第6話 彼が決断した、その結果
「兄上もスヴェンも、知っていたのか」
ディーノとの婚約が決まった直後、彼が帰ったあとにヴィルフェルムはスヴェンを呼び出し、聖女のことについてアクセリナに全てを話した。
ヘレーナは決して、二人を仲違いさせるために行動を起こしていたわけではない。国を想う心を買われ、悪役を演じていた。
「すまなかったと思っている。お前たちが結ばれるのを邪魔したかったわけではないんだ」
「わかっている、兄上。私に想う相手が出来たとき、誰より喜んだのは兄上ではないか」
「聖女ヘレーナも、いつかお詫びをしたいと言っていた」
「……あぁ。それはいつか、機会があればな」
アクセリナの声は、どこまでも落ち着いていた。
事実を伝えることによりもっと彼女を傷つけてしまうと思っていたが、彼女の覚悟はもう決まっていた。婚約解消を告げられたあの日に、傷つくだけ傷ついたのだ。そうしてもう、それが最後だと決めていた。
「私の判断こそ遅かったのだ。もっとはやく彼に見切りをつけ、私の方から彼を自由にしてやるべきだった。家族に心配をかけ、聖女に気を遣わせてしまうなんてな」
「……だが、想い合ってたのは事実だろう? エドヴァルド卿は今でも、姉さんを想い続けてる」
ただ、と、スヴェンが続けた。
「父さんがヘレーナ様の行動範囲を広げる許可を出した。明日からまたしばらく、ここへは戻ってこない」
「そうか。……婚約のことは、」
「言わない」
スヴェンがアクセリナの言葉に被せるようにきっぱりと言う。
「ごめん、姉さん。二人が想い合ってたからこそ俺は、エドヴァルド卿を許せない。ヘレーナ様の行動だって、うまくいけば卿の目を覚ますことが出来るかもしれないって思ってた。……俺、言ったんだよ。誤った選択をするなって、姉さんを想うなら、心が決まってるなら答えは一つだろうって! それがこんな……!」
「もう良い、スヴェン。終わったことだ」
婚約から三年。想いはそれより少し前から育まれていた。自分を支えて欲しいと思い慕っていた相手を見限る想いは、どれほど辛いものなのか。
スヴェンはぎゅっと唇を噛み締めて、視線を伏せた。
「……許せないからこそ、俺は婚約のことを伝えない。一週間後、ディーノ王子殿下との婚約が正式に発表されるだろう。エドヴァルド卿が事実を知るのは、この街に戻ってきてからだ」
そうなればもう、何もかもが手遅れだ。心を決めたアクセリナには、何もかもが今さらではあるが。
愛だけではどうにもならないことがある。それでもまだ、猶予はあった。エドヴァルドが婚約解消を口にしなければ、あと少しだけでもアクセリナは待ち続けただろう。それでも彼が王配になるかどうかまではわからない。アクセリナはそれを、とっくに察していた。
「愛していたから、……彼と共に国を守る夢を見た。だが本当はわかっていたんだ、エドヴァルドはきっと王配たりえないのだと。思えば私はずっと彼に無理を強いてきた。何事にも相性がある。……エドヴァルドに、王族たる器はない」
結婚して結ばれ、王族となればよりその責任は重くなる。きっとその重圧に、彼は耐えきれない。
すでにもう、負けてしまっているのだ。
王女アクセリナの隣に立つと言う責任を、いつまでも背負うことが出来なかったのだから。
*****
アクセリナに婚約解消を告げてから、一ヶ月が経過していた。
あのあとすぐに王家から見回り範囲を広げる許可が下り、エドヴァルドは聖女ヘレーナ、第二王子スヴェン、それから他の数人の護衛騎士と共に各地の見回りをしていた。城のある街に戻るのは随分と久しぶりで、エドヴァルドは少しばかり緊張していた。
城に行かない限りはアクセリナに会うことはないだろうが、すぐ近くにアクセリナがいると思うだけで胸が締め付けられる。
あんなふうな別れ方をして本当に良かったのか、エドヴァルドは未だ答えが出せない。
婚約解消についてスヴェンは、「お前がその道を選んだのなら、俺に何かをいう権利はない」と言っただけだった。
判断を誤るなと言われて、自分が正しいと思う道を選んだ。このままでは一向にアクセリナの力になれない。離れてしまうことになっても、彼女のためになる道を選ぶべきだと思った。
自分の想いは変わらない。今もずっと、アクセリナを想い続けている。アクセリナもそうであってほしい。喧嘩別れのような形で離れてしまったけれど、誠意を持って話せば自分の判断の意味もわかってくれるのではないだろうか。
その日の街は、いつもより賑やかだった。あちこちに装飾が施され、音楽も聞こえている。
「何でしょうか?」
「さぁ……」
スヴェンは興味のない素振りで、首を左右に振る。だが街の雰囲気から何かしら大きな祝い事があったのは確かで、それを第二王子であるスヴェンが知らないというのもおかしい。
基本、聖女と護衛騎士たちへの連絡は、火急のものでない限り街に戻ってきたときにされる。例えば聖女の力が及ばず魔物が出現してしまったというときや、王族に不幸があったとき、或いは王子王女の誕生など、そういった場合にのみ早馬が出されるのだ。国を上げての祝いごとがあれば、特にスヴェンなどは王子であるため、必ず連絡が来るようになっている。
この規模の祝い事であるのなら他の護衛騎士のもとへはともかく、スヴェンの元へは連絡が来ていてもおかしくはない。エドヴァルドがスヴェンに声をかけようとした刹那、遠くから声がした。
「おーい、エドヴァルド卿! 戻ってきてたんだな!」
呼んだのは、エドヴァルドの知り合い貴族だった。スヴェンの存在に気付くとすぐにぺこりと頭を下げる。彼の周囲にも同じような貴族たちが数人集まっており、穏やかに微笑む聖女の姿に頬を赤らめていた。
「やぁ、久しぶり。これは一体何の催しだ?」
エドヴァルドが尋ねると、貴族の男はきょとんとした顔つきになった。
「え? いや、っていうかお前、いつのまに婚約解消しちまってたんだよ! 俺たち全然知らねぇでさぁ! まぁでも、王女の夫になるには勇気も必要だし、なれなくても落ち込むことはねぇよ」
「あ、あぁ、それは、その」
「しかしこんなすぐに王女様の婚約相手が決まるなんてなぁ。公爵子息よりも隣国の王子か、それもまぁ仕方ねぇと言えばそうか」
え、と、エドヴァルドの表情が固まる。隣でヘレーナが、まぁ、と声を上げた。
「婚約だなんて、本当に?」
「えぇ、数日前から街はお祭り騒ぎですよ。なんでも向こうの王子が派手に発表したがったそうで……」
ヘレーナはすぐにエドヴァルドに身体を向けて、その腕にそっと触れた。
「エドヴァルド様、気を落とさないでくださいませね。アクセリナ様は王女ですもの、仕方のないご決断ですわ」
はっとして、エドヴァルドはヘレーナの腕を振り払った。そうしてスヴェンの顔を見て、唇を震わせる。
「スヴェン様……まさか、このことを知っていて……?」
「姉さんの婚約のことならとっくに知っていた。だから俺は言ったんだ。選択肢を誤るなって」
スヴェンの言葉にエドヴァルドは青い顔のまま、慌てて走り出した。どこへ行くのか聞かずとも、彼の目的はわかる。
それがどれだけ無駄な行為であるのかも。
「もう手遅れですのに」
聖女の言葉を聞いたのは、同じ思いを持ったスヴェンだけだった。
人混みをかき分けて、一心不乱に走る。
どうして、なぜ。
待っていてくれるのではなかったのか。自分が相応しい男になるまで、待っていてくれるのではなかったのか。
いくらか走って城の近くまで来ると、見慣れた姿が視界に入った。護衛をつれたヴィルフェルムが、今まさに城の中へ戻ろうとしていた。
「ヴィルフェルム様っ!」
エドヴァルドの声に、ヴィルフェルムは立ち止まる。その姿を認めると、僅かに顔を顰めた。
「エドヴァルド卿。いつ戻ってきたのだ? スヴェンも一緒か?」
「ついさっきです、あの、街で、っ……アクセリナ様が、……こ、婚約した、と……スヴェン様もそれを、知っていたと……!」
敬礼も忘れ、息も絶え絶えに尋ねる。否定してほしかった。何の話だと笑ってほしかった。
「あぁ、そうだ。アクセリナはフレイ国の第二王子、ディーノ・ウーナステラと婚約した。もう間もなく、あちらの国に向かうことになる」
エドヴァルドの頭の中が真っ白になった。
指先が一気に冷え、小刻みに震える。息が詰まり、唇は酷く乾いていた。
「……ど、……どうして……」
「あちらからずっと結婚の打診があった。今までは婚約していたために断っていたが、きみとの婚約がなくなったからね。フレイ国の要求を受け入れたというまでだよ」
淡々と言葉を紡ぐヴィルフェルムに、エドヴァルドの鼓動は速くなるばかりだった。
ヴィルフェルムとアクセリナはよく似た兄妹だった。その表情は、エドヴァルドが最後に見たアクセリナの表情と同じだった。
「待っていてくれると思ったのだろうな」
「!」
「妹はずっと待っていたよ。婚約してから三年。結婚が延期になってから一年。きみが覚悟を決めるのを、ずっと待っていた。短いと思うかい? そうかもしれないね。でも実際あの子は、いつまででも待つつもりだったんだよ。きみと聖女の噂を聞くまでは」
「それは誤解です! オレとヘレーナ様の間には何もありません!」
「あぁ、そうだとも。きみはアクセリナを想っている。だけどね、エドヴァルド卿。アクセリナは今まで一度も、きみと街でデートをしたことがなかったんだ。隣に寄り添って歩くことも、カフェで向き合ってお喋りすることも……きみが、ヘレーナ様としていたような真似は、何一つ。王族だからね、滅多なことでは二人きりで街を歩くような真似は出来ない」
ひゅ、と、エドヴァルドの喉が鳴る。ヴィルフェルムの言葉はまだ続いた。
「だが聖女ヘレーナとのそんな噂を聞いても尚、アクセリナはきみを信じると言っていた。……なのにどうしてきみは妹に、婚約解消を告げたんだ? どうしてその道を選んでしまったんだ?」
「そ、れは……こ、婚約者、のままだと、……彼女に相応しい、男になれないと思って……だから……いずれまた、プロポーズを、と……」
「それをアクセリナに伝えたのか?」
エドヴァルドは首を振る。
「……あのとき、は……何を話しても、信じてもらえないと、思って……戻ったら、話す、つもりで……だからっ……」
「そしてそのまま聖女と街を出たわけか。……なぁ、エドヴァルド卿。いくら人を信じても、疑心は生まれてしまうものだ。妹はその疑心と必死に戦っていた。聖女との噂が出た直後の婚約解消は悪手でしかない。きみに対する疑心はその時点で、確信に変わってしまったんだ」
アクセリナと同じ、ヘーゼルアイがエドヴァルドを見つめる。その瞳に浮かぶ感情は、同情と憐れみだった。
「きみがすぐに妹を訪ねてそのことを話していれば、状況は変わったかもしれない。ただあの子の心はすぐに切り替わった。それがディーノ第二王子との婚約だ。きみはあの子がずっと待っていてくれるものと思っていたけど、……愛があればそうかもしれないけれど……アクセリナは王女なんだ。たった一人のために心を砕き続けるわけには行かないんだ」
「お、オレは、……ただ……あのひとに相応しい男になりたくて……」
「――そうは、なれなかった。或いは、決断が遅すぎた」
ヴィルフェルムが懸念していたことの一つ。もしくはそれが全てだったのかもしれない。
優柔不断な心は、民を迷わせる。流されやすい心は、王族たりえない。
「きみの優しさは美点だ。だけれど国王の隣に立つには脆い。それを僕たちは不安に思っていた。スヴェンはきみに言っていただろう? 判断を誤るなと。きみはアクセリナを想って婚約解消の道を選んだけれど、その選択はつまり、アクセリナとの決別だ。本当に妹を想うのなら……僕はきみに、その手段を取って欲しくはなかった」
エドヴァルドはもう、放心状態だった。
どうすればよかったのか、何が正解だったのか、なぜこんな結果になってしまったのか。
本当は全てわかっている。
ただ自信を持てばよかった。覚悟を決めればよかった。
例え実力が釣り合わなくとも、何があっても彼女の傍で、彼女を支え続けるのだという強い意思があれば良かった。
「……アクセリナが国王を志していなければ……いや、何を言っても今更だ。もうあの子の心は、決まってしまったから。……ただ、アクセリナがきみを想っていたのは間違いない。あの子が乙女のように笑うのはきみの前でだけだった。ウェディングドレスを身に纏うことを楽しみにしていたのも、きみとの未来を夢に描いていたからだ」
エドヴァルドはその場に膝をついて、項垂れる。明るい音楽が聞こえてくる中、彼の心はどこまでも暗かった。
どれだけ後悔しようが、絶望しようが、彼女の隣に立つことはもう叶わない。その権利を手放したのは自分自身だ。
アクセリナという存在が余りに遠いものに思えて、自分は釣り合わないのだと思い込んで。そのくせ、彼女は待っていてくれるのだと思っていた。時間は無限ではないというのに。
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