。


 明治から大正へ。わたしが知る限り、元号が変わってから二十一年間の間に二度、「それ」は発生した。世間では帝都一帯を巻き込んだ大規模な集団ヒステリーと認識されている。

 だが事情を知る者の間では、それぞれ「第一次帝都大心災」「第二次帝都大心災」と呼ばれ、「心」の「災い」と読んで字のごとく、その裏には心鬼の存在がある。

 〈心域しんいき〉というものがある。

 この世と表裏一体の内面の世界――〈心影界しんえいかい〉を住処とする心鬼は、自身を中心として、同心円状の領域――心域を形成している。

 心鬼の心を炎と喩えるならば、心影界に広がった心域に立ち入った現世の人間は、さながら焚き火にあたるように、その心鬼の心の影響を受ける。漠然とした不安感、虚脱感、幻覚、過剰なまでのエンパシー(他者の感情をあたかも自分のもののように錯覚してしまうこと)…… 心鬼にとって、心と心を分け隔てる肉体は意味を成さず、鬼の心は目や耳などといった実存の器官を介さずに、直接心に伝播する。

 焚き火であるうちはよかったものが、何らかの拍子に燃え広がり、人の心を焼き尽くすまでになると、心域は不可視であったその全貌を現し、〈異常心域〉と呼ばれるようになる。

 異常心域は言わば心の表出で、自制を失くした心鬼はその歪な心をもって内面の世界を歪め、新たな世界を生み出す。そこに立ち入った者は、鬼の心に蝕まれ、最早帰ってくることはできない。

 心災は地震と同じように、一次災害と二次災害、二つの形態を取って発生し、一次は暴走した心鬼の心が直接人心に害を為すことを、二次は一次の被災者――心影界の気に毒された人々による、現実世界においての被害をいう。

 大正十二年に発生した「第一次帝都大心災」では、前者よりも後者の方が遥かに被害の程度は大きく、内面の世界が汚染されたことにより人心は荒み、狂い、各地で暴動が発生。帝都は地獄絵図の様相を呈した。


 当時日比谷にあった東亰警視庁の旧庁舎も、事変に際し、燃え盛る炎の中に落城。その八年後、仮庁舎の姿を経て大正二十年に、霞ヶ関に新庁舎を構えることとなる。


「どうせ今晩家で会うんですから、わざわざ寄り道する必要もないでしょう」

 東亰警視庁本部。警視総監室前。

 一仕事終えたわたしたちは、帰りの足で本部を訪れていた。

「黄泉坂さんは仕事で来るからいいんでしょうけど、わたしは余所者に違いないですし、こいつに至ってはまたお世話になりにのこのこ顔を出すようなものですよ。早乙女さんは何を考えているのやら」

「一人仲間外れで寂しいから、家に帰るついでに報告をしに来いとのことだ。新入りのお披露目もあるのだろうが」

 不正の公認を暗に伝えられ、わたしは閉口した。一体、この心鬼と狐野郎は国家機関にどこまで入り込んでいるのだろう。

 無言で隣を見遣ると、闇取引の結実は相変わらずの無表情で虚空を見据えていた。

 さすがに囚人服のまま連れ回す訳にはいかないので、薄い肩にはわたしの鳶合羽とんびを被せてある。足首まで黒い上着に覆われた小さな姿は、何だかカラスの子のようだった。

 新入り、と小声で呼ぶと、清司は必要分だけ首を回し、こちらを見た――見ただけ。あまりに無機的な視線の交錯は、未だに慣れることができない。

「聞いた話によると、どうやらお前は獄死するらしいぞ」

 どんな反応をするのか、面白半分に伝えると、清司はわたしの顔を凝視したまま完全に停止した。呼吸の有無さえ怪しい硬直を怪訝に思っていると、仕舞いには退化してなくなってしまいそうな小さな口の切れ込みを開き、

「ぼくは、死ぬのですか」

 と、市松人形のように首を右に傾げた。

「莫迦か! 何を真面目に取っているんだ。手続き上は、ということだ」

「莫迦は君だ。五月蝿いぞ」

 黄泉坂に制され、わたしは口を押さえる。

 性懲りもないわたしの顔を、感情を宿さぬ瞳はじっと見つめていた。まるで仮初めの死に、何か思うことでもあるかのように。

「歳上のくせに、どうして君はこうも落ち着きがないんだ」

 小言を吐いて、人らしい顔をした黄泉坂は重厚な扉を叩いた。


 部屋の主はわたしたちの姿を認めるなり、その険相の陰影を深めた。歳は確か今年で五十。よく手入れされた八の字髭を生やした、眼光鋭い男だった。

 黄泉坂はその男の前で足を止める――ことはせず、わたしと清司を伴い、彼の前を素通りした。両者の間には、会釈も視線の交錯もなかった。

 部屋の左、壁際の書架の陰に隠れるようにして、ドアはあった。

 黄泉坂は、それをノックしながら乱暴に開け放った。


「――遅かったじゃん、ただし君」


 薄暗い部屋の床にはトランプがまき散らされていた。カードの中で嗤う悪魔と目が合う。

「遅れた覚えはない」

 にべもなく黄泉坂は言う。カードを踏みつけたその表情に、人間の面影はない。

「君のことだから、もっと早く僕に会いに来てくれると思ってたのになぁ。暇で暇で、暇潰しにも飽きちゃったよ」

 革張りのソファに腰かけているのは、三つ揃いの上を脱いだ、白皙の狐。

 机に置かれた将棋盤の上では、将棋の駒とチェスの駒が対峙していた。赤銅色の髪の男は、手にしたルークで角行を弾く。

 興が冷めたのか立ち上がり、くぁ、と猫のように伸びをし――たった今存在に気付いたかのようにこちらを見た。

「あれ、いたんだ梅子君。なんか老けた?」

 常から含意的な、色の薄い瞳でじろじろとわたしを観察する。

「女性に向かってそんなこと言うんじゃありませんよ、早乙女さおとめさん。わたしが疲れているように見えるのなら、きっと心労です。主にあなた方が原因の」

「へぇ、もし僕たちのせいで君が精神的苦痛を感じているのなら、ちょうど新人も入ったことだし、暇を出してあげないと可哀想だねぇ」

 無期限で。早乙女は唇を弓なりに曲げて、それから滑稽な丸眼鏡の奥の双眸を細めた。媚を売るのが得意な、底意地の悪い飼い猫を連想させる笑みだった。

「うちの前で物乞いをされても困る。厳しいことを言ってやるな」

「誰が物乞いなんかしますか」

「ちぇっ、この機に役立たずを追い出してやろうと思ったのに。征君が言うならしょうがないなぁ。命拾いしたね」

 きろりとわたしを睨めつけ、早乙女は黄泉坂の後ろに目を遣る。

「やあ、久しぶりだね清司君」

「名前は存じ上げませんが、お久しぶりです。十日ぶりですね」

 淀みなく、清司は答えた。

「――へぇ、見る目あるね。ちょっと顔変えて、眼鏡も外してたのに」

 早乙女は自分の顔に手を遣り、感心する風。琥珀の瞳に好奇の色が翻る。

「改めまして、僕は早乙女直すなお。乙女座の二十八歳独身。そこにいる征君とは家族です。梅子君はただの他人で居候でそのうち穀潰しになります。これからよろしくね」

 こちらこそよろしくお願いします、と清司は差し出された手を取り、握手を交わした。

 他人で居候の穀潰し候補生の事は一顧だにせず、早乙女は続ける。

「では清司君。今日から君は僕らのだ。君は殺人で裁かれる予定だったけど、僕らの一存で不幸にも獄死してもらいました。つまり君は今、名前が鬼籍に書いてある死人です。いいね? 。生きたかったら、そのシンキの力を存分に発揮して、僕らにするように」

 高い鼻と切れ長の目が見事に調和した顔立ちが、にっこりと歪む。取引を行う際、早乙女は特殊な「声」を用いた。それは一種の才能で、悪魔の話法との相乗作用もあって、取引相手はこの狐野郎の要求をするする呑んでしまうのだった。

 対する清司は、「声」が効いたのか効いていないのか、張子人形のように凝固した顔の口元だけを動かし、

「わかりました。死人なりに精進いたします」

 と、彼なりのウィットなのか判断しかねる科白を口にした。一拍置いて、

「一つ質問があります。シンキとは、何なのでしょう。何しろ浅学寡聞の身でして。お手数をおかけし申し訳ございません」

「シンキが何かって――君、それなんじゃないの?」

 確認するように、早乙女は黄泉坂を見た。黄泉坂は首肯する。

 違うの? 向き直って早乙女が問うと、清司は、わかりません、と首を傾げた。

「わたしと同類ですか?」

「急に嬉しそうな顔して。梅子君と一緒にしないで。どうなの征君」

「無自覚なのだろう。どこかの役立たずとは違って」

 酷薄に言い放ち、黄泉坂は続ける。

「自身がそれだと心鬼が自覚するのは、大抵あちら側を見た後だ。特に生まれながらに心鬼であるものは、後天性のものに比べて安定しているから、同類に触発されたり余程心を乱されるような事が起こらない限り、突発的にあちら側に潜り込んでしまうようなこともない。自分が何かもわからずに、こちら側で人の顔をして生活していることもままある」

 淡々と述べて、そこで初めて黄泉坂はわたしの方を見た。

「仕事をくれてやる。市内の見回りがてら、心鬼同士親交を深めるがいい」

 そう言って、わたしに向かって何かを放る。

 手を伸ばして受け止めると、それは厚みのある革財布だった。

「仕事であるからして、決して遊びに行かせるわけではない。――今日は浅草のあたりを見てきてもらおうか」

「はあ、」

 黄泉坂と手元の軍資金を見比べる。どうやら、席を外せということらしい。ちらりと見遣った早乙女は喜色満面。わたしの口がへの字に歪む。邪魔者を追い出して二人でコソコソと、怪しいこと限りない。

 だが拒否する理由も特にないので、わたしは黙って財布を懐にしまった。

「出かける前に着替えがいるな。早乙女、服を貸してやれ」

「わたしは外で待ってますからね」

 清司の着替えを見るわけにもいかないから、わたしは一足先に薄暗い部屋を辞した。


 部屋を出ると、鋭利な視線に射抜かれた。濃く太い眉の下からこちらを睥睨しているのは、ここの長だった。

 目が合い、何気なしにした会釈に自然と憐憫がこもる。彼も狐狼に付け入られた憐れな人間の一人だった。

 一体どんな手を使い、またどんな権限を行使しているかは知らないが、黄泉坂と早乙女は、部外者のくせして誰にも咎められることなく庁舎を闊歩することができたし、早乙女にいたっては、ここの長たる彼に友人であるかのような口を利いた。それらを黙認していることが、彼の隷従の証明だった。

 不敬を働く一方で黄泉坂らは非公認ながら捜査に関わり、一定の成果を上げている。今回、清司を探し当てたのも黄泉坂だ。

 その反面、二人の真意は全くもって謎だった。奴らに限って、善意でやっているということは万が一にもあり得ない。わたしや清司のように、心鬼を探して仲間につけたいのか。ならば、

「……人殺し共め」

 部屋を出ようとしたわたしの背に、多分の怨嗟を含んだ呻きが投げかけられた。

「……化け物しか殺さないと、聞いていますが」

 わたしに言われても困る。心の内で文句を言って、逃げるように後ろ手に扉を閉める。

 ――〈心影界あちら〉で流れる血は黒い。影の濃さに言及したときの、冷たい声が蘇る。わたしを拾い、清司を生かした黄泉坂の影は、今や深淵の色を呈していた。

 その色の意味を、考えたくはない。同族殺しの天秤の傾きは、誰にも知れなかった。



 市電に揺られていたはずが、ふと気がつくと、わたしはどこかの家の縁側に座っていた。

 ――またか。見慣れた景色に、わたしはそこが夢の中であることを悟る。

 わたしは遠い蝉の声を聞きながら、日に焼けた写真のように色褪せた夏空を見上げている。この夢においての、わたしの「役」を演じている。


 わたしには、黄泉坂に拾われる以前の記憶がない。

 どこに住んでいたのか。何をして日々を過ごしていたのか。目覚めたときにはすでに、それらの記憶はすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

 覚えていたのは、「御匣みくしげ梅子うめこ」という名前――自分の名前と、心の奥底に眠る「誰か」の存在。

 普段は声しか聞かないその「誰か」とは、時折こうして夢の中で会う。

 わたしはどこかの家の縁側に座っていて、誰か――「彼」は、何をするでもなく、わたしの後ろに立っている。

 夢の中のわたしは決して振り返らない。だから、彼の顔を目にしたことはない。

 背後の彼が誰であるかも、わからない。近しい者であったのか、はたまた他人同士であったのか、知ることもできない。

 だが一つだけ、彼について、確信を持って言えることがある。

 ――わたしが、彼から解放されることはない。

 彼はこれからも、ずっと、わたしの心の奥底に在り続ける。

 まるで、ある種の呪いであるかのように――


(きっと、ですよ。約束、ですから……)


「――梅子さん」

 呼びかけられて、覚醒する。二人掛けの席に座り、うとうと微睡んでいたらしい。夢の海から上がると、耳に水が入ったように幻の声が遠くなる。

 右目に眼帯を当てた清司は、真っ直ぐこちらを見ていた。左目には、ぼさっと呆けたわたしの顔が映っている。清司の黒瞳は、いかなる脚色も行わない、ただ対象を映すだけの鏡だった。

 もうじき着きます、と清司が告げ、そうか、とわたしは視線を逸らした。


「へぇ、うちの近所と違って盛況だな」

 時刻は午後五時前。鈍い斜陽に照らされた朱門の奥には、活気も妖しく仲見世通りが伸びている。

 日が落ちかかっていても人気の絶える気配がなく、むしろ活況な様子は、深閑とした屋敷に住む者にとって新鮮だった。好き好んで人混みに出向くのは早乙女くらいで、活動写真に同伴しようとしても三頼んで二は断られたし、黄泉坂は心鬼ゆえに人が集まる場所を嫌った。行き交う人の気配が羽虫みたいに纏わりつくし、現の世界にいても微弱ながら人心に影響を与えてしまうという。それもあってか、黄泉坂曰く心鬼だというわたしは無断の外出と遠出を禁じられていた。

「行きたいところはあるか? せっかく来たんだ。池の鯉に餌をやるより楽しいことをしよう」

 もしもの時の待ち合わせ場所に風神雷神門を指定し尋ねると、隣で無感動に景色を眺めていた清司は一拍置いて、

「梅子さんについていきます」

 とだけ答えた。

「何だと! 新入りだからって遠慮しなくていいんだぞ? 今日は時間も軍資金もあることだし、ぱーっとやろうじゃないか。お前もしばらく外に出られていなかったんだろう?」

「構いません。ぼくが行きたいと感じられるところは特にありませんので、梅子さんにお供します」

「お前……世の十四歳はもっとこう、溌剌としているものじゃないのか」口にして、そもそも世の十四歳は人の心臓を食べたりしないということに思い至る。「なら、しょうがないな」

「じゃあ、まず仲見世をぶらぶら物色して、五重塔と本堂をお目にかかろう。後はそれから決める。いいな?」

「はい、異存ありません」

 味気ない返事に我知らず肩を落とす。深く掘り下げようした親交は、早くも堅い岩盤に突き当たっていた。

 往来の乙女婦人は、通りすがりにこちらを見ては仲間内で何やら盛り上がっていた。確かに、粗末な囚人服から詰襟の学生服(何故か早乙女が持っていた)に着替えたことで、清司のただでさえ上等な顔の造りは一層引き立っていた。小柄なせいで丈こそ合っていないが、闇色のインバネスもよく似合っている。

「もっと深くかぶっておけ。取って食われるぞ」

 顔写真こそなかったものの、新聞に載るほどの有名人であるから目立つのは歓迎できない。よくないものに目をつけられないよう、ぐいと鍔を押し下げ、目深に制帽を被せる。

「誰が、ぼくを取って食うのでしょうか」

「さあな。――ところでお前、腹は減っていないか?」

 どこかから漂う甘い匂いににわかに空腹を覚え、わたしは尋ねる。

「食いたいものがあったら遠慮せず言えよ。黄泉坂の金だ。めいっぱい使ってやろう」

 自分だけ食い意地が張っているのはどうかと思い共犯を誘うと、清司はじっとこちらを見、

「お腹は空いていますが、特に食べたいものはありません。なので梅子さんと同じものを食べさせてください」

 と、丁寧に言い放った。再び前方に向けられた瞳は、夜を透かした硝子のように、ただ往来の喧噪を映している。

 お前というやつは。わたしは溜息を吐く。

「……わかった。帰りに、黄泉坂たちの分も買って帰ろう」

「はい」


「夜の五重塔というのも、興があっていいな」

 二人して足を止め、朱色の塔を仰ぐ。最近の改修に伴って取りつけられた照明が、足元から突き上げるように塔を照らしている。

「ぼくは、そういった感覚が欠けているのでよくわかりませんが、梅子さんがおっしゃるのであれば、そうであると考えます」

 景色の中に何かを探すように視線を上下させ、清司は言った。

 それを聞いて、わたしは調書の内容を思い出す。

「……お前、心がわからないんだってな」

「はい。残念ながら」

 前を見たままさりげなく訊くと、清司は肯定した。ちらりと伺ったその顔には、何の色も浮かんでいない。

「その、どんな感じ――というかどのくらいなんだ? 心がわからないっていうのは」

 心臓を口にした理由への興味もあり、わたしは質問する。

 清司は長い睫毛を僅かに伏せた。

「思考としての、無機的な心はぼくにもあります。でもぼくには、感情を含めた有機的な心がありません。だから、喜怒哀楽はもちろん、好きだとか、愛しているとかいうのもわかりません。面白いとか、可愛らしいとかいった主観的な考え方全般がそうです。何を見ても、何を言われても、そのような変化はぼくの中に生じません」

 無口に思われたが、清司は訊かれたことに対しては丁寧に応えた。静かに呼吸をして続ける。

「ぼくが五つのとき、父が死にました。母も兄も、みんな泣きました。きっと、悲しかったからです。でも、ぼくは泣くことができませんでした。父が死んでしまったという事実は理解していました。死は不可逆で、父には二度と会うことができないと。でも、ぼくはそれを悲しいと感じることができませんでした。涙も出てきませんでした。近しい人が死んでも、ぼくの心は何の反応も示すことができませんでした」

 ただの文字の羅列として抜き出せば、清司の言葉は含みを感じさせるものなのかもしれない。だがその表情に、わたしは何も見出すことができなかった。

「……お前は、心が欲しいのか?」

 清司はこくりと頷く。

「そうであると考えます。あるはずのものが欠けているのは、好ましくありません」

「父上が死んだ時のお前の家族みたいに、心があるせいで悲しんだり、悩んだり苦しんだりする時もあるんだぞ?」

「それでも、『欠陥』であるよりは」

 少し意地悪を言ってみたが、清司の意思は固かった。それより、清司が自身を「欠陥」と言い表したのが意外だった。

 わたしは一拍躊躇って、問う。

「もし、もしもだ。脳みそに心が宿っていると言われたら――食うか?」

「食べません」清司は即答した。「食べるには、人を殺す必要があります」

 当然のことのように返され、少女を殺して心臓まで食ったくせに、と内心反抗する。

「まあ、心なんて臓器を口にして得られるものではないからな……もう食うなよ」

「善処します」

「そこは素直にハイと言え」

 はい、と清司は応えたが、大いに不安が残った。

 嘱託とはいえ、言われるがままに人を殺し心臓を腹に収めた者の心理は常人に理解できるものではない。もしわたしが心鬼として万全なら、力を用いて性質を見極めることもできようが、生憎、わたしは役立たずでその上穀潰しになろうとしていた。

 それでもうっかりこの後輩から不利益を被ってしまわないよう、自分を信じて目を瞑った。本人すら気づいていない内部構造を知ることができれば対処もできるだろうと、何度も黄泉坂に教えられたように、どこかに存在するであろう神経の枝葉に広がれと念じる。この世の裏側に、軸索を潜り込ませていく。

 と、幻の触覚に何かが触れた。――隣には、存外に確然とした気配があった。

 初めての心鬼らしい体験に俄かに嬉しくなって、わたしはより多くを求めて深く呼吸し、集中する。この世の裏からわたしの感覚を包み込むように押しかかるそれは、冷たく、乾いていた。灯台の回転灯のように、眼裏にとある景色が閃く。一瞬だけ見えた断片は、夜の砂漠だった。清司の心象風景だろうか。

「清司、お前は感傷にでも浸っているのか? 何だか冷たくて寂しくて、賽の河原の石ころみたいな雰囲気だぞ」

 声を出したところで集中が切れ、拡張されていた感覚は跡形もなく霧散したが、感じた冷気は鮮明に肌身に残っていた。初めて触れた心鬼の気配に、わたしは高揚する一方で身震いする。確かに冷たいが、夏場にどうかと言われれば決して首を縦に振ることはできない。

 もしかすると本人が鈍感なだけで、清司の求める心はちゃんと存在しているのかもしれなかった。鉄製のポーカーフェイスが剥がれるところを想像しつつ目を開けると、隣に清司はおらず、本堂の方へ引っ張られるようにして、歩みを進めていた。

「こら、わたしを置いて勝手に行くな――」

 言いつつ一歩踏み出した刹那、

(ずっと、ずっと) (約束ですよ) (俺は――)

 栓を抜かれたように、脳髄の奥から幻聴が噴き出た。堰を切ったように溢れ出る言葉の奔流に蹲り、意味もないのに耳を塞ぐ。――なぜ、今、

「どうされましたか、梅子さん」

 こんな季節だというのに蝉の声がした。色褪せた夏の庭に、遠く清司の声。

 ――助けてくれ。かろうじて開けた目に、こちらへ来ようとして、人波に飲み込まれる清司が映る。

「清司っ……!!」

「梅子さ――あぁぁ」

 波は一瞬にして小さな姿を飲み込み、どこかへ連れ去った。

(梅子さん、)

 深い夢の海の底から、「彼」がわたしを呼んでいる――

(貴女はいつか、きっと――)


      ◇


(はぐれてしまった)

 清司は周囲を見回した。流れ着いた先には仁王門があり、こちらも塔と同じく灯りに照らされ、夜の風景に浮かび上がっている。

(梅子さんと、合流しなければ)

 身を捻って雑踏を抜ける。「みくじ」の看板が掲げられた軒先に入り、往来を見遣れば見渡す限りの人。当たり前のように心を持っているのであろう、多種多様な姿の人間が行き交っている。

 ――あたし、人混みは嫌いなの。だから、清司も人混みは嫌いでしょう?

 ――櫻子さんがそうおっしゃるのなら、ぼくもそうなのだと考えます。

 その光景を眺めていると、主とのかつてのやり取り、そして、

 ――あたしを殺してみなさいな、清司。

 それに触発されたのか、彼女の最期が思い出された。

 二人で汽車に乗って、ひたすら北へ。ここにしましょう、と主人が決めた、どこか遠い町。

 揃いの色の襟巻きを巻かれて、迷いなく歩く少女の後について辿った道は雪のまだら模様。マガレイトに結った髪に、赤いリボン――紅い血。

 ――ほら、あたしの血も、清司の血も、同じ赤色よ。ぁねえ、あたしたち、人間よ。

 切れ込みを入れた小指を絡めて、交わした約束。心がなくとも、皮膚は切り裂くと赤い血が出て、痛んだ。

(あのとき、櫻子さんは、)

 ――あたしを殺して、あたしの心臓を食べてみなさいな。

 ――ねぇ、いい考えでしょう? あたしの心を、清司にあげるわ。

 ――……ぼくは、

 優しい手に包まれた、短刀を握る自分の手を見下ろし、答えた。

 少女の顔が歪むのを見たのは、その時が初めてだった。

(……

 思考を中断して、清司は人混みの向こうへ目を遣った。ここから待ち合わせ場所までは一本道だ。迷うことはないだろう。

「――ああ、また凶だ。参ったなぁ」

 と、隣で声が上がった。声を追って視線を上げると、ばったり目が合った。

 この場には似つかない、英国製のスーツを隙なく着こなした男が、みくじ片手に唸っていた。

「おや、見られてしまったか。お恥ずかしい限りだ」

 清司を認め、周囲から一人浮いた男は苦笑した。清司は相手が自分に見られることを恥ずかしがっているとの結論に達するまでの数瞬、じっと男の顔を見つめていた。

「すみません。見ないようにします」

「ははは、構わないよ。君もこんなところに一人で、恋占いでもしに来たのか?」

「いいえ。違います」

 清司の返答を照れ隠しと取ったのか、男は子供めいた笑みを広げた。絹帽の下、好奇に彩られた涼しげな目元は、不思議な若さを湛えている。

「じゃあ、何だ。ひょっとして、迷子か?」

「お恥ずかしながら、そのようで。連れとはぐれてしまいました」

 脳内に貯蔵してある定型句を引き出すと、男は華やかに笑った。

「正直な子だ。迷子とは可愛らしい。一人寂しく恋占いをしに来た俺と同類じゃあないんだな。そもそも四十路も近づいてきた男と、十代そこらの子の恋占いは訳が違うか。――そうだ、待ち合わせの場所は決めてあるか? 君がよければ俺がそこまで送ってやろう。人助けをすれば凶も吉に転じるかもしれないしな」

 男の口調は外見から見て取れる身分を感じさせないほど気さくで、朗らかだった。

 断る理由も別段見当たらなかったので、ありがとうございます、と謝礼の語句を声にし、清司は集合場所を告げた。

 すると男は愉快そうに、

「もしかすると、ここで会ったということは、君が俺の運命の相手だったりするのかもしれないな」

 と笑った。


「君、腹は空いていないか? 人形焼でもおごってやろう」

 清司の手を引き、男は訊いた。

「いえ、お腹は空いていますが、初対面の人にごちそうされるのには、違和感を覚えます」

 はぐれてしまわないよう右手で男の手を握り、空いた手で制帽を押さえ、清司は返答した。

 滑らかなサキソニーの背中は笑う。

「見知らぬ奴から物はもらわない、か。いい心掛けだ。きっと親御さんがしっかりしているんだろうな」

 言って、男は振り返り、

「だが、何が何でも人形焼は食ってもらうぞ。君が食いたくなくっても、俺は食いたいんだ――一人だけ食い意地が張ってると思われるのは嫌なんだよ」

 内緒話をするように、声を潜めた。

「そうですか。それなら、お言葉に甘えて」

「いい子だ」

 清司が礼を言うと、子供のように、男は破顔した。

 目当てのものはすぐに見つかり、男は店先の婦人につぶあんとこしあんを一袋ずつ注文した。特にこだわりはないが、あるのなら両方口にしたいという彼の魂胆だ。

「君、どっちが多い方がいい?」

「いえ、特に希望はありません」

「そう言われると迷うなぁ……」

「半分ずつ詰めてさしあげましょうか?」

 店の中から声がかかった。婦人は紙袋に名物を納めながら、頬骨の張った顔を綻ばせている。

「おお、それはありがたい」

 男は品のある笑みを浮かべた。「贔屓にするよ」

 貴公子の笑顔を目にし、背後に薔薇を咲かせた婦人は後ろの清司を見て、

「親子そろって、美男でいらっしゃる」

 と一層顔を華やがせた。「眼福ねぇ」

 男は不思議そうに目を丸くし、「まさか」

「俺たち、さっき出会ったばかりの、赤の他人同士だぜ?」

「ほんとですかぁ?」

 まあまあ、と婦人は二人を見比べた。

「他人の空似ってこういうことをいうのねぇ。ま、親子じゃなくっても、目の保養になったことには違いないけどね」

 お待ちどうさま。婦人は男に袋を手渡した。

「顔を褒められて悪い気はしないな。ありがとう、また来るよ」

 代金を多めに払い、男は軽く手を振って別れを告げた。呼び止めようとした婦人に片目を瞑り、釣りを辞す。

「どうやら俺たち、似た者同士らしいな――お、これはつぶあんか」

 一口齧った残り半分を口に放り込み、男は隣の清司の顔を覗きこむ。

「……うん。言われてみれば、確かにその目元は毎朝鏡で見ている気がするな。君、今は右目に眼帯をしているが、ひょっとして、目尻にほくろがあったりするのか?」

 そう言って男が指さした彼の右目尻には、妖精が口づけをしたような、ごく小さな一点の黒星があった。

「いえ、」こしあんを飲み込み、清司は首を振る。「ぼくには、ありません」

「ぼくには、って。その口ぶりは、俺みたいに右の目尻にほくろのついた、兄弟がいるみたいだぜ」

「はい、います。生き別れてしまったようなものですが」

 清司が答えると、男はふと、歩み止めた。顔を横に向け、目だけを動かして後ろをかいま見、「やめておこう」

 控えめに笑って、清司に並んだ。

「今日会ったばかりの相手に身の上を話すのは、互いにとってよくない」

 ああ、またつぶあんだ。男は少しだけ歩調を速める。

 そうですね、と清司も同調した。口に入ったのはまたしてもこしあんだった。

 男は微かに笑ったようだった。「――しかし、よく似ているな」

「禁止したばかりの身の上話になってしまうが、俺は結婚に縁がないらしくてね。さっきも占ってみたが、見事に凶だった。

 俺の家は、実は結構有名なんだが、俺には兄弟がいない。しかも唯一の跡取りの俺がこんなだから、お家の存続が危ういのさ」

 と、清司の帽子の鍔を、横からちょいと持ち上げてみせる。

「君とここで出会ったのは、もしかすると本当に神のお導きなのかもしれないな。君、うちの養子になる気はないか? これだけ似ていたら親子だと言い張っても疑われはしないだろう。親御さんが許さずとも、君さえよければ攫ってでもうちの子にしてやるのに。人形焼に限らず、何でも食わせてやるぞ?」

「お誘いはありがたいですが、誘拐は犯罪です」

 清司が今までの生活で習得した一般論を述べると、男は吹き出した。

「ははは、冗談だよ。お堅いなぁ」

 ちょうどそのとき、清司は門のところに一際目を引く白い髪を認めた。


      ◇


「遅いぞお前!」

 普通は再会に安堵するところだか、待ちぼうけを食らったわたしは清司の姿を見るなり怒鳴った。

 あの後、清司が消えるや否や幻聴は嘘のように治まり、わたしはてくてく歩いて待ち合わせ場所に向かった。十五分待っても清司は来なかった。

「まったく、どこまで流されたらこんなに時間がかかるんだ…… ああ! しかもお前、空腹のわたしを差し置いてそんなものまで!」

 清司は白い紙袋を抱えていた。見ずともわかる中身は、名物・人形焼。腹が立つことに、一番大きな袋に入っている。わたしの腹がぐぅ、と音を上げる。

「すみません。お待たせしました」

「嘘でもいいからもっと申し訳なさそうな顔をして言え!」

 清司は口元に食べかすをひっつけていた。年相応に無垢なその様子に、わたしの怒りは消沈する。

「施しまで受けやがって……」

 わたしは清司の後ろへ目を遣る。そこには、黄泉坂までとはいかずとも、十分に長身で、高貴な品格を漂わせた紳士が立っていた。

「連れが迷惑をかけたようだ。しかもご馳走までしていただき、」

「いや、俺が好きでやったことだから、礼の必要はないさ」

 わたしが頭を下げると、男は柔らかい声音で言った。

「そんな――」

 顔を上げると、目が合った。

 その、自然の産物とは思えない、完全無欠の顔の造形。あまりにも完成された表情。わたしは蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなった。

 怖い。身体の深奥、ほとんど本能に近い場所から急速に伝播したのは恐怖だった。

(――約束を破ったら、許しませんよ)

 頭蓋の内側に声が響いた。それを皮切りに、言葉の連なりはまるで脳髄が煮えているかのように、次から次へと浮上し、意識の表層で弾ける。

(俺には、貴女しかいないんです)

 声に引かれたのか、脳裏に景色が浮かぶ。色褪せた夏空――これは、わたしの夢。

 わたし。縁側に座っているわたし。視点が動く――駄目だ。見ては。

 ――朧に浮き上がった「誰か」の輪郭が、目の前の男と重なる。

 こいつは、誰だ――?

 背筋が怖気立った。こちらを見つめる二つの眼が、美しく弧を描く唇が、恐い。自己存在にヒビが入るような感覚。割れ目から顔を出そうとしているのは、一体何だ――

 紫電が閃き、夏空が切り裂かれた。

 ――そこには、昏い闇。

 空には死人の顔のような月が浮かんでいる。水でぼかしたように混濁した世界で月ばかりが白い。足元に誰かが倒れている――殺されている。わたしは、死体を見下ろしている。

 わたしが殺したのか? ……わたし?

 わたしは、誰だ? 死んでいるのは誰だ? 誰が誰を殺したんだ――?

 困惑しているうちに忍び寄る「何か」の気配。視界が一瞬暗転し、眼前に現れたのは黒い異形。衝撃――。身体が焼けるように痛む。異形の体表で光る無数の眼球がわたしを見ている。酸を浴びたように皮膚が溶け、肉が削り取られていく――

 やめろ!! 絶叫が喉元まで迫り上がる。

「ありがとうございました」

 しかし、間一髪のところで、わたしは我に返った。

 清司は帽子を脱ぎ、模範的な礼をした。

「こしあんの人形焼、ぼくの口に合いました。だから、美味しかったです」

 なんの、と視線を移し、紳士は清司に笑いかける。

「俺はつぶあんばっかりだったな」手にした赤い袋を恨めしそうに一瞥し、男はまた破顔した。

「君はなかなか面白い言い回しをする。機会があれば、また会ってゆっくりと話をしたいくらいだ」

 名残惜しそうに、男は絹帽を被り直し、ひょいと手を挙げた。

「では、俺はここらでお暇するとしよう。今日は楽しかったよ。――じゃあな」


「どうされましたか、梅子さん。具合が悪いのではないでしょうか」

 男の背中を見送ってから、清司はわたしの顔を覗きこんだ。

「いや、もう大丈夫だ。……ありがとう」

 清司は首を傾げる。「お礼をされるようなことは、していませんが」

 薄く笑って、わたしは清司の帽子の鍔をついと持ち上げた。

「取って食われなくてよかったな」

「どういう意味でしょうか」

「さあな。――見物をしたいところだが、今日はもう疲れたから帰ろう。土産を買ってな」

 清司に先立って歩き出す。

 暗い幻の中でわたしを襲った痛みが、生々しい感覚を伴って身体に残っていた。

(――梅子さん、お願いです)

 恐れを紛らわせるように、今ばかりは幻聴に耳を傾ける。絶えることのない優しい囁きは、不確かなわたしを肯定するための薬に違いなかった。

(いつか、俺を)

 ふと、潮騒が途切れた。白波が砕け、海の色に混じる。世界が凪いで、わたしという個の消失と等しい完全な静寂が降りる。沈黙の底で、わたしは――、わたしは、

 わたしは……?

 混沌。

 わたし、わたし。わたしは――――そうだ、

 鳥打帽が地面に落ち、長い髪がばらりと垂れた。

 再生。

(貴女がいないと、俺は死ねませんから)

 果てしない懇願が、ようやく実像を結ぶ。

 記憶の奥底、わたしの背後で、「彼」は朗らかに笑っていた。

(いつか、)


(俺を、殺してくださいね――)

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