2ー4 締切間際の攻防(1)
それから、バイトに出ている時間と寝ている時間以外はずっと、『今をやりなおすなら』の推敲に熱中した。読み返せば読み返すほど、気になるところ、ダメなところが見えてきて、いくら時間があっても足りなかった。より効果的な表現を探し、比喩を深め、読者に開示する情報と伏線のバランスを試行錯誤し、何度も書き直した。しかし、至美華が読んだ時にどんな批判をしてくるかを想像すると、とても安心できない。ろくに食事もとっていないのに、書きながら何度もトイレに吐きに行った。
火曜日の夜十時、二日間ほとんど寝ていないにも関わらず妙に冴え切った頭で、僕は原稿ファイルを共有フォルダにアップした。しかし、全く満足していないから、時間延長を頼むためにリモート会議アプリで美優を呼び出した。
「美優。こんな夜にごめん」
「大丈夫だよ。締切時間だもんね」
風呂上がりなのか、美優の髪はしっとりと濡れていた。メイクをしていないせいか、高校生の時の美優の面影に戻っている。
「原稿ファイル、アップした。それから、あとがきも送った」
「ありがとう。ギリギリセーフだね。じゃ、これで取り込んで、誤字があったらこっちで直しちゃうね」
「あのさ」
「ん?」
ためらいながら呼びかけると、美優は画面の向こうで、少し首を傾げている。
「僕の小説の方、もう少し推敲して全体構成を見直したいんだ。もし締切に間に合わなかったら、早割と定価の差額は僕が払うから」
「今の原稿、ちょっと読ませてもらっていい?」
「あ、ああ」
美優は、画面の右に視線を向けた。この間と同じように、スマホの隣に置いたパソコンで、僕の原稿を読み始めたようだった。そのまま、黙って読んでいる美優のすっぴんの横顔を見つめていたが、その表情からは何も読み取れなかった。
五、六分たって読み終わると、美優は僕の方に向き直った。
「宏樹。正直に言っていい?」
「ああ」
心臓がドキドキしてきた。あれだけ直しても、まだ足りないことはわかっている。もっと完璧に仕上げないと。
「つまんなくなった」
「えっ」
「ぜんぜん、つまらなくなった。最初にもらった原稿にあった、エネルギーとか情熱とか悲哀とか勢いとか、いいところが全部なくなっちゃった。こんなの巻頭に載せても、本を手に取ってくれたお客さんは買ってくれないと思う」
予想外の感想をもらって、僕は声も出せなくなっていた。前よりつまらなくなったって?
「最初の原稿のままで載せよう。あっちの方が、ずっと良かったから」
「それじゃダメなんだ」
僕は声を絞り出した。
「なんで?」
「あれじゃ、批判に耐えられない。表現も稚拙だし、構成も破綻しているところがあるし」
「批判って、誰の? 宏樹の作品を批判する人なんていないでしょ。つまんないなんてズケズケ言えるのは、私くらいのもんで」
「……いるんだよ」
「誰?」
「文学メルカートに、あいつが出店してるんだ。すぐ近くに」
「誰よ、あいつって?」
「四年前、美優の小説に批判的なコメント書いていたやつ、覚えてる?」
「ああ、そんなのもいたかもね。あえて無視してたから、もう覚えてないけど」
「
「それで?」
「僕が、ヨミカキをやめることになった原因なんだ」
「……!」
美優は、大きく目を見開いた。
「四年前、高校生チャレンジの発表があった後、そいつは僕の応募作を徹底的に批判してきた。それまでは、自信を持って反論していたけど、高校生チャレンジでなんの結果も出せなかったから、なんの反論もできなかった。それどころか、新しい作品も何も書けなくなってしまったんだ。ヨミカキにログインするだけで吐いちゃうくらいにね」
「……」
「だから、こんな作品じゃダメなんだ。もっと完璧に仕上げないと」
「ねえ。なんか勘違いしてない? 完璧って何?」
美優は、意志の強さを感じさせる大きな目で、こちらを睨んできた。初めて会ったオフ会の時の目だ。
「小説って、評論家のために書くものじゃないでしょ。読者に面白いと思ってもらうために書くもんでしょ。完璧に仕上げた、つまんない小説なんてクソくらえ。そんなもん見たくもない」
美優は本気で怒っているようだった。
「そんな批判してくる奴にこだわるのは無駄だし、時間がもったいない。いい。宏樹の原稿は、元のままにする。絶対に元の方が、心に訴える力があるし読者の感情を揺さぶるから」
「でも」
「宏樹も言ってたでしょ。小説とは、他人の人生を生きる擬似体験をするものであるって。だったら、情熱的で、悲しくて、辻褄が合わないことがあって、最後に希望が持てる人生を生きたいじゃない。完璧に退屈な人生なんてまっぴら」
僕は何も言えなかった。美優の言う通りかもしれない。至美華にこだわるあまり、大事なことを忘れかけていたのかもしれない。
「それより、佐川純さんとArumatさんの原稿が上がったって連絡来たから、そっちの編集するね」
「すまん」
美優はパソコンの方に向いて作業をし始めた。
「ファイルは今日の日付になってるね。あれ?」
マウスを動かしていた手が止まり、ぽかんと口を開けている。
「えー、ちょっと今頃になってやめてよ」
「どうした?」
まさか、二人とも原稿が仕上がらないから、参加を取りやめるとか言ってきたのか? 美優は、空いている左手を額に当てて何か考えているようだった。
「やっぱり無理だよなあ」
「二人がどうかしたのか?」
「いきなり最終稿で、二人とも文字数が倍になった。上限ギリギリの二万字。ちょっと待ってね、実際にファイルに貼り付けてみるから。えっと、四十ページ増える」
「四十ページも?」
印刷代が跳ね上がるから、販売価格も見直さないといけないか。あんまり高いと、買ってくれなくなるかもしれないな。それより、美優の編集作業が大変か。
「編集作業が大変だね。何か手伝えることあるか?」
「いや、そっちは大丈夫。二人のは最後の方に並べてあるから、誤字だけチェックすればいいけど、問題は背表紙」
「背表紙?」
「これだけページ数が増えたら、幅が広がっちゃうから、背表紙データ作り直してもらわないと」
「あ、そっちか!」
背表紙をデザインしたヱビフルに、連絡つけないと。
明日までに修正が間に合うか?
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