第13話 愛しかない彼は、
アクセリナがフレイ国へやって来てから、一月が経過していた。
二週間後にはディーノとの結婚式が控えており、城の中にいる誰もが忙しなく動いていた。
結局ウェディングドレスは、アクセリナが持ってきたドレスを仕立て直すことになった。飾りや生地などを一部取り替え、新しい形に作り直すのだ。
「やっぱり一年以上前だと、デザインが古く感じられてしまいますもの。もとのデザインは素敵ですけれど、今の流行を取り入れてさらに素敵なものを纏っていただきたいですわ」
とは、エミリの言葉である。
思い入れのあるウェディングドレスではあったが、ハサミを入れることに躊躇はなかった。アクセリナの中で少しずつ、エドヴァルドが過去になりつつある。
あれから彼を見つけたという報告はない。兄からの連絡も特になく、アクセリナたちの周囲はとても平和だった。
「アクセリナ様、ドレスのお直しのために仕立て屋が来ておりますわ。衣装室に控えておりますので、参りましょう」
「あぁ。今日ディーノはどうしている?」
「ジルドと共に、結婚式のスケジュール調整の追い込みですって。それはもう盛大に拘っているそうで、ジルドが疲れ果てておりましたわ」
「全く、余計なことに時間を割いて……」
そういうアクセリナの表情は、どこか嬉しそうにも見えた。エミリは安堵の表情で、口角を上げる。
エドヴァルドのことがあってからしばらく経つが、アクセリナの様子は目に見えて明るくなった。フレイ国に来たばかりの頃は時折ふさぎ込むこともあったが、今はそれもほとんどない。ふさぎ込む余地がないというべきだろうか。何せディーノと来たら、執務の合間の時間を見つけてはアクセリナに構いに来る。毎日欠かさず、どれだけ忙しくても必ず一度は会いに来る。
『僕がセリナに会いたいだけだよ』――と、彼は言うが。その行動がアクセリナにとって良い結果をもたらしているのは確かで、エミリは彼のことを見直さなければならないと思っていた。
「あんなうるさくて軽い殿方のところに嫁ぐと聞いたときは絶望すら感じましたけれど、悪い方ではありませんのね。お仕事もしっかりしてらっしゃるし、それでいてアクセリナ様へ愛を紡ぐことも忘れない。少々やかましくて騒がしい方だとは今でも思いますけれど、こちらに来て良かったのかもしれないと、今では思うようになりましたわ」
騒々しいというポイントを繰り返すことは忘れずに、エミリが言う。アクセリナは小さく笑って、あぁ、と頷いた。
「それがあいつの恐ろしいところだ。最終的に絆されてしまう。……でも実際、私はあれに随分と救われている。――本人には言うなよ」
「もちろんですわ! お調子に乗ることが目に見えてますもの! あ、つきましたわ、アクセリナ様」
衣装室につくと、すぐに上品なマダムがアクセリナに礼をした。その後ろには暗いブルーブラックの髪色をした青年が立っており、同じように礼をする。帽子を目深に被っており表情までは伺えないが、恐らく仕立て屋の助手のようなものだと思われる。ただなぜか帯剣しているのが気になった。アクセリナは青年を一瞥したあと、すぐにマダムへ視線を向けた。
「今日は私のために時間を割いてくれたこと、感謝する。アクセリナ・ベールヴァルトだ。まだ結婚前ゆえ、アクセリナと呼んでくれ」
「お初にお目にかかります、アクセリナ様。あたくし、ラウラ・オーケルマンでございます。街一番の仕立屋を自負しておりますわ。第一王子殿下の奥様のウェディングドレスも、あたくしが仕立てさせていただきました。第二王子の奥様となる方にもご用命いただけましたこと、大変光栄に思います。……後ろにおりますのは、あたくしの手伝いと、それから護衛をしてくれる付き人です。お城までの街道で強盗が出るとのことでしたので、急遽帯剣の許可を得て城まで参りました」
「……そうか」
アクセリナはちら、とエミリを見やり合図を送る。エミリはこく、と頷いて、付き人と言われた青年の傍へ歩み寄る。
「ならこの場にいる間は剣を預かろう。そちらの侍女に渡してくれ」
青年はこくりと頷いて、持っていた剣を鞘ごとエミリへ渡した。エミリはそれを受け取り、充分な距離を取った壁へと立てかける。
マダム・ラウラはぱちりと手を叩き、笑顔を浮かべてアクセリナをドレスの前まで誘導した。慣れた手付きで採寸し、リボンの色をいくつも合わせては悩み、布の具合も確かめた。
その間青年は、おとなしく立っていた。時々ラウラに呼ばれて道具を渡しに行くことだけを繰り返している。
一時間ほど作業が続き、黙って立ち続けているだけのアクセリナに疲れが見えてきた頃、ラウラは一度ドレスから手を離してふぅ、と息をついた。
「アクセリナ様、大変申し訳ないのですけれど、別の布も当ててみたいと思いますの。彼に取りに行かせますので、少しだけお時間をいただいても……?」
「あぁ、構わない。ちょうど休憩したいと思っていたところだ。エミリ、お茶の準備を」
「かしこまりました」
エミリはすぐに頷いて、お茶の準備を始める。その間にラウラは青年に声をかけて、青年は一度部屋を出ていった。いそいそとソファーまで戻ったラウラは突然、「まぁ!」と大きな声を上げた。
「大変、あの子に持ってくる布の種類を伝え忘れてしまったわ! アクセリナ様、あたくしすぐに追いかけて参りますわね、そうだ、ついでにこの剣は外の騎士様に預かっていてもらいましょう! 危険ですものね!」
「マダム、そういうことならわたしが」
「いいえ、いいえ。ついでですからね、気になさらないで!」
にっこり笑ったラウラはそのまま、壁に立てかけられた剣を持ち上げて部屋を出る。エミリは不思議そうな表情を浮かべて、首を傾げた。
「何か、忙しない雰囲気ですわね。人気の仕立て屋と聞きますから、忙しいのでしょうか」
「さぁ……」
――それは、一瞬のことだった。
閉じていた扉が開いたと思った瞬間、エミリが振り返るよりも先に、何者かが侵入しエミリの背中を勢い良く斬りつけた。
何が起こったのか理解が遅れ、アクセリナは口を開けたまま視線を動かす。血に塗れた剣の切っ先が、アクセリナに向けられていた。
「……お会い、したかった……」
紡がれた声は、懐かしい音をしていた。アクセリナの指先が一気に冷えて、鼓動がどっ、と強く鳴る。
誰だ、と思った。
暗いブルーブラックの髪、貴族とは思えない安い服、血の気のない肌。被っていた帽子がぱさりと落ちて、アクセリナはようやくその男の正体を知る。
青色の瞳は、変わっていない。愛を帯びた眼差しも、変わっていない。
だけれど、その姿はあまりにも変わってしまっていた。雰囲気も人相も、アクセリナの知る彼と、大きく異なっていた。
「エドヴァルド……」
「はい、アクセリナ様。あなたのエドヴァルドです」
全く変わってしまったエドヴァルドの姿に、けれどアクセリナの頭の中はやけに冷静だった。
この姿なら見つからないはずだと納得する。アクセリナでさえ、すぐにはわからなかったくらいだ。
「う、ぅう……っ!」
「! エミリ……!」
うめき声を上げたエミリへ手を伸ばすが、その動きは向けられている剣のせいでままならない。アクセリナはエドヴァルドを睨みつけ、眉を釣り上げた。
「貴様、自分が何をしているのかわかっているのか? こんな場所でこのような真似をして、ただで済むと思うのか」
「いいえ、まさか。……でも、こうでもしないとあなたがオレに会ってくれない気がして。ここしばらく大変だったんですよ、どうやってあなたに会うかを考えて……結婚に向けてウェディングドレスを仕立て直すんじゃないかって思って。そうしてラウラとかいう人の仕立屋に潜り込んで、……脅して、利用して。うまいことことが運んで良かった」
「脅して……?」
「あのひと、孫がいるんですよ。まだ小さな小さな子どもです。それで少しだけ……少し、脅かしただけです。危害を加えたりはしていませんよ」
笑顔を携えたままそんなふうに話すエドヴァルドに、アクセリナは困惑する。
彼は本当にエドヴァルドなのか? エドヴァルドではない別の人間なのではないか。ただエドヴァルドを装っているだけの、他人なのではないのか。――半分は、そうであって欲しいという願望があった。
外見や雰囲気だけでなく、その心すらまるで別人のようであった。
「アクセリナ様」
じり、と距離を詰めて、エドヴァルドが呼ぶ。熱の籠もったその声も、今は胸に響かない。ただ動揺ばかりが広がっていった。
「どうして、なんです? どうして結婚なんか……オレじゃない相手と、結婚なんて……!」
「どうして、だ? 私が王族であるからだ。他に理由などない」
「……ではどうして、オレを待っていてくれなかったんですか。オレのこと愛してましたよね。愛してくれていましたよね。それなのにどうして」
アクセリナの顔から、表情が消える。エドヴァルドの瞳が、はっと揺れた。
「なら聞くが。私を愛しているというのなら、貴様はなぜ離れた? 婚約解消をして、力をつけたのちに再度婚約が出来るとでも本気で思っていたのか?」
「あなたが待ってくれるのなら、あなたが受け入れてくれるのなら」
「婚約して三年。結婚が延期となって一年。私がその間どれだけ待っていたと思っている? 私が無理やりお前を婚約者にしただの、私に問題があるから結婚してもらえないのだの、貴族連中からどれほど嗤われたと思っている」
「それは、」
「なぁ、お前はいつまで私を待たせるつもりだったんだ? あと一年? 三年? それとも十年か。残念だが私にはそんなに時間がない」
「でも……だけどっ! あなたはオレを愛して、オレもあなたを愛していた! オレはあなたと一緒にいられるのならそれだけで良かったんだ! 王配になんてなれなくても、あなたが傍にいるのならそれでっ……」
アクセリナの表情が、不意に歪んだ。泣きそうな、苦しそうな、悔しそうな。眉を寄せて瞳を揺らし、拳を強く握り込んでアクセリナは言う。
「……それを……なぜ……なぜもっと早くに、言わなかった……?」
共に居られるのならそれだけでいい。
王配になれなくても、傍にいるのなら、それだけで。
「もっと早く言ってくれていたら、私は……」
くっ、と、アクセリナの喉が鳴った。彼女は引きつった笑みを作り、言葉を続けた。
「私は、もっと早くにお前を手放してやることが出来たのに」
え、と。エドヴァルドの瞳が見開かれ、息が詰まる。
アクセリナさえいればいい、というエドヴァルドの告白に対し、彼女は決して喜びや悲しみの感情を見せなかった。非常にぎこちない笑顔のまま、喉奥が震えている。アクセリナは声を上げて笑った。
「本当に、本当に無駄だった! お前を待っていた三年、何の意味もなかった! なぁエドヴァルド、お前、私に言った言葉を覚えているか? いつか父のような立派な王になると語った私にお前は、『ではオレは、あなたを支える存在になります』と言ったんだ! お前が支えてくれるのなら私は、きっとやっていけると思っていた……王という重圧にも、お前がいるのなら耐えられると思っていたんだ!」
すれ違いは、聖女の出現よりもずっと前から始まっていたのだ。
アクセリナはエドヴァルドが、王族である自分を支えてくれるものと思っていた。それを望んでいた。王になりたいと願う自分の隣に立って、同じ夢を見ているものだと思っていた。それが間違っていた。
エドヴァルドはただ、アクセリナだけを求めていた。
他は何も、いらなかった。
「何もわかっていなかったのだな、私は……私がお前に期待しすぎてしまっていた、ただ私の見る目がなかったのだ。……王配たる資格がない、当たり前だ。なぜならお前はそもそも、王配になることを望んでいなかったのだから!」
「オレは! オレはあなたがいればそれでいいんです! あなたを愛しているから! 誰よりもあなたを想っているから!」
がしゃんっ、と剣を捨てて、エドヴァルドがアクセリナに詰め寄る。その肩を強く掴んで顔を寄せると、泣きそうな表情を浮かべて口を動かした。
「お願いです、アクセリナ様。オレを、オレだけを選んでください。オレと一緒に行きましょう。二人なら大丈夫です。王族でなくなっても、きっとやっていけます。……国、なんて。オレは、どうでもいいんです。あなたさえいるのなら、オレは……」
うっとりとアクセリナの瞳を見つめて、唇を寄せる。ふっ、と、アクセリナが嗤う気配がした。
「私に口付けるか、エドヴァルド・フェムシェーナ。――構わぬ。それではっきりわかるだろうよ。私の心に最早、お前への想いがないということが」
エドヴァルドの表情が歪んだ。唇を噛み締め、何度も何度も首を振る。ぱさ、と触れる毛先は酷く傷んで、よく見れば長さもばらばらだった。
シルバーブロンドの美しい髪だった。髪を後ろへ流した姿が好きだった。
愛しさを隠さない瞳が好きだった。名を呼ぶ優しい声が好きだった。
それはもう全て、過去の感情だ。
「私は王族だ。フリッグ国第一王女、アクセリナ・ベールヴァルト。生まれてから一度もその想いは揺らがない。私はお前だけが傍にいればいいと、そう思ったことはない。ただ私の隣にいて、私と共に国を守って欲しいと、お前と共に国を守りたいと、そう思っていた」
アクセリナの手が、エドヴァルドの肩に触れる。エドヴァルドは呆然としたまま、アクセリナを見つめていた。
「お前の誘いに乗ると思ったのか。国を、王族であることを、何もかもを捨てて、私が、この私がお前だけを選ぶと、そう思ったのか。――結局お前も私を知らなかったのだ。ただ互いに幻想を重ねて、恋をしていただけだった」
王配として支えてくれると思っていた。
自分だけを選んでくれると思っていた。
恋の形が最初から、違っていたのだ。
「好きだった。愛していたよ、エドヴァルド。離れても幸せになっていて欲しいと思うほどには」
とん、とアクセリナがエドヴァルドの肩を押す。刹那、エドヴァルドの首元に剣の切っ先が触れていた。
「もう、過去の話だが」
アクセリナの視線が、エドヴァルドから外される。エドヴァルドはもう一度目を見開いて、アクセリナの視線の先にいる人物に気付く。
殺気をみなぎらせ、首元に剣を突きつけている男。――アクセリナの、婚約者。
「このままやってもいい?」
「駄目だ。きちんと然るべき手続きを以て、罪を償わせる」
アクセリナとディーノの主語のない会話は、それでも成立しており。ばたばたと人が集まる音が聞こえて、エドヴァルドは膝をついた。
「エミリは」
「大丈夫です、意識はあります。すぐに治療に当たります」
「良かった……マダム・ラウラは?」
「兵士の陽動に使われていたようですが、急に泣き崩れたとのことで」
「彼女は脅されていたらしい。話を聞き出してくれ」
てきぱきと指示を出すアクセリナの声を聞きながらエドヴァルドは、兵士たちに捕縛されていた。アクセリナはもうエドヴァルドを見てはいなかった。視線の先にいる彼女は涙も流しておらず、そのことがエドヴァルドにさらなるショックを与えていた。
自分は会いたくて会いたくて、焦がれ死にそうだったのに。
ようやく会えた嬉しさで、胸がいっぱいになっていたのに。彼女は一度として、以前見せてくれたような愛しげな眼差しを見せてはくれなかった。嬉しそうに頬を染め、会いたかったと笑う彼女は……もう、いなくなってしまったのか。
たった数ヶ月だ。
たったそれだけの日数で彼女は、自分への愛をなくしてしまったのだろうか。
「セリナ、大丈夫?」
「ディーノ」
びくりと体を強張らせて、視線を上げる。ディーノの手が、アクセリナの手を握っていた。
こみ上げる不快感に表情が歪む。腹の奥から黒い感情が溢れ出て来た。唇は震え、その手を振り払おうと体を動かす。けれども兵士たちに抑え込まれた体は、僅かに身動ぎできるだけだった。
あのときと同じ。
二人で寄り添って、城の中から出て来たのを見た瞬間と、同じ感情。
嫉妬と憎悪、あらゆる暗い感情がエドヴァルドの心を支配した。
「お、まえが……っ、お前が、いなければ……!!」
憎しみを隠しもしない声で、エドヴァルドが言う。アクセリナが視線を動かす前に、ディーノがそれを遮った。
「本当にそう思っているのだとしたら、いっそおめでたいよ。たとえ僕がいなくても、きみの本音を知った彼女はきみから離れていただろうから。アクセリナは王族であることを誇りに思っている。そして生まれ持った責任を放棄せず、国のために貢献しようと思っている。彼女にとってそれは、誰かを心から愛したからって手放せるものじゃない。国と民、それからきみのどちらかを選ぶとしたら間違いなく国と民を選ぶひとだ」
エドヴァルドにはそれが、理解出来ない。
愛しているのなら、好きなのなら、何もかもを捨てて愛するひとを選ぶのではないのか。
自分はそうだ。アクセリナのためだけに生きていた。
アクセリナを支えたいと……。
不意に脳裏に、アクセリナと過ごした過去の情景が浮かぶ。王位を継ぐのだと笑顔で語る彼女を、自分は傍で守りたいと思った。彼女が自分を王配にと言ってくれたときは嬉しくて嬉しくて……彼女のためにももっと強くならなければと思っていた。
それがいつしか、優秀な彼女に追いつけない自分に苛立ちを覚え、自分は彼女の隣に相応しくないのではないかと思って。
それでも彼女が待ってくれると言ったから、努力を重ねた。彼女のために、彼女を支えるために。
王配になる。そういう想いも、たしかに持っていたのに。
いつから。
いつからそれが、どうでも良くなってしまったのだろう。
好きな想いは変わらない。突き放されても、視線を注がれることがなくなっても、愛しい気持ちが消えることはなかった。
「お慕いしています、アクセリナ様。……オレは……あなただけを、ずっと……」
アクセリナからの返事はない。
本当に、本当に心が離れてしまったのか。
その事実を認めることが、エドヴァルドには出来なかった。
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