後編 死

「逃げてほしいんだって。どうする?」

 おばさんの取り乱した顔を観察し終えたらしいキアロスクーロは、再びこちらへ笑顔を向けた。

「逃げたら、この猟師さんにとどめを刺した後に追いかけちゃうけど、どうする?」

 つまり、選択肢は無い。なんて親切な質問。

「逃げなかったら、どうなる?」

「さあね」

 キアロスクーロは本当に興味がない、といったふうに短く言い放つと、「だけど」と小さく付け加えた。

「言うことを聞いてくれるなら、ボクはきみたちに手を出すつもりはないよ」

 それは間違いなく、意地の悪い笑顔だった。だけどその言葉のせいか、とても安心感のある穏やかな笑顔と見間違えそうだった。いや、意図的に僕はそうと見間違えて、気持ちを落ち着けることしかできなかった。

「ほんとうに――?」

 哀れさの極まった村人の問いに、キアロスクーロは高笑いで応える。自分の身体が、尊厳が、小さく縮んでいくのを感じる。情けなくて、消えてしまいそうで、それなのに僕の双眸は縋るように小さく強大な子供の笑顔を見つめてしまう。

「ああ、弱っちい村民ごときに嘘なんて吐かないさ。ボクの目的はあくまでも、この村から誰も逃がさずにスフマートの元へきみたちを集めること。素直に従ってくれれば、こんなことにはならないよ」

 こんなこと。おばさんのことだ。

「その、スフマートの所に行ったら、どうなる?」

 スフマートがいったい何を指す言葉なのかも分かりはしないけれど、どのみちろくなことにならないであろうことは容易に想像がつく。

「そんなものボクの知ったことじゃないよ。ボクの予想で良ければ話してあげなくもないけど、聞いたら行きたくなくなっちゃうかもよ?」

 ああ、よかった。

 逃げ道がなくて、よかった。

 これで、開き直れる。

 出来得る限り最速の動きで、一切の予備動作なく深く踏み込む。その勢いのままに、正確さをかなぐり捨てて威力とスピードに振り切った拳を燕尾服に叩き込んだ。

 しかし、キアロスクーロの身体は紙のようにひらりとそれを受け流し、羽のように軽く緩やかな動きで飛び退いた。

 くつくつと、愉しそうな笑い声。こうなることを期待していたかのような、喜びと嘲りの顔。

「惜しかったね、今のは良い攻撃だったよ。急に闘志が溢れ出すんだもん、驚いちゃったよ」

「さすがに、今のが当たるほど甘い相手じゃないことぐらい、分かってたさ」

 本音半分、強がり半分。次撃のために再び踏み込んで、当たらない攻撃を繰り返す。こちらから仕掛けてしまった以上、今更退く選択肢は無い。

「良いね。キミも猟師さんと同じで、意外と戦えるんだ」

 二発目、三発目と避けられる。懲りずに繰り出す四発目の拳は、キアロスクーロの小さな手に軽く弾かれた。

 がむしゃらに打ち出した五発目の拳が幼い掌に掴まれて、僕の非力な攻撃の手は止まった。この短い交戦ではっきりと分かる、力量の差。歯噛みをするほどの悔しさすら湧いてこない。

「やりようによっては状況が好転する、だっけ」

 キアロスクーロが力を緩めたので、僕は拳を引くと成す術もなく基本の構えに戻る。

「猟師さんが誰かと落ち合おうとしてたのは分かってたけど、これなら戦力に数えるのも納得だよ。弱いゾンビの一匹や二匹なら倒せるだろうね」

 とても、朗らかな笑顔に見えた。僕のことを敵とすら見なしていない、あまりにも穏やかな表情。悔しさではなく安堵の念が生まれかけた、その時、僕はその笑顔を見失った。

「一矢報いる、の間違いでしょ、せいぜい」

 胸の辺りから、冷たい声。対して、火で炙られるように熱い、胸元。

 声のする方を、真下を、見下ろす。僕の身体に密着するように、金髪の頭。慌てて突き放そうとして、小さな肩を掴み、そして違和感。

 足が動かない、全身が重い。胸が、急速に冷たくなっていく。金髪頭がこちらを見上げ、悪戯っぽく口元を緩めながら一歩下がると、キアロスクーロの腕が僕の身体からずるずると引き出されて、真っ赤な生命が無残に地面を濡らした。

「え?」

 と、声に出せていたかすら分からない。未だ身体の中にある小さな右手に言い知れない恐怖を感じつつも、全身の感覚がすうっと消えていくのが分かる。

 おばさんが、足元で僕の名前を叫んでいる。その声の悲痛さのせいで、自分が今どれだけ大変なことになっているのかが分かってしまう。

 命を、奪われたんだ。

 悟ってしまう。はっきりと。

 だって、胸に穴を開けられて、助かるわけがない。

 怖くて、悲しくて、肩を掴む手に力が籠る。キアロスクーロの悪気無い隻眼を、声もなくひたすらに睨み付ける。

「良いよ? 一矢報いてみてよ」

 喉にまで、血が込み上げてくる。良いだろう、このまま、せめて、その華奢な両肩の骨でも折ってやろうか。もう力の入らない両手に、最後の恨みを込める。

 そんな必死の反撃に、キアロスクーロはくすぐったそうな笑い声をあげた。

「アハハ、違う違う。ボクにじゃなくて、スフマートにって意味さ。猟師さんの思惑通りなら、二人で立ち向かえば状況が好転するハズだったんでしょ?」

「何を――」

 言っているんだ、今更。

 そんな猶予はない。終わりだ、ここで。

「選びなよ。ここでボクに殺されるか、スフマートに立ち向かってみるか」

 選びようなんて、ないだろう。もう、僕の運命は決まっているんだから。そんな内心を見透かしたように、キアロスクーロは言葉を続ける。

「ゾンビ退治に行きたいなら、この手を離しなよ。ここで死んで良いって言うなら、最後まで掴んでいるのを許してあげるよ。ボクに殴り掛かったその無謀さへの敬意として、ね」

 意識が遠くなる中、僕は、泣いた。

 目の前の子供が、もしかしたら助けてくれるのではないかという期待に。そんな期待を抱いてしまっていることへの、悔しさに。

 キアロスクーロの表情に、優しさは無い。あるのはただただ、意地悪で、無邪気で、冷酷な、優越者の笑顔。僕の次の行動を予想して、嘲るような笑顔。

「お利口さん、だね」

 声が聞こえる。満足げな笑顔を見て、自分の手が仇敵の肩から離れてしまっていることに気がついた。

 言いなりになったわけじゃない。だけど僕には、もう抗い続ける気力も体力も残されてはいなかった。

 そんな自分の無力さが、嬉しくすらあった。

 無力なおかげで、キアロスクーロの甘言に乗ることができたんだから。

 これで――

「助けて――」

 くれる、んだろう?

「良いねぇ」

 僕の胸を貫いたまま、美しい貌をした子供が耳元に口を近づける。

「大好きだよ。そういう、最高にカッコ悪い命乞い」

 冷たく、悍ましく、蠱惑的ですらある囁き。止まらない涙。昏くなる視界。

 思考すら消えかけ、痛覚の麻痺した身体で最後に感じたのは、

 勢いよく腕を引き抜かれ、胸に空いた空洞への絶望的な喪失感だった。

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