アルカロイドは理想世界の幻想を見せるか

仲原鬱間

序章

 ――こんなことを言ったら、貴女は驚きますか?


 俺を、殺してください。


 もし俺がそう言ったとして。貴女は最初に何とおっしゃるのでしょう。

「どうして?」「変なことをおっしゃるのね」「嫌よ、絶対に」……

 もし俺がそう言ったとして。貴女はどんな表情かおをするのでしょう。

 驚愕。狼狽。恐怖――はたまた恍惚の笑みを浮かべて、貴女は俺の喉元に包丁の切っ先を突き立てるのでしょうか。首から赤く濡れた銀の枝を生やした俺を見下ろして、貴女はまるで赤子でもあやすかのような微笑みを湛え……

 考えただけで堪らない!

 俺はね、どうしても、たとえいっぺん死んでしまったとしても、貴女に、他の誰でもなく貴女に、殺されたいんです。どうしてだか、わかりますか?

 この上なく簡単な、一足す一を答えるよりも簡単なことですよ。


「――貴女を、愛しているからです」


 硝子の透徹を保ったまま、その囁きは現世うつしよならざる世界に溶け入った。

 淡く笑み、彼は目の前にうずくまる黒いもやに手を伸べる。そうして、実体なき影の中、この黒白の空間で唯一の光に触れた。

 指先で撫ぜると、微かに震える――その葉の上の雫にも似た珠が、彼の愛する女の《心》であった。

 彼は笑みを深めると、両手で珠を包み、乞うようにそっと口接くちづけた。

「待ってます。ずっと、待ってますから……」

 貴女が俺を、殺してくれるのを――

 何処までも澄み渡った願いは果たして、彼女に届いたであろうか。


 彼がまことの世界に戻ると、女は濡れ縁に腰掛け、空を眺めていた。

 八月も終わりの、午後三時。

「あら、いつからそこにいらしたの?」

 薄藍の着物が振り向く。飾り気のない束髪へと続く白いうなじは、しっとりと汗で湿っていた。くっきりとした目元が、子供の悪戯を窘めるように、母親めいて笑む。「驚いちゃうわ」

 その、法の中での睦み合いだと線引きをするような笑みが、彼は好きではなかった。

「俺は神出鬼没なんです」

 ほの暗い畳の間から歩み出ると、傷んだ根太がぎしりと音を立てた。彼は女の隣に腰を下ろす。思いの外蝉が喧しいのと、女が遠慮がちに尻をずらしたのが、何気なしに描いていた理想に爪先で瑕疵きずを入れた。

「……今年は冷夏だって言うけれど、暑いのには変わりないわね」

 山のような入道雲の稜線を目で辿りつつの科白は、生じた傷を繕うものでも、かといって押し拡げるものでもなかった。ただ何に向けられたのかわからない悩ましげな嘆息が、彼の完璧への過敏な集中を削いだ。

 あえかな一息を鼓膜に塗り込みながら、彼は儀礼的に相槌を打ち、その裏付けをするように、シャツのボタンを一つ外した。すでに体外に放射された意識は、熱とも隔絶された境地から、写真でも見るかのように二人を眺めていた。

「あの人も帰ってこないし、することもないし、暇ね」

 写真であるためには言葉など必要なかったが、他意なく提示された言葉は、再現されるべき彼の理想に思いがけずきざはしを下ろした。

「……俺は、そうは思いませんよ」

 彼は女を見た。意識はその間にも一歩を踏み出し、至るべき場所へ続く階梯からは、夏の熱に火照った頬が望まれた。白い肌に透けた桃の色はきっと、誰にも真似ることはできまい。

「……どうして?」

 長い睫の下から、問いかけるような黒目が覗く。

 恍惚の境地に意識を浮かべ、彼は微笑んだ。

(理由なんか知っているくせに。かまととぶって)

 小さな欺瞞へのこそばゆい苛立ちは、僅かな反抗へと化身する。彼は弓弦のように引き絞った目で、女の瞳を捉えた。

「――だって、貴女がいますから」

 言葉を耳にするなり、女の顔の色が変わった。目を伏せ、押し黙る。下を向いた睫は煙に巻かれた蚊の肢ように、細かに震えていた。

 無音のうちに吐き出された二人の呼吸は、銀砂子のように夏の水底へ積もっていった。

(貴女も悪い人だ)

(本当は全部、何もかも、知っているくせに)

 胸の奥に血が満ちていくのを感じ、彼は心地よい苦痛に息を漏らした。

 二人きりの沈黙を埋める蝉の声は、どこか遠い。

「俺には貴女がいる。貴女にだって、あいつなんかいなくとも、俺がいるじゃありませんか」

 女は紅潮した。その変化を、彼は二人の完結が当然の帰結だということの証明と見た。

 純粋に、彼は笑った。

「ねぇ……いいでしょう?」

 女の震える肩を掴み、板の間へ押し倒した。細い足首をぐいと持ち上げ、その右の足の指を、白い足袋ごと口に含む。

 やめてよ、汚いわ。抗議の声も無視し、足袋を剥き、指の間に舌を割り込ませる。

 ――これが二人の、いつもの遊び。

 薄く刻んだ真珠貝のような爪。ふっくらと肉づいた、つるつるとした踵――残らず舐めまわす。

「こら……やめなさいってば……」

(自分だって、愉しんでいるくせに)

 彼は横目で、女の表情を窺う。怒っているようにも、泣いているようにも、恍惚としているようにも見えた。

(好きなんですよ。堪らなく、貴女のことが、好きなんです)

 行為に耽る彼の姿はまるで犬。熱を帯びた舌で白い小指を包むと、女はか細い悲鳴を上げた。

(この足が、俺の頭を毬みたいに蹴り上げて、胸を洗濯物なんかと一緒に踏み荒らす。腹の上でステップを踏んで、両膝を上から思い切り踏んづける)

 いつも、いつも。被虐心を加速させる虚妄に囚われると、柔腕で首元を扼されるのに似た感覚に陥る。慈愛に満ちた苦しみが五体を満たし――甘美な夢の中央でにっこり微笑む女の足元には、幸福の内に息絶えた男の死体が転がっていた。

(ああ、堪らない!)

 彼はおかに上がった魚のように浅い呼吸を繰り返す。一度舌を湿らせ、膝の裏から踝に向かって舐め上げたところで、ふと、口元を弛めた。

「……お願いですから、いつか殺してくださいね。絶対ですよ」

 しなやかに伸びた肉の枝に頬ずりし、掠れた声で零した。

「この……××××」

 こちらを睨む、濡れた瞳があまりにも愛おしく、

「アハハ、もっと言ってやってくださいよ」

 彼は一番の気に入りである踵の腱のところへ、静かに歯を立てた。

「貴女が俺を殺してくれないと、俺は、死ねませんから。だから、ね――」


 約束ですよ。


 陽は西へ傾く。とある夏の日が暮れようとしていた。

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