第二話 村の英雄

弱者たち

前編 まどろみ

 農作業に戻らないと。

 白い太陽の光を手のひらで遮りながら、最初に浮かんだのはありふれた焦燥感だった。

 昼休憩の間に意図せず居眠りをしてしまったときの、夢を見る間すらない浅く短い眠り――そんな気楽な休息からの目覚めに、よく似た感覚だったからだ。

「目が覚めたか、ワキヤ!」

 視界の外から、しゃがれた声。仰向けの視界に彼の姿はないものの、その嬉しそうな声はグレイプのものだ。彼の喜びようから自身に降りかかった出来事を思い出し、慌てて胸元に手をやる。

 破れた服の穴に、触り慣れた自分の肌。両手でまさぐってあの絶望的な空洞を探しても、切り傷一つ、打撲の一つも見つからない。

「そんな」

 驚いて上体を起こす。見下ろして確認をしてみても、穴が開いているのは使い古された作業着だけだ。

「どうして」

 僕は、キアロスクーロの――魔王の手先からの攻撃で、致命傷を受けたのではなかったか。

 隣に座っていた猟師は、困惑する僕の姿をつまらなさそうに一瞥した後、露骨に顔を顰めた。

「アンタ、どこまで覚えているんだい」

 覇気のない声。こうも気落ちした様子の彼女も珍しい。

「どこまでって……敵に胸を貫かれて、それで――」

 それで?

 いや、それだけだ。

 これ以上言葉の続かないことを察したらしいおばさんが、短くため息を吐く。

「――アタシも、信じられないよ」

「でも、目ぇ覚ましてくれて良かったよ! 死ぬほどの怪我だったって聞いたぜ?」

 後ろから駆け寄ってきたグレイプが右腕に縋りついてくる。どうやら、キアロスクーロにやられたという記憶に間違いはないらしい。

「助けてくれた――んですか?」

 目を合わせようとしないおばさんに、疑問符を投げかける。致命傷を治療するような技術を彼女が持っていると聞いたことはないけれど、いくらか魔法に通じているらしい彼女ならばあるいは、と思ったからだ。

 しかしおばさんは僕の推測を否定するように、気まずそうに顔を背けた。

「気分はどうかな、ワキヤさん」

 すぐ耳元で、声。グレイプは短く絶叫をしながら飛び退いたけれど、僕の身体は凍りついてしまったかのように、指先一つも動かない。困惑する間もなくこれが恐怖なのだと理解して、先の出来事が夢でも勘違いでもないということを改めて思い知る。

 キアロスクーロは気楽な足取りで僕の目の前に移動すると、卸したてのような礼服で地べたに腰を下ろした。僕とおばさんとグレイプに囲まれて、隙を見せるのを楽しんでいるようにすら見える。

「返事がないけど、どうかした? 猟師さんやゴブリンくんが呼んでいるからワキヤっていう名前だと思ったんだけど、もしかして違ったかな?」

「返事ができなかったのは、悪かったよ。咄嗟に声が出なかったんだ。なんたって、あんなことをされた後だから――分かってくれないか?」

 無理やり絞り出した声は、自分でも滑稽に思えるほどに震えていた。キアロスクーロの機嫌を損ねないよう、なんとか取り繕おう――そんなみっともない思惑から、咄嗟に吐き出した言葉だった。

「あんなこと?」

 意地の悪い質問。甘えるような眼差し。頭の中を見透かされている確信。

「それって、殺されかけたこと? それとも――」

 些細な悪戯を告白するときのような、自慢げな顔。

「その傷を治してもらっちゃったこと?」

 全身の力が、さっと抜けていく感覚。キアロスクーロがさらりと明かした事実に、驚きはなかった。驚くことができれば、まだいくらかはましな気分だったろうか。だけど、おばさんの態度や傷の治り具合から薄々感づいていた許容しがたい事実の、それは再確認でしかなかった。

「どうして――」

 露わになった無傷の胸に、自らの爪を立てる。言わんとすることを察してくれという、精一杯の意思表示。これ以上言葉を発してしまうと、僕の口は惨めにへりくだる台詞を吐き出すのに違いなかった。

「ねえ、ワキヤさん」

 ぞくり、と。

 背筋が凍った理由に、すぐには気づくことができなかった。

「ボク、バカのフリする奴は嫌いだな」

 キアロスクーロは笑顔のままで、その声色は明るいままで、それなのに、小さな口から放たれる声は――どうしてそう感じるものか――弾んでいない。

「忘れちゃったのかな、自分がするべきことを」

 諭すような声。冷たい声。幼く非力な子供が拗ねて残念がっているのと変わらないはずなのに、その声は僕のことをどうしようもなく凍えさせる。

 するべきこと――?

 思わず、聞き返しそうになった。幸運なことに、不用意に思い浮かべた言葉は口に出されていなかった。

 鸚鵡返しだなんて、そんなバカを晒すような愚か者は、きっとその瞬間にでも血祭りにあげられている。

 青ざめた僕を見て、キアロスクーロは口角を吊り上げ、目を細めた。それがほんの一瞬だけ見失っていた「楽しげな」笑顔であることに気づいて、僕の緊張は情けなくも霧散した。

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